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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)戦中・戦後の「むら」のくらしと装い

 ア 島のくらしと装い

 今治(いまばり)市の島しょ部、来島(くるしま)海峡を隔てた大島にある吉海(よしうみ)町名駒(なごま)と宮窪(みやくぼ)町宮窪地区の人たちに、戦中・戦後の島の暮らしについて聞いた。
 **さん(今治市吉海町名駒 昭和4年生まれ)は、「私の家は、わずかな米と麦、イモ、雑穀などを栽培する農家でした。豊かではありませんが食べることはできました。戦時中、わずかに植えていた柑橘(かんきつ)は、食糧不足を補うためイモや麦に切り換えました。戦争が激しくなるにつれ、島でも徐々に配給が途絶えてきました。糸をどこから手に入れたか分かりませんが、夜なべ仕事に母が足踏みの織機で縞木綿(しまもめん)を織っていました。当時、名駒地区に5軒ほど縞木綿や絣(かすり)を織っている家がありました。私が学校を出てすぐ志願兵として海軍に行くとき、母親が織った縞木綿の布をカーキ色に染めて、仕立ててくれた服を着て入隊しました。
 また、私は村の高等小学校を昭和19年(1944年)に卒業しました。在学中の履物は3、4年生までは靴でしたが、その後は父が作ったちり(わら)草履(ぞうり)でした。低学年のころは揃(そろ)った児童服を着ていましたが、高学年になるに従って消えていき、お下がりのお古を着て通いました。冬はオーバー代わりに綿入れの半纏(はんてん)を着ました。終戦後も戦時中の服装が、そのまま引き継がれ、国民服は古くなれば作業着にしました。
 終戦後の暮らしは、復員兵や引き揚げ者、さらに急激に出生数が増えたため、戦時中より大変でした。私は海防艦(輸送船団の護衛を主要任務とする軍艦)に乗船していましたが、長男のうえ家が農業なので、終戦直後、第一陣で優先して戻してくれました。
 戦後の農業では、まず畑作が大きく変わりました。昭和24、5年ころからイモ畑や麦畑が柑橘(温州(うんしゅう)みかん)になりました。1反歩(たんぶ)(10a)からの柑橘の収入が他の9反歩(90a)の米、麦、イモなどに匹敵する収入と同じくらいでした。農作業時の服は、着古して継ぎのあたったぼろ着でした。」と語る。
 次いで、1隻の船を所有する一艘(ぱい)船主の一人娘として育った**さん(今治市吉海町田浦(たのうら) 昭和11年生まれ)にも、田浦地区の島の暮らしについて聞いた。
 「父が戦死したので、祖母と母と私の3人になりました。生活は、父が残してくれた品物で物々交換をしていました。戦争が厳しさを増してくるに従って、女子は婦人標準服が強要され、その服は筒袖のきものを短くしたものともんぺです。当時ゴムは貴重品で手に入らなかったから、もんぺは脇をあけ袴のように紐で結んでいました。もんぺとセットになったものに防空頭巾があります。綿入れの防空頭巾は防寒用にもなり、学校では冷たい椅子の上に敷く座布団にもなりました。戦前には祖母が自家用の縞木綿や絣を織っていて、その布をきものや布団にしていました。今もその布の端切れを大事にしまっています。
 小学校のとき、夏休みになると、私たちは勤労動員の一つとして、学校から近くの山に自生する“カイバ”(カラムシ。イラクサ科の多年草で、葉は長さ6~10cmの長方形で縁に鋸歯があり、色は黄緑色。草丈は1~2mになる。ハド、ハズともいう。)(写真3-9参照)という植物の茎を割り当てで取りに行かされました。ぎざぎざの丸い葉を落とした茎の表皮から繊維を作るということでしたが、実際にどのような繊維や衣服になるのか知りません。今もあちこちに“カイバ”は自生しています。また、油脂が不足するというので、その代用品として松根油(松脂(まつやに))を採るために、松の木を運ばせられました。
 既製品の衣料がないため、戦後間もないころから手作りが大流行し、至る所に洋裁学校や編物教室が店開きしていました。仕立て直しのリフォームは、既製服が出回るまでどの家庭でも行っていました。」
 **さん(今治市宮窪町宮窪 大正13年生まれ)に、東京の和洋専門学校師範科を卒業して戻った昭和17年(1942年)ころの宮窪でのくらしや衣料切符、配給について聞いた。
 「これでも戦争中だろうか、と思うほど静かでした。私の嫁入支度のとき、衣料切符の点数が多い呉服や布団など大きいものを買うためには、内緒で親戚から点数を融通してもらったことがありました。島でも、物価統制による食料や雑貨などの配給制や衣料品の切符制は終戦後もまだ続き、不自由な生活が続いていました。中でも石鹸(せっけん)、砂糖、紙類、食用油、マッチなどの日用必需品が極端に不足していました。配給は村の役場から配給の世話をする店に品物を下ろし、それを地区ごとの常会に区分けして、それから組の人に順番に分配するのです。」と話す。
 続いて、自家製の織物について、「宮窪地区のたいていの家では縞木綿を織っていました。私は祖母が織った絣や縞木綿できものや布団、蚊帳(かや)などを作り、家族中で重宝して使いました。それらの品物は今も大切にしまっています。この織物はあくまで自家用で、売るものではありません。戦時中はモスなどを裂いた古布を経糸(たていと)に交わらせ帯を織ったこともあります。原料の糸をどこから手に入れていたかは分かりませんが、当時は軍需優先の時世ですから原料の糸が手に入らなくなり、機織(はたお)りが消えたのではないかと思います。」と語る。
 今治の軍需工場に学徒勤労動員された経験のある**さん(今治市宮窪町宮窪 昭和4年生まれ)は、「昭和19年、松山高等技芸女学校(戦後、松山城西高校となり昭和30年閉校)に入ったとき、セーラー服を着て行きましたが、学校の服装は標準服に決まっているということで、母が自分のきものをほどき、学校の近くにあった染め物屋で黒に染め直して服を作ってくれました。その当時、大部分の女学校ではセーラーからへちま襟の服に変わっていました。学徒勤労動員のときは、へちま襟の制服にもんぺ姿でした。作業中は半袖のへちま襟の服に日の丸の鉢巻きをしめて働いていました。その年の8月に終戦になりました。
 私は、昭和27年(1952年)に結婚しましたが、その当時も物がないので反物など買うことができませんでした。私の嫁入り道具だといって、母が家で作ったお米と金紗(きんしゃ)(絹織物の一種。金糸を織り込んで文様を表した高級織物)のきものを物々交換して持たせてくれました。今もそのきものを持っていますが、大事にしすぎて今まで一度も袖(そで)を通したことがありません。」と苦笑する。

