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遍路のこころ(平成14年度)

(2)休憩所などの設置活動①

 遍路道を歩いていて、休憩のできる施設やトイレがあればと願うお遍路さんが多い。休憩所を遍路道沿いに作ったり、トイレを整備したりして、遍路のために役に立ちたいと願っている人々やそれを利用している遍路たちの思いを探った。

 ア 休憩所の整備

 (ア)内子町の取り組み

 宇和町の四十三番明石寺から久万町の四十四番大宝寺に至る遍路道は、約70kmあり札所間の距離が県内では最も長い区間である。その途中に内子町大瀬の中心集落である成留屋(なるや)地区がある。遍路道沿いということもあり、この地区に町並み整備事業の一環として、地域のコミュニティ施設としての機能と遍路休憩所の機能を持つ休憩所の建設が計画された。既に2か所は平成14年末までに完成しており、総ヒノキ造り、本瓦葺(かわらぶ)き、広さ約9m²のものである(写真3-1-6)。
 内子町大瀬「成留屋地区」の休憩所作りについて内子町役場に勤務している**さん(昭和24年生まれ)に聞いた。
 「昭和30年(1955年)に内子町・大瀬村・五城村・立川村・満穂村の5か町村が合併し、現在の内子町が誕生しました。平成の年になり、大瀬地区の衰退を憂える大瀬公民館分館の有志たちが、平成3年に『大瀬の村民一揆(いっき)構想』という『おらが村づくり』の構想を策定し、大瀬のまちづくりの第一歩がはじまりました。また、自然発生的に大瀬出身の大江健三郎氏のファンたちが集まり、大瀬の森と谷間の風景を何とかして残したいと誕生したのが『大瀬村の会』でした。
 しかし、住民主体のまちづくり運動には限界があり、そのことを解決していく策として、まちづくりの役割を行政と住民が協働で担う、HOPE計画策定事業を内子町が計画しました。HOPE計画というのは、国土交通省が『地域固有の環境を具備した住まいづくり』を提言していく計画策定事業です。
 『内子町大瀬・成留屋地区ホープ計画』策定は、平成7年度事業として、それぞれの各種団体と協働してワーキンググループをつくり、平成9年度には『地域環境整備事業』として生活道路整備を、『緑化推進コミュニティ助成事業』として花いっぱい運動、また、旧大瀬村役場を改修し『大瀬の館』を完成させるなど一定の成果を収めました。こうした事業は大江健三郎氏の生家を訪れる人たちや四国巡拝をしている人たちの心を和ませました。
 平成11年度事業として『街なみ環境整備事業』を導入し、その調査を元東京芸術大学客員教授の吉田桂二工学博士をチーフに実施し、整備計画をつくり、平成12年度から整備が始まりました。この中にコミュニティ醸成の場所として3か所のお堂風の休憩所の建設が示されました。その後二つの休憩所が平成14年末までに完成し、住民のコミュニティ活動の場として、また、歩き遍路の休憩の場所として利用されるようになりました。
 大瀬には『よも八』というまちづくりグループがあり、『よもだ8人衆』と称する個性派集団ですが、職業も様々な人たちの集まりでのこのグループが、今頑固なまでに取り組んでいる事業が『川ツツジ千本運動』です。大江健三郎氏が水遊びした肱川支流の小田川風景、お遍路さんが川ツツジを眺めながら巡拝した小田川風景が、堤防や国道改良事業により大きく変わり、ネコヤナギや川ツツジの群生が見られなくなりました。この川の風景を何とか元の風景によみがえらせようと運動を開始し、5年目を迎えました。毎年千本の川ツツジを挿し木し、3年間育苗管理して川岸に移植する、千本中1本でも活着すれば良いと思っています。大瀬の町並みが整備され、小田川にツツジが咲き誇ることを願い、地元の人たちと歩き遍路の方との交流が休憩所で見られることを願っています。」

