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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)新しい年を迎えて②

 一方、朝立地区の**さんは、「昭和30年代には、まだ柑橘類は少なく、サツマイモと麦が中心で、主食は押し麦に米を混ぜた麦飯でしたが、昭和35、6年(1960、61年)から40年にかけて米飯になりました。」と話す。
 次いで、下泊地区の正月の行事と食について聞いた。「大正月は漁・農業など生業の関係から、新暦の2月にあたる旧暦(きゅうれき)の正月を祝う慣習が昭和44、5年(1969、70年)ころまで続きました。大寒(だいかん)のころで、正月餅のほか、かき餅やあられなどの保存用も含め大量の餅を1日かかって搗きました。雑煮は、白の丸餅にいりこだしの醬油味で、具はネギとシュンギクだけでしたが、家によってはサトイモの子イモ・ダイコン・ゴボウ・豆腐を入れていました。ここでは、男は漁に出るので外の仕事、女は畑と家の仕事と分かれていて、雑煮は女が作ります。歳(とし)(大晦日(おおみそか))の夜、子どもたちが新しい提灯(ちょうちん)を持って『チンチンカラリンオッパシイ』と言いながら、地区内や小学校の運動場を回って家に戻ると、親は『福の神を背負って帰った、金の玉が舞い込んだ。』と言って喜び、正月用の煮しめを食べさせてくれました。下泊地区では、今でも門松や注連縄は各家で飾り、歳徳棚を天井から吊るし、三方(さんぽう)に供物を供え、正月の神を迎える昔ながらの行事を続けています。
 おせち料理は、お重を使わず大皿(丸鉢)に盛りますが、煮しめ・刺身・酢の物は、それぞれ別々の大皿に盛ります。煮しめは、子イモ・ダイコン・レンコン・ゴボウ・ニンジン・ウズラマメなどの根菜類のほか、こんにゃく、豆腐やこんぶを使います。刺身(さしみ)はハマチ、酢の物は白身の魚とカブです。数の子は乾燥したもので、田作りは普通のいりこよりやや大き目のものです。」
 一方、朝立地区(写真2-1-5参照)の正月の行事と食について、**さんに聞いた。「下泊地区では女性が雑煮を作ると聞きますが、かつて吉田藩領だった朝立地区では、若水汲みや雑煮を作るのは男の仕事です。雑煮は餡(あん)なしの丸餅(オチョキリという。)で醬油味、具はネギとシュンギクだけです。正月餅と合わせてヨモギやサツマイモの入ったこね餅など多種多様の餅を搗きました。さらに、水餅やかき餅、あられなどの保存用の餅もあったので、大勢で一日がかりで搗いたものです。おせち料理は、大皿の鉢盛りで、魚は刺身や煮魚など豊富に使っていました。酢の物の魚はアマギやイカ、数の子は乾燥した塩ものでしたが、これまた豊富でした。昭和30年代、三瓶のさば船は全国各地の港に漁獲物を降ろした後、全国の珍しい産物を満載して帰港しておりました。その当時、三瓶の漁業は盛んで、カジキマグロを突き棒で仕留(しと)める豪快な漁業もありました。」
 この地域では、正月行事の習俗が時代とともに簡素化されたとはいえ、その多くが現在も継承され、古い仕来(しきた)りや食の伝承が息づいている。

 イ 餅のないお正月

 (ア)餅なし正月とは

 餅(もち)なし正月とは、正月の雑煮に餅を入れない、餅の代わりに別のものを食べる食習伝承である。餅なし正月について、民俗学研究者の森正史氏は、「正月といえば餅がつきものになっているのに、それをあえて他の一般的風習に習うまいとしたのは、一族なり一村なりで、いかに正月を謹厳(きんげん)な心持ちで迎え祭ったかを窺(うかが)うに足るものである。(⑥)」と記している。
 また、餅の代わりに何を食べるのかについて、民俗学研究者の安室知氏は、「特に多用されているのは、里芋(さといも)と山芋になっているのであるが、愛媛県では里芋であるのが注目される。里芋は九州、四国から関東に及んでいて、東北地方にはその事例がないのである。これに対して山芋は全国的に分布するが、四国では認められない。(⑦)」と記している。
 『愛媛県史 民俗下』は、「餅なし正月は全国的に分布する伝承であるが、愛媛県はその事例の多い方である。」と記し、さらに「本県の餅なし正月は逆に言えば里芋および団子の雑煮を祝う習俗ということなのである。(中略)すなわち、餅なし正月とは芋正月・芋雑煮の民俗ということになるのである。なお、この民俗の文化的背景を推察すると、水稲栽培以前の日本に芋という畑作栽培とその儀礼があったことを考えさせるのである。(⑧)」と指摘している。
 『愛媛県史 民俗下』と『愛媛の民俗』に記載された、県下の餅なし正月の事例をみると、東予(とうよ)地域(県の東部)20、中予(ちゅうよ)地域(県の中部)5、南予(なんよ)地域(県の南部)3、県下で合せて28の事例となる。それを形態ごとに分類すると図表2-1-4のようになる。なお、市町村別では新宮(しんぐう)村6、西条(さいじょう)市5、土居(どい)町4、北条(ほうじょう)市2、その他各1となり、これらの大部分は東・中予地域の水田に乏しい山間地域ということができよう。

