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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)指導者として

 ア 松山で洋裁を指導して

 **さん(松山市北持田(きたもちだ)町 大正10年生まれ)は、戦後から現在に至る約60年間、洋裁指導者として松山で活躍してきた現役の指導者である。その**さんに指導者としての思いを聞いた。
 「私は、中国大陸で生まれ、大陸で子ども時代を過ごし、のち東京の杉野学園に学びました。そのような意味では、松山で生まれ育った方よりは少し視野が広かったと思います。戦前の私は中国北東部の長春(チャンチュン)に住んでいましたから、松山を訪ねるときは祖先のお墓参りのために立ち寄る旅人に過ぎませんでした。
 女学生のころ東京へ遊びに行っていたときに病気になり、進学を断念し落ち込んでいました。そのとき、何もしないでいるよりはということで杉野学園に入学しました。学園長に教えられたり、お話を聞く機会が増えるにつれ洋裁が好きになり、この先生ならついていくことができると思うようになったのです。それは昭和13年(1938年)ころのことでした。
 昭和19年(1944年)に松山市北持田町の現在の場所に、父が隠居地として小さい家を建てました。その家を見に中国から松山に一時帰りました。そのときは中国へ戻るつもりでいましたから、中国の家はそのままでした。ところが昭和20年になると、阪神・関東方面への空襲がはじまり中国へも戻れなくなり、さらに終戦で在外資産は没収され、生活が一変しました。道後(どうご)にドレスメーカーができたので、お手伝いに行くようになりました。終戦直後に結婚しましたが、洋裁で生活していくなど、夢にも思いませんでした。
 その後、花園(はなぞの)町に女学院ができてそこで6年ほどお手伝いをしました。そしてもう家事に専念しようと思いやめましたら、ドレスメーカーが現在の松山城ロープウェー乗り場のところに移転し、ぜひ来てほしいとのことで、久松院長の後を受けて3年間お手伝いし、昭和33年(1958年)に大街道1丁目に私自身が教室を開きました。2年で教室を閉じるつもりでしたが、生徒さんの希望が多くてやめられない状況でした。
 フランスのデザイナー、ピエール・カルダン氏が来日した時、(昭和33年〔1958年〕4月(⑪))私も特別指導に参加し、その時にライセンスを貰っていますが、その後、彼をまねて日本のデザイン界は、立体裁断に変わり、日本でもデザインへの関心が大きく高まりました。
 大切なことは、立体的な表現が出来るスタイル画を描くことです。それぞれに人のスタイルが異なりますから、それが描けないとその人に合ったデザインができないと思います。学校でも最初のころは縫うことが主体で、そのようなことはあまり必要とされませんでした。カリキュラムもデザインよりも縫うことが主体でした。私は縫うこともデザインも並行して、オリジナルなものを創造していくことが大切だと教えてきました。そうしないと時代に取り残され、画一的な洋服になってしまいます。
 先日、昭和21年(1946年)に洋裁を教えた生徒さんが、3人訪ねてきてくれました。皆さん77歳、78歳の方です。その方たちは、3人が3人ともあの時洋裁を習っていて本当によかったと、戦後60年の人生を振り返ってしみじみ言われました。その時は本当にうれしかったですね。デザイナーになろうとか、お店を持とうとしたわけではない人たちでした。本物の洋裁を習って、洋服を見る目も養われ、既製服の良し悪(あ)しの判断などができ、生活の中で役に立ってきた思いがあったのだと思います。終戦直後の生徒さんは純粋で、情報量の少ない時代の生徒さんでしたから、意気込みや取り組み方は、現在の生徒さんよりさまざまな面で勝(まさ)っていたと思います。
 今まで多くの生徒さんを教えてきましたが、その基本姿勢は、皆さんを平等に扱って教えていくということです。洋服はそれぞれ違った体型の人、性格の人が着ますから、これでなくてはいけないということはありません。ただ、見てかっこよくないと着る意味がありません。そして、その時代にふさわしくなくてはいけません。ファッション雑誌を見ていただけで、勉強したと思う人はいないと思いますが、自分がいろいろな勉強をして本物に触れて豊かになることが大切です。本物に触れて自分が豊かになったら、いつまでもデザインの世界に吸収できます。洋裁の勉強は、技術の勉強と感覚の勉強とがあり、感性が磨かれないといいデザインはできません。本物を見て感性を磨くことが大切です。流行はいろいろ変化していきますが、人間が着るものという本質は変わりません。他人が着ているから着るのではなくて、自分が主体的に身につけるものなのです。
 自分の研究のための苦労はしましたが、生徒さんの若さに助けられました。教える側が常にリーダーシップをとれるだけの力量がなければなりません。現代の日本人に、日本独自のすばらしいものを大切にする心があってほしいと思います。」

