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遍路のこころ(平成14年度)

(2)若者の遍路体験とそれへの思い

 高校・短期大学で遍路体験を学校行事として実施している事例がある。ここでは和歌山県の高野山高校と愛媛県立大島高校、それに愛媛県今治市の今治明徳短期大学の体験学習を取り上げてみる。

 ア 高野山高校の試み

 和歌山県伊都郡高野町にある高野山高校宗教科では、1年生が毎年10月ころに、四国遍路体験を実施している。平成13年は17人が参加した。宗教科という特異な学科だけに、生徒は僧侶を目指す者が多く、弘法大師ゆかりの高野山ということもあっての四国遍路体験である。
 『平成13年度宗教科1年生四国遍路要項』によると、その目的は「宗祖弘法大師が青年時代に修行された道を追体験して、心身の練成に努め、そのよろこびを共に分かち合うこと」とある。期日は、平成13年10月12日高野山出発、16日高野山帰着の4泊5日。また、実質的な遍路体験は13日から15日の3日間、一番霊山寺から十二番焼山寺までの約50kmである。
 この3日間は5時半起床、朝の勤行(ごんぎょう)を済ませて午前7時~7時45分出発、午後1時半~2時到着、午後6時からのミーティングの後、午後9時半就寝予定の歩き遍路である。これは高校1年生という年齢、僧侶への道という宗教的修行を意識して計画がなされたものである。実際に遍路した生徒たちの感想が、新聞『高野山教法』1285号に掲載されている。そのいくつかを抜粋する。

   ○ 一番疲れたのは三日目の藤井寺から焼山寺までの山越えだった。足が棒のようになりながらも何とか目的地に着くこ
    とができた。お遍路に行ってよかったなと思ったことは、お大師様と同じ道を歩けたことと、もう一つは他の遍路して
    いるお年寄りの人などに励ましの言葉などを掛けてもらった時だった。自分のなかで少し大きくなれたような気がし
    た。また四国でお遍路をしたいと思う。
   ○ 四国遍路にいって、改めて自分の体力のなさと、根性のなさを知りました。一番初めの寺に泊まった時、こんなのは
    すぐ終わると思っていましたが、あんなに厳しいものだとは思いませんでした。でも「がんばってね」とか、いろんな
    人の励ましの声が聞こえてきて、そのたびに力がわいてきました。皆さんのお声には、大変助けていただきました。
   ○ 中学3年生の時、親父がぼくにこんなことを言った。「自分の夢は四国遍路に行くことや」そして今回、親父より先
    に自分が四国遍路に行くことになった。親父の夢の場所、お四国とはどんな場所なのか、期待と不安と緊張のすべてが
    入り交じっていた。
     歩く初日は一番霊山寺から六番安楽寺まで、二日目は六番安楽寺から十一番藤井寺まで、この二日間は距離は長かっ
    たが、きつい登り坂もなく自分の出せる力で一生懸命歩いた。歩く最終日十一番藤井寺から十二番焼山寺まで、この日
    は一番心に残る日となった。
     藤井寺から焼山寺までは山を二つ越え、ほとんどが山道で歩きづらく、きつい登り坂があり四国遍路の中でも難所と
    言われており、高校生のぼくでも大変苦しかったのを覚えています。その道中、一本杉という場所で休憩しました。そ
    の時、ある中年の女性に出会いました。その方は、自分はガンであると話して下さいました。そして、もう少し時間を
    下さいと、お大師さまにお願いしながら歩いているのだと言われました。その話を聞いて、足が痛いなどと言っている
    ことが、申し訳なく思いました。自分よりも苦労している人や、辛い思いをしている人がいることを知り、頑張ろうと
    いう気持ちが強くなりました。そして、焼山寺に着いたときは、歩き終えたという気持ちで心が晴れ晴れしていまし
    た。焼山寺に着くと願い事を一つしようと、四国遍路に行く前から決めていました。しかし、そのときの気持ちは、
    「一本杉で出会ったおばさんの病気が少しでも良くなりますように」そんな気持ちになりました。自分の願いごとは、
    もう一度四国遍路に挑戦しようと思っているので、その時にしたいと思っています。その時は、自分が一番尊敬する親
    父と一緒に歩きたいと思います。

