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遍路のこころ(平成14年度)

(2)伝承による各種技術の伝播②

 (イ)大洲和紙

 愛媛県では、大洲以外にも和紙の生産地が多く、江戸時代には宇和島、吉田、大洲、西条などの各藩が専売制をとったり、保護奨励をして発展してきた。
 村上節太郎氏は、「伊予の紙は土佐から伝承し、土佐の七色紙は南予の新之丞によって盛んになったのは、うるわしい話しである。」と記し、大洲藩主の御用紙を漉(す)いた土佐紙技術導入者で岡崎紙の創始者岡崎治郎左衛門を紹介している((62))。この岡崎紙の由来などは、『大洲随筆((63))』や大洲藩の文書『積塵邦語((64))』などに詳しい。この後、岡崎家は大洲藩の御用紙漉師として代々続き、抄紙法は秘伝とされてきた。
 この岡崎紙に対して、越前(現福井県)和紙の技術を普及したのが六部で四国に来た宗昌禅定門(しゅうしょうぜんじょうもん)であった。寿岳文章氏は、紙祖宗昌禅定門の墓(写真2-1-14)があるという五十崎町平岡地区の香林寺を訪れ、「寺の過去帖を検するに、『安政五戊午年迄没後百五十七年ニナル』と記し、『平岡村二テ死ス、大洲領紙漉ノ元祖ナリ。毎日茶湯香華以真心追善供養スル、自然トヨキ紙ノデキル事ソ妙ナリ。生国ハ越前ノ福井城下近在村、名シレズ』との書き込みがあり、更に『俗名善之進』とも添え書きしてある。村人の伝へでは、善之進の前身は六部で、奉書の漉き立てを教へたのだと言ふ。」と記し、奉書紙を漉いたとあるからには、善之進の出身地は福井城下近村ではなく、五箇村(現福井県今立町)ではなかったろうかと推測している((65))。
 宗昌禅定門の墓は、岡崎治郎左衛門の墓同様に五十崎町の文化財に指定されている。『愛媛県史』には、「香林寺には元禄時代の墓はほかに見当たらないのに、六部さんで来て、このような立派な花崗岩の墓が建てられたのは、地元の紙漉百姓が感謝を示したものと思う。((66))」とある。この宗昌禅定門には子孫がなかったが、この紙漉きは民衆に引き継がれていき紙祖と仰がれた。
 村上氏は、「岡崎氏がもっぱら藩主のお抱え紙漉師であったのに対して、宗昌禅定門は民衆の紙漉きを指導したので、地元では高く評価されている。寿岳文章著の『紙漉村旅日記』にも、成田潔英著の『紙碑』にも、宗昌禅定門は誌されているが、岡崎氏の記録はない。((67))」と指摘している。

 オ 陶芸技術の導入

 阿波国の大谷(おおたに)焼は、特産とも名物ともいえる大甕(かめ)(写真2-1-15)作りで知られる。この鳴門市の大谷一帯で産する焼物が、大谷焼とよばれるようになったのは太平洋戦争後で、江戸時代は、黒物焼とか唐津焼とかいわれていたという。この大谷焼について、前田卓氏は「豊後から来た遍路が、その製法を伝えたと言われている。((68))」と簡潔に紹介している。
 明治35年(1902年)に書かれたという『黒焼物由来記』によると、「抑大谷村ニテ唐津焼物発端ハ」として、安永9年(1780年)に九州豊後国(現大分県)の遍路文右衛門が夫婦子女5人連れで大谷村(現鳴門市大麻町大谷)にたどりつき、オキン尼方に宿を乞うた。翌日庄屋森是助は文右衛門が国元で焼物細工師をしていたことを知り、早速焼物を作らせたことが発端となり、後には藩窯が築かれ藩営の焼物が行われたとある((69))。この伝承が通説となって広く流布し各書に紹介されたものと考えられる。なお、遍路の名を文左衛門とした書もあるが、『黒焼物由来記』には、「文右衛門」とある。
 一方、文政7、8年(1824、5年)ころ書かれたと推定される『陶器由来書』によると、安永9年(1780年)に築窯された藩窯が、3、4年後に多額の損失を出して廃止され、その後九州の文右衛門が当地に来て瓶類をたたき造り(粘土の塊をたたいで薄く延ばし板状にし、貼(は)り合わせ面に櫛目状のキズを付けて接着用のドベ土を塗って貼り合わせることか。)で作ったとある。その直後の天明3、4年(1783、4年)ころ能田平次兵衛の兄賀屋文五郎(笠井惣左衛門ともいう。)が旅先で出遭った江州(現滋賀県)信楽焼の職人忠蔵から陶器製造方法を聞き、これを伴い帰って弟の平次兵衛に技法を習得させたのが、大谷焼の発端ということになっている((70))。
 両文書は、藩窯築造の前後はともかく、文右衛門が大谷焼の端緒にかかわっていたとする点では一致している。ただ、一般に流布する大谷焼の伝承はおおよそ次の三つに大別される。

