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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)布団

 『日本民俗学大系』によると、かつての寝具は、「土間から床下の高さ1尺5寸(約45.5cm)ほど四方を板囲いして、籾糠(もみぬか)をつめる。その上にわらを敷き、上にむしろを敷き、その上にネゴザというゴザを敷いて寝るという。…この風は明治時代まで、全国的に農山村で行われていたと見てよいようである。(①)」と記す。江戸時代に遍路した人物が、善根宿(ぜんこんやど)(遍路に無料で提供される宿)で絹の布団に寝たと記す(⑤)のとは大差がある。昭和になっても専門店で扱う高級寝具と多くの民間人が使用した寝具の間には、かぶり物や履き物にも増して大きな差が見られた。

 ア 布団と暖房器具の利用

 この項では、生活の中の布団や暖房の工夫を、引き続き久万高原町西明神の**さん(大正13年生まれ)、**さん(昭和9年生まれ)に話を聞いた。
 **さんは、「私らの子どものころには、どこにもあった布団ですが、ぼろじんというのがありました。襦袢(じゅばん)にも仕事着にも使えなくなった衣類の比較的いいところを切りとって順々につなぎ合わせ、布団くらいの大きさの布にし、それを何枚か合わせて5cmくらいの厚みにとじ合わせ、綿の代わりに布団の芯(しん)に使っていました。綿が高いから買えなかったんです。こんな布団の芯や、その芯を入れた布団のことをぼろじんといったんです。『ぼろを芯にした』の意味です。もちろん外側はきれいな布で包んでいました。重たかったですよ。
 大人になってからですが、家族みんなの布団の手入れをしていました。田の仕事が済んだ夏のころに『布団の洗濯(せんたく)』といって、布団をほどいてのりをつけ、時々は綿を打ち直しに出して作り直すのです。そんなときに、ぼろじんが出てきたんです。『このぼろじんを見てくれ。』と難儀な一生を送った親のことを話し合ったものです。このぼろじんには綿がついているから、まだ良い方です。」と話す。**さんは、「ぼろじんも、もう捨てようかと思っていたんですが、五神(ごじん)太鼓(*7)のときの上着に使えるかもしれないし、木綿生地ですから山仕事のときのひすぼ(*8)に使えるかと思って残していたんです。」と話す。
 **さんは、「だんだんと収入も増えて、私らが大人になったころには綿布団になっていました。布団の柄は、掛け布団の表地に大きな松竹梅などの柄の絣(かすり)生地がありました。赤など色物の布団もたまには見かけましたが、たいていは、紺色だけの柄でした。布団の柄は40~50cmもあるような大きな柄が所々についていました。裏地は無地で織紺(おりこん)(*9)で作っていました(写真2-3-23参照)。当時は布団カバーなどは無かったので、敷き布団も上になる方に柄があって、裏は無地でした。柄物は高価でしたから。
 嫁入り布団といっても、有るような無いようなものです。強いていえば、普段より少し柄も生地もよかったくらいです。鳥が舞っているような柄は、よほど良い家の物でしょう。私らのころは紫地に絞りの柄をつけたのが良い布団でした。お嫁に行って、自分用の布団を一重ねもらったらそれをいつまでも使います。破れたら継いで、綿も時々は打ち直しました。打ち直すと、日に干してふくらんだような感じになります。だけど何度も打ち直すと、綿が弱くなって切れやすくなりますので、傷んだ蚊帳があれば、その古蚊帳で包んだこともありました。裕福な家庭は打ち直した綿を、粘りがあるきもの綿で包んで使ったりしていました。
 昔は、重病人が出ると夜とぎ(この場合は、夜通し病人の付添いをすること)をしていました。それに、地区ごとにお祭りが違う日で呼んだり呼ばれたりしていましたし、結婚式などでもそうで、人が家に集まる機会が多かったものです。遠くから来たお客さんは、泊まるから布団が要ります。その布団がないので、近所に借りに行かないといけませんでした。だから、余分の布団が欲しかったですねえ。ところが、予備の布団がたくさん持てるようになったら、お客は車で来てその日に帰るし、病人は病院に入るしで、今は要らなくなってしまいました。」と話す。
 布団以外でも、より快適な睡眠を取るために、生活者にはさまざまな工夫が見られる。
 渋紙を寝具にした例がある。**さんは、「実家の祖父の時代ですが、障子をはり替えた古紙などをはり足しながら、渋を塗った紙を敷いて昼寝をしていました。」と言い、旧北宇和郡日吉村(現北宇和郡鬼北町)では逆に体の上に掛ける毛布代わりに渋紙を使った例があった。