 (イ)餅なし正月の事例

 県下の餅なし正月の事例として宇摩(うま)郡土居町北野(きたの)・上野(うえの)地区並びに西条市荒川(あらかわ)地区を取り上げる。

   a 土居町の事例

 土居町は県の東部、宇摩平野の西端に位置する。宇摩地方特有のやまじ風(*2)のため、サトイモやツクネイモ(ヤマノイモの一種)の生産が多く、米作や柑橘栽培も盛んである。北野地区は町の西部に位置し、上(かみ)・中(なか)・下(しも)の3地区に分かれ、「餅なし正月」の家例(かれい)(その家に代々伝わる仕来(しきた)り)を守ってきた人々は下北野に住んでいる。戦後しばらくの間まで、長年正月の餅を搗かないで、餅代わりにサトイモを使った正月の雑煮を食べてきたという。
 下北野地区の**さん(昭和2年生まれ)に、餅なし正月について聞いた。
 「正月は餅を搗(つ)きませんでした。正月の雑煮は作りますが餅を入れませんでした。雑煮に入れるのは、田イモ(サトイモ)の子イモと豆腐だけです。年が明け7日過ぎに“若餅”といって餅を搗きます。それから先は、餅を雑煮にしようと何にしようと自由です。**家では餅代わりの子イモと豆腐の雑煮を神様にも供え、家族みんなで食べました。子どもの時、親や親戚(しんせき)の者に餅を搗かない、雑煮に餅を入れない理由を聞きましたが、知らないのか誰(だれ)も答えてくれませんでした。ただ私の家では親が、『餅を雑煮に入れたらいかん習わしになっている。』とだけ言いました。そのわけを聞くと『家例だから。』と言い、教えてもらえなかったので今もはっきりと分かりません。門松を立てたり、注連飾りをすることもしませんでした。餅の代わりに太芋(たいも)(大きい田イモ)を雑煮として神々にまつり、家の者一同がそれを頂くのが習わしで、田イモのことを正月だけ特別に“太望(たいもう)”と呼んでいました。三方(さんぼう)に米1升(約1.8ℓ、約1.5kg)、サトイモの親一つ、子イモ五つを載せて床(とこ)の間(ま)に供えました。しかし、太平洋戦争後間もなく、この風習は一変し、一部で正月に餅を搗き始めました。『戦争に負けたし、旧体制は崩壊したので時代が変わった。』また、若い連中が『そんなに古くさいこと言っても始まらん、新しく変えよう。』という風潮に逆らえなかったのです。私の家でも戦後間もないころから正月に餅を搗くようになりました。年配の人は、伝統を変えることに強く反対し、家ごとにバラバラでしたが、この地区では今はみな正月に餅をつくようになりました。」
 現在も、正月の餅を搗かないところが、関川上流の土居町上野地区に残っている。その内の一つ西内(にしうち)地区の**さん(大正15年生まれ)に話を聞いた。
 「西内にはかつて7軒ありましたが、今は6軒です。どの家も長年の家例を守り、現在も餅を搗いていません。私の家では、以前から正月の餅は親戚で搗いたものを年末にもらっています。この餅は年末の31日までに食べてしまうか、食べ残したものは1月11日以降でないと食べてはいけないのです。正月には餅を搗きませんが、11日に餅を搗いて、もらったところにお返しをする仕来りになっています。正月三が日の雑煮はいも雑煮(写真2-1-6参照)で、男が作ります。雑煮は醬油味(しょうゆあじ)で、具はサトイモの子イモと豆腐だけです。正月三が日と1月の7、15、21日は神棚と仏壇にイモ雑煮をお供えし、残りをみんなで食べます。
 私の家ではキュウリも作ったり、食べてはいけないと言われ、最近までその家例を守っていました。私が農協の役員をしていた7年くらい前から、キュウリは収入になるということで作り始め、家族で食べていますが、心配していた祟(たた)りなどはありません。なぜ、作ったり食べてはいけないのか、いまだに分かりませんが、近年まで私方では家例として、長年伝承され脈々と受け継がれてきました。しかし、近所には現在もキュウリを作ってない家もあります。」
 さらに、新居浜(にいはま)市寄りの道ノ下(みちのした)地区の**さん(大正12年生まれ)と**さん(大正15年生まれ)夫妻にも、餅なし正月について聞いた。
 「現在も正月に餅を搗かないし、食べません。年末に親戚が餅を持ってきます。この餅は暮れまでに食べてしまうか15日以降に食べます。注連縄をした後は、もう食べません。雑煮は作りますが餅は入れません(口絵参照)。湯がいて4つか6つに切った田イモと豆腐だけの簡素な雑煮です。これが正月三が日続きます。神様には田イモと豆腐を一切れ、いりこ一対(2匹)を添えてまつりますが、仏様にはいりこは付けません。1月15日が過ぎた初午(はつうま)に餅搗きをして、年末にもらったところにお返しをする慣習が今も続いています。餅を搗く前には必ず頭付(かしらつ)きのいりこを火に焙(あぶ)り、それを食べてから搗きます。さらに1月の7、15、21日の朝の煮炊きは正月と同じで男がする仕来りになっています。餅なし正月の由来や伝承については、特に聞いていませんが、『正月に餅は食べん、食べると幸せが悪くなり不幸になる。』とか、『餅を搗くと臼(うす)や杵(きね)が飛んでいく。』と祖母から聞いたことがあります。戦後、代(だい)が変わってから正月の習俗が様変わりしました。しかしながら、私の家では今も家例を守り、『餅なし正月』の伝統を守っています。」

