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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)重信川流域の味

 重信町は、松山平野の東部に位置し、重信川が貫流する肥沃(ひよく)な農業地域である。重信町の志津川(しつかわ)地区と田窪(たのくぼ)地区は重信川の右岸にある田園地帯で近年都市化が著しい。気候は温暖で重信川の水源に恵まれている(⑨)。
 一方、松前(まさき)町は、松山平野の南西部に位置し、重信川を境に松山市と接し、町域は起伏の少ない平坦部である。松前町の北黒田(きたくろだ)地区は、伊予(いよ)市に近く、蔬菜(そさい)栽培中心の近郊農業と米麦の農業地域である(⑩)。

 ア 広がる麦畑

 重信川は、高縄(たかなわ)山地の東三方ヶ森(ひがしさんぽうがもり)付近を源流として松山平野を東西に貫流して伊予灘(いよなだ)に流れている。川幅は広いが、砂礫(されき)が多く堆積し、地表水は少ない。流域に住む人々は、長い歴史の中で幾たびか川の氾濫(はんらん)による洪水に見舞われてきたが、それらの災いのあとには肥沃な土砂の堆積を残し、豊かな水資源とともにやがて自然の恩恵となった。初夏のころには麦秋(麦の熟するころ)と呼ばれるにふさわしい風景が広がる。愛媛県全体では裸麦(はだかむぎ)の生産高が日本一といわれている。
 重信川流域は、年中田畑を遊ばせることはないと言われるほど、明治・大正・昭和そして平成と農業主体の生活環境を維持している所である。特に裸麦を主体とした穀物の栽培について、農業を営む**さん(重信町田窪 大正15年生まれ)に聞いた。
 「昭和20年(1945年)から30年代にかけてのこの地域は、麦と米の典型的な二毛作地帯でした。麦栽培(写真3-2-10参照)の発展理由としては水はけのよい土壌で、乾燥に強い麦の栽培に適していたこと、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)などの調味料を自家製で作るために麦の需要が多かったことがあげられます。
 麦栽培は、11月までにウシを使い畝(うね)作りをして、11月中ころから種まきをしました。12月、少し芽を出すと地下足袋(じかたび)をはいて麦踏みをして麦の分けつ(根に近い茎から枝分かれすること)を盛んにします。1~2月、大きく生長すると、麦が倒れないように土寄せをします。5月に刈取り、千歯こき(刈り取った麦や稲の穂をとる道具)で穂を落とし、筵の上に穂を広げて、一日4~5回混ぜてよく乾かします。続いて唐棹(からさお)で叩(たた)き、唐箕(とうみ)(人工的に風を起こし、穀物を精選する農具)で実とくずを選別するといったぐあいに、一貫した農作業工程ができあがっていました。」
 また、当時の日常食や麦料理について、農業に従事してきた**さん(重信町志津川 昭和3年生まれ)に聞いた。
 「当時の主食は麦でした。麦と米の割合は麦6~7割に米4~3割が普通でした。特に丸麦は硬くておいしいものではありませんでしたが、やがて押(おし)麦を食べるようになりました。押麦は平らでやわらかく、少しずつおいしく感じるようになりました。夏は麦飯を腐らせないよう、竹で編んだしたみ(籠(かご)に入れて天井(てんじょう)からつるしたり、冬はさめないようにおひつに入れたり、弁当行李(こうり)に入れたりしました。しかし、麦飯は腹もちが悪いのと、『朝は朝星(あさぼし)、夜は夜星(よぼし)、昼は梅干し』と言われるほど農作業の労働が厳しかったのと粗食のために、1日4回の食事が普通で、サツマイモやジャガイモ、サトイモなどもたくさん食べなければ体がもちませんでした。
 はったい粉は、裸麦を石臼(いしうす)で挽(ひ)いて作りました。色は薄い茶色で、粉を練って、砂糖を入れて味をつけおやつにもしました。粉のままで食べるとよくむせて、せきが出て困った思い出があります。
 団子汁は、小麦粉に水を加えて作った団子を味噌汁に入れて食べました。とりつけ団子は、米を籾摺(もみす)りした時に割れて出来る小米(こごめ)を挽(ひ)き蒸して作った団子にあんこをすりつけて作りました。
 おもぶり飯は、ニンジン・ワラビ・タケノコ・フキ・シイタケ・サトイモの具を混ぜて、塩味にし、夏場にはよくおにぎりにしました。具を飯に混ぜてもぐりこませるので、もぐるが変化しておもぶりとなったといわれています。この地区では慈光寺(じこうじ)の念仏講が盛んで、参加者には必ずおもぶり飯のおにぎりが配られますが、特に子どもたちは喜びました。仏の御慈悲(ごじひ)があったのか、おにぎりを食べた者は誰(だれ)一人と伝染病にかかることがなかったのが不思議でした。」