 次いで、夜着(よぎ)について**さんは、「久万は寒い所だから、夜着(かいまき)を体に掛けて寝ていました。寝間着ではありません。中には綿が入っていて、まあ丹前(たんぜん)の長いような物です。きものと同じ形をしていますが、夜着の背中を上にして体に掛けて寝るのです。布団だけだったら、肩の所が持ち上がるでしょう。夜着を掛けると肩も冷えないし、体になじむんです。最近は、毛布の生地で夜着の形をしたものを売っています。」と袖のついた毛布を持って来た。「毛布を使い始めたら夜着は使わなくなりました。毛布は、終戦後軍人さんが茶色のを持って帰って、それから出回り始めました。」と話す。 
 さらに病人用のわら布団がある。**さんは、「わらをそぐったり(わらの葉の部分を除くこと。わら草履を作る時はそぐる。)せず、そのまま並べます。その上に今度は逆に並べます。そういう風に積み上げて、一番上はしぶ(わらの葉の部分。わら草履作りではそぐられる部分)を敷きます。大体20cmくらいの厚みにして織紺(おりこん)で包み完成です。わら布団は普通の人の布団ではなくて、長患いしそうな病人が出たときに作りました。綿の布団は床ずれができても、わら布団ではできにくいのです。冬は暖かいし、夏は涼しい、それに湿気を取るから体に良いといっていました。私らが子どもの時分に大人が何人か集まって作っていました。」と話す。**さんは、「中風(ちゅうぶ)(ちゅうぶう。脳出血などで、半身が不随になる病気。中気ともいう。)で寝込むと、当時はおむつも良い物は無かったから、ぼろの木綿布を敷いてしみこませて取っていました。わら布団だと綿を汚すこともないし、乾きも早いのです。」と言う。
 暖房器具としては、掘りごたつや置きごたつ、あるいは湯たんぽやあんかがある。掘りごたつはやや早く出現し、湯たんぽや置きごたつは江戸時代に民間に広がった。この項では、置きごたつと布団の中に入れて暖をとるあんかと湯たんぽを取り上げる。       
 **さんによると、「素焼きのような茶色のこたつがありました。これに不用な紙があればはって渋を掛けていました。こうしておくと、熱さが直(じか)に伝わらずほんのり暖まって、温度も逃げないんです。よく見たのは、黒い瓦(かわら)で出来たような大和(やまと)ごたつでした。この大和ごたつには紙は貼りませんでした。瓦の代わりに木で四角に組んだ櫓(やぐら)ごたつもありました。小さいですけれども、今の電気ごたつのように小さな布団を掛け、台になる板を置いて、足を入れて、継ぎを当てる針仕事をしたり、ご飯を食べたりしていました。大和ごたつも一緒で、囲炉裏がわりに茶の間で使っていました。夜、寝るときには祖母等は櫓ごたつを使って寝ていましたが、私らは大和ごたつだったですね。大勢で一つの大和ごたつを使って寝る方法もありました。当時は子どもが多かったので、小さい子どもたちにした方法です。大和ごたつの上に小さな布団を置いて熱が逃げないように、熱くなり過ぎないようにしてその上に普通の布団を掛けて四方から足をつっこんで寝るのです。一番小さい子の方にこたつを寄せてやったりしていました。一つのこたつを何人かで有効に利用したのです。」と話す。
 **さんは、「大和ごたつは、中に炭火を入れる灰の入った陶器製の箱がありましたから、それを引き出して、いこらした(熾(いこ)る=炭火が真っ赤になる様子)炭火を入れ、火を長持ちさせるために、上に灰を掛けて火が見えないようにして、絶対倒さないように使っていました。」と話す。
 **さんは、「大和ごたつに代わったのが、豆炭(まめたん)あんかです。ようく火をつけた豆炭を、石綿(いしわた)を敷いた金属の容器の中に入れてパチッと止めて布袋に入れます。危なくもないし、一昼夜は保つし、暖かいものでした。さらにこれが電気あんかになってやがて電気毛布になりました。電気毛布も最初は上に掛ける毛布でしたが、今は下に敷く電気毛布もあります。
 湯たんぽには、主に赤ちゃんに使うからつ(陶磁器)製のと、金属ではトタン製のがあって、からつのは円筒状、トタン製のは波打ったような表面になっていました。ぐらぐら沸いたお湯を分厚いからつの湯たんぽに入れ、熱すぎたら布を巻いたり、少し離したりして温度を調節し、冷めてきたら赤ちゃんの側に寄せて使っていました。大人でも特に病人は、こたつの火が強すぎたらいけませんから、やわらかい暖かさの湯たんぽを足下に入れて使っていました。金属の湯たんぽより、からつの湯たんぽの方が熱さがやわらかいですね。元気な者はこたつでした。」と話す。