   b 西条市の事例

 加茂(かも)川支流谷川流域の山間部にある西条(さいじょう)市荒川(あらかわ)地区は、加茂地区の中心集落で谷川に沿って西条市と高知県を結ぶ国道194号が通り、かつては河ヶ平(こがなる)集落に加茂小学校があった。ところが、10年余り前にこの小学校も廃校になるなど、挙家離村(きょかりそん)(生まれ育った村を一家全員が離れること)による人口減少が著しい地域の一つである。
 河ヶ平地区(写真2-1-7参照)の**さん(大正8年生まれ)は、『伊予の民俗』の「お正月に餅を搗かない風習の記」の中で、次のように記している。
 「私の住む西条市加茂地区には『餅を搗くと杵が飛ぶ』、『餅を搗くとこしき(せいろ)が飛ぶ』と言う古言(こげん)(昔の諺(ことわざ))の云い伝えがあり、お正月にはお餅を搗かない風習がありました。『うわもり』の団子(だんご)を作って神仏のお供えにしたり、焼いて食べたり、お雑煮にしたりしてお正月を祝っていました。『うわもり』は粳米(うるちまい)(普通米)7割と糯(もち)米(もち米)3割の割合で挽(ひ)いた粉をねって、丸めて蒸(む)した団子です。
 餅を搗かない風習の由来は、大別して水田の少ない地区に風習があったようです。ちなみにこの風習のあった地区は、荒川地区の全域で大平(おおなる)東・大平西・下分(しもぶん)・李(すもも)・八之川(はちのかわ)・河ヶ平上・河ヶ平下と藤之石(ふじのいし)地区の本郷(ほんごう)と水無(みずなし)の一部です。(⑨)」
 今回の聞き取り調査で**さんは、「かつては藤之石地区にはいる吉居(よしい)地区にも餅なし正月がありました。この吉居は『うわもり』もせず、田イモの親イモを餅の代わりにしました。河ヶ平では『うわもり』と言って、米粉を丸めて蒸して作った団子を餅の代わりにしました。現在でも大平のある家では『うわもり』で正月を迎えています。 
 私の家は分家なので主人の希望で終戦前から『うわもり』と『お餅』の2本立てでした。神様のお供えは『うわもり』です。お雑煮はいりこだしのすまし汁、中味は『うわもり』とサトイモと豆腐。仏様には『うわもり』とサトイモを重箱に詰めて供え、三が日の間は仏壇を閉めて拝みませんでした。終戦後の一時期、神様に供えるのはいりこだしの『うわもり』と田イモと豆腐の雑煮でしたが、昭和24、5年(1949、50年)ころは正月の餅を搗きました。現在は餅と子イモと豆腐だけの雑煮です。」と語る。


*2:やまじ風 宇摩地域特有の局地風で、しばしば家屋や農作物に大きな被害をもたらす。

写真2-1-5 三瓶湾から見た朝立地区

写真2-1-5 三瓶湾から見た朝立地区

平成15年10月撮影

図表2-1-4 愛媛県内の餅なし正月の事例

図表2-1-4 愛媛県内の餅なし正月の事例

『愛媛県史 民俗下(⑧)』と『愛媛の民俗(⑥)』に記載された餅なし正月の事例を集計したもの。

写真2-1-6 餅なし正月の膳といも雑煮

写真2-1-6 餅なし正月の膳といも雑煮

土居町上野。**さん宅。平成16年1月撮影

写真2-1-7 加茂川の支流谷川と河ヶ平(こがなる)集落

写真2-1-7 加茂川の支流谷川と河ヶ平(こがなる)集落

平成15年6月撮影