 (イ)「ゆらぎ休憩所」

 川之江市金田町半田地区に「ゆらぎ休憩所」と名付けられた遍路のための休憩所が、同所の**さん(昭和8年生まれ)によって建てられた。この場所は六十五番三角寺から東へ約4km、番外霊場の椿堂や六十六番雲辺寺に向かう遍路道沿いにある。太い柱を四方に配置して屋根を支え、三方を板壁で囲い、中に火鉢を備えたテーブルを配置し、冬の寒さにも配慮がなされている。トイレも併設されていて春と秋の遍路シーズンには多くの人が利用している(写真3-1-7)。
 この休憩所を建てた**さんにその思いを聞いた。
 「この道は、昔からの遍路道であり、春になると朝から晩までチリン、チリンと鈴の音を響かせた多くの遍路さんが歩いていました。この休憩所は平成12年4月に完成しました。今の休憩所のある場所にあった私の仕事の事務所を移転し、そこを更地にしてしまいました。これまで多くの歩き遍路の方が、その事務所の軒下で休憩していましたが、事務所を移転してしまうと遍路さんの休憩の場所が無くなってしまうとの、息子の助言から休憩所の建設を思い立ちました。
 昔からここでは、その時その時にできた芋や、蜜柑(みかん)やお団子などをお接待していました。大人は畑へ行くから、残った子供がお接待をしていましたが、このような山の中ですから、泊まらせてくれないかということも多くあったようです。それぞれの家が、宿泊を断るのに『お通り、お通り』といって断っていました。祖父母の時代には一番風呂に入れて、座敷に泊まらせたこともあったようで、お遍路さんを、粗末にしてはいけないと言われてきており、お遍路さんにお接待をするのが当然のように身についています。それで休憩所を作ることについて何も抵抗はありませんでした。家内も、せっかく作るなら、多くの女の遍路さんが歩かれているから、トイレも作ってあげたらと言うものですから、女性用トイレも作りました。最近は、多くのお遍路さんが休んでいかれます。宿泊は基本的にはお断りしていますが、本人が申し出られて事情が分かれば自分の責任において泊まってもらうこともあります。家内が弁当にとおにぎりを作って持たせていることもあるようです。
 私は、仕事の関係上、安全ということに最も気を遣っています。昭和27年(1952年)から父の仕事を継いでいますが、父の時代からの約60年間、死亡事故とか重大事故が一度もありません。朝に、晩に神様、仏様に安全祈願をしています。息子も同じようにしています。これもお大師様のお陰だと思っています。
 若い従業員にも言っていますが、お遍路さんに対しては探してまですることはないが、見掛けたらお茶の一杯でもいいから、休憩所でお接待するように言っています。これは若い人の教育になるし、次の世代にも続けてもらいたいという私の願いです。私たちがこのようなことをしているのは、何も大げさなことでなく、お遍路さんに喜んでもらえると、自分でもうれしくなるからです。家内が言い出して設置したトイレは本当に皆さんに喜ばれています。『ゆらぎ休憩所』と名付けた由来は、緊張を解いてゆっくり休むという意味の『ゆらう』という言葉からつけました。休憩所には蜜柑(みかん)など季節のものを置いて自由に取ってもらっています。」
 次の文章はゆらぎ休憩所に置かれている「お遍路日記帳」に記された遍路の記録である。

   ○ 山形市**さん(昭和15年生まれ)平成14年6月1日。
     「昨年に引きつづきお世話になりました。昨年はここでへんろ新聞の方の取材を受け**さんご夫妻、従業員の方に
    いろいろお心づかいを頂きお世話になりました。一年ぶりにまた参りました。へんろはやはり最高です。新しい出会い
    と発見の連続です。この2か月のために残りの10か月がある感じです。こうした休憩所、それにトイレ付が何よりの
    接待です。うれしい限りです。一昨年、昨年に比べると、いろんなところにこうした休憩所があり、四国の方々の真の
    心づかい、思いやりをとても有り難く感じます。甘夏蜜柑(みかん)1個ごちそうになりました。また来春必ず参りま
    す。」
   ○ 茨城県**さん(昭和16年生まれ)平成14年7月8日。
     「昨年の秋、長年勤めた会社を定年退職しました。しかし自分の力でこれまで来れた訳ではなく、多くの人々の支え
    により、これまで何とか来れたと思います。そんな感謝の意味も込めて四国の旅を決意したわけですが、またしても四
    国の皆様に助けられる毎日で、『今日あるのは、人々のお陰、自然の恵みのお陰』と雨や風や鳥のさえずりを聞き、肌
    にふれながらそう思う旅を続けております。折りしも、三角寺さんより常福寺さんへ向かう下山の途中、道路補修の方
    に声をかけられました。『この下に善根休憩所があります。どうぞお立ち寄り下さい』とのありがたいお言葉を頂きま
    した。途上、昼食を取る店もなく、沢の水を少し頂いて、喉のかわきをいやす始末…休憩所の甘夏や皆様の善意に身も
    心も生き返ったような心地です。本当にありがとうございました。合掌!どうぞ事故のなきよう、皆様の御安全を心よ
    り祈願しております。」

