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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)海の恵みと島の味

 ア 島しょ部のくらし

 宮窪町は「石と魚とみかんの町」といわれ、温暖な気候に恵まれて傾斜地では柑橘類が栽培されている。また、燧灘(ひうちなだ)に面した静かな内海は魚介類の宝庫であり、水産業が盛んである。しかし、船曳き網の友浦(とものうら)地区を除いては零細な一本釣りと延縄(はえなわ)によるタイ・フグなどの高級魚の釣漁業が中心となっている。優れた材質で有名な大島石の採掘は約400年の歴史を持ち、古くから墓石をはじめ国会議事堂や赤坂離宮などの各種建造物に使用されてきた。
 宮窪町宮窪地区で生まれ育った**さん(大正12年生まれ)と、今治市から宮窪町余所国(よそくに)地区に嫁いできた**さん(昭和3年生まれ)に島での生活の移り変わりや食事情について聞いた。
 「子どものころは、毎日学校から帰ると畑の仕事や草刈り、風呂焚(た)き、炊事の手伝いなどで勉強は全然できませんでした。風呂は五右衛門風呂(かまどの上に直接据えられた鉄製の風呂)で、井戸と離れているために、つるべ(井戸の水をくみ上げるための縄や竿の先につけた桶)で水をくみ、バケツで運ばなければならず、非常に辛(つら)かったのを思い出します。しかし風呂は毎晩は沸かさず、もらい風呂が普通でした。
 日常の食事では、朝食はご飯と味噌汁、たくあんなどで、たくあんはいくつもの4斗(約72ℓ)樽に漬けて1年中食べていました。昼食はうどんやそば、団子汁をよく作りました。うどんは石臼でひいた小麦粉を練って筵(むしろ)の間に挟(はさ)み、足で踏んでこしを強くした後、麺棒(めんぼう)で広く伸ばして作りました。夕食はご飯に自家製の豆腐、野菜の煮物、煮しめ、イワシやサバの焼き魚や煮付けなどでした。イワシやサバ・エビ・セトガイなどの魚介類は豊富にありました。魚は農作物や卵と物々交換で手に入れましたが、アコウ(キジハタ)やホゴなどの白身の魚がある時はさつまをよく作りました。秋には、マツタケ・シメジ・ヌメタケ・チャタケなどを採って、炊き込みを作ってもらいました。また、父親は家族より毎日おかずが1、2品多く付きましたが、子どもたちにも少しずつ分けてくれました。
 特別な日には、餅を搗き、すしを作り、タイの刺身、ホゴやメバルの煮付け、焼き物、豆腐、こんにゃくの煮物などご馳走を作りました。また、鶏肉やゴボウ・ニンジン・ネギ・豆腐・こんにゃくなどを使ってぼっかけ汁を作ったり、ウサギの肉ですき焼きもしました。
 食事の回数は、夏は日が長いために、午後3時ころにお番茶を食べていましたので1日4回、他の季節は3回でした。調理は山へ薪やおろ(枯れ枝)を採りに行き、くどで煮炊きしました。
 保存食には、たくあん、らっきょう漬け、梅干しなどを作りました。ワカメ・ヒジキ・イギス・テングサ・アオサなどの海藻は多く採れましたので、乾燥して保存し、テングサからは羊羹(ようかん)やところてんを作りました。魚は干したり焼いて保存しました。おやつは、はったい粉・蒸かしいも・あられ・炒ったソラマメ・ちまき・あべかわ・ながし焼き・焼き餅などでした。」