 イ 川魚の味

 農作業の合間に食べた川魚の思い出について、先述の**さんと**さん(重信町田窪 昭和17年生まれ)に聞いた。
 「重信川ではドジョウ・ウナギ・ハヤ・ドンコ・フナ・ナマズ・シジミ・ツガニなどがよくとれました。特にドジョウは、どじょう汁(写真3-2-11参照)やどじょうすきにして夏のスタミナ料理として誰もが楽しんだものです。
 ドジョウはじょうれん(竹で編んだ手箕(てみ))でとり、一度に食べないで何匹かは生かしておきました。とって来るとまずドジョウの泥を吐(は)かし、臭みを消すため瓶(びん)に入れて、2日ぐらい待ちます。早く食べる場合は、塩を入れて泥を吐かすこともあります。日を置いてゆっくり食べる場合は、トウガラシを入れて吐かすか、真水で吐かします。トウガラシはドジョウを長もちさせる効果もあるそうです。10日間ぐらい生かしたいときには、ナスを入れるとより効果があります。
 調理方法としては、まずドジョウを軽く焼くか油で炊(いた)め、背骨(せぼね)が固いので、包丁(ほうちょう)かすりこぎで細かく骨をすりつぶして、ドジョウの形がないようにしました。小さいもので3~5cm、大きいものになると10cmを超えるものもいますが、すりつぶしてしまうと子どもも気味悪がることなくよく食べました。ドジョウを輪切りにして形を残して汁に入れる方法もあるようですが、我が家では、すべて骨をすりつぶして料理しました。
 続いてすりつぶしたドジョウを入れた汁にサトイモ・ナス・ゴボウ・豆腐・そうめん・味噌を入れてまろやかに味をつけ、薬味(やくみ)としてショウガ・ミョウガ・タマネギ・ネギなどを入れ風味をだします。野菜を多く入れることと、よく煮込むことがどじょう汁作りのこつです。
 ドジョウをはじめ材料さえそろえば、月に何回も料理しましたが、特に8~9月の旬の時期はとてもおいしいもので、夏に汗をかきながら、熱いのをふうふういって食べるのが快感でした。ドジョウは、たんぱく質・ビタミン・ミネラル・カルシウムなどが豊富で、貴重な栄養源でもありました。また、多くの人と鍋を囲んで食べることは、お互いに心からうちとける絶好の機会ともなりました。冬でも食べられなくはないのですが、ドジョウが冬眠している時期であり、捕獲しにくいので食べる機会は少なかったです。」

