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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)家庭でつくる衣料

 古くから男性は主に戸外での仕事に従事し、女性は衣料の自給や裁縫、食事の準備など家事労働いっさいを行うという習慣となっていた。女性は家で機(はた)を織り、普段着くらいは縫えるのが女のたしなみであり、合間を見つけてきものや布団(ふとん)を仕立てた。しかし、衣料を家庭でつくる場合には、素材の糸作り、糸の染色と製織、裁断してきものに仕立てる和裁の技術などが必要で、作り上げるには長時間の労働を要する。家族の縫い物も多く、夜なべ(夜仕事をすること)をして家族の縫い物をしなければならなかった。
 製織(せいしょく)は、上下の経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通して布にする技術である。織りの作業のうち特に時間と手間がかかるのが、経糸を織り機にセットするまでの工程である。
 織り機の基本的な機能は、経糸を綜絖(そうこう)(織物製造の際、緯糸を通す杼口(ひぐち)を作るために経糸を交互に上げ下げさせる道具)に通して上下させることにある。上糸と下糸が交互にその位置関係を変え、緯糸をその間に送り込むことで織物ができる。
 緯糸は舟形で滑りの良い杼(ひ)を使って左右に通すが、根気の要る仕事である。
 こうした経糸の仕組みを織り機にセットするためには糸を整経(せいけい)(*3)し、その糸同士が絡み合わないように巻き取ることが必要になる。そのために仮筬(かりおさ)通しをし、織り機に掛けるときにはその仮筬を外し、本筬通しをするという手間をかけなければならない。1色の糸だけでも大変な作業であるが、模様を織り出すとなるとなおさら忍耐と根気が必要である(⑤)。
 今治市伯方(はかた)町北浦(きたうら)地区では、女性の仕事着は縞木綿か絣木綿の筒袖(たもとがなくて、筒のようになっている袖)のじゅばんに腰巻を着け、冬にはその上にハンチャデッポウ(半纏のこと。労働用の短い上着で、帯を締める。)を着用した。これは新しい経糸を整経し、緯糸に古い布を細かく切ってよって織り込んだもので、古布の更生品である。それを昔の女性たちは美しく仕上げ、いつもこぎれいに、こざっぱりと装っていたのである。糸を巻いたり、糸によりをかけたり、整経をしたり、機ごしらえをして機を織る。その労働を思えば、1着のきものもおろそかにできなかったであろう。縞や絣の模様の見本帳を作り、その中から家族のきものの柄を選んで織りあげることが家庭の主婦の重要な仕事のひとつであった(⑥)。

 ア 機を織る

 自家製の衣料の作成について、綿織物を今治市宮窪(みやくぼ)町宮窪地区の**さん(大正13年生まれ)と**さん(大正3年生まれ)に、絹織物を同地区の**さん(大正15年生まれ)に聞いた。
 今治市宮窪地区は、今治市沖の大島北東部に位置する。漁業従事者が多く、果樹栽培も盛んである。
 **さんは、「4、5歳のころ(昭和3年ころ)のことですが、物静かでお歯黒(既婚の女性が歯を黒く染めたこと)をした私の大好きな祖母は、農閑期になると縁側に機織機(はたおりき)を出してもらって、糸つなぎにかかります。ぽかぽか陽のあたるところで、染まったかせ糸をかせ車に掛け、糊(のり)でくっついている糸を1本1本ほぐしながら入れ物に入れて山積みにします。珍しいので私が覗(のぞ)きこむと、『もつれるといけないので触らないで。』と祖母は手を振ります。
 祖母は次のかせに移り糸と糸をつなぎますが、結び方は機結(はたむす)びといって引っ張っても解けない方法です。結び目にペロリと舌で唾(つば)を付けて引っ張っているので、『どうして唾を付けるの。』と聞くと、『こうすると結び目が締まって解けないから。』と答えました。作業が全部終わると1反分(きもの1着分)の長さに切り分け、必要な糸をひとまとめにしておきます。また1反に経糸(たていと)を何本、緯糸(よこいと)には何色の糸を何本ずつ入れるとどのような格になることがよく分かるものだと思いながら、祖母の手先を見つめていました。
 緯糸は杼といって20cmほどの舟形をした枠の真ん中にひごよりやや大きい棒を横に取り付け、穴から糸を出します。杼の中の棒には緯糸を巻いて織っていきますので、何本か持っていたと思います。
 経糸は織り機に取り付け、足踏み板に足を乗せ、交互に踏むと経糸が上下に分かれて開き、その間に杼を走らせていました。おもしろそうなので『ばあちゃん、一度やらせて。』と頼んで走らせてみましたが、うまくできないので手伝ってもらった思い出があります。緯糸を織っていくとき両端の糸に印があるので祖母に聞くと、『寸を測って色糸と換えるための印よ。』と教えてくれました。
 数日後、きれいに織れているので傍(そば)に行って手でなでていると、『あなたの布団を作ってあげるよ。』と祖母が言ってくれました。赤い裏の付いた布団が出来上がり、うれしくて忘れられず、現在もその布団の表地(写真2-1-14参照)を持っています。」と話す。
 さらに、**さんは、「大正末期から昭和初期にかけて、母の手伝いをして木綿の布を織りました。綿糸は松山市河原(かわら)町の問屋から仕入れましたが、安いほうがいいからと切れ切れの不良品を買っていたため、据えランプの灯(あか)りで切れている糸を結びました。縁側に機を置き、農閑期や秋の夜長に女の仕事として家族全員の衣類を織って作りました。糸は吉海(よしうみ)町(現今治市吉海町)の松見屋さんで染めてもらったり、柄を入れたいときには白糸で織った生地に縞やツル・コイ・扇などを入れてもらいました。私は割烹着は嫌いでしたので、きものの上に前掛けを着け、たすきをして仕事をしました。出来上がった布を使ってきものや帯、布団に仕立てて縫いました。今も自分で織った白い生地を5反持っていますが、当時が懐かしく思い出されます。」と言う。
 絹織物について、**さんは、「両親が養蚕をやっていたので、私も小学校3、4年生になると手伝いました。摘み取ったクワの葉や若枝を直径1m、深さ1.3m程の大きな籠に入れ、馬の鞍(くら)の両脇に乗せて運びました。私もいつも鞍に乗せてもらいましたが、それが楽しみでした。
 家では蚕(かいこ)の幼虫に若葉の柔らかい葉を与え、成虫になるにしたがって硬い葉や小さい枝ごと与えました。蚕がクワの葉を食べている間はざーざーと雨が降るような音が続き、いやでたまりませんでした。また、梅雨時分は気温が下がるので、火鉢(ひばち)に火をおこして置き、気温の低下を防いでいました。
 女学校の2、3年生になると、糸を紡ぐ手伝いもしましたが、まず七輪(しちりん)(土製のこんろ)で鉄の鍋に湯を沸かします。繭(まゆ)を入れて軽く優しくかき回していると、糸口が出てきます。7~10個程の繭の糸を割り箸(はし)でとり、よりをかけながら糸枠(つむいだ糸を巻きつける枠)に巻いていきます。次に緯糸にするため、杼の中に取り付ける小さい棒に優しくよりをかけながら巻きます。
 木綿を織るときには筬(おさ)を強く2、3回たたきますが、絹の場合は優しく3、4回たたいて織っていきます。私は三男四女の7人兄弟姉妹ですが、母は朝早くから夜遅くまで機を織り、一人ひとりに絹のきものを3、4枚と木綿のきものを5、6枚ずつ作ってくれました。
 最近はきものを着ないので、洋服に作り変えています。」と話す。

