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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)着装のたしなみ

 ここでは、現在ではあまり目にすることがなくなりつつある伝統的な衣服とのかかわりや県内で伝えられてきたたしなみについて整理する。

 ア きもの文化と日本人

 きものは、日本独特の気候風土や日本人の感性と文化(技術)が生み出した衣服である。私たち日本人は、変化に富んだ風景や四季の移り変わりを生活文化の中に取り入れて、季節をこまやかに味わう心を育(はぐく)んできた。そして、四季折々に、その気候にあったきものに衣替えし、寒暖の調節をするとともに、きものを通して季節の移り変わりと自然の美しさを味わい、楽しんできたのである(①)。
 平安時代には、『延喜式(えんぎしき)(*2)』に天皇・中宮の衣服が月ごとに詳述されていることから、9世紀後半には季節による衣服の使い方がかなりこまやかに決められていたことがわかる。また、平安時代から鎌倉時代にかけて編纂(へんさん)された公家(くげ)の服飾に関する書物には、季節ごとの絹の地質(じしつ)(生地の性質)や仕立て方、重ね色などの解説が記載されており、衣服によるきめこまやかな季節感の享受が当時すでになされていたことが知られている(③)。
 このように貴族社会からはじまった衣替えの習慣は、武家社会にも広まり、室町時代には京都に住む人々の間などかなり広い範囲で行われるようになった。われわれ日本人にとって、衣替えは、季節の交替を、衣服を改めることによって明確に受け止め、気分を一新するという生活習慣であった。
 明治以降も和装においては、このしきたりがほぼ守られてきた。しかし日本人の衣生活、とくに男性の公的な衣服として洋服が取り入れられると、その形も毛織物という材質も、日本とは異なる社会・風土が育んだものの輸入であったから、着装の慣習も和服の場合とは異なってきた。加えて現在では、生活様式も大幅に変わり、冷暖房設備の普及や衣服の多様化とあいまって、和服における衣替えさえも以前ほど厳密には行われなくなった。
 また、われわれ日本人は、人生の節目の確認のために衣服を替えるという習慣も持っていた。生まれてから死ぬまでの人生の節目に当たって特別に作られた衣服を着ること、たとえばお宮参り・七五三・入学・卒業・成人・結婚・還暦などの祝いに新しい衣服を着ることは、それぞれの節目を自他ともに確認することである。人生という時の流れの中で、ある日ことさらに衣服を改めるのは、服装という外見の形を日常とは変えることによって、これからは前日までとは違った人生の過程に入ること、従って気分や心構えを一新することを、当人だけでなく周囲の人々も確認しあうためである(③)。
 また、現代の女性の和服礼装で既婚者の留袖と未婚者の振袖に区別があるのは、江戸時代に、結婚すると振りのある袖の脇明けの衣服から、短い袖の脇をふさいだ形の衣服に変えた慣習の名残である(③)。

 イ 100年前には

 明治20年代に刊行された女性による女性のための百科事典を現代語に直し、資料を加えて編集した『100年前の女性のたしなみ』には、洗濯や礼儀作法、身だしなみなど当時の女性が守るべきとされた心得が記されている。例えば、洗濯については、「絹、木綿、麻、毛織類を洗濯するときには、椋(むく)(ニレ科の落葉高木)の実や洗い粉(*3)、米をといだ水、豆腐(とうふ)の搾り汁、石鹸(せっけん)などを使います。(中略)木綿類を洗濯するときは、木綿をたらいに入れ、水かぬるま湯を注ぎ、2、3時間経(た)ってから椋の実、灰汁(あく)、洗い石鹸などを使って生地をもんで汚れを落とします。そしてもう一度米糊(こめのり)を溶かした水につけて竿(さお)にかけて日なたに干します。麻類の洗濯は、だいたい木綿と同じですが、帷子(かたびら)(夏に着る裏地をつけないひとえのきもの)などの色物は搾らないで干します。(④)」と記されている。乏しい材料の中で、少しでもきれいにしよう、清潔なものを着せたいという生活の知恵がしのばれる。
 次に、和服を着たときの礼儀作法については、「歩く時は両手をまっすぐにして腰を曲げずかかとを地に落ち着けて、しなやかに歩きます。おじぎをする時は、両手を相手の方へ向けひじを畳につけて、左右の親指と人差し指とを突き合わせ、その上に額を付け腰があまり高くならないように背中をまっすぐにしておじぎしましょう。(④)」と記している。今ではあまり目にすることのなくなった、日本人としての礼儀作法や着こなし、身のこなしをうかがうことができる。
 同書には、身分相応に身だしなみを整えるのは女性の礼儀だとして、化粧の仕方も解説している。
 「第一に必要なのがおしろいです。おしろいには2種類あって顔おしろいと襟おしろいがそれです。顔おしろいは薄く、襟おしろいは少し濃いめに塗ります。最近では水おしろいといって、水製のおしろいを瓶詰(びんづめ)にした液を手のひらにたらして塗る、とても便利なものが出ました。湯上がりなどには特に重宝します。口紅は上方(かみがた)(京都・大坂)では濃いめに塗る習慣がありますが、東京では濃いめは見苦しいといって薄く塗る方が流行しています。また顔紅といって少女が目の辺りへ紅を薄く溶いて塗る習慣がありましたが、今はめったに見られなくなりました。(④)」 100年前と現在との違いや類似点、あるいは当時すでに上方と東京の違いがあったことなどが読み取れるのである。