 (ウ)「休憩所お遍路さん道の駅」

 明治20年(1887年)に三坂新道(現在の国道33号の前身)が開通するまでは松山と久万・高知を結ぶ重要な街道は旧土佐街道であった。三坂峠から松山方面へ下るその街道沿いの松山市窪野町桜地区に「休憩所お遍路さん道の駅」と名付けられた休憩所がある。鉄骨で組立てられたこの休憩所は、広さが約9m²あり、谷川から水を引いて、回っている花尚岩の水車と女遍路のマネキンが迎えてくれる(写真3-1-8)。中にはお接待用のお菓子やノートが置いてあり、近くの番外霊場「網掛け石大師堂」の由来の説明、四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺に至る道筋が石版に彫り込まれている。
 この休憩所を作った**さん(昭和12年生まれ)にその思いを聞いた。
 「この休憩所は、平成14年3月の初めに完成しました。仕事の合間に作ったので2か月ぐらいはかかったと思います。私の仕事が石工ですので、石で水車をつくり、谷川の水を引き、鈴を付けていつも鈴の音が聞こえるようにしています。
 この休憩所を思い付いたのは、特別な意味などないのですが、この道は昔高知と松山を結ぶ旧街道でした。国道33号が整備されるまでは大勢の人がこの道を利用していました。この地区の人たちもその人たちの荷物を運んだり、宿泊所を経営したりして生計を立てていました。現在では歩き遍路の方やハイキングで来られる方、それに遠足の生徒たちなどわずかの人たちが通るだけで、この道も寂れてしまいました。これも時代の流れですね。
 しかし、この5、6年三坂峠から降りて来られる歩き遍路の方が多くなり、私の家が道沿いにありますから、水ありませんかとか、急な坂を降りてきたので足を休めたいのですがとか、トイレを貸してください、などと遍路さんから声を掛けられるようになりました。何かできることはないかと家内と相談をし、現在の場所が空いていたので仕事の合間にこのような休憩所をつくりました。トイレも考えないではなかったのですが、私たちも年ですので、処理のことを考えると踏み切れませんでした。
 『お遍路さんの休憩所』では有り触れているので『お遍路さん道の駅』と名付けました。最初、休憩所と書いてなかったので休んでいいのかどうか迷っておられた方がいましたので、後で『休憩所お遍路さん道の駅』としました。」
 平成14年10月13日にこの休憩所で、西宮市の**さん(昭和13年生まれ)と岐阜県の**さん(昭和15年生まれ)の二人の遍路に話を聞いた。
 「私は、仕事の関係で徳島や香川に居たことがあり、遍路さんの姿を見て自分もいつかお四国を歩いてみたいと思っていました。定年を迎えましたが幸い次の仕事が見つかり働いています。しかし歩けるうちにと思って区切り打ちをしており、今回が14回目です。一昨日、宇和の明石寺から歩き始めました。久万で余分に一泊しました。峠越えが多かったので楽しんで歩けましたし、山の中を歩くと気持ちがいいですね。物音一つしない。鳥の声などを聞きながら歩けます。長いこと一人で歩いていると人恋しくなることがあります。長い下り坂を歩いて来て、このような休憩所があると、ホッとします。このような休憩所を作っていただいた方に感謝しなければなりません。疲れていてもひと時の休憩が次への励みになります。ありがたいことだと思います。」
 「私は、まだ仕事をもっていますので通しで歩く余裕がなく、こうして区切り打ちで3度目の遍路旅をしています。2度目は番外霊場を歩きました。3度目は本四国を家内と一緒に歩いています。このような場所で休ませていただいてありがたいことだと思っています。車で回るのはスタンプラリー的で意味がないと思います。遍路は歩くことが大切だと思います。歩く道中のプロセスが大切だと思います。一般社会ではこのような場所でしか、お接待の風習は残っていないのではないでしょうか。人とのかかわりがあり、温かく気持ちよく迎えていただく。この休憩所は、コミュニケーションの場として最も癒(いや)される場所だと思います。休憩所を作られた方にもお会いできてよかったと思います。」