 これらは、僧侶への道を歩もうとする高校生のものである。お大師さんの御跡(みあと)を慕い、修行の一環としての遍路体験かもしれないが、それだけではない、若者のみずみずしい感性でとらえた遍路道風景がある。厳しさを教える道、人と人との触れ合いの喜びを身にしみて感じ取る道、苦しさの中で他人への思いやりをふと抱く道、そうした遍路道の素晴らしさを実感として受け止めているように思う。

 イ 大島高校の「島四国ウォーク」体験-郷土理解と地域とのふれあいを求めて-

 (ア)初期の「島四国ウォーク」

 今治市の沖合い、フェリーで30分ほどの所に、西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ街道)が通じている大島がある。大島は越智郡吉海町と同宮窪町からなり、ここには200年ほど前(文化4年〔1807年〕)に開創された「島四国」というミニ霊場がある。吉海町にある愛媛県立大島高校が「島四国ウォーク」を学校行事として取り入れたのは平成4年、今年(平成14年)で11回目を迎えた。
 「島四国ウォーク」誕生の責任者の一人、現在今治西高校勤務の**さん(昭和26年生まれ)は、「当時、生徒数は減少しており、沈滞ムードを何とか活性化するためにも、生徒が何か感動するような体験はないか、それに生徒たちに地域と触れ合う体験を通して自分たちの地域を見直し、再発見し、地域を身近に感じ取らせるようなものはないかと模索していました。あれこれ考えた結果、190年も続いている大島独自の伝統行事である『島四国』を活用してお遍路さんと一緒に歩く体験はどうか、それこそが地域再認識へつながり、生きた学習になるのではないかと考えました。」と言う。
 当初の計画では、大島を3分割して、3年間在籍中に一周するというもので、1年目は各お寺の納経印に当たるお寺のスタンプを押す冊子を作り、一種のスタンプラリー形式だったという。大島の島四国では、札所ごとのスタンプ押印は、当時100円ずつ必要だったが、霊場関係者や地域の役員で構成する「大島島四国」準備の総会へ出向いて、高校生の「島四国ウォーク」実施について相談すると「生徒さんがやると言うなら、喜んで札所の判は押しますよ、心配なくやってください。お金は要りません。」と言われ、地域の世話役の方たちも「頑張ってやってよ。」と快く応援してくれることになった。「1年1回ですが、どの年も約20km足らずの距離だったと思います。職員も一緒に歩きました。」と懐かしそうに語る。
 もう一人の当時の関係者、現在今治南高校勤務の**さん(昭和25年生まれ)によると、「家庭クラブ」(当時の高校家庭科を学ぶ女子生徒全員が活動した組織)のお接待行事を経験した生徒が、「お接待で迎えるだけではなく、できたら、一度でも良いから島四国を是非歩いてみたい。」と書いた感想もあり、そうした生徒の思いも「島四国ウォーク」を始めるきっかけになったという。そして、「実際に『島四国ウォーク』を始めてみると、地域の中でお遍路さんと同じルートをたどりながら、次の札所、次の札所と目標があって、それを一つずつ踏破して、その目標が一つずつ成就されていくという達成感もあったようです。それと一緒に、お遍路さんとすれ違うごとにあいさつが返ってくる。地域の人からは『大島高校の生徒さんか、がんばれよ。』と励まされたと語る生徒もいました。そんなわけで、地域へ溶け込めるという収穫もあったと思います。こうした体験学習は学校で一日勉強するのとは別の、あるいはそれ以上の意味があるようにも思いました。」と語る。二人の指導者からは共に、「できれば、この行事は大島高校の誇れる行事として続けてほしいと今も思っています」との言葉が聞かれた。
 この行事は、第3回までは、スタンプを霊場のものから学校独自のものに変えるなど「様々な変動があったが、第4回(平成7年度)を実施するに当たり、方法の全面見直しを行い、現在の形に整った。」という(㉙)。
 一方、大島高校のお接待は、学校のすぐそばの遍路道沿いにテントを張り、家庭科の時間や放課後に作った600人分ほどの手作りの水羊羹(ようかん)やお茶の接待をしてきたものである。当初は桜餅(もち)を作ったりもしたという。当時の家庭科担当の**さんによると、昭和61年度に「第1回地域生活文化研究発表大会」の研究指定校を受けたのがきっかけで、女子生徒全員の家庭クラブ員による学校ホームプロジェクトとして1年間取り組んだのが最初だったという。62年度にその取り組みを発表し、愛媛県教育長賞を得ている。この「お接待」は、最初は女生徒のみであったが、今は男女共にかかわり、学校あげての行事として現在まで17年間、お遍路さんに喜ばれながら受け継がれている。