 イ 山のくらしと装い
 
 高知県に接する上浮穴(かみうけな)郡の山間部、国道33号沿いの久万高原(くまこうげん)町の旧柳谷(やなだに)村と旧久万町で、戦中・戦後の山の暮らしについて聞いた。
 **さん(上浮穴郡久万高原町中津(なかつ) 昭和4年生まれ)は、「昭和12年(1937年)、日中戦争が始まってから村の生活は大きく変わりました。同13、4年ころ、植物のハドの皮やフジを乾かして繊維を採るのが流行(はや)り、夏休みには学校から強制的に集めさせられ、一人ではできないので親にも手伝ってもらいました。また、秋には油を採るためドングリを集めたり、昭和18年ころからは地域の人たちが、松根油(松脂)を採るため松の根っこを掘りに駆り出されました。さらに、昭和19年ころ北予(ほくよ)中学校(現松山北高等学校)の生徒が焔硝(えんしょう)(火薬の別称)を作るために古い民家の床下の土を採取するため、勤労学徒として来ていました。
 また、昭和15年から男子の服装が一変して、カーキ色の国民服に変わりました。戦後もかなり長い間、国民服は多くの人が着ていました。」と言う。
 **さん(上浮穴郡久万高原町中津 大正15年生まれ)は、「昭和21年(1946年)に愛媛師範学校女子部を卒業してすぐ、郷里小田(おだ)の田渡(たど)国民学校で教員になりましたが、服は品物がない上に給料が安いので買えなくて、姉のお古や父母の衣類を仕立て直して着ていました。銘仙のきものを仕立て直した二部式(甲型は洋服式でベルト付きの上着に紐付きの下衣。乙型は和服を上着と下衣に分けたもの)の服装は大変気に入り、戦時中から長い間着ていました。終戦直後、新米教師として1年生を担任しましたが、ほとんどの児童は古着のような不揃(ふぞろ)いの服に、下駄や草履を履いていました。昭和22年ころ、先ほどのハド(小田ではハズという。)で作ったという、きれいなクリーム色でスーツ型の服を行商人から買いました。ところが見た目はかっこいいのですが、ごわごわして肌触りが悪く、着られたものではありませんでした。当時、極度なインフレのため、衣・食事情は最悪でした。」と話す。
 旧柳谷村の中心部、久万高原町落出(おちで)地区で雑貨商を営む**さん(大正9年生まれ)に、衣料品の切符制と配給について聞いた。
 「各家に衣料切符が人数分配布され、必要に応じて切符(点数)で品物を買ったものです。木綿などの安物は点数が少しで済みましたが、絹の布地や反物は、高価で点数がたくさんいるので、普段切符を使わず貯(た)めておいて使い(買い)ました。衣料切符で買う品物は、もんぺ・シャツなどの普段着や仕事着がほとんどです。絹織物などの高級品は、お嫁に行く娘がいる家が切符を貯めておいたり、親戚から融通してもらって使いました。私も実際に点数をハサミで切り離して品物を渡したことがあります。」と言う。さらに、配給について、「私の家は商売をしていたので『配給所』になっていて、地区ごとに仕分けしたものを地区の馬方さんが荷馬車で取りにきて、地区からさらに組に小分けし、常会長が順番に各家に分配していました。」と話す。
 さらに、終戦直後の山の暮らしについて、「家が商売をしていたので農家の人が農産物を持ってきて『タオル・石鹸・衣類やオカズなどと換えてくれ。』と言ってよく店に来ました。この辺りの山間部では、地形の関係から米があまりとれないので、大豆・小豆・トウキビなどの雑穀を持って来て、しつこく他の食べ物や日用雑貨との交換をねだっていました。」と話す。
