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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)行商

 行商とは、店舗を構えないで、自ら商品を売り歩くことをいうが、愛媛県外から行商に来ていたものには、富山の置き薬、高知の鰹節(かつおぶし)や刃物などがあった。県外に出かけるものに、伊予郡松前(まさき)町の「からつ船」(わいた船)、温泉郡中島町睦月(むづき)・野忽那(のぐつな)(現松山市中島町)の「縞売(しまうり)」、桜井(さくらい)漆器(今治市桜井地区の県指定伝統的特産品)などがあり、砥部(とべ)焼きや反物、漆器を、瀬戸内一円、九州・中国地方などに行商に出かけていた(③)。また、八幡浜市合田(ごうだ)地区は、幕末ころから、喜多(きた)郡方面へ、地元のいりこ(煮干)や八幡浜五反田(ごたんだ)産の綿布の行商を行い、明治期には高知や阪神方面へ進出し、「合田商人」と呼ばれた。しかし、昭和14年(1939年)以降は経済統制により急激に衰退した(⑤)という。
 **さん(八幡浜市合田 昭和7年生まれ)は八幡浜市合田で生まれ育ち、合田で寝具の製造販売を父親から受け継ぎ現在に至っている。その**さんは、合田地区の行商について、「合田の反物の行商は、私の親父か祖父の時代が最盛期で今では経験者がほとんど亡くなっているため、今は聞き取ることはできないと思います。当時は、遠くは北海道まで行っていたそうです。私は終戦後、いりこの行商に香川県まで行ったことがありますが、戦後、生きるために一生懸命の時期でした。これも合田の行商の流れをくんでいたのだと思います。」と語る。

 ア 野忽那の行商

 野忽那島では、明治時代には漁業が主で、大正から昭和初期までは行商の収入が多かったが、昭和22年(1947年)当時は漁業収入が全体の60%を占めていた。行商の盛んであった睦月島は反物行商が中心で、戦後、果樹栽培に力を入れたので、耕地の狭い野忽那島の方が、かえって行商が盛んになったという。戦前は、この2島から数百人の反物行商人が全国各地に赴き、旧盆と旧正月に現金をどっさり持って帰るので村の収入の半分は行商に依存していたという。歴史ある睦月島、野忽那島の行商も戦時中は衣料統制で一時中断し、昭和24年末に衣料が一部自由販売となったので再び行商が復活した。行商に使われていた船は、太平洋戦争中に徴発(軍に必要なものを強制的に駆り集めること)されたり売却されたりしたので、戦後は野忽那に3隻残ったに過ぎなかった。引揚者などで人口過剰になり、生活に困った野忽那島では、戦前よりも行商が活気を呈し、販路は九州・北海道・奥羽地方に進出した(⑥)という。 
 ちなみに野忽那島の人口は、昭和35年は1,163人、昭和50年に500人、平成15年は225人である。