 ウ 畑の仲間たち

 重信川下流域の松前(まさき)町は、水に恵まれた肥沃な田園地帯であり、米・麦の穀類とタマネギ・ネギ・レタス・ソラマメなどの野菜の栽培が盛んである。先代から農業を続けている**さん(松前町北黒田 昭和7年生まれ)と**さん(昭和10年生まれ)夫婦に、戦後の昭和20年(1945年)から30年ころの農業の様子や食生活について聞いた。
 「このあたりでは、米と麦またはタマネギの二毛作が多かったのですが、サトウキビ・ネギ・サツマイモ・ジャガイモ・サトイモ・ソラマメ・ダイズなどたくさん作りました。昭和24年(1949年)ごろまでは甘い物や砂糖不足という社会情勢があり、さらにここが砂地である栽培条件とがうまくかみあい、サトウキビ栽培をする農家が急増しました。当時は樽一つ20斤(きん)(12kg)が6,000円という高値で取引され、サトウキビ成金(なりきん)が生まれ、新築の家が多く出来たものです。
 また、タマネギは昭和30年(1955年)ころに、ネギ(九条ネギ)は昭和40年(1965年)ころより生産量が急速に増えました。
 マメ類の栽培も盛んで、特に、松前町の岡田(おかだ)地区、北黒田地区、伊予市のあたりは、ソラマメ・エンドウ・エダマメ・ダイズがよく育ちました。これは、肥料がすべて有機肥料であったためです。作物の茎や刈草、食べかす、牛糞(ぎゅうふん)(各家庭でウシを1、2頭必ず飼育していた。)、人糞(じんぷん)などを有効に配合した肥料で、土地が肥えるからだそうです。
 当時、ウシは貴重な財産で、4~7月は田畑の耕作に使っていました。8~11月はウシの飼料確保や肥育のため、涼しい中山町や遠く久万町まで“山あげ”といって預けたこともあります。しかし、冬は寒いので自宅へ戻しました。農家の子どもの大切な仕事はウシの飼料集めと畑の水やりで、それをしてからやっと自由に遊べるという時代でした。
 主食は米7、麦3程度の混合飯で、他の地域より恵まれていたと思います。朝はいも粥(がゆ)、昼は混ぜご飯、おやつはサツマイモで、質より量という考えでたくさん食べました。サツマイモは食用として甘みが強い白イモの『七福(しちふく)』を作っていました。
 わが家では、豆も多く生産しましたので、春を彩(いろど)るものとしてえんどうまめご飯をたびたび作りましたし、副食として煮炊きしたり、炒(い)り豆もたくさん作りました。また、餅やまんじゅうをよく作りましたが、それらに入れるあんこは風味があっておいしいソラマメを使いました。アズキはあまり作りませんでした。タマネギは、10月に植えて、翌年の5~6月に収穫しました。保存して、肉じゃが・小魚と三杯酢(さんばいず)・サラダ・薬味などに使いました。特に、肉じゃがに使うタマネギの甘くほろりとさせる味は、料理に欠かせない脇役(わきやく)として忘れられません。
 ネギは、年間3~4回の連作が可能でしかも収穫が多い野菜として大切に栽培しました。球根から育てるワケギを使ってぬた料理(写真3-2-12参照)を作ることが楽しみでした。ワケギ以外にも、春のやわらかい九条ネギやタマネギを使うこともありましたが、それにこんにゃく、かまぼこ、いりこ、味噌とそのころよく取れたタニシを入れておいしく食べたことも懐かしい思い出です。ネギは生長し花と実をつけます。実の中の黒い種を取って畑に蒔(ま)いて新しいネギを作るのですが、手入れや収穫にこまめな作業が必要で苦労もありました。休む機会の少ない農家にとって田休みは最大の楽しみであり、かしわ餅やちらしずしのご馳走を作りました。また、伊予市の新川(しんかわ)や松山市の梅津寺(ばいしんじ)へ海水浴に行くのも楽しみの一つでした。」

写真3-2-10 実り豊かな裸麦

写真3-2-10 実り豊かな裸麦

重信町田窪。平成15年5月撮影

写真3-2-11 どじょう汁

写真3-2-11 どじょう汁

重信町志津川。平成15年8月撮影

写真3-2-12 ぬた料理

写真3-2-12 ぬた料理

松前町北黒田。平成15年6月撮影