 ウ アンケートからうかがえるたしなみ

 今年(平成16年)、県内の各市町村教育委員会と老人クラブを対象に実施したアンケートでは、県内に伝えられてきた着初(きぞ)めの風習や装いにまつわる言い伝えなどについて多くの回答をいただいた。
 着初めの風習については、「しつけ糸のあるきものを着てころぶと病気になるからというので、必ずしつけ糸をのけてから着る。」という言い伝えは、伊予三島市(現四国中央(しこくちゅうおう)市)、宇摩(うま)郡土居(どい)町(現四国中央市)、今治(いまばり)市、越智(おち)郡吉海(よしうみ)町(現今治市)、越智郡関前(せきぜん)村(現今治市)、伊予(いよ)市、伊予郡中山(なかやま)町、伊予郡砥部(とべ)町、上浮穴(かみうけな)郡小田(おだ)町(現喜多(きた)郡内子(うちこ)町)、喜多郡河辺(かわべ)村(現大洲(おおず)市)、東宇和(ひがしうわ)郡三瓶(みかめ)町(現西予(せいよ)市)、西宇和(にしうわ)郡保内町(現八幡浜(やわたはま)市)、西宇和郡瀬戸町などほぼ県下全域に語り継がれている。その他の着初めについての言い伝えは、図表序-2のとおりである。『大洲市誌』には、この他にも「きものにさかな(いりこで代用)をそなえ、おがんでから着る。(⑤)」、「酉(とり)の日におろすと、『鳥の羽重ね』といってきものがふえる。(⑤)」、「子の日におろすと破れやすい。(⑤)」といった言い伝えが記されている。
 裁縫については、「新しいきものを仕立てるために布を裁(た)つときは、よい日(酉の日)を選ぶ。」という言い伝えが松山(まつやま)市や西宇和郡伊方(いかた)町に残っていた。他にも、「巳(み)の日に衣料品を裁つな、身を切るから。子(ね)の日には枕を作るな、寝たきりになるから。」(保内町)、「酉年生まれの女性は衣装もちが多い。」(伊予市)、「赤い布で作ったきものを酉の日に着れば元気でいられる。」(砥部町)、「きものを仕立てるときは、二人で縫うものではない。」(中山町)などの言い伝えが残っていた。
 洗濯についても、宇摩郡新宮(しんぐう)村(現四国中央市)には、「濡れ物を年越ししてはならない。」という言い伝えが、また、西条市には「干し物は北に向けて干すものではない。干し物を竿(さお)から抜いたまま、すぐに着るものではない。洗濯物は夜干しするものではない。」などの言い伝えが残されていた。
 下駄(げた)や草履などの履物については、「新しい履物は夜はおろさない。」(東宇和郡宇和(うわ)町〔現西予市〕)、「新しい草履を下ろすときは、昼ならば唾(つば)、夜ならば鍋墨を裏側につけないと不吉。」(新宮村)「新しい履物を家の中で履いて、そのまま下に降りてはいけない。」(喜多郡肱川(ひじかわ)町〔現大洲市〕)といった言い伝えが残っていた。
 こういった言い伝えから、きものや履物などに対する特別な思いがしのばれる。


*2:延喜式 養老律令の施行細則であり、改変部分を含めながら、10世紀に編集・施行されたものである。平安時代初期の
  宮中の年中行事や服飾に関する規定なども記す。
*3:洗い粉 洗顔一洗髪・入浴時などに用いる化粧用の粉。明治時代以降は、小麦粉などのでんぷん質に、石鹸粉、重曹
  (じゅうそう)(炭酸水素ナトリウム)などの無機物を混ぜたものが多く用いられた。

図表序-2 県内に伝えられてきた着初めの風習

図表序-2 県内に伝えられてきた着初めの風習