 「青いレモンの島」のキャッチフレーズで知られる岩城村は、瀬戸内海の芸予(げいよ)諸島(広島県と愛媛県の間の島々)に属し、豊かな自然と美しい海に囲まれ、レモンやミカン、イヨカンなどの柑橘栽培が盛んである。代表的な産業である造船業は、現在造船不況の試練に直面している。「芋菓子のイワギ」と言われた芋菓子製造は、昭和30年代が黄金期で盛況を誇ったが、現在では二業者を残すのみである。
 現在、トマトやキュウリ、レモンなどをビニールハウスで栽培している**さん(岩城村小漕(おこぎ) 昭和14年生まれ)に、この島のくらしや食について聞いた。
 「私は昭和14年(1939年)に広島県因島市で生まれました。当時、父は地元にある造船工場で工員として働いていましたが、大怪我(けが)をして勤務ができなくなり、6歳の時父の故郷である岩城村に引っ越して来ました。ちょうど戦中から戦後にかけての苦しい時代で、昼間の農作業のかたわら夜間には父は電灯の代わりのろうそく作り、母は草履作りをしていました。私も小学生のころ草履作りを手伝わされ、学校から帰るとわら叩(だた)きが日課でした。当時通学の履物はわら草履で、各家庭では夜なべ仕事で作っていました。草履作りのほかにいぐり(運搬用のわらの入れ物)やむしろ作りも教えてもらい手伝いましたが、相変わらず貧しい生活が続きました。
 その後、農業をしていても収入が少なく、生活が楽にならないため、父は島外の工場で働き始めました。そのため、畑仕事は母と子どもでやらなければならなくなりました。肥料は現在のような化学肥料ではなく、下肥(しもごえ)(人糞尿)や堆肥(たいひ)で、堆肥の原料はモバ(海藻)を竿(さお)で巻いて採らなければなりませんでした。下肥くみや堆肥づくりは重労働で、女性や子どもには大変でした。当時岩城島では麦やサツマイモ、ジョチュウギク(除虫菊)が主に栽培されていました。サツマイモを植えた間にはササゲやアズキをまき、収穫して現金収入としました。岩城村でのサツマイモの収穫量は他の農産物と比べて圧倒的に多く、昭和25年(1950年)の生産高は65万貫(約2,438t)でした。ちょうどこの年に岩城村長江(ながえ)にでんぷん工場が完成し、農家は競って出荷をしましたが、ミカン栽培が盛んになるにつれてサツマイモの生産量が激減し、昭和38年に工場は閉鎖されました。出荷できないくずいもは、洗った後にかんころ切りで輪切りにし、干してかんころとして売りました。かんころは粉にしていも団子を作ったり、かんころと麦にアズキを加えて炊いて食べました。
 日常の食事は、蒸かしいもや麦ご飯、野菜や漬物などでしたが、サツマイモは大きな釜でいっぱい蒸してお腹(なか)を満たしました。
 昭和35年に結婚し、昭和38年に畑と山を分けてもらって分家しましたが、農業での生活は依然として厳しいものでした。しかし、魚介類は夫が潜って金突きで突いたり、漁り火でバケツにいっぱいとったり、海岸で貝や穴ダコをとることができたので豊富に食べることができました。
 ちょうど当時は高度経済成長期で、周辺の農家は高収入が期待できる温州(うんしゅう)ミカンを盛んに新植していきました。私たちも後れを取るまいと必死で山を開墾しては畑を増やし、温州ミカンを植えました。岩城島は次第に島全体がサツマイモや麦の畑から柑橘畑に変わっていきました。」

