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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)草葺き屋根の家-**家-①

 久万高原(くまこうげん)町東明神(ひがしみょうじん)地区は、松山(まつやま)市から国道33号を行き、標高720mの三坂(みさか)峠を越え、同町に入って最初のまとまった集落である。標高は600m前後、冬は雪が多い。逆に夏は涼しく、夏の間に松山地方の牛を預かって肥育することなども行われていたという。久万高原町東明神横通地区の**さん(昭和3年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)夫妻に聞いた。

 ア 生業

 **家の生業は稲作と林業であったが、主に林業について聞いた。**さんは、「林業は親父が主になってやっていました。ジホリという細長い一枚刃の鍬(くわ)を使って植林します。下草刈りは7、8年はやらないといけません。長い柄のついた下刈り鎌(かま)を使います。下草が和らいできて、枝を切っても木が下草を押さえることができはじめると、枝打ちです。枝打ちは、枝が低い間は手で打てますが、少し高くなると枝打ち用の鎌を使います。さらに高くなるとはしご、もっと高くなるとカセと呼ばれるロープと金具を合わせた道具を使います。枝打ちも何年間かは必要ですが、やがて曲がった木などを除く除伐(じょばつ)や間伐(かんばつ)を経て皆伐(かいばつ)になります。木が柱になるくらいの大きさになると伐期です。スギで40~50年ほどかかり、ヒノキはもう少しかかります。
 スギとヒノキでは植える所が違っていて、スギは地味の良い所に植えます。地味の悪い土地に植えるとある程度までは育つのですが、そこから成長を止めてしまいます。その点ヒノキは地味が落ちて乾き気味の所でもかまいません。成長は遅いんですが、一旦(いったん)植えたら少しずつでも成長し、成長が止まることはありません。枝打ちも、スギは大きくなっても木が柔らかいので鉈(なた)で、ヒノキは鋸(のこ)で切っていました。
 水田は1町5反(約1.5ha)ほどあり、夏は稲作、冬は林業という生活でしたが、山を持っていると大きな後ろ盾があるようで心強かったです。子どもの大学進学とか、結婚とかいうたびに山の木を売っていました。昔は木材が良かった時代で、山を売ると買った人が木を伐(き)りだしていたんです。昭和30年代は山が一番ということで、どんどん木を植えていた時代ですが、昭和55年(1980年)にウチの末っ子が大学に行くころには、木は安くなってしまって役に立ちませんでした。」と話す。