 イ 宇和島で洋裁を指導して

 **さん(宇和島市本町 昭和12年生まれ)は宇和島市で母親の後を継ぎ、洋裁専門学校で多くの人材を育ててきた。その**さんに指導者としての思いを聞いた。
 「戦前、当時は商店街であった新橋通りの裏で洋装店を経営していましたが、昭和20年(1945年)の宇和島空襲で家が焼けて三間(みま)町に疎開をしていました。母は家庭科の教員で、昭和21年には洋裁の指導を始めていて、専門学校としての認可は母の退職後の昭和25年(1950年)でした。
 私は、親がこのような学校をやっていながらあまり洋裁に興味がなく、高校時代は服飾系以外の大学にいく勉強をしていました。しかし服装学院の方も後継ぎがどうしても必要になり、親から服飾関係の学校に進学してくれるように説得されました。昭和30、40年代は洋裁学校花盛りの時代で、大学を卒業して母とともに技術的な指導をしてきました。
 昭和20年代は着ることも食べることも十分には満たされてなかった時代でしたので、文化とは程遠いものであったと思います。南予地域の昭和30年代は、みかん景気と真珠養殖などで経済的にも右肩上がりの時代で、そのような家庭の娘さんが多くこられました。
 私たちは洋裁が中心でしたが、和裁・編物・お茶・お花も教えていましたから、嫁入り前のお嬢さんがこぞってきてくれていたのだと思います。当時は着るものも豊富ではありませんから自分で作らなくては着飾れない時代でした。
 昭和20、30年代は、高知県の幡多(はた)郡十和(とおわ)村、西土佐(にしとさ)村、中村市、宿毛(すくも)市などからも入学者があり、県内では、津島町、吉田町の奥南(おくな)地区、明浜(あけはま)町(現西予市明浜町)などからも来ていましたが、交通の便が悪く、その子たちのために寮を作っていました。中学校卒業の子どもさんも技術を身につけるために入学した生徒が多かったと思います。また、お勤めの人の制服がない時代ですから、お勤めに着る洋服を自分で縫うために夜間にも多くの生徒がいました。
 昭和30年(1955年)ころは、マンボ(*4)が全盛で若者はみなマンボスタイルで着飾っていました。昭和31年になると石原慎太郎の小説の映画化で、石原裕次郎の主演した映画がヒットし太陽族のファッション(前髪をたらしたスポーツ刈りの髪型とアロハシャツにサングラスのスタイル(⑫))に変わってきました。音楽と映画がすべてのファッションをリードしていた時代でした。
 昭和30年代、私の学校の生徒の3分の1は中学校卒業で、50人はいたと思います。昭和30年代に映画のロケがあり、そのエキストラに生徒が自分でその映画のための服や浴衣(ゆかた)を縫って出演しました。200人もの若い子を集める必要があったときに、私の学校の生徒なら自分で服や浴衣が縫えますから重宝がられたのです。
 既製服があまりない時代ですから、安く縫ってもらえるということで生徒への注文もあったようです。しかし、基本とデザインはしっかりできないといい服は出来ませんから、そういうことはしっかり指導しました。私どもは実践を大事に指導してきましたから、生徒は家族や近所の方の衣類も進んで作っていました。生徒は、自分が作る喜びと作ってあげる喜び、そして皆さんに喜んでもらえることを実感したのではないでしょうか。
 材料は、商店街から購入して作っていましたから商店街は潤ったと思います。生地(きじ)は昭和20年代、30年代は反物で、何メートルという風に必要なだけ切り売りをしていました。それが昭和30年代後半、40年代になると生地屋さんが服の種類に応じて最初から裁断して一着分として売り始めました。柄なども豊富になり買いやすくはなりましたが、デザインによっては生地が足らない場合も出るわけです。そのような知識もしっかり持っていなくてはいけない時代でした。
 現在はパソコンの指導に力を入れていますが、この指導は楽です。まちがえれば消すことができ、やり直しができます。洋裁は、デザイン、製図、裁断、縫製の一つが欠けてもやり直しができません。
 基本を教えてからは、自由な雰囲気の中で自分のやりたいことに取り組ませるようにしました。そのため先生はさまざまな流行のデザインや新しい素材などに対応できなければ指導ができませんから、先生たちの勉強は大変なものでした。洋裁は作ったものがいつまでも証拠として残ります。そのために、いいものを残そうと私たちは教えてきたつもりです。」