 イ 漁師と魚料理

 漁業の盛んな宮窪町には、たい飯をはじめ、せとがい飯、でべら(写真3-1-19参照)、磯香(いそか)漬けなどの魚介類や海藻を使った郷土料理がある。
 『宮窪町誌』によると、「鯛(たい)は旧暦の八十八夜を中心とする新緑の頃(ころ)、群れをなして外洋から瀬戸内海に廻遊し、東部は紀淡(きたん)・鳴門(なると)の両海峡から内海に入り、西部は広島県豊田郡・御調(みつぎ)郡の島嶼(とうしょ)部の諸水道を抜けて、燧灘に集合する。東西両方面から瀬戸内海に入る鯛群は燧灘の中心、越智郡魚島(うおしま)付近の水面を産卵場として相当期間ここに滞留し、さらに順を追って去来するので、その漁期は八十八夜を中心として前後50日間に及ぶ。(⑮)」とある。
 たい漁は一本釣り、延縄(はえなわ)、たい網などで行った。
 セトガイは、潮流の速いところに生息し、宮窪町の特産物であった。成長すれば12~13cmほどになるが、大きいものは10mくらいは潜らないととれない。数百本の足糸で岩に付着しているため、ガンズメという鉄の手カギを使ってとる。漁期は11月から3月までの冬の間だけである。セトガイは開けるのが難しいために、持ち帰った貝を剥(む)き身にし、袋づめにして出荷する。シーズンになると、島の主婦はセトガイの殻取りで忙しく、夕食の準備の時間がないため、手近な材料を使って他におかずのいらないセトガイの炊き込みご飯を作るようになった。
 磯香漬けは、スルメイカやコンブ、ダイズ、ニンジン、ショウガを用い、酢、醬油、砂糖で味付けした後、カラシの入った油をかけて作る。保存食で、2~3日するとおいしく食べることができる。
 現在、一本釣りや底引き網漁に従事している宮窪町宮窪地区の**さん(昭和10年生まれ)と**さん(昭和7年生まれ)に話を聞いた。
 「子どものころに祖父や父親から綱の結び方や船の艪(ろ)の漕ぎ方、釣り道具の作り方、雲の流れや風の方向などに基づく天気の見方など多くのことを厳しく教えられ、泣きながらでも少しずつ体で覚えていきました。そのお陰で事故はほとんどなく、親と同様によく働きました。現在、船にはディーゼルエンジンが備え付けられていますが、昔は艪を漕いで主に宮窪湾や余所国(よそくに)沖の漁場で漁をしていました。宮窪湾は魚影が濃く、いろいろな種類の魚が数多く釣れました。父は延縄漁で主にタイを釣っていましたが、今治市桜井(さくらい)海岸からシャク(エビの一種)を買って帰り、延縄に付けて沈めておくと、一度にアコウが30匹くらい釣れることもありました。昭和25年(1950年)ころ手こぎ船から電気着火エンジン付きの船に変わりましたが、3尋(ひろ)3尺(じゃく)(約5.5m)の小さな船で速力は遅く、エンジンの性能も不安定で故障しがちでした。
 漁期には朝の暗い間にお茶を沸かし、前夜の残りご飯を食べ、午前3時ころに出港しました。エンジン付きの船になってからは岩城島や下弓削(しもゆげ)沖などのやや遠くの漁場まで出かけるようになりましたが、春から秋までの天気が良い日には、船にくどや薪、食料、水、布団などを積み込み、漁場でイカリを下ろして2・3日寝泊まりしました。釣った魚は活(い)け間(ま)(海水を入れて魚を生かしておく場所)で生かしておき、尾道(おのみち)からやって来る魚の仲買人に売るか、宮窪漁港まで帰り漁業組合に売りました。
 魚種はタイ・チヌ・アコウ・ホゴ・ギザミ・タモリ(セトダイ)・ハマチ・アジ・サバ・イカ・タコなど多種ですが、タモリやサバなどはだんだん少なくなってきました。しかし、以前あまりとれなかったイイダコが、近年は多く網にかかるようになり、また温暖化のためか、本来県の南予海域にいるはずの魚(グレ・ササノハベラなど)が釣れるようになり驚いています。宮窪町特産のセトガイは、子どものころには竿の先にクマデを縛りつけ、船の上から引っ掛けてとりましたが、そのうち潜水漁法に変わりました。しかし、当時宮窪町には潜水夫がいなかったため、漁業組合が徳島県から雇ってきました。船上で5人ほどが手押しポンプを押して空気を送り、潜水夫が道具をつけて20mほど潜ってとりましたが、売りさばけないくらいとれました。しかし現在は、乱獲や砂の汚れ、農薬、家庭排水などが原因と考えられるのですが、ほとんどとれなくなりました。
 漁師の人数は、かつては400人以上いましたが、現在(平成14年12月末)の組合員は372人です。
 荒天で出漁できない日は、道具作りや網の補修などをしっかりと行い、次の漁の準備にいそしみ、体を休めることはありませんでした。たこ釣り道具も糸をより合わせて作り、カキの渋を塗って強度を増しました。
 船上での食事は、船に持ち込んだくどでご飯を炊き、野菜は煮炊きや塩もみし、魚は煮付けや汁にしました。また釣りながらの食事のため、食器は使用せず鍋で煮たものをそのまま食べる“鍋食(なべぐ)い”が普通でした。
 日常の食事はサツマイモの入った麦飯と魚が中心で、魚は煮るか焼いて食べ、刺身にはあまりしませんでした。えび味噌は日持ちするのでショウガを入れて炊き、よく漁に持って行きました。釣った魚のうちフグ・エイ・グチ・エソ・タコ・イカなどの金にならないものは干物にして保存し、冬期の食材や正月の煮しめのだしに使用しました。
 10月10日の秋祭りには、すしやもぶり、餅、タイやチヌの刺身、アコウやホゴ、タモリの煮魚、ギザミやアジの焼き魚、煮たタコやイカ、煮しめなどの料理を作りました。しかし魚料理がほとんどで、肉はあまり使いませんでした。端午(たんご)の節句にはかしわ餅、お盆には団子を作りました。
 郷土料理であるせとがい飯は、現在も細々と残っており、ときおり潜水夫がとってくるので炊いて食べています。マコガレイは12月1日から3月31日までの期間が漁期ですが、漁獲量は昔より増えています。でべらはあぶって食べると非常に良い味がします。宮窪でとれるタイは身が引き締まり、たい飯にすると大変おいしいです。いぎす豆腐に使うイギスは磯へ行けばいくらでも採ることができます。」

