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遍路のこころ(平成14年度)

(2)四国八十八ヶ所霊場周辺の新四国③

 イ 石手寺のお山四国

 五十一番石手寺の裏山に設けられた新四国は、「お山四国」と呼ばれて春秋の彼岸や大師の命日(旧暦3月21日)前後には参拝する人も多い。また、松山市久谷、恵原地区には、新仏(しんぼとけ)を弔うためにその家族がお山四国を巡拝する風習が今も残っている。

 (ア)お山四国のおこり

 お山四国のおこりを示す資料は特にないが、松山市教育委員会編の『おへんろさん』によると、「松山において盛んなのは、石手寺裏山に設けられた新四国の巡拝であろう。これは、『お四国』とも呼ばれ、寺の背後の東西ふたつの小山にわたって88体の石仏がまつられている。開創年代は弘化2年と推定されるが、これをもれなく拝んで歩くには2時間近くを要する。」とあり、弘化2年(1845年)に開創されたと推定している(㉖)。

 (イ)巡拝路

 石手寺の背後の東西二つの小山には本四国と番外霊場の本尊石仏が祀(まつ)られている。西山には1番霊山寺(写真2-2-28)から43番明石寺までが、東山には44番大宝寺から88番大窪寺までがあり、それぞれの札所には、寺院名とその本尊を刻した石仏や地蔵が置かれており、これをもれなく参詣(けい)するには約2時間を要する。
 お山四国は、石手寺本堂左手の西山の登り口から急な石段を上りはじめる。その斜面に1番から10番切幡寺までの石仏があり、6番安楽寺のそばには随求堂がある(写真2-2-29)。また、急な登り坂にある11番藤井寺、12番焼山寺を過ぎると、13番大日寺辺りから松山市街の石手方面を望むことができる。さらに、14番常楽寺から23番薬王寺までは赤土の露出した南西斜面の急な坂道に点在しており、これらの札所を経て行くと、24番最御崎寺近くの展望所には「愛宕大権現」の祠(ほこら)が立っており、ここから松山市街地を一望することができる。元の巡拝路に戻って、西山北側の25番津照寺から30番善楽寺が点在する落葉かん木の茂る山道は歩きやすい。しかし、31番竹林寺からは急な下り坂となり、道はかなり険しく、37番岩本寺までには岩場があったりして歩きにくい箇所もある。その後、竹やぶの中の巡拝路をしばらく進むと、道から少し上がったところに38番金剛福寺がある。39番延光寺の近くには番外霊場の月山があり、石手寺本堂のすぐ裏辺りの急な下り道沿いに40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺が点在している。43番明石寺を過ぎると石手寺裏の墓地にたどり着き、そこを迂(う)回して、「新四国東山参道登り口」の標識から東山を登る。
 登り口右手の番外霊場文殊院から墓地の中の急な坂道を上がると44番大宝寺があり、そこから右手に外れた場所に45番岩屋寺と46番浄瑠璃寺がある。この近くの地蔵には弘化4年(1847年)の刻字が見える。元の巡拝路に戻って、東山北西側の自然林の巡拝路沿いに47番八坂寺から56番泰山寺までの石仏が点在する。さらに、57番栄福寺から63番吉祥寺までの石仏が点在する簡易舗装道に沿って上がると頂上に着くが、その広場に64番前神寺から66番雲辺寺までの石仏があり、ここには、弘法大師1150年御遠忌(ごおんき)(50年忌以後、50年ごとに行う年忌法会で、1,150年目にあたるもの)を記念して高さ16mの弘法大師像が建っており、この像は石手寺境内からも眺めることができる。ここから右手の坂道を東側に下ると、ゆるやかな下り道に67番大興寺と68番神恵院があり、69番観音寺からの急な下り坂の広葉樹林の山道を下ると、眼下に奥道後方面が見渡せる。つづら折りの下り坂にある70番本山寺の近くには番外霊場の海岸寺や金毘羅山がある。自然林の広がる右側斜面に71番弥谷寺から83番一宮寺までの札所が点在しているが、73番出釈迦寺の石仏には「弘化二巳年」(1845年)と刻まれており(写真2-2-30)、これが『おへんろさん』で指摘する開創年代の根拠となっているのではないかと思われる。その後、84番屋島寺から86番志度寺までは粘土質の急な下り道にあり、墓地の中にある87番長尾寺を過ぎ、結願の88番大窪寺の周辺には新旧の位はいがうずたかく積まれている(写真2-2-31)。さらに、墓地の中の坂道をしばらく下ると、東山の登山口の下手(しもて)の終着点に達するが、そこには「弘法大師参道」の立札が見られる。

 (ウ)新仏を弔うお山四国

 お山四国へは、新仏を弔うために参拝する人が多い。結願の札所に数多く納められた位はいはそのことをよく裏付けている。この風習について、『おへんろさん』には次のように記されている。

   この石手寺のお山四国へは、春秋の彼岸や大師の命日(3月21日)前後に参る人も多いが、それと同時に、新ボトケを
  弔うためにここを巡ることも広く行われている。お山四国を特徴づけているのは、むしろ、後者の死者供養の巡拝であろ
  う。特に久谷地区などの人々が熱心なように見受けられるが、初七日まで(あるいは49日まで)に死者と血の近い人が巡
  拝すべきものとされており、その際、白木の位牌を風呂敷につつんで背負っていくことになっている。戒名を紙に書いて
  持っていくこともある。そして、これを行うことによって、死者が早くホトケの座に着ける、良い所へ行ける、死出の旅
  路の足が軽くなる、などと言われている。
   興味深いのは、しばしば、「ホトケは八十八ヵ所(本四国)をまわっているので」という注釈つきでこの功徳が説明さ
  れることである。言い換えれば、人は死後、四国八十八力所を巡る、という観念がこの習俗の前提になっているらしい。
  「本当は遺族は本四国をまわるべきなのだが」とも言われるし、石手寺のお山四国ではなく、位牌を背負っての七ヵ所参
  りをする人々も少なくない。お山四国にしても七ヵ所にしても、いずれも本四国のかわりとして選ばれるのである。
   位牌は死者の霊魂の宿る依(よ)り代(しろ)であるから、位牌を背負っての巡拝は、死者の遍路を遺族が助けるという意味
  に解釈されよう。この遍路の功徳によって、死者はすみやかに成仏できると考えられているのである(㉗)。

 このように、四国霊場八十八ヶ所を信仰する人々のなかには、新仏の供養のために死者の位はいを背負って八十八ヶ所の各霊場を巡拝する人もいるが、松山近郊に住む人は、その巡拝の代わりに四十六番浄瑠璃寺から五十二番太山寺までの七か寺を巡拝するか、あるいは更に簡易化して石手寺のお山四国を巡拝したのである(㉘)。

写真2-2-28 1番の石仏と地蔵

写真2-2-28 1番の石仏と地蔵

巡拝者の納めた札が多い。平成14年11月撮影

写真2-2-29 6番の石仏と随求堂

写真2-2-29 6番の石仏と随求堂

西山の南側。平成14年11月撮影

写真2-2-30 73番出釈迦寺の石仏

写真2-2-30 73番出釈迦寺の石仏

弘化2年の刻字がある。東山の東側。平成14年11月撮影

写真2-2-31 88番に祀られた位はい

写真2-2-31 88番に祀られた位はい

新旧の位はいが見られる。平成14年11月撮影