 (イ)現在の「島四国ウォーク」

 今年も11年目の「島四国ウォーク」と17年目の「お接待」は実施された。これについて担当の教諭**さん(昭和50年生まれ)は次のように話す。
 「3年間で30ポイントの札所を指定して、そこで、生徒に持たせた冊子に大島高校独自のスタンプを押していきます。札所の説明は70か所ほど入れていますが、必ずしも全部の札所を回っているとは限りません。でも順番に回るようになっていますから、30か所のスタンプを全部押して回ると大島一周のウォークということになります。島四国の全行程を踏破すると63kmといわれています。毎年の本校の行程は17km~18kmですので、普段歩き慣れていない生徒、特に女子の生徒などは『しんどい』を連発しているようですが、やり終えた時には『やった!』と叫んだり、疲労なのか、やり終えた喜びなのか涙する生徒もいます。そう快感とか達成感もあるんでしょうね。
 出発前には、一応ホームルームで『島四国』の由来の説明(生徒に持たせる島四国ウォークの冊子に、開創者の毛利玄得、島四国の始まりなどが『島四国八十八ヶ所豆知識』として2ページ記載されている。)や島四国ウォークの計画・班編成・諸注意等を含めて1時間くらい時間を取りますが、四国八十八ヶ所やお遍路さんについては特別な説明はしません。
 生徒は『島四国』を歩くことによって、見知らぬ人とあいさつを自然に交わしたり、笑顔で言葉かけを受けたりしながら、地域の人々や島外の遍路びととも温かい触れ合いを感じているのかもしれません。また、生徒たちはこの行事を通して島全体を見直してもいるようです。細道の古い海岸線を普段にわざわざ歩くような生徒はいませんから、ゆっくり歩くことによって海岸からの景色の素晴らしさに出会えてよかったといった感想もあります。幸いに、伝統的な地元の行事島四国にかかわることで、今までとは別な観点で改めて地元を見直すという地域の再発見になってもいます。」
 同校校長の**さん(昭和21年生まれ)も、地域の人との触れ合いについては、「地域の人たちには生徒たちをお遍路さんとして迎えてくれる温かさがあります。生徒には自分が遍路という意識は無いかもしれませんが、遍路道を歩くことによる触れ合いは肌で感じているようです。」と、遍路道が人と人を結ぶ力を持っているのではと語っている。

 (ウ)「島四国ウォーク」を終えて

 大島高校での「島四国ウォーク」のスタートは、地域の伝統行事である島四国を取り入れることで、生徒の活性化、地域理解、地元の人々との触れ合いなどを期待したものである。そこには学校教育としての期待や願いがある。次の各文は、大島高校提供の資料のうち、島四国ウォークを体験した生徒の感想文からの抜粋である。