 (エ)「ヘンロ小屋」づくり

 徳島県海部郡海部町出身で、近畿大学文芸学部助教授**さん(昭和23年生まれ)は、八十八ケ所巡りのお遍路さんに一時の安らぎをとの思いと、札所巡りを終えた知人から「休む場所が欲しかった。」という感想を聞き、四国八十八ケ所の88に自分の休憩所作りへの思いを込めたものを一つ追加して、89か所の休憩所「ヘンロ小屋」を遍路道沿いに建設することを計画し、すでに4か所のヘンロ小屋が完成している。**さんは、小学生のころに托鉢(たくはつ)の遍路に米を分けるなどのお接待を経験し、「地域の活性化にも役立つのでは」と思い立ったとのことである。
 約1年がかりで徳島県内の23札所を回り、遍路道沿いの景観などを調査、専門の空間デザインの知識を生かして、23の休憩所をデザインし、模型を作成した。平成13年9月、徳島市内の美術館で模型展を開き、一般の人々に協力を呼びかけた。**さんは、平成14年8月には高知県でヘンロ小屋構想展を開催し、愛媛県、香川県でも構想展を実施したいとの意向を持っている。その思いを**さんに聞いた。
 「私は、構想としては四国4県全部に歩き遍路さんのために休憩、あるいは仮眠できる小屋を89か所、設計・建設する計画です。もちろん愛媛県にも作らせてもらいたいと思っています。平成13年徳島県の美術館で『四国八十八ヶ所ヘンロ小屋構想展』を実施し、平成14年8月には高知県立美術館でも開催しました。来年には愛媛県の美術館で実施し、来年度の終わりか再来年に香川県で実施できればと思っています。この『四国八十八ヶ所ヘンロ小屋構想』を四国4県でアピールでき、一般の人々の協力が得られればと思っています。ヘンロ小屋の模型を作って展示を行うわけですが、単に休憩所を作りたいというのでなく、遍路道を踏査した上で、その地域にあったヘンロ小屋を作りたいと考えています。距離としては、4kmから5km歩いたら1時間前後ですから、ちょっと休みたいと思う場所に建設できればと思っています。当然札所からは離れた場所にと思っていますが、公園の東屋(あずまや)などがある場所や、屋根付のバス停留所があるところは省いて考えています。できるかぎり遍路さんに休んでいただいて、その場所が風の流れがよかったり、景色がよかったり、いい気分になるような空間、場所を選んでいるつもりです。
 世間一般では昔のお遍路さんに対しては暗いイメージを持っていますが、私にはそのような暗いイメージはまったく無く、四国4県を歩いて回ることに対して何かうらやましいような感じさえ持っていました。大阪へ出てきてからも、徳島へ帰るたびに、この10年ぐらいの間に歩き遍路に対する畏敬(いけい)の念とか、遍路文化に対する思いを自然と意識するようになりました。
 外国にも出掛ける機会が多いのですが、外国からこの四国遍路のことを考えて見ますと、海外には例のない優れた文化ではないかと思い始めました。外国の巡礼の旅は、目的地に到達して帰れば終わりじゃないですか。しかし、四国遍路は約1,400kmの道のりを八十八ヶ所のお寺を巡拝し、祈りの旅が結願しますが、しかしそれで終わりということではありません。何回でも満足できるまで巡礼の旅が出来ます。この祈りのシステムは世界に例がないのではないでしょうか。
 遍路の旅の途中で地域の人が気軽に声をかけて、お接待をしたり、励ましたりしてくれる。お接待をした方は、そのお接待によってお遍路さんから元気をもらう、またお接待をされたお遍路さんは地元の方に励まされる。このような助け合いや、他を思いやる心、お互いに感謝する心、このシステムが形としてきっちり残っている。このことがすばらしいことではないですか。お遍路の姿をして歩かれた方は、四国を歩いて皆さんに支えられて歩けたと言われます。人それぞれ違うと思いますが、四国を一周することによって何かを得て、人間が変わると思います。