 先ほどの**さんは、「私の住む県境にある中津地区は、終戦後も土佐(高知県)から警察の目を盗んで“どぶろく”(米から作った白く濁った酒)を水枕に入れて持ち込んだり、松山からブローカーが衣料品を運んできて米などの食糧と交換していました。ブローカーと称する人は、物がない時代に売買の仲立ちをして相当の荒稼ぎをしたと思います。昭和30年代から40年代にかけて、食べることも着ることも一挙に様変わりし、この柳谷でも街の暮らしと変わらないものになりました。」と変貌ぶりに目を見張る。
 戦時中の旧久万(くま)町の暮らしについて、**さん(上浮穴郡久万高原町上野尻(かみのじり) 大正9年生まれ)と奥さんの**さん(昭和2年生まれ)に聞いた。
 **さんは、「戦争に行く前の昭和15年(1940年)、青年師範学校(旧学制下で青年学校教員を養成した学校)を卒業しましたが、その当時の制服は質のよい黒の詰襟の学生服で、戦争の影はほとんど見えませんでした。翌年の開戦とともに次第に戦時色が強まり、服装はカーキ色が多くなり不自由な時代に向かいました。」と言う。
 昭和19年(1944年)に女学校を卒業後、呉(くれ)(広島県)の海軍工廠(こうしょう)で女子挺身(ていしん)隊員(太平洋戦争後期に労働力不足を補うために作られた女子の勤労動員組織)として働いた経験のある**さんは、「錨(いかり)のマークの入った鉢巻きをしめ、お国のために必死で働きました。衣料品も食料と同じく品不足で、パンツにも継ぎを当てました。帰郷してからも、祖母や母のきものをほどいて服やもんぺに作り変えていたので、新しいものは一つもありませんでした。」と話す。
 戦後の暮らしについて、**さんは、「久万地域は戦前から養蚕(ようさん)が盛んで、美川(みかわ)地区でも共同で小さな製糸工場を作っていました。祖母の時代は自家製の絹織物もあり、母の時代にはきものや半纏(はんてん)にして着たと聞きました。これは昭和18年ころまで続きましたが、生糸(きいと)の暴落と戦争で人手不足になり、止(や)めてしまったと聞いています。
 私は戦後の昭和21年(1946年)に復員し、教壇に復帰してからもカーキ色の服や戦闘帽を着用していましたが、ゲートルや編み上げの軍靴(ぐんか)はもう履きませんでした。私は学校への通勤服はしばらく軍服を着ていましたが、一般の人は国防色の国民服で、結婚式や葬儀などの“何か事”(何か特別なこと)のときにも、この服を着ていました。」と話す。
 さらに、**さんは、「戦後、間もないころ、預金封鎖になっていましたが、貯金のある人は一人の生活費として月100円だけ出してくれましたが、それでも5人家族で500円だから、これといった物は買えませんでした。当時、毛糸のセーターを編んでもらったら300円もしました。
 もんぺは時おり配給がありましたが、ほとんど親や祖母のきものをほどいたり、布団地を使った手作りでした。昭和22年に結婚する前のしばらくの間、農協に勤めていたとき、父の背広や母のきものをほどいて洋服に仕立て直し着ていました。ミシンがあってもミシンの縫い糸がないので、“半返し”(裁縫で針を一目の半分ずつ後に戻しながら縫う方法)にして手作りで縫ったものです。
 また、昭和26年に夫が面河(おもご)中学校に転勤したときは、もう軍服やもんぺなどの“妙なもの”は持って行きませんでした。このころから戦後の暮らしや装いも変わったのでしょうか。翌年、久万中学校に転任してきたときには、久万の町でも既製服が店頭に並び、大きく変わっていました。」と話す。

