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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)誕生と成長を願う

 ア 人の誕生・成長にかかわる儀礼

 妊娠すると、5か月目に入った戌(いぬ)の日に腹帯(はらおび)を締める帯祝いが行われる。戌の日が選ばれるのは、犬のお産が軽いためそれにあやかろうとするものだとされる。帯祝いは、妊娠の事実を公(おおやけ)にする意味を持つ儀礼でもあった。
 子どもが生まれると、1週間ほどしてお七夜(しちや)(名付け)が行われる。親戚・近所・助産婦(じょさんぷ)などを招いて誕生を祝う儀礼で、招待された家では産着を贈ったり(宇和島市ほか)、浴衣などをオヨロコビとして持参した(松山市由良(ゆら)町)。また、招待客に子どもを見てもらう際に、子どもの額に紅で「犬」の字を書いたり(大洲(おおず)地域)、眉毛などに口紅をつけた(南宇和郡愛南(あいなん)町平碆(ひらばえ)地区)事例がある。
 次に宮参りは、生まれて33日目に行う地域が多い。神社に母子が出向いて拝んでもらい、氏神に子どもの氏子入りと神のご加護(かご)を願う儀礼である。
 その後の生児(せいじ)の儀礼としては、初正月、初節句(供)、初誕生がある。初正月はその子が生まれて初めて迎える正月であり、母親の里などからの贈り物を家の中に飾った。例えば伊予郡双海(ふたみ)町では、男の子にユミイタ(木の箱台の上に長さ60cmほどの弓2本を立て、周囲に矢を立て並べたもの)が贈られ、それを床の間に飾った。女の子にはテマリが贈られ、これは柳の枝に吊(つ)り下げて部屋に飾った。
 子どもが初めて迎える節句が初節句である。西条(さいじょう)市丹原(たんばら)町明河(みょうが)地区では5月5日の男子の初節句をハツノボリ、3月3日の女子の節句をハツビナと呼び、母親の里からそれぞれ鯉(こい)のぼり、雛(ひな)人形が贈られた。八幡浜(やわたはま)市真穴(まあな)地区では、長女の初節句の祝いとして部屋一杯に豪華な座敷雛を飾る風習が現在も続いている。
 生後1年目の誕生日を初誕生と呼ぶ。この日には、お祝いとして赤飯や誕生餅を作って客を呼んだり、紅白餅を近所に配った。母親の里から履物や帯、幼子用の晴れ着が贈られる地域もあった。
 その後の成長にかかわる主な行事として七五三と成人式があるが、これらはともに近年盛んになってきた行事である。
 七五三は、3歳の子どものヒモハナシ(ヒモオトシ、ワタギ、ハカマギ)、7歳の子どものトキハナチノオビなどの風習がその前身だといわれている。ヒモハナシは今治市宮窪町では子どもにきものを着せそれまでの紐(ひめ)に替えて帯を締める儀礼、トキハナチノオビは久万高原町では6、7尺(6尺は約1.8m、7尺は約2.1m)の帯を結ぶ儀礼であった。
 次に成人式(成年式、元服(げんぷく)式)は、一応の目安は男15歳、女13歳前後であったものの、農山漁村ではむしろ、“一人前”の労働力を身につけた時点でおとなの仲間入りをさせる考え方が強かった。したがって、成人と認められる年齢やその際の儀礼内容は地域によりさまざまである。
 その中から装いに関連するものを拾ってみると、男子の場合は、19歳に元服祝いと称して前髪を落とし名前を変え、以後は羽織を着た(伊予郡松前(まさき)町)、13歳の祝いをフンドシイワイと呼んで親が六尺褌(ふんどし)を贈った(新居浜(にいはま)市別子山(べっしやま))などの事例がある。年齢ではなく労働のための体力・技能を重視した事例としては、米1俵を担いだり持ち上げる(今治市吉海(よしうみ)町田浦(たのうら)地区など)、16~20貫(約60~75kg)の力石(ちからいし)を担ぐ(大洲市長浜(ながはま)町下須戒(しもすがい)地区など)などがあり、それに対して女子の場合は特別なことは行わず、きものを縫うことや機(はた)を織ることができるようになる(今治市朝倉下(あさくらしも)地区など)と一人前だと認知された(①)。