 ウ 編み物ブームとともに

 **さん(松山市道後 昭和3年生まれ)は、昭和30、40年代の編み物ブームとともに歩んできた現役の指導者である。その**さんに編み物指導者としての思いを聞いた。
 「私のやっているこの教室は、昭和27年(1952年)に認可を受けています。そのころは松山市一番町2丁目にありました。私が編み物を始めたのは昭和30年代の初めで、私が28歳のとき、夫が32歳で亡くなったので生活のためでした。子ども一人を抱え生計をいかにして支えていくか考えていたとき、姉が生活をしていくために何か身につけなくてはと紹介してくれたのが編物女学院でした。学校では3年ほど勉強しましたが、あなたなら教えることもできるからと言われて、そのまま助手として勤めました。重信(しげのぶ)町(現東温(とうおん)市)や三津の教室にも指導に行っていました。
 娘が一人いましたから、その子を何とか育てるために一生懸命でした。教室の先生から、30年代の終わりに、私に教室の後継者としてやっていくように頼まれ引き受けました。昭和40年代初めの定員は、昼間が70人、夜が50人でした。先生が二人おられたのでその方の給料を払わなくてはなりませんし、教室の家賃も払わなくてはということで、生活費が残ればいいほうでした。20年ほどそれでやってきて、私が60歳過ぎたときから、道後樋又(どうごひまた)の自宅で教えるようにしました。
 指導は機械編み(写真1-2-17参照)が中心でした。機械編みでセーターとかスーツやカーディガンなどの編み方を初歩の段階で教えます。最初ころの生徒は、花嫁修業の独身の若い方がほとんどでした。本科、師範科、研究科の課程があり、指導者としてやっていくためには3年はかかりました。
 新しい機械が出るとメーカーに講習を受けに行きました。編み機は生徒個人個人で購入して勉強していました。昭和40年代の初めころまでは、編み機が毎日のように売れていました。40年代の半ばになると生徒がしだいに減少して、機械編みは昭和50年ころでブームが去り、手編みの時代になりました。
 昭和30年代から編み物の指導者として生活してきて、本当によかったなと思っています。若いいろいろな方と接することができて生きる喜びを感じ、それが生活の支えになってきました。現在は手編みですからほとんどが50代・60代・70代の方で、趣味を兼ねた方の生涯学習です。
 昭和30年代後半から40年代は、生徒が多く忙しいばかりでしたし、子どもを育てるために一生懸命で苦しい思い出ばかりです。あまり楽しい思い出はなく、精一杯生きてきたというのが本音です。しかし、技術的に指導してきたことが、若い人に少しでも役に立ったら幸せだと思います。それだけのためにやってきたような感じです。」


*4:マンボ キューバ音楽の一種。 1950年代に世界的に流行、若者の間で動きの速いマンボを踊るためには細身のズボンが
  ぴったりでマンボスタイルと称する風俗が広まった(⑫)。

写真1-2-17 毛糸の機械編み機

写真1-2-17 毛糸の機械編み機

松山市道後樋又。平成16年6月撮影