   ○ お遍路さんは、昔ながらに歩いていた人もいたけど、車で回っている人も結構いた。ナンバープレートを見ている
    と、中には北海道から来ている人もいてびっくりした。島四国遍路は全国的にも知られているのかと思って意外だっ
    た。(2年生 女子)
   ○ 最初の方は、楽しくて、元気もありましたが、山道に入ってからはみんなどんどんばてていきました。あちこちで
    「たいぎい」とか「もうやめようやあ」と言った声が聞こえます。ちなみに僕もそう思っていましたが、それでもぼち
    ぼち歩いていました。千年松という民宿を過ぎると最大の難所です。そこはまさしくがけっぷちという言葉がふさわし
    いような場所でした。ひたすら山道を進んで行きます。本当に止めたいと思いました。それでも1.7kmの山道を通り
    抜けたときの、目の前に広がった瀬戸内海の美しさには感動しました。しまなみ海道の来島大橋が最高にきれいでし
    た。それを見たときに、疲れもどこかへ飛んでしまいました。しんどいことも多い「島四国ウォーク」でしたが、感動
    も大きかった。(2年生 男子)
   ○ 私はいつもフェリーとバスを乗りついで、学校へ通学しています。いつもはフェリーもバスも通勤の方が数名いるく
    らいですが、今日は白い遍路装束を身にまとい、杖(つえ)を持ったお遍路さんが大勢利用されていました。今日は、私
    たちもこのお遍路さんたちと一緒に島四国を回る「島四国ウォーク」の日です。歩いていると「自由にお取りくださ
    い」と書かれた札の下にミカンが山積みになって置かれてありました。坂道を歩いてきた私たちには、甘くてのどの渇
    きをいやしてくれる、とても有り難いお接待でした。また、各接待所ではお茶やお菓子の接待をしていただいたり、
    「島高生かな、よう頑張りよるのう。」などと優しく声をかけていただきました。
     みかん畑や竹やぶの小道や潮風が香る海岸の道、新緑に覆われた草木の生い茂る山道を歩いたりしましたが、気持ち
    は晴れ晴れしたそう快感が残った一日でした。(3年生 女子)
   ○ 私は初めて島四国ウォークに参加しました。最初はいやだなーと思ったけど、札所を一つずつ巡りながら友達とお
    しゃべりしているうちにだんだん楽しくなりました。特に景色がきれいかった。途中でお遍路さんと出会いました。ほ
    とんどがおばあちゃん、おじいちゃんでしたが、その顔はすごく輝いていたような気がします。あー、みんないい顔で
    いいな。島四国巡りってこんな表情になるのかなと思ったりしました。(1年生 女子)
   ○ 途中でお遍路さんに「86番札所は何処にあるの。」と道を尋ねられました。ここからはだいぶ離れていましたが、
    今まで歩いてきた道を戻って教えてあげました。そうするとお遍路さんが金(きん)の札(ふだ)をくれました。「いつも
    財布に入れておいて下さい。本当に有り難う。」と言われました。なんだかすごくうれしくて元気がわいてきました。
    (3年生 男子)

 実施してみると、生徒にとって、一日約20kmの行程はかなりの負荷であるが、落伍者(らくごしゃ)はいない。それをやりきるだけの内在する力を若者は持っている。生徒自身もそれを実感する機会となっている。それ以上に、人々との触れ合いの温かさを感じたり、地域の自然の美しさを再発見したり、普段には気づかずにいる伝統の重みや、苦しさの裏側にある別の喜びを実感しているようである。

 ウ 今治明徳短期大学の歩き遍路体験学習

 今治市にある今治明徳短期大学は昨年度(平成13年度)から、全国で初めて「地域文化論-歩き遍路体験学習-」を2単位で開講し、7人の学生が五日間をかけて、四十五番岩屋寺から六十四番前神寺まで約160kmの歩き遍路体験に挑戦した。今年度は4単位に増加し、23人が歩き遍路を体験した。一番霊山寺から二十二番平等寺まで約134kmの行程である。この歩き遍路体験学習は、一昨年の今治市内5か寺間約20kmを、試験的に遍路体験した結果をふまえて、昨年度から実施しているものである。

 (ア)キーワードは自立性と共同性

 「歩き遍路体験学習」をなぜ始めたかについて、発案者の前学長**さん(大正11年生まれ)の在任中に話を聞いた。**さんは「人間らしく生きるということは、自立性と共同性という二つをキーワードとして生き抜くことではないか」と考えており、「長く苦しい遍路道を歩き抜くことで、自立心を養い、お互いが助け合い、触れ合い、励ましあいながら共同していくことの大切さを身につけてほしいとの思いからだった。」と言う。学生たちの手作りによる白衣の背中に、「南無大師遍照金剛」ではなく「生命・人間の尊厳の探求」と書き記したのも、「人間らしく生きるとはどういうことか、自立性と共同性ということを念頭において、生き方そのものを学生たちに考えてほしかったから。」と語る。