   ・ 文右衛門阿波国大谷で焼物伝授 → 藩窯の築造・繁栄 → 委細不明  → 大谷焼

   ・    同      上    → 藩窯の築造・廃止 → 民窯の導入 → 大谷焼

   ・ 藩窯の築造・廃止 → 文右衛門大谷で瓶類のたたき作り → 民窯の導入 → 大谷焼

 この文右衛門伝授説に対して、『鳴門市史 上巻』には「九州豊後の文右衛門が始まりと伝えられて来たが、徳島市豊田進博士の調査研究によって九州から来た焼物職人の万七が正しいことがわかった。((71))」とし、また、『鳴門市史 下巻』には、「『系図幷跡書』によると、平次兵衛の養子となった2代長之助か淡路洲本の御用窯を焼いていたとき万七という職人(荒仕子とある)を雇い、のち万七は大谷村に来て庖疾(天然痘)で死亡し、奥ノ院(大谷の東林院)に葬られたとある。後年、徳島市の豊田進博士の調査研究によって、従来文右衛門の墓と伝えられていたものが実は万七の墓であることが確認された。これにより万七が文右衛門である可能性も強くなった。」とあり、戦後の「昭和22年3月、窯元の人々が集って東林寺域内に『阿波陶祖の碑』を建て、文右衛門(実は万七)および能田平次兵衛の業績を顕彰した。((72))」と記している。
 この辺の事情を丸山和雄氏は、「開窯は江戸後期。藍商人の笠井惣左衛門が信楽の陶工をともない帰ったのに始まり、その後途絶えたが弟の納田平次兵衛らが再興し、陶器の甕を焼成した。今日の基礎を作ったのは、庄屋役をも勤めた平次兵衛の養子長之助とされる。((73))」と説明している。
 その後、大谷焼は阿波の特産品「阿波藍」と深くかかわりをもちながら、その必需品である藍甕(あいがめ)作りによって、藩政期から明治の中ころまで大きく発展してきたが、現在は大甕のほか、生活用品の徳利・水蓮鉢そのほか美術品や民芸実用品をも焼き、新しい大谷焼の姿をも見せている。また、今も大谷焼の陶祖とされる文右衛門をしのんで「大谷焼窯まつり」が開かれている。