 ウ 里のくらしと装い
 
 南予(なんよ)(愛媛県南部)地域最大の米作地帯で、かつては養蚕も盛んであった西予(せいよ)市宇和(うわ)町内の3地区で、戦中・戦後の里の暮らしについて聞いた。
 旧宇和町の中心をなす卯之町(うのまち)の戦前の暮らしについて、**さん(西予市宇和町卯之町 昭和6年生まれ)と奥さんの**さん(昭和7年生まれ)に聞いた。
 **さんは、「昭和18年(1943年)ころ、国民学校から桑畑に行き、桑の枝を根っこから切り皮を剥(は)ぎました。名前は知りませんが、その皮を乾燥させ、学校から一括して業者に渡していました。その繊維で作った衣類は糸の太いごわごわした服でしたが、児童服や軍需工場の作業着として着ていました。また、塩が不足するので、母は俵津(たわらづ)地区(西予市明浜(あけはま)町)から海水を汲んできて塩の代わりとして使いました。」と話す。
 **さんは、「空襲警報が鳴ると防空壕に退避したり、白壁は黒のペンキを塗ったり、爆風でガラスが飛び散らないように帯状の白い紙を貼ったり、電灯は光が漏れないように黒い布で覆ったり、さらに煙突から煙を出さない工夫をしたりしました。食事は、粗末なおじや(雑炊(ぞうすい))で、手糠(てぬか)(米糠)を炒(い)って雑炊にふりかけ、粘らせて食べたり、ジャガイモとサツマイモが主食でした。
 学校には綿入りのぽんしを着て、その上にネルの生地で“スワガー”という上着を作ってもらい着て行きました。これは丈の短いちんちくりんのオーバーのようなもので、下は絣(かすり)のもんぺです。卯之町は空襲に遭わなかったので、戦時中といえども比較的静かな生活ができました。」と話す。
 さらに、終戦直後の暮らしについて、**さんは、「終戦直後、近くの鬼窪(おにくぼ)地区では、皆が衣類を持ち寄って月に2、3度“セリ市”が立ちました。戦前の普通の生活に戻ったのは、昭和25年から後で、ホームスパン(手紡ぎの毛糸を用いた手織りの再生毛織物)やサージ(綾織の洋服地。毛・綿・絹・ナイロンなどを使い、紺や黒の無地のものが多い。耐久性に富んだ実用的な布地)の生地がたくさん出回り始めました。」と言う。
 **さんは、「昭和21年に入学した東宇和高女(現宇和高等学校)の制服は、白いネクタイに3本の白線の入ったベルト付きの黒のセーラー服でしたが、そのネクタイは人絹のため、結ぶとちゃちゃぼちゃ(しわくちゃ)になりました。セーラー服が手に入らない人は、白のカバーの付いたへちま襟の上着と下は絣の柄か縦縞のもんぺです。履物は畳表と自転車の古タイヤで作った草履(ぞうり)はよい方で、わら草履や下駄(げた)の人もいました。持ち物は、戦時中より木口(きぐち)(手提げ袋の口につけた木製の取っ手)の袋物で、雨の日は脇の下に入れて濡れないようにしました。」と語る。
 明石(あげいし)地区の戦前の暮らしについて、**さん(西予市宇和町明石 大正14年生まれ)は、「学校時代の服装は、カーキ色で詰襟の学生服、同じ色の帽子、ゲートルに地下足袋(たび)や下駄の格好でした。ただ、常に腹が減り、食べることだけで精一杯で着るものなど気になりませんでした。終戦直前に愛媛師範学校のカーキ色の制服を着て入隊しました。出征時の家族の服装は、国民服や二部式の服装など、戦時下の様子をよく物語っています。」と語る。
 奥さんの**さん(昭和3年生まれ)は、「昭和16年(1941年)に東宇和高女に入学した時の服装はセーラー服でしたが、3年次にはへちま襟でバンド付きの、やや長めの上着と下はもんぺになりました。終戦前には女学校から学徒勤労動員され三瓶(みかめ)の工場に働きに行っていました。普段着はお古か、お下がりなどでしたが、お祭りやお正月などの“何か事”のときは和服でした。