 (イ)歩き遍路体験学習の実践

 今年の参加は最終的には男子13人、女子10人(この中に57歳と61歳の二人の女性の社会人学生がいた。)の23人である。歩き遍路体験に参加できる資格は、事前に講義を受け、六十番横峰寺への「1日歩き体験」と今治市内6か寺巡りとを終了すること、それに「なぜ歩くのか」という800字ほどのレポートを提出することである。4泊5日の歩き遍路体験を終了してからも、最後に1,000字以上のレポートの提出が待っている。
 実際の遍路体験は、9月16日から20日までの5日間、一番霊山寺から二十二番平等寺までを踏破するものであった。標高約700mの焼山寺や約550mの鶴林寺への上り下りのあるコースである。
 この「地域文化論」講座の担当者である**さんは、この歩き遍路体験学習について「教職員の同行は毎日3、4人、それに昼食の運搬、搬送車の手配、場合によっては搬送した者の世話などのために教職員2人がサポートしていますが、体力差のある男女20人を超える人数で、しかも全員が初めての場所を、地図を片手に進むのは本当に難しいものです。学生の体調の状況によって搬送車に乗せるか否かの判断は教職員でやりますが、先導、休憩や昼食の場所の選択、途中での助け合いなどは全て学生に任せています。だから、私たちは学生がこの歩き遍路体験を完遂するための黒子に徹するようにしています。」と語る。あくまで学生の自立と共同ということを念頭に置いての実践であるという。この五日間を学生のレポートの抜粋や先生の話を中心につづってみた。
 1日目、「1番から10番まで、歩くのが本当につらかった。多分気持ちが遊びのつもりだったからだろう。」
 2日目、朝6時、雨の中を出発。10kmを2時間ほどかけて歩いた後の朝食のおにぎり、「こんなにうまい握り飯は初めてだ。」の言葉に実感がこもる。「足取りも徐々に重くなって行った。藤井寺から焼山寺へ上る階段はとてもきつく、上るにつれて頭の中が真っ白になってしまった。」、「遍路転がしという急坂で、とにかく山・山・山って感じ。この辺りからみんなペースダウンして、体調の悪い人、足を痛める人などが続出して、個人差はあるにしても、歩くことに必死だったと思う。」深閑とした山の中、通る者は学生たちだけである。もう極限状態に達した者もいる。その中で「大丈夫か。」、「もう一息だ、頑張ろう。」と声掛け合う者、あめを差し出す者、飲料水を差し出す者、自然に手を差し出して支える者たちの姿が各所で見られた。
 3日目、4時半起床、5時朝の勤行、朝食後6時出発。杖杉庵(じょうしんあん)(写真4-9)で一息入れた後、また延々と下り坂が続く。汗は出ない爪先(つまさき)が痛む。「十二番焼山寺から十七番井戸寺まで、そのうち、十三番の大日寺までは距離が長く果てしなく続くと思われた。足の痛みが限界に近い。そうなると身体的・精神的にもピークに達していた。」それでも、道々、「新聞に載ってた明徳短大の学生さんだね、頑張りよ。」と声を掛けられて「有り難う、頑張ります。」と笑顔で応えていく。
 4日目、「5日間で一番長い距離、36.2km。照り返す太陽とアスファルトの道、足の裏も痛くなっていた。」、「疲労もピークに達していました。そこへ最後が鶴林寺への上り。友達や先生の励ましでやっと最後までたどり着いたときにはうれしくて涙が出てきました。」
 5日目、この日は、お接待を受けることの感激、温かい人の心に触れた喜び、疲れ切った体力とは別に歩ききったという充足感、道中を支えてくれた人への感謝の念で胸を熱くしている。
 目的地に到着したときの様子を、ずっと引率し、指導に当たった同短大勤務の**さん(昭和7年生まれ)に聞いた。
 「最後に平等寺が見えてきたときに、ワーッと歓声をあげながら、どんどん走って行ったりする連中もいるんです。私たちが着くのを待って、『皆、一、二の三で入るんぞ!』言うて、皆で肩組んで、『一、二の三で飛び込んだんですよ。』ほんとに、全員が『やったぞ!』って歓声あげたんですから気持ちよかったですよ。
 到着の後、座り込んでいる学生に『よく頑張って良かったなあ。』と声を掛けたとたんに、ウルウルになりながら、それでもこぶしで涙を払いのけるようにして、なんでもなかったようにするのに一生懸命なんですよ。『ああ、彼も、本当に一生懸命だったんだなあ。』とうれしかったですね。一人一人と握手を交わして行くと、女子学生だけでなく男子の学生も涙に潤んでいましたよ。それに、良かったなあと思うのは、強い子も、弱い子も、支え合って歩ききったということですね。」