 力 木綿織物の発展

 (ア)伊予絣の創案

 伊予絣(かすり)は紺の木綿絣で、一般的で伝統的な柄は、井桁(いげた)、十字などの幾何学文様である。特に、伊予絣は、低廉な価格により、一般大衆の着物地として、昭和の初めころまでは日本全国の隅々まで広く行き渡っていた。当時都会では、子供たちの普段着に喜ばれ、農村では、女性の野良着として好まれていた。この伊予絣を創案し、織り出したのが鍵谷カナ(天明2年〔1782年〕~元治元年〔1864年〕)である。カナは、愛媛県温泉郡垣生村今出(現松山市)に生まれ、83歳でその生涯を終えている。松山市西垣生町の長楽寺にある墓(写真2-1-16)は愛媛県史跡に指定されている。
 カナが伊予絣を創作した当時の文献というべきものは一つも残っていない。その後の文献としては、明治20年(1887年)建立の松山市西垣生の三島神社境内の碑文と、同天王社境内に昭和4年(1929年)伊予織物同業組合が建立した頌功(しょうこう)碑だけである。
 三島神社の境内にある碑文には、享和年間(1801~04年)に金毘羅参詣(さんけい)に出かけた折に同船した久留米の人の着る絣を見て、帰宅後苦心して絣模様を創り出したという内容である。
 この碑文にある久留米絣の模倣説に対しては、久留米絣の創始者井上伝(天明8年〔1788年〕生まれ)とカナとの年齢差や絣の完成時期、藩政時代の今出地区における金毘羅詣(もう)での慣習などの諸点で疑義が出て、昭和4年(1929年)に「鍵谷カナ女小伝並誤伝に関する考察」が出されている。これは、垣生地域のカナの親族・古老などから聞き取り調査を行い、次の3点にまとめたものである((74))。
 その1は、カナ女が天性怜悧(れいり)で、かつ器用であり、思考力に富み、一度目に映じたものは、何物かに応用しようとする発明心の旺盛(おうせい)さから創り出されたという説
 その2は、藁(わら)屋根の葺(ふ)き替え時に見た押し竹部分の色の変化にヒントを得て創り出されたという説
 その3は、カナ女が、若い時同地の有志の祖母やその他数名と共に四国巡拝をしたことがある。その際八十八ヶ所の霊場を巡拝するのに、一々その数を覚えていることができないから、袂(たもと)に糸の綛(かせ)を入れておいて、霊場の参拝が終わるごとに、1か所ずつ糸切れでくくり、巡拝を終り帰村した後、ある時何気なく右の糸を解いて見ると、他の部分は汗や手あかで、ねずみ色に汚れていたが、くくり糸の下は白くなっていて、飛白(かすり)の模様が現れていたのを見て、「大いに喜び、それにヒントを得て、絣を創めたのであって、現に祖母の存命中は、同行者の名前を書いたものも残っていたが祖母が死亡の際棺の中え入れたるため現存せぬのは残念である。((75))」とした説である。この3説いずれも伊予絣が久留米絣を模倣したものではないとはいうものの、確たる決め手には欠けている。
 「誤伝に関する考察」では、その1はカナ女の人物・才能面から推して十分首肯(しゅこう)できるし、その3の四国巡拝説も、「古来農村では男女の別なくぜひ一度は順拝するの風習もあり、又婦人の嗜みとして、糸切を身辺に離さなかった習慣等から、推測して興味ある説ではある。」としたうえで、その2の「藁屋根の押し竹説は、就中事実と認めらるるのである。由来押竹の斑紋は、古色掬すべきものがあって、余程珍重せられるものであるから、カナ女がこの押し竹の模様に心を動かされ、之を織布に応用しようと試みたのは同女の性格から推測しても、十分首肯し得らるるところである。((76))」と結論付けている。これを受けた昭和4年の頌功碑の碑文には、「嫗ハ天明二年二今出ノ里二生レ若キ時享和年中藁家根ヲ葺キ換エルヲ見テ押竹ヲ縛りシ痕ノ美シキ斑紋ヲ成セルヲ奇トシ之ヲ織物二応用セント志シ飛白ノ認絞りヲ伊豫絣ノ元祖タル今出絣ヲ織り始メタル人ナリ」とあり、享和年間に家の藁屋根を葺(ふ)きかえている時、押竹の縄でくくられた所は白く、他の部分は茶褐色になって、きれいな模様ができているのを見て、日ごろから裁縫や機織に熱心なカナは心を動かされ、何とかしてこの形を糸に染め布に織れば、必ず面白い絣模様ができるであろうと考え考案したという内容である。この辺の事情は『愛媛の明治・大正史』に詳しい((77))。
 『ひめぎん情報』の「伊予かすりについて」は、藁屋根の押し竹の模様に心を奪われたカナ女が、ある時四国遍路に出かけ、巡拝後、何気なく解いたくくり糸の下の綛(かせ)に現れた絣の模様で、ますます絣模様をつくり出すことに興味を持ち、幾度か綛を糸でくくり、菜の葉の汁で染めてみた。経糸もそれに合うように染めて、機にかけ苦心に苦心を重ねた末、幅に20個の十の字絣を織り出すことができ、続いて井筒絣も創り出した((78))と、「誤伝に関する考察」にあった「その2」と「その3」の説を併せた論稿となっている。
 ただ、『愛媛県史』は伊予絣の模倣説や独創説に対して、「この二つの説は後世になって書いたものであるから、疑問が残る。伊予絣は鍵谷カナ女がどこかの絣を見て、その美しさにあこがれ、昔から松山地方で織られていた伊予結城の織り方を工夫考案して伊予絣を創作したと考えるのが至当であろう。((79))」と記している。

