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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)生地を生かす

 ア 機械製図技術を生かして

 喜多郡内子町内子の八日市護国町並(ようかいちごこくまちな)みの近くで洋服屋を営む**さん(大正13年生まれ)は、戦前に勉強した機械製図技術を生かし、独学で洋服仕立ての技術を習得した。その**さんと奥さんの**さん(大正10年生まれ)は、洋服の仕立て屋(写真1-2-1参照)としての思いを次のように語った。
 「昭和15年(1940年)に東京の機械製造会社に就職し、そこでの昼食の白米のご飯に感激しました。田舎では麦飯の粗末な食事でしたので辛抱して働こうと思いました。
 日中戦争が始まっていた時代で、会社では戦車や飛行機の部品のほか、大砲の弾頭などの各種部品を製造していました。そこでの部品製造には機械製図の基本知識が必要でしたので、会社が専門学校に行かせてくれました。その後、陸軍に召集され、終戦の年に内子に戻ってきて、昭和21年に結婚しました。
 そのころ、家内が、和服を洋服に仕立て直したり、古着屋から仕入れた生地を洋服にするなどの仕事をしていましたので、自分も洋服屋でもやってみるかと思うようになりました。結婚したてのころは家内に養ってもらうという、情けない状態でした。私には洋服の知識はほとんどなかったので、洋服仕立ての基本の服飾製図・裁断を独学で勉強し、ときには家内がお師匠さんでした。内子・大瀬(おおせ)・五十崎(いかざき)に20軒ほどの仕立て屋がありましたので、その方たちにも技術を教わりました。
 私は、細かく採寸して、そして製図をして、型紙をつくり裁断することから仕立てを始めました。当時、この辺りでは自力で型紙を作ってから仕立てる人はほとんどいませんでした。私には、戦前に習得した機械製図の知識がありましたから、採寸したものを製図するという流れがよく見えていました。昭和20年代は、生地そのものを手に入れるのが大変な時代ですから、少ない生地を無駄にしないためには、お客様の体型に応じて厳密に採寸し、製図をしてから洋服にすることが大切だと思いました。
 そのころ、生地を担いで売りにくる行商人が多くいました。中にはひどい業者もいて、湯通し(織物をぬるま湯にひたし、糊(のり)気を除いて柔軟にし、後で縮むのを防ぐこと)をすると縮んでしまう生地を持ち込むような人もいました。昭和30年(1955年)くらいまでは洗濯もできないような生地も出回っていました。生地で大きく変わったのはオーバーコートの生地で、パイル系(片面または両面にパイルをもつ織物の総称)の厚手の生地が昭和30年代後半ころから薄い生地に代わっていきました。
 昭和20年代の半ばに全国規模の洋服組合ができ、洋服屋の技術向上を目的として、全日本洋服連合会(全服連)主催の技術コンクールが始まりました。夏に比較的仕事が暇になりますので、その時期に全服連が指導者を全国に派遣して講習会も始めていました。宇和島市か八幡浜市で開催されていた講習会には必ず参加して技術を覚えていきました。
 同業者はみんな、私が洋服については何も習っていないということを知っていましたから、洋服の仕立てを始めたときは、技術もない若造(わかぞう)が始めたといって相手にもされませんでした。しかし、洋服組合の会合であれこれと話して打ち解けていくうちに、人前で製図が引けて裁断ができる洋服屋はこの辺りにいませんでしたので皆さんに信用してもらえるようになりました。
 私の出発点は、そもそも他の洋服屋さんとは違っていましたが、戦争というものが私を洋服屋にしたと思っています。戦前の機械製図の技術が洋服屋に生かされるなど思ってもみなかったことです。生活のために血の滲(にじ)むような思いをしながら日々努力したことで、現在の私があると思っています。」