 (ウ)学生の体験レポート

 学生たちの体験後のレポートがある。長いレポートからの抜粋だが、その幾つかを以下に記す。

   ○ 優しさ・辛さ・素晴らしさ                   生活科学科 **
     一つは「人の優しさ」です。僕たちを温かく迎えてくれ、いろいろなお接待をしてくれました。五日間で示してくだ
    さったお接待で、人がこれほどまでに優しく、温かいということを、お遍路を通じて改めて知りました。この感謝の気
    持ちは、一生さめることはないと思います。二つ目は「歩くことに関する辛さ」です。歩いてみると一番辛いのは足の
    痛みでした。たった5日間歩いただけでこんなにも遍路歩きが辛いのかと思い知らされました。これを考えると、八十
    八ヶ所全部を歩いて回った人は素直にすごいと思いました。僕は高校時代陸上をやっていたので走ることに比べて歩く
    ことは楽だくらいに思っていたのですが、甘く見すぎていました。三つ目は「仲間の素晴らしさ」です。最初は、学科
    が違うこともあって、口数も少なく、協力し合うということは少なかった。けれど歩き始めて疲れが積もり始めると、
    次第に、相手の必死な気持ちが伝わり、互いに励まし合ったり協力し合うようになりました。3日目の先達担当で、道
    に迷いそうになったときも、みんなのアドバイスや励ましに助けられました。4日目の最後の急坂では動けなくなった
    仲間を皆で肩を貸し必死に登りきることが出来ました。こんな皆の一つになる気持ちがあったからこそ最後の平等寺に
    着いたときの皆の涙があったのだと思いました。
     5日間という短く長いお遍路歩きでしたが、本当に貴重な体験でした。おそらく一生忘れることはないと思います。
    この歩き遍路に協力してくださった、地域の人、先生方、そして一緒に歩いた仲間たちに心からお礼を言いたいです。
    本当に有り難うございました。
   ○ 優しい遍路道とお接待の心                  幼児教育学科 **
     山道と国道を歩いてみて何かが違うなあと思いました。やはり人工的に作られたアスファルトの道よりも昔のままに
    自然が残された山道は、柔らかくて足に優しく、緑は美しく土の匂いがしました。竹やぶの中、道幅の狭い遍路道だけ
    がずっと先につながっており透き通った川に魚が泳いでいました。こんな自然に触れたのは本当に久しぶりで生きてい
    るなあと思うと同時に、私は遍路道が好きだと体で感じました。これからも ずっと残してほしいなあと心から思いま
    す。
     お接待や人との触れ合いも嬉しいものでした。あるおばさんは私たちを見ると、笑顔で「これを持って行きなさ
    い。」といろいろなものを差し出してくれました。他にも、前もって準備していてくれ、「まだか?まだか?」と私た
    ちの到着を心待ちにしていてくれたそうですが、私たちのために、なぜそこまでしてくれるのだろう!?と思いました。
    納経所に行くと、最後に必ず、「お気をつけて」と優しく言葉をかけてくれました。お接待は人の心の温かさと広さを
    感じさせてくれます。私自身少しでもそのような心で人に接していきたいと思います。
   ○ 「ありがとう」の思い                      幼児教育学科 **
     「歩ききった……」その思いだけでここ2、3日はほとんど放心の状態にあった。だがそれも徐々にぼんやりとした
    思い出になろうとしている。記憶の中のあの5日間は確かに辛かった。が、思い出の中では、辛いものの何かしら崇高
    さにも似たものを含む美しさに満ちた、単なる思い出としてしまうのが惜しいほどの存在になっている。
     出発する前まで、何とか歩かずに済む方法はないものかと心のどこかで思っていた。その思いはやがてバスが目的地
    に近づくにつれて、何とかなるだろうと半ば諦(あきら)めのようなものに変わっていった。それでも1日目は何とか歩
    くことが出来た。それは初日ということもあり、それなりに気力・体力が充実していたからだろう。しかし、その実、