 イ 九州での行商

 松山市中島町野忽那の**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和4年生まれ)は戦後生活のために九州方面に衣料品の行商に出かけ、二人とも約40年間を行商ひとすじに生活してきた。その二人に行商時代の話を聞いた。まず**さんは次のように語る。
 「私の家は半農半漁でした。終戦後、生活のことを考えたときに野忽那島は昔から商売(行商)が盛んで、昭和24年(1949年)末に衣料品の統制が解けましたので、翌年から商売に出かけました。野忽那島では漁業・農業・商業(行商)で生活の糧を得ていましたが、農業をするにも土地がありませんから、多くの人が島外に商売に出ていました。この地域では、行商をしている人たちのことは商売をしているといっていました。品物は愛知(あいち)県一宮(いちのみや)市周辺の農家が機(はた)で織ったスフや木綿の反物が主でした。毛織物が出てきたのは、私が行商を始めて2~3年後だったと思います。
 私たちはいったん商売に出ると盆と正月にしか島には帰りません。その間は旅館住まいです。一年に2回、盆と正月に帰り、他は冠婚葬祭に帰るくらいでした。最初は九州各地を回りましたが、なかなかお得意さんが出来ませんので、同業者があまり行っていなかった大分(おおいた)県佐伯(さいき)市を拠点にしました。初めは旅館住まいでしたがそれでは費用がかかりますから、アパートを借り自炊しました。それまで経験したこともない商売でしたから、知らない家を訪ねて取り次いでもらうまでが大変でした。
 家族は野忽那島にいました。結婚は昭和24年(1949年)でしたが、家内は子育てもあり、昭和50年(1975年)になって大分県佐伯市に住むようになり、それまでは母親が来てくれていました。
 お得意さん回りは、最初は風呂敷(ふろしき)で担いで行きましたが、遠くに行くときは、商売先の旅館に先に荷物を送っておき、自分は汽車やバスで移動し商売先でリヤカーを借りて回りました。車を使うようになったのは昭和40年(1965年)からでした。一番よかったのは昭和30年代後半から50年(1975年)にかけてでした。商品は、背広から婦人物、呉服、衣料雑貨などを扱いました。呉服は、昭和30年代後半ころからしばらくはよく売れましたが50年代の後半になると売れなくなり、利益も上がらなくなりました。量販店も出現しはじめ限界を感じたので、昭和63年(1988年)に商売をやめて野忽那島に戻りました。佐伯市では約40年暮らしました。現在は島で魚など釣って楽しんでいます。」
 続いて、筑豊(ちくほう)炭田などを中心に行商した**さんは次のように語る。
 「私は戦時中、大阪の軍需工場で働いていましたが、終戦で野忽那島に戻り漁師の手伝いをしていました。漁師で食べていけるとは思いませんでしたので、親戚(しんせき)の商売をしている人に誘われ、昭和25年(1950年)から始めました。洋服の服地が主で、愛知県一宮(いちのみや)市へ仕入れに行っていました。親方が仕入れて、儲(もう)けを上乗せして私ら売り子に渡していました。原価を調べてみたらものすごく安くて、ばからしくなり半年も商売すると自分にも資本が少しできましたから独立しました。
 主に福岡県の筑豊炭田を回り、山口県の宇部(うべ)炭田や長崎にも行きました。最初は担ぎからで、次は自転車、そしてバイクが昭和34年(1959年)から、車は昭和40年からでした。炭鉱回りの時代に売れたのはほとんどが服地でした。男性の背広の生地とか、女性のワンピースやスーツをつくる生地が現金でよく売れました。炭鉱景気に沸いていた時代ですから、食べることと着ることにはお金をかけていたのではないでしょうか。住宅はハーモニカ長屋(細長い1棟を横に小さく区切った長屋。ハーモニカの穴を並べたかたちに似るところからいう。)などといっていました。
 石油の時代になり昭和35年(1960年)ころから炭鉱も閉山が相次いだため、福岡県八幡(やはた)市(現北九州市八幡区)に家を借りて商売の中心を八幡製鉄(現新日鉄)関係の会社と企業の社宅にしました。炭鉱回りをしているときは旅館住まいでした。現金販売が主だった炭鉱回りのときは、1日にいくら儲かったかわかり励みになりました。八幡市に移ってからは男女の既製品が中心で、月賦販売を始めてからは、会社や社宅が主で、お得意ができてからは商売は楽でした。しかし、会社関係の月賦販売が主になると、帳簿上は儲かっていても手元に現金はありませんでした。仕入れはすべて現金で、問屋さんとの交渉でも、値引きなどができる立場のある人と取り引きしました。長い間取り引きしていると、問屋の外交員が『これは展示商品で、店には出せないので安くします。』と逆に売り込みに来ました。
 私が九州で一生懸命働いたのは、結婚をして子どもができて、その子どもの将来のことを考えてのことです。野忽那島では中学校、高等学校は島から通学できません。下宿させてまで高等学校に行かせることは経済的によほど裕福でないとできませんでした。自分が教育を受けられませんでしたから、せめて子どもは大学まで行かせてやりたいと思い、八幡市で懸命に働きました。
 私は兄弟が10人もいて、私が長男ですから親、弟たちの面倒も見なくてはいけませんでした。八幡市に拠点を持った昭和37年(1962年)に結婚しました。子どもは八幡市で生まれ八幡市の学校で過ごしました。私は家の長男で、住所は現在まで野忽那島の住所で通してきましたが、家族は北九州市の住所です。店があるわけではありませんから、盆や正月には帰ったら長く滞在できます。
 平成3年(1991年)に一人で留守番をしている老いた母のこともあり、子育ても終わりましたから、63歳で商売をやめましたが、外商をしている仲間で作った野忽那商興納税組合(通称商業組合)のお世話を10年間しました。この組合は、昭和30年3月、県から認可された組合です。この組合の仕事は組合員の税金の問題が主でした。組合設立当時の組合員数は44名(売り子は除く)でした。また、中島町の町会議員も1期だけ奉仕し、郷里のためにも働きました。北九州市八幡区に家がありますが、月に一度は野忽那島に帰ります。私の郷里はあくまでも野忽那島であると思っています。」