 ウ 石工職人と石花汁

 大島石は、今治沖の大島の北部地域を中心に分布し、通常「青みかげ」と言われているが、正確な名称は花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)である。標準的な花崗岩と比較すると、有機鉱物および斜長石に富んでいる。この石の特徴は、灰黒色で細~中粒質であり、緻密(ちみつ)、堅硬(けんこう)である。特に細粒質のものは風化に強く、堅くて光沢が落ちにくく、変色しないという石材の三要素を備えている(⑮)。
 石花汁(せっかじる)(写真3-1-20参照)は、せっか場(採石場)で、男性が寒い時期に昼食として大鍋で作った料理である。焼いた石を鍋の中に入れたとき、ブクブクと噴きあがった様子がまるで花が咲いたように見えるので、この名前がついたとも言われている。石を入れるといつまでも温かく保温効果が高い。
 長年採石の経営にあたってきた**さん(宮窪町余所国 昭和13年生まれ)に石工(いしく)職人のくらしやせっか場での食事などについて聞いた。
 「採石は昭和40年(1965年)ころまでは、山でふいご(送風器)を吹いてコークスでノミを焼き、それを使って数箇所穴をあけた後セリガネで挟(はさ)み、ハンマーで叩(たた)いて割っていました。また大きい石を採取する時は火薬を使用していました。石は叉木(またぎ)(木の車輪がついた台車)に載せて下に引きおろしました。昭和40年代には機械化が進み、削岩機(さくがんき)やチュービングハンマー、ジェットバーナー(切削機)などが使用され始めました(⑮)。また、昭和45年ころまでは採石場までの道路がないため、石工職人は山の丁場(ちょうば)小屋(仕事をする小屋)に寝泊りして仕事をしていました。そのため毎日食事を作って食べさせましたが、道路が出来てからは山で寝泊りする者はいなくなりました。
 昭和58年までは主人と石工職人7、8人とともに山に行き、昼食時に石花汁を作りました。大鍋に豚肉・鶏肉・セトガイ・こんにゃくなどとともにサトイモ・ダイコン・ニンジン・ゴボウ・ネギ・シイタケなどの季節の野菜、乾燥うどんを入れて自在(自在かぎ)にかけて炊きました。こんにゃくとサトイモは必ず使用しましたが、こんにゃくは“砂下ろし”と言って石工職人には欠かせませんでした。あつあつの鍋を囲みたくさん食べると、寒いせっか場で冷えた体が温まり仕事に精が出ました。しかし、石花汁は冬の料理であるため、他の季節にはうどん汁やそうめん汁、その他の汁物、おかずなどを作りました。現在は業者の弁当を食べさせております。」

写真3-1-19 でべら(干したマコガレイ)

写真3-1-19 でべら(干したマコガレイ)

宮窪町宮窪。平成15年12月撮影

写真3-1-20 石花汁

写真3-1-20 石花汁

宮窪町余所国。平成15年12月撮影