 イ 屋敷構え

 **家は、南向きの緩斜面でやや高台に立地する。屋敷構えは、昭和30年(1955年)に大きく変わり、隠居と倉庫ができた。このときの屋敷構えを図表2-1-3に記している。それまでは、母屋だけで、西北側は畑と池であった。緩斜面を少し削って宅地として、広いヒノリバ(作業場兼ものを干す庭)を持つ家である。昭和45年(1970年)に母屋をコヤサゲ(草屋根から瓦(かわら)屋根にすること)した。コヤサゲは山の収入でできた。
 **さんは、「方角が悪いとか、家相だとかいいますが、ウチは出雲大社の分院にお願いして出雲屋敷にしてもらっています。この家を出雲さんの家にしてもらうのです。そうすると、一切の障りは無くなります。年ごとに悪い方角が変わったりしても気にしなくて良いので、これに加入して他の余計なことは考えないことにしています。
 図表2-1-3でみると、母屋以外の主な構造物は倉庫、隠居、風呂(ふろ)と便所、井戸それと屋敷神の若宮さんや幟(のぼり)立てがあるヒノリバです。順を追って見ていくと、まず隠居は私が結婚した翌年に建てて、親父が子どもらを連れて移った所です。隠居は台所、風呂、便所など全部そろっていて、完全に独立した家でした。しかし、仕事はやめたのではなく一緒にしていたので、収穫した中から米何十俵分かを親父の収入に当てていました。ただ、山の仕事は親父が仕切っていました。一応、家計も分かれていたんです。ただ結婚後は、**家を代表するのは私になったので、村の会合などには私が行っていました。家内も結婚したその日から婦人会などの集まりには出席していました。
 次いで風呂と便所です。両者はくっついていて一つの建物です。風呂は五右衛門風呂(ごえもんぶろ)で、戸外の井戸から水を運んでいました。風呂の排水は必要に応じて便所に流れるようになっていました。便所の大小便は風呂の水が入って薄まっていますが、大切な肥料です。この辺りでは野壺(のつぼ)は作っておらず畑に直接やっていました。よくやっていたのは、春先の伸び始めた麦、それにトウキビや野菜です。稲は苗代にかけたりはしていましたが、それ以外は使っていませんでした。下肥が大量に欲しいときには風呂の水を全部流し込んで増量していました。外の便所は雪が降ったりすると大変で、子どもができると両親が心配して母屋に便所を作ってくれました。便所が屋敷の入り口の近く、道に面したところにあったのは下肥を担ぎ出すのに便利だったことと、風呂の火の用心のためだったと思います。
 さらに井戸は、家の中と外、ほんの数メートル離れた所に二つありました。二つはつながっていたらしく、毎年七夕のころに西北側にあった池(防火用の池。隠居ができるとき埋め立てた。)と家の内と外の二つの井戸がえをやっていましたが、井戸は両方一度にやらないと空にはなりにくかったですね。どぶがたまるような井戸ではないし、上からきれいな底石が見えるくらいですから、途中まで干して底に落ちた石やごみを拾うくらいでした。深さは私の背丈より少し深いくらいで、1mの鉄棒を付けたバケツで十分汲めていました。底のなめ(柔らかい岩盤)から水がしみ出して、長くは足をつけられないくらい冷たい水で、今も風呂、洗面、洗濯、便所に使っています。こんな斜面にこんな浅い井戸で良く出るもので、水だけは自慢できます。」と話す。**さんも、「台所で急いで炊事をしているときなどは、手をさしのべてひしゃくで水が汲(く)めました。」と言う。
 最後にヒノリバについて、**さんは、「家の南はヒノリバといって、広場になっていました。今は庭木を植えて狭くなっていますが、もとはかなり広いものでした。何もない空間ですが、稲作をやる上では絶対必要な場所です。稲木(いなぎ)に稲をかけていても、裏表がありますから完全に乾くわけではないんです。脱穀した籾(もみ)をヒノリバに広げてまんべんなく乾くまで干すんです。干した籾を混ぜるのがおばあちゃんの役目でした。乾いた籾は大きな箱のようになった籾入れにシタミ(ざるの一種)でうつしこんでいました。籾が乾いたら籾すりをします。籾すりは、昔は泥臼(どろうす)(籾摺臼(もみすりうす))を使って土間でやっていました。そのころは籾入れもなくて、むしろを何枚もつなぎ合わせて袋状にしたむしろ筒というのに籾を入れていました。後に私が籾すりをするころにはヒノリバで機械になって、籾入れもそのころに作ったのです。ただ、品種が多いとむしろ筒を使ったりしていました。ウチに籾すり機の順番が回ってくるとヒノリバにむしろを敷いてやります。ウチだけではできませんので、近所の人に手伝いに来てもらっていました。どうしても5、6人は必要でした。大体3軒から手伝いに来てもらうのです。手伝ってもらったウチには必ず手伝い返しをしていました。籾すりの後は、手伝ってもらった人やその家族、子どもも呼んでにぎやかにご馳走を囲みました。田植えが終了したときのサナボリ(サナブリともいう)にもお祝いはしますが内輪でやります。脱穀が終わったときの千歯(せんば)アゲも内輪でお祝いをします。この籾すりのときはみんなが集まってお祝いをして、一番にぎやかでした。これで米は玄米になるんです。」と話す。
 **さんは、「女の人らは朝3時ころから起きて、おはぎをしてお寿司をして煮込みをして、お昼も出さんといけませんし大変でした。当時の籾すり機は性能が悪いので朝早くから夕方までかかっていました。終わるとほこったむしろを両側から持ってぱんぱん叩(たた)くんです。その音が聞こえてくると『あー、あそこは籾すりが済んだな』と言っていました。当時はみんなむしろでしたから。」と話す。
 **さんは、「麦もヒノリバで粒にします。この地方は麦の熟れる時期までに田植えをします。だから麦は稲の裏作ではありません。麦は、千歯扱(せんばこ)きで穂首を落とすのではなく、夏の麦焼きで脱穀していました。麦のイガと穂首が燃える程度に次々と麦の束を焼いていくのです。そうすると下にイガのとれた穂首だけが積み上がっていきます。暑い時期に火を使うのですから、朝早くから日陰を選んですすで真っ黒になりながらやっていました。その麦の穂を麦すり機で粒にするのがヒノリバです。そのほか皮をはいで乾かしたトウキビをから竿(さお)でたたいて芯(しん)から実を落とすのもヒノリバでした。これは飛び散るので両側にむしろを巡らして二人で両側からたたいていました。
 ヒノリバに『幟(のぼり)立て』がありますが、あれはお祭りのときに幟を立てたのです。各家が自主的に立てるので、何軒かが立てていました。氏子の組織が道に立てる幟とは違います。祭りに自分のウチ専用の幟があると、ひときわ気分が盛り上がりますよ。
 ヒノリバの端に屋敷神さんがあります。ウチでは若宮さんと呼んでいます。昔からあったものじゃなくて、祖父が夢に見て畑を掘ったところ、10cm足らずの陶器製の武者人形が出てきました。ウチの上の方の山に城があったといわれますから、その関係だろうかと祀(まつ)っているのです。8月13日が祭日で、今は瓦(かわら)のような陶器製のお宮に変えましたが、ときにはお餅(もち)を作ったり、ないときはお光り(ろうそく)や御神酒(おみき)、お菓子などをあげています。」と話す。

図表2-1-3 昭和30年ころの**家屋敷構え

図表2-1-3 昭和30年ころの**家屋敷構え

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。