 ウ 雇われの行商から独立して 

 **さん(西予市宇和町卯之町(うのまち) 昭和11年生まれ)は、保内町川之石(ほないちょうかわのいし)の外商専門の洋服屋で営業活動をし、その後独立して自分で行商を始め現在に至っている。その**さんに行商の変遷や思いを聞いた。
 西宇和郡保内町川之石(現八幡浜市保内町)は、愛媛県西部、佐田岬(さだみさき)半島のたもとに位置し、江戸時代から商業・海運業で栄え、明治11年(1878年)に県内初の第二十九国立銀行が、同21年には四国初の宇和紡績が設立された。大嶺(おおみね)銅山は大正時代には別子銅山に次ぐ規模を誇り、川之石は鉱業や紡績業の発展に伴い明治時代末から昭和20年代には活気のみられた地域であった(③)。
 「私が勤め始めたのは23歳で、昭和34年(1959年)だったと思います。その店は保内町川之石に本店があり、支店が松山市河原町にありました。ともに、店といっても小売りをするわけではなく、外商のための事務所のようなものでした。一番多いときで松山と川之石で併せて14名の外交員がいました。当時、私は結婚をしていて、勤めていたところの月給が8,000円でした。私の友達が『今の給料の倍くらい出してくれる仕事があるのだが、一緒に面接に行かないか。』といって誘ってくれたのがきっかけでした。
 入社して5、6年は注文服だけの販売でした。松山に縫い子さんが10名、川之石にも8名ほどいました。それでも間に合わないので内職のできる方にお願いしました。それぐらい昭和30年代半ばから40年代にかけては忙しい日々でした。既製品もありましたが、サイズが豊富にありませんでしたから直しが多くて手間がかかりました。値段が少々高くても、体にぴったりしたものを皆さん好まれたようです。
 店には営業車が9台あり、それで愛媛県内を回っていました。銀行の共済組合、電話局(現NTT)の共済組合、愛媛県の小学校、中学校、高等学校の生活協同組合に加盟して愛媛県内各地を回りました。学校は各学期に1回は訪問しなければ指定を取り消されるので、瀬戸内海の島の小学校、山間部の学校などよく回りました。
 月賦販売ですから、共済組合や生協の指定をはずされると、資金繰りに困りますから、それはこまめに回りました。松山の高浜港から島の小学校、中学校などへ行くときは、現在のフェリーのような定期便がありませんでしたので、貨物船に車を積むのですが、積むときに海に落ちはしないかと心配したものでした。
 南予方面は昭和40年代までは道が悪くて、保内町川之石から南宇和郡城辺(じょうへん)町(現愛南町城辺)には6時間から7時間かかりました。月曜日の朝、5時くらいから準備して出発し、金曜日の夜まで出張です。その間、旅館に泊まって昼は商売です。特に南宇和郡内海(うちうみ)村魚神山(現愛南町魚神山(ながみやま))の小学校、中学校に行くときなど船越(ふなこし)運河までしか道路が整備されていませんでしたから、内海村柏(現愛南町柏)から漁船に乗せてもらって魚神山で商売して帰っていました。学校だけでは商売になりませんから、郵便局や農協などでも品物を見てもらって注文をとっていました。宿屋は枕元をねずみがちょろちょろするような所でした。宇和海で真珠養殖が盛んになり始めたころで、いい商売ができました。
 南宇和郡城辺町中玉(なかたま)小学校は、現在は廃校になっています。高知県宿毛(すくも)市片島(かたしま)港から漁船でいくのですが、波の荒いときは岸壁に着けないことがありました。船の上から先生の名前を呼んで、『船が着けないから出直してきます。』と叫んで帰ることが何度もありました。西海(にしうみ)町武者泊(むしゃどまり)(現愛南町)小学校も現在廃校になっていますが、ここは福浦を過ぎてしばらくすると車の通れる道がありませんでしたから、小学校まで歩いて行ってリヤカーを借りて、商品を積んで再び小学校まで行きました。その際には時間のあいている先生が手伝いに来てくれることもある、のんびりしたいい時代でした。
 いやなことが一度だけありました。東予(とうよ)(愛媛県東部)で注文をもらって仮縫いを合わせに行くと、既製品の安いのがあってそれを買ったからもういらないと言われたことでした。生地にはさみを入れて仮縫いまでしていて断られたのは、初めてでした。私たちは仕入れから安く仕入れる努力をし、多く売ってはじめて利が上がる商売ですから、契約通り引き取ってもらいました。
 30歳で出身地の宇和町(現西予市宇和町)に帰り、兄と二人で独立しました。兄も同じ店に勤めていましたからノウハウはわかっていますし、お得意さんもありましたし、信用も得ていましたから同じような行商を独立してはじめました。縫い子さんも雇っていますので、いまだに出張販売を続けています。現在でも、婦人物は誂(あつら)えで注文があります。安いものは既製品でいいですが、女性の方は特に体にあったものを求められます。それで今でも何とか商売ができています。これも昔からの信用があったからだと思います。」