 私は、空海に対して一人の人間として尊敬の念を持っています。四国八十八ヶ所の祈りのシステムが脈々と続いている。誰が残そうとしたものでもない。歩いて自分の内面を見つめようとか、自分を見つめ直す機会にしようとか、ハイキング気分で歩いてみようとか、そのような歩き遍路の方たちが休憩できるヘンロ小屋があればと思っていました。自分は建築家でありますから、経済的なことは別にして、私にとってはそのような小屋の設計は簡単なことです。地域の事情とか、地域にある材料、その土地のロケーションを見て、風の流れなどを見て、よい気分で休んでもらって、元気になって歩いてもらう、そのような小屋を設計することを心掛けています。人間が常に安らかな気持ちで居住できる空間作りをいつも考えています。この八十八ヶ所の祈りのシステムはまさに私の理念そのもので、年齢も重ね、このようなことが出来るゆとりもできてきました。今やっと遍路文化の継承に少しでもお役に立てるのではないかと思っています。」
 現在(平成14年11月)**さんが設計し、完成しているヘンロ小屋は、徳島県に3か所、高知県に1か所で、その概要は**建築研究所提供資料によると次の通りである。
 第1号ヘンロ小屋は、徳島県海部郡海南町四方原地区の**さん(76歳)方に平成13年12月5日に完成した。**さんは、亡くなった夫の供養のため42歳のときに八十八ヶ所巡りを始めた。「年をとって自分で回れなくなっても、遍路とのかかわりは続けたい」と思い、**さんが平成13年9月に徳島市の県立美術館で開いた模型展に行ったのがきっかけで、自宅敷地の一部提供などの協力を申し出た。小屋は木造平屋約20m²。人が支えあう姿をイメージし、2本の支柱を天井で合わせたデザインで、南側には、弘法大師の没年62歳にちなみ、アーチ状の格子62本を並べた。トイレや流し台、いろりなども備えている。
 第2号は、高知県幡多郡大月町弘見地区に平成14年1月に完成した。千葉県出身の**さん・**さん夫婦は、自然豊かな四国にあこがれて四国各地を巡った後、平成6年に埼玉県から大月町に移住した。平成13年秋には国道321号沿いに居酒屋を兼ねた素泊まり宿「幡多郷」を開業した。店の前の国道を通る歩き遍路の姿をよく見掛けていた夫婦は、店と隣接する約10m²の空き地を提供し、設計を依頼した。材料として選んだのはこの地に多くあるモウソウ竹を80本。竹の組合せは多くの人の支え合いの大切さを表している。町内の人たちの協力で切り出し、地元の大工さんを中心に手弁当で協力し約10日間で三角形の休憩所に仕上げた。
 第3号は、阿南市阿瀬比町西内地区に、平成14年3月、地元桑野町の**さん・**さん夫妻が中心になり、地元の人から土地や建材のほか、労力の提供を受けて完成した。場所は二十一番大龍寺と二十二番平等寺のほぼ中間の国道195号近くである。23m²の木造平屋で、小屋内に二つのベンチがあり、それぞれの正面が、空海生誕の地である香川県善通寺市と、金剛峰寺のある高野山の方向を向くように設計されている。柱は2本が支え合うようになっていて、助け合う気持ちやお大師様と一緒に巡拝しているという意味の「同行二人」を表している。
 第4号「ヘンロ小屋鉦打」は、徳島県阿南市福井町鉦打(かねうち)地区に、平成14年9月に完成した。国道55号沿い、阿南市新野(あらたの)町の二十二番平等寺と日和佐町の二十三番薬王寺との間の休憩所である。総ヒノキ造り、木造平屋9m²の小屋で、福井町のかわらを利用しており、ベンチは福井川の巻貝の先を丸めてしまったという大師伝説から、巻貝の形の「の」字形のベンチを設置している。仕切り板の3枚は薬王寺(徳島県日和佐町)、高野山(和歌山県)、善通寺(香川県善通寺市)を向いている。
 第5号、第6号は、徳島県海部郡宍喰町内、高知県南国市蒲原地区にそれぞれ計画中で、その他、高知県土佐清水市、高知県幡多郡三原村、高知県香美郡香我美町にも計画中である。

写真3-1-6 内子町大瀬のお堂風の休憩所

写真3-1-6 内子町大瀬のお堂風の休憩所

内子町大瀬。平成14年11月撮影

写真3-1-7 ゆらぎ休憩所

写真3-1-7 ゆらぎ休憩所

川之江市金田町半田平山。平成14年9月撮影

写真3-1-8 休憩所お遍路さん道の駅

写真3-1-8 休憩所お遍路さん道の駅

松山市窪野町桜。平成14年10月撮影