 (イ)藍染技術の導入

 愛媛県八幡浜地方の紡績業・綿織物は、日本の紡績業の衰退する戦後の一時期まで隆盛を極めた。
 『愛媛県史』には、八幡浜地方の綿業の創業当時から発展の過程を記し、続けて「染色技術は天保5年、谷口文六が巡礼で阿波(徳島)を通ったとき、葉藍の植え付けを見て、種子を持ち帰り、葉藍の床付けは河野六兵衛が苦心の末やっと成功し、菊地豊治が絞り染めを創作するなど機業の振興に尽くした。((80))」と説明している。
 八幡浜市川舞地区の小高い山腹に建つ高神社(写真2-1-17)に、川舞の二宮市十郎の誌した記録が献額されている。それによると、「葉藍植始」として、五反田村鯨谷(現八幡浜市)の谷口文六が、天保5年(1834年)四国巡礼に出て阿波の国から葉藍の種子を購入して帰り、その栽培に成功したこと、また、藍の栽培に続いて天保9年(1838年)には苦心の末に床付(藍玉製造)に成功したことなどが記されている。
 一般に「藍玉の製造過程は阿波において長く秘法として伝えられた。江戸時代中期以降、生産・販売に関する藩の統制はきびしく、他国に製法のもれることを極度に警戒した。したがってこの時期に記された技術面の文献はきわめて少なく、1852(嘉永5)年の奥書をもつ『阿波藍製法伝授書』は、技術のもっとも発達した頃の手法を伝える貴重な記録である。((81))」といわれるほど、阿波藩では、葉藍の栽培や床付の技法は極秘にし、種子は発芽しないように煎(い)って売り渡したといわれているので、谷口文六や河野六兵衛、菊地豊治らは、その技法について、暗中模索して自力で考案したものであろうと推測される。『八幡浜市史』は、この葉藍の導入から藍玉製造成功以来の八幡浜地域の織物業の推移について詳述している((82))。また、『愛媛縣地誌』には、「葉藍は西宇和郡(19,387貫)を第一とし、北宇和郡(11,530貫)之に次ぎ、南宇和、宇摩、新居、喜多の各郡も1千貫乃至3千貫を産す。((83))」と愛媛県における葉藍生産の状況を記し、八幡浜・西宇和郡地方の葉藍の活況を裏付けている。

 キ その他技術の伝播の伝承

 (ア)鋸の製造法の導入

 高知県土佐山田町で製造される土佐の鋸(のこぎり)は全国的に有名であるが、土佐に鋸の製造法を導入したのは安芸郡田野(現田野町)の刀鍛冶(かじ)中島長左衛門であったという伝承がある。
 香月洋一郎氏は、「刀鍛冶であった長左衛門は、播州から四国遍路に来た巡礼者にオガの優秀さを伝え聞き、当時土佐には鋸鍛冶がいないことからその製造を思いたち、藩へ技術修得のための出国を願い出たが許可にならぬため、播州三木、末広の住人で四国遍路講中の者を田野に招き、技術を習得したという。今から200年近く前のことになると言われている。中島長左衛門に関わる伝承の、個々の真偽については不明である。((84))」と記している。
 近世初期土佐ではまだ二人引きのオガ(木挽(こびき)鋸)が使われていたという。その後、形が猪(いのしし)の体形にたとえられる一人引