 イ きものを縫う喜び

 **さん(西条市氷見(ひみ) 昭和10年生まれ)は10代後半から和裁を習い現在も自宅で和裁を続けている(写真1-2-2参照)。その**さんは、和裁への思いを次のように語る。
 「小さく折りたたまれているきもの、そこには日本の伝統があると思います。自分の国の伝統的な衣装であるきものが独りで着られない、生地の名前も知らない、このような人が多いのではないでしょうか。洋服は前もって立体的に形づけられていますが、きものは着てはじめてその美しさが生まれると思います。形は同じでも、材質や色、柄によって、着る場所や雰囲気も違ってきます。自分できものを縫って着る人は少なくなりましたが、自分の手で縫えば、きものの美しさがわかるのではないでしょうか。生地を生かすのは着る人であり、私たち仕立てる側はそれを手助けしているのに過ぎません。
 私は和裁を、昭和27年(1952年)ころから始めました。針仕事で何かを作るというのが好きでしたので、中学を卒業して2年間、父の仕事を手伝ってから、小松町(現西条市小松町)の御殿(ごてん)地区に住む和裁の先生のもとへ教わりに行きました。近くの友達がみな制服で高校へ行くのがうらやましいというかそんな気持ちでした。和裁教室では、多いときは10人くらいが習っていました。母親がよく準備してくれていて、母親が家で洗って、きちんとした生地を持っていって自分で縫っていました。一通りのことが出来るようになると、先生が注文を受けたきものを手伝って一緒に縫ってくれないかと言われて、それから本格的に始めました。現在は、先生が高齢になられたので、仕事を私が引き継いでいます。
 春や秋の一般の人がお花見、お祭りに浮かれているときが一番忙しかったです。自宅で始めたときはまだまだわからないことが多く、先生によく聞きに行っていました。そうすれば自分も納得できます。柄合わせなどお客さんが気に入らないときには、それはもう悲しかったです。花柄などは、お尻に大きな花柄があっても困りますから、どこにその模様をもっていくか工夫が必要です。
 最近は、おばあさんのきものをお孫さんが着るからとか、洋服に仕立て直すとか、リサイクル的な注文があります。昔のいい柄の、生地も高級なものを持ってこられる人があります。そのようなきものを新しいものにして喜んでもらったときはうれしいです。自分としてはいつまでもきものが縫える喜びがあり、自宅にいながら仕事が出来るのでよかったと思います。時代は変わりましたが、多くの人にきものを着て欲しいと思います。」

 ウ 裁断の怖さ

 **さん(大洲市大洲 大正5年生まれ)は小学生のときに和裁に興味をもち、和裁の先生をしていたお母さんに手ほどきを受け、尋常高等小学校卒業後は近くの機屋で働きながら和裁の先生にも正式に教わった。太平洋戦争のために和裁で身を立てる道も断たれ、戦後、子育てが終わった昭和30年代後半に再び和裁をはじめた。その**さんは和裁への思いについて、次のように語る。
 「私は松山市西垣生(にしはぶ)の生まれです。絣織りの盛んなところでした。小学生の科目に裁縫があり、赤ちゃんが着る一(ひと)つ身(み)(背縫いのない幼児のきもの)を縫う練習がありました。私の母が和裁の先生をしていましたから、学校で教えてもらうより母の方が上手に教えてくれました。尋常高等小学校を卒業してから、よそで教えてもらった方が厳しく教えてもらえるからということで、西垣生の機屋で働きながら、垣生の和裁の先生に教わりました。しかし、すぐ戦争になり、大阪の陸軍砲兵工廠(軍に直属し、兵器・弾薬を製造する工場)で働くことになり、和裁どころではなくなりました。
 夫が海軍航空隊所属でしたので、基地のあった長崎県の佐世保(させぼ)や鹿児島県の鹿屋(かのや)などにも行き、各地を転々として、終戦で大洲に帰りました。育児がありましたので、市内の呉服屋さんに頼まれて和裁の仕事を再開したのは、昭和30年代後半からでした。
 呉服屋は、寸法をメートルで計っていましたので、それを寸に直します。そして、裁断する前に柄合わせをします。お客さんが柄の配置の好みを書いてくれていればよいですが、そうでないとお客さんの思いがわかりませんから困ります。花柄が一番困りましたし、生地にはさみを入れるときの裁断が一番怖いです。鯨尺で寸法書き通りに計って、はさみを入れますが、はさみを入れようとしても、これでよいのかと、その前に何度も何度もさしを当てて計り直したことは度々でした。納得してやっとはさみを入れるまでには時間がかかりました。はさみを入れるのは何年経っても怖かったです。」

写真1-2-1 **さんの仕事場

写真1-2-1 **さんの仕事場

内子町内子。平成16年6月撮影

写真1-2-2 **さんの栽縫台

写真1-2-2 **さんの栽縫台

西条市氷見。平成16年7月撮影