 イ 綿打ち業から布団店へ

 自家製布団から購入する既製の布団への変遷を、松山市永木(ながき)町で布団店を経営する**さん(大正14年生まれ)・**さん(昭和8年生まれ)夫妻に聞いた。
 **さんは、「私が布団に関係したのは戦後です。戦前は、父親がやるのを時々手伝っていたくらいでした。戦前は、布団は各家庭で作るものでした。布団作りができなかったら嫁に行けないというので、親が必ず娘に教えていました。私と同年齢の人ならみな布団は作れます。だから、うちの本業は綿の打ち直しでした。布団も作っていましたが、ほとんどは呉服屋さんの注文でした。15、16歳のころ、布団を直接注文主の所へ運んだこともありましたが、みな大きな家で布団は裕福な家が購入されるのだろうと思っていました。
 綿の打ち直しは、固くなった綿を柔らかくする作業です。打ち直しは、掛け布団で5年、敷き布団は3年でやるといっていましたが、倹約第一の時代で景気も悪かったし、10年以上使った綿が打ち直しに出てきたりしていました。布団綿をそのまま機械に掛けると機械が詰まってしまいますから、綿をある程度の大きさにちぎっては機械に入れます。これは力のいる仕事でした。すると機械のシリンダーと呼ばれる部分の鋼で綿をはじいて、ふわふわの綿になって出てきます。この工程で、ごみやほこり、繊維の短くなった綿が飛び散ります。10年以上も経つ綿だと、向こうが見えなくなるくらいほこりが出ます。『結核になるぞ。』と人にいわれたものです。こうして打ち直すと、綿の量は2割から3割減っていました。」と綿打ち直しの実態を話す。**さんは、「私がお嫁に来たのは、昭和29年(1954年)です。寝具の販売はしていましたが、仕事の中心は綿の打ち直しでした。布団の布を販売したり、希望があれば布団作りや仕立て直しもしていました。その後、家庭での布団作りがされなくなって、うちの仕事は布団作りが主になったのです。」と話す。
 **さんは、「綿の打ち直しは10年ほど前に止(や)めました。布団の注文が来始めたのは昭和30年(1955年)代でした。年配の方がおられると、遅くまで打ち直しては布団を作っておられましたが、年配の方がおられない家からは注文が入り始めました。うちの布団の裏生地は、綿のブロード生地(表面に光沢のある薄手の綿織物)で表はサテン(すべりがよく光沢のある布地。材質には綿・絹・化繊がある。繻子ともいう。)の生地が一般的でした。裏地のブロードは、黄色い薄い生地が一般的で、綿の暖かさが直接体に伝わるんです。年配の方が、織紺(おりこん)で注文されることがありました。織紺は丈夫なのが特徴で、しかも紺色だから汚れ目がつきにくいのですが、着たときには、ゴワゴワして綿の暖かみが伝わり難いのです。特別に頼まれる方以外には、うちで織紺を使って布団を作ることはありませんでした。昔の方は実用より丈夫さ、どこまでも倹約でしたね。表も絣(かすり)生地でした。それが高度成長期になると、嫁入り布団5点セット(*10)といって別格のものになります。材料も、表生地は緞子(どんす)(布地が厚く光沢のある高級絹織物)で作られ、裏地も正絹、夏座布団は本麻という調子で、1セット100万円などというのが売れていました。
 布団を作るときのこつは、綿の特徴に応じて使いわけることです。米綿(べいめん)(アメリカ産の綿)は軽くて身体に沿うように柔らかいので掛け布団に使い、インド綿は固くて重いので敷き布団に適していました。米綿を敷き布団に使うとぺちゃんこになります。新しい化学繊維の綿は、色も真っ白で弾力がありふわっとした感じなんですが、吸湿性に乏しく暖かみがありません。赤ちゃんに米綿で作った布団を使ってやると、汚れてしまっても離さないそうで、新しい布団にしても、ぼろぼろになった20㎝程度の切れ端を握って寝るという話を聞きました。」と話す。


*7:五神太鼓 戦国時代に久万郷の武将大野氏が土佐長宗我部の侵攻と戦った伝承から、怨敵(おんてき)退散を願い、久万高
  原町三島神社の神楽のだいばの面や、戦国時代の農民の衣装をつけて演ずる創作太鼓。昭和59年(1984年)に始まった。
*8:ひすぼ 木綿やトウモロコシの実のひげを縄にしてわらで包み、縄の部分に火をつけて、煙でブト(ブユ)や力を追うも
  のであるという。
*9:織紺 紺色の木綿で織った織物。**さんは「山で念な仕事をする人は脚半や手おい(手甲)、尻の所が割れている股引
  という仕事着、布団の裏地、みんな織紺で作っていた。」と言う。
*10:5点セット 布団2組(掛け布団と敷き布団各2枚)、夏用掛け布団2枚、夏座布団が5枚、冬座布団が5枚。これに
  かざり座布団(夫婦用2枚)がついている。

写真2-3-23 絣模様と織紺の裏地を持つ布団

写真2-3-23 絣模様と織紺の裏地を持つ布団

この絣柄は、当時としては小さい柄だという。久万高原町西明神。平成16年7月撮影