    その夜の時点で、かなり「帰りたい」という思いが強くなっていた。
     「歩く」ということに対してある種の執念を抱き始めたのは2日目以降からだと思う。さすがに2日目となると、み
    な一様に疲労の色が見え始め、歩くのが困難になる仲間も出てきた。先生が救護車に乗る者の有無を尋ねるたびに、心
    の中の弱い部分が顔を出し、「もういいや……」と自分に負けそうになったことも幾度かあった。「なぜ俺がこんな目
    に……」と何度思ったか知れない。それでも歩けたのは、自分でも相当疲れているはずなのに、率先して檄を飛ばす仲
    間を見るたび、ああ、こいつも頑張っているんだ、ここでやめたら、俺格好悪いな…と考えたからだと思う。格好悪い
    というのは、周囲に対してではなく、自分自身に対してである。周囲に対して格好を付けるのはいくらでも出来る。し
    かし、自分に虚勢を張るのは難しい。ここで諦めたら、俺は一生自分を嫌いになるだろうな、そう思いながら必死で歩
    いた。
     3日目、ついに精神的疲労がピークに達した。肉体的な疲れはどうにかなるものだ。しかし、それを支える気力が
    参ってしまってはどうにもならない。一気に身体にガタが来た。そんな私が歩く様子は傍目(はため)にも痛々しかった
    らしく、周囲の仲間がこれまで以上に励ましてくれた。彼らの思いに応えるためにも何とか歩ききろうと思ったのだ
    が、結局救護車に乗らざるを得なくなった。私は自分に対する情けなさで胸がいっぱいだった。一緒にいてくれた先生
    は、「大丈夫、一生懸命に歩いたんだから、頑張ったね。」と言ってくれた。自分でもなぜだか分からないが、その瞬
    間私は既に泣いていた。今でも不思議である。しかし、確かに私はあの時、「俺はいい仲間に恵まれた……」と心の底
    から思っていた。ひとしきり泣いたからだろうか。私の中で何かが吹っ切れた。それまでは自分のためだけに歩いてい
    たのだが、少なからず皆のために歩くように心境が変化していった。もちろん誰も私にそんなことを期待してはいな
    かっただろう。しかし、私は、自分に優しい言葉を掛けてくれた仲間を裏切るような真似はしたくなかった。残り二日
    間はもうその思いだけで歩いたといっても過言ではない。それほど今回の体験における仲間の存在は私にとって強く、
    そして大きかった。
     ゴールしたときに皆の表情を見ると、それぞれに思うものがあったのだろう。満面に笑みを湛(たた)える者、あるい
    は感涙にむせぶ者……その一つひとつがそれぞれの心の内を如実に物語っていた。彼らに元気をもらい、また勇気づけ
    られながら、ようやく成し遂げたゴールは純粋にうれしかった。そんな時、**先生が手を差し出しながら、私にこう
    言った。
     「よう頑張ったなあ、有り難う」
     重い言葉だった。その一言に全てが集約されていた。私はその手を握り、こう答えた。
     「ありがとうございました!」
     私にとっては様々な思いを込めた一言だった。先生の大きな手を握り締め、これまでの五日間を思い出すうちに胸が
    熱くなった。
     ああ、そうだ。俺はやったんだ……。この達成感はおそらく経験した者にしか分からないだろう。いくら周りの人に
    この感動を伝えようとしたところで、全てを分かってもらうのは難しいと思う。私が体験した感動は口先だけで伝えら
    れる薄っぺらなものではない。もしこの世に魂というものがあるならば、そこへ直接ぶつけられたような最大級の感動
    である。この文章を十万回読んだとしても、私の感動は私の感じた百万分の一も伝わらないだろう。だが、それでも構
    わない。もし、これを読んだ人が実際に人の優しさ、温かさに触れ、心から誰かに「ありがとう」と言える喜びを知る
    ことができたら、それが、私が今回の体験で知り、ここで伝えたかった全てである。
     最後に、私をゴールへ導いてくれた皆さん、本当に、本当に有り難うございました。