 イ 繭からきものまで

 西予(せいよ)市野村(のむら)町野村地区の**さん(昭和5年生まれ)に、衣類や自家製の衣料などについて聞いた。
 「私は野村町釜川(かまがわ)地区の農家に生まれましたが、小学生のときには米や野菜の栽培のほかに養蚕も行っていました。子どものころの普段着は、母が縫ってくれた姉とお揃(そろ)いの小さいもんぺをはき、ブラウスを着て、きものを着た記憶はほとんどありません。家の手伝いもよくしましたが、そのときには普段着の古くなったものに着替えていました。
 晴天の日は農作業が忙しいために、雨の日に糸を紡いでいました。出荷できないびしゃ繭(形の悪い繭)や玉繭を鍋に入れて炊き、茶せんのような稲の穂をしばったもので糸口を取り出します。取れ始めると次から次へと取れるので、足踏み機械の小さい穴に糸をいれると、どんどん糸枠に巻いていきます。次に糸枠からとけ車に移し替えながら糸の長さを計り、かせの束を作ります。そして織る前には再び糸枠に巻きます。
 絹織物の織り方は、昭和21年(1946年)から3年間祖母に教えてもらいました。織る前に祖母・母・姉・私の4人で機をあげるのですが、この機あげで苦労しました。
 機あげは、まず祖母が8畳間のあっちこっちに頭が丸く穴の開いた20cmほどの大きな釘を立てます。糸枠を20個くらい立てておき、頭上に吊るしたタケに通し、釘に引っ掛けていって整経するのです。経糸の整経で模様を表すには、この色とこの色を入れ、何cm幅でというふうに考えながら8畳間を何回も行ったり来たりして、2反分ほど出来ると巻いていきます。それを筬に姉と二人で1日がかりで組みました。織るのは面白くて『一尋(ひろ)(約1.5m)織れたよ。』などと言いながら織りました。
 織物の柄置きは内子(うちこ)町から行商人の“久保じいさん”が見本を担いで来ました。それを座敷へ広げて柄を決め、京都に送り染めてもらいました。柄には宝船・くす玉・矢羽などいろいろあります。宝船がいいと言われてそれにしましたが、宝船のきものはとうとう着ずじまいでした。
 きものの仕立ては青年学校でも習いました。青年学校への通学には、へちま襟の制服と足首を絞った黒色のズボンを着用しました。その後も貝吹(かいふき)地区の和裁の先生に教えていただき、浴衣や袷、羽織(写真2-1-16参照)など自分のものを仕立てて縫いました。」
 自家の衣料について、前出の西条市丹原町高松地区の**さんは、「私が結婚する前の昭和10年ころ、祖母は自分の仕事として糸を紡ぎ、機を織って自家製の絹織物を作っていました。母は天気の良い日には畑仕事に精を出しましたが、雨の日には祖母を手伝って糸を紡ぎました。まず、練炭をおこした七輪に鍋をかけ、ぐつぐつ繭を沸かします。繭糸が取れ始めるとどんどん糸をとっていき、糸枠に巻いていきます。次に糸繰りで巻き直してカセの束にしておき、寒い冬の仕事として機を織り、銘仙を作って姉妹のきものにしてくれました。10月のお祭りの日に、完成した新しいきものを着せてもらったうれしい思い出は忘れることが出来ません。」と話す。


*3:整経 製織準備工程の一つ。織物を織るのに必要な長さの総経糸数を取り揃え、製織に必要な綾をとる工程。

写真2-1-14 手づくりの布団の表地

写真2-1-14 手づくりの布団の表地

今治市宮窪町宮窪。平成16年8月撮影

写真2-1-16 宝船の柄の羽織

写真2-1-16 宝船の柄の羽織

西予市野村町野村。平成16年8月撮影