 イ 帯祝いから初節句まで

 昭和10~30年代の宇和盆地一帯における誕生・成長にかかわる儀礼とその装いについて、西予市宇和町れんげ地区在住の**さん、(昭和12年生まれ)、**さん(昭和2年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)に語ってもらった。宇和盆地は古くから米どころとして知られ、一面に水田が広がる南予地域最大の穀倉地帯である。
 まず、出産前の話を聞いた。
 「妊娠して5か月目に入った戌の日になると、帯祝いとして腹帯を巻きます。腹帯は、実家から送ってもらった白木綿の反物から自分で縫いました。自分で腹帯を締める場合と産婆さんに頼む場合がありました。出産を終えたあとの腹帯は、大事にしまっていた人もいるし、別のものに転用した人もいたようです。
 出産に備えて、腹帯以外にも赤ちゃんのおむつや肌着を作りました。特におむつはたくさん必要ですから、終戦前後の衣類が手に入らないころは、浴衣やそのほかの古着を使っておむつにしたこともありました。浴衣1枚からおむつを6枚取ることができます。古いものほど生地が柔らかくなっていて、肌の敏感な赤ちゃんに適していました。
 妊婦服(にんぷふく)も自分で縫いました。きものはお腹が大きくなっても何とか着られるようにできていますが、洋服が普段着になるとどうしても妊婦服が必要になってきたのです。宇和町で妊婦服やベビー服が販売され始めたのは、昭和30年代に入ってからだと思います。」
 次に、出産後のお七夜と初節句について聞いた。
 「お七夜の時には、近所の人たちに『赤ちゃんを見てや。』と声をかけて来てもらいました。人が見に来るので、かわいらしく見えるよう真新しい産着を着せました。
 初節句は長男・長女のときだけ祝い、男が5月5日、女が4月3日と決まっていました。長女の場合だと御殿(ごてん)をかまえてお雛様を飾ります。御殿は雛壇に置くミニチュアの建物のことで、その中にお内裏(だいり)様とお姫様を入れますが、三人官女(さんにんかんじょ)や五人囃子(ごにんはやし)まで入れて飾る御殿もありました。これらはすべて母親の里から贈られました。年ごとに流行があり御殿の屋根の色やお姫様の形が違っていたので、今でも古い雛壇を見ると、その人の生まれた時期がだいたい分かります。
 雛壇を飾り終えると親戚中を呼んで“お客”(幾つもの大皿にたくさんの料理を盛りつけた鉢盛(はちもり)料理でもてなすこと)をしますが、呼ばれた人たちはお祝いとして必ずお雛様を1体持参し、それを雛壇の周りに飾りました。主役の女の子はやっと座れるぐらいになったころですが、それでも振袖(ふりそで)(長い袖丈のきもの)を着せます。振袖は、母親やおばたちの古着を子ども用に一つ身(み)(新生児から2歳ころまでのきものの大きさ)に縫い替えて作りました。帯はお太鼓(太鼓の胴のように丸くふくらませる結び方)ではなく蝶々(ちょうちょう)結び(チョウが羽を広げた形になる結び方)にしました。
 長男の初節句には、母親の里から鯉(こい)のぼりと兜(かぶと)が贈られました。親戚たちがお祝いに持って来るのは武者人形や虎の人形です。戦後すぐのころは新しい鯉のぼりを用意することができず、たまたま1軒の親戚の家にあった古いものをもらって立てたこともありました。
 あのころは1年たつごとに物が出回るようになり、祝い事で準備するものも1年違うとかなり違っていたような気がします。」

 ウ 宮参りと初正月

 今治市宮窪町宮窪地区に住み洋裁学校を営んでいる**さん(昭和4年生まれ)に、昭和20~30年代の宮参りと初正月について語ってもらった。宮窪地区は今治沖の大島北部に位置する、漁業のさかんな地域である。
 まず、宮参りについて聞いた。
 「赤ちゃんが生まれてしばらくすると氏神様に宮参りをしますが、宮参りの日は男の子は生まれて33日目、女の子は35日目と決まっていました。母親と、父方の祖母に抱かれた赤ちゃんがお参りしました。父親が同行する場合もありましたが、仕事を休んでまでは行かなかったと思います。
 宮参りの装いは、母親は紋が入った紫や桃色などの色留袖(いろとめそで)(生地の色が黒以外の留袖)だったと思います。おばあさん(祖母)は裾だけに柄の入った紋付の絵羽織(絵羽(えば)羽織の略で、続き模様がある訪問用の羽織)を着て、赤ちゃんを抱いていました。
 赤ちゃんが女の子だと産着の上に振袖を掛けていました。小さな振袖ですが、小学校入学くらいまで着られる大きさはあったと思います。男の赤ちゃんの場合は、産着の上に紋付の黒いきものを掛けていました。色合いは地味なものの、背中にわりあい目立つ侍(さむらい)や桃太郎の絵が入っていました。
 昭和40年代以降、赤ちゃんに掛けるきものはだんだんと派手になっていきましたが、今は親子とも洋服が多いようです。宮参りのために小さな晴れ着を用意しても、このとき以外に着ることがあまりないからでしょうか。」
 続いて、初正月について聞いた。
 「赤ちゃんが生まれて初めてのお正月には、男の子は弓飾り、女の子は羽子板を床の間に飾る習慣がありました。本物と同じくらいの大きさの弓矢や、幅が30cmで長さが1mくらいある羽子板を飾っていたのを見たことがあります。ともに、健康に育ちますようにとの願いの表れだと思います。初正月には、親戚から赤ちゃんの衣類などのお祝いが必ず届けられました。」

 エ 元服式にのぞむ

 四国中央市金砂町小川山中之川地区の成人を祝う元服式について、**さん(四国中央市金砂町平野山(ひらのやま))に聞いた。中之川は、南にそびえる標高1,400m余りの佐々連尾(さざれお)山をはさんで高知県と境を接する山里である。**さんは、大正10年(1921年)に中之川に生まれ、昭和36年(1961年)まで同地で生活を営んでいた。
 「私が14歳になった時、家族で大人の仲間入りをする式をしてくれました。元服式とでもいうのでしょうか。真新しい羽織と袴を作ってもらい、母親に着せてもらって、座敷で床の間を背に座らされました。下座(しもざ)には父親を筆頭に母親や姉たちの家族が並んで座り、父親から、『おめでとう。これからは大人の仲間入りをするのだから、しっかりしなければならない。』と心構えを聞かされました。父親の言葉を聞いて、私も気持ちが新たになったものです。
 この時私が着ていたのは茶系統の縞模様があるきもので、羽織は黒の紋付、袴は細い筋目がはいった茶系統の仙台平(せんだいひら)(東北仙台地方を主産地とした精巧な絹織物)でした。父親も羽織、袴を身につけ、その他の家族も正装をしていたように思います。改まった場では、当時の男性は必ず羽織を着ていました。
 その後は、村や親戚の祝い事の際にはこの羽織と袴を身につけて行きました。14歳のときのきものといっても、からげ(縫い込んでいる部分)をほどけば大人でも着られるようになっています。この年くらいになると、新調するよそ行きの衣服はおとなになっても着られるよう全体的に大きめに作っていました。」