 これらは、4泊5日の行程で、約134kmの遍路道を踏破した後の学生の思いの一端である。そこにはそれぞれに共通する思いがある。一つ目は、極限状況を耐え抜いた喜び、自分を見直すと同時に自分への自信を獲得することができた喜びである。二つ目は、自然に触れ合うことにより、遍路道の癒しの力に気付いたことである。三つ目は遍路道ならではのお接待や地域の人々の温かい言葉掛けなどによる人と触れ合うことの素晴らしさに気付いたことである。四つ目は、どの学生も一様に述べずにはいられないほどの感謝の気持ちである。すなわち、この遍路行を共に成し終えた仲間、そして、支えてくれた多くの人々や様々なものへの感謝の思いである。
 五日間を学生と共に歩いた**さんはこうした姿を、感動を込めて思いやりながら、遍路道を歩くことについて次のように語っている。
 「学生たちは、初めはともかく、疲れてくると、顔が苦痛にゆがみ、いらだってもきます。それでも前へ進むほかないんです。さらに極限状態に近くなると、無我夢中になります。そこには我欲も我執もない。一歩一歩ひたすら目標に向かって進むだけです。それがあるからこそ、やり終えたときの喜びもあり自信も出来る。遍路道を歩くとはそういうことだと思います。それに、遍路道そのものが既に癒(いや)しの要素を持っていると思います。自然も、お接待もそうでしょうが、その両方を、遍路道を歩くことで実感できるんでしょう。自然による癒しと、社会性というかコミュニケーションというか、人との接触による癒し、その両方を備えているということは確かですね。学生たちは、そうしたことを、理屈ではなく、体験を通して実感として体得してくれたと思います。」

 (エ)遍路体験を終えた学生を迎えて

 前学長の**さんは、昨年の遍路体験者を迎えたとき、学生たちの顔つきがすっかり変わっていたのには本当に驚いたという。そして学生たちの遍路体験について、次のように語った。
 「最後まで歩いて頑張るという体験が彼らを成長させたんだと思います。最後までやり抜くことで、やればできるという自信を、体験を通じて身につけた。自分の中の潜在能力に気づいたり、やりきったということで自信につながった。それが体験の重さ、強さなんでしょう。教育の中で、自分の潜在能力に気づき、自分にはこういう能力もある、やればできるということを自覚させるということは大切だと思うんです。
 また、皆と一緒になって目的を達成することの大切さに気づいてくれた。それは社会に出ても同じ事で、皆の力があって、お互いに支えあって生きていくんだという大切なことを学んだと思います。これは理屈では分かっている、教えられて知ってもいるという。でも、体験として感得して身についたものとは違います。汗を流した体験から学ぶものは、血肉になった分かり方なんですよ。
 お接待でも、最初はお接待といって、なぜくれるのか分からなかったと言います。しかしだんだん素直になって有り難く頂く気持ちになった。わずか缶ジュース1本でも、のどの渇きを潤し、救われた思いになる。それはジュースの味だけではない人の気持ちの加わった味、その気持ちを有り難く頂いて、いつかまた自分が誰かにお返しをする気持ちにつながる。それが地域をよくするための人間関係の基礎を作っていくのだと思います。
 そうやって考えてみると、学生たちにとって遍路道を歩くという遍路体験学習は、自立性、共同性という最も人間らしい生き方を学ぶ上で貴重な体験だったと思います。」

写真4-9 杖杉庵(じょうしんあん)で一休みする学生 

写真4-9 杖杉庵(じょうしんあん)で一休みする学生 

左の像は弘法大師と衛門三郎である。徳島県名西郡神山町にて。平成14年9月撮影