 戦前の食生活は、農家でも麦ご飯、お米は強制的に供出させられました。“もん日”以外は質素で、お米の白いご飯を“ちんちまんま”といいご馳走(ちそう)でした。」と言う。
 戦後のくらしについて、**さんは、「当時、この地区では農家の8割は養蚕を行い蚕(かいこ)を飼っていました。ほとんどの農家は、昭和22、3年ころまで商品にならないくず繭(まゆ)を使って糸を紡ぎ、その生糸(きいと)で自家用の白絹を織り、それを業者に染めてもらってきものや背広の生地にしていました。また、白絹の生地を“型置き”といって、柄を決め、業者に京都に送って染めてもらっていました。私が嫁に来るとき、母が織った絹のきものを何枚か持ってきました。そのきものは、今も大切に蔵にしまっています。機(はた)を織っていた人は、現在この地区には生存していません。」と話す。
 法華津(ほけづ)峠を挟(はさ)み北宇和(きたうわ)郡吉田(よしだ)町に隣接する伊賀上(いがじょう)地区の**さん(西予市宇和町伊賀上 大正15年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)夫妻、さらに義弟の**さん(宇和町伊賀上 昭和6年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)夫妻に、戦中・戦後の伊賀上地区の暮らしについて聞いた。
 戦前の暮らしについて、**さんは、「入学時の制服のボタンは金属製でしたが、間もなく戦争が始まると、梵鐘(ぼんしょう)も供出するはめとなり、おのずと制服のボタンも1年下の学年からはからつ(陶磁器)になりました。服地はペラペラの人絹で破れやすく、実習服や子どもの服は、桑の木の皮を剥(は)ぎ、晒(さら)した繊維を混ぜて作ったもので、じかじか(ちくちく)して肌に直接当たると痛く感じるほどでしたが、物がないので我慢をして着ました。また、鯉のぼり(ここ辺りではフラフという。)の布を使ってシャツを母が作ってくれました。」と言う。
 **さんは、「宇和農業(現宇和高等学校)に入学した昭和17年(1942年)ころは戦時色の強い時代で、毎朝、教練を受けたあと、勉強もせず学校から強制的に松脂を採る松根掘りや永長(ながおさ)地区の飛行場造りなど勤労動員の毎日でした。農家が多い伊賀上地区でも普段の食事情は厳しく、イモの葉柄(ようへい)(葉の一部で葉身を茎に付着させる柄(え))を茹(ゆ)でてから味付けしたものと、ナンキン(カボチャ)、イモが主食でした。」と話す。
 **さんは、「東宇和高女に入学した昭和18年、父や母のきものをこよして(ほどいて)黒に染め変え、洋裁をしていた母が白線を付けてセーラー服を作ってくれました。入学後、しばらくして戦争が激しくなり、物が不足してくると、へちま襟の上着に変わりましたが、洗い換えなどなく、1着しか買えませんでしたが、きものの生地はくず繭を紡いで織った反物で間に合いました。」と言う。
 妹の**さんは養蚕の繭について、「ほとんどの農家は養蚕を行い繭を生産していたので、くず繭から白絹の反物に織ったり、真綿(まわた)で綿帽子という、四角に模(かたど)って何枚か重ね乾かして糊をつけたものを作っていました。これは手軽で背中に当て防寒具として重宝していました。ほとんどの養蚕農家は昭和25、6年ころまで、絹の反物や小物を家で作っていましたが、生糸の暴落による養蚕業の衰退や既製服の出現などで、同30年ころには完全になくなってしまいました。」と話す。

写真3-9 茎の表皮から繊維を作る“カイバ”

写真3-9 茎の表皮から繊維を作る“カイバ”

今治市吉海町田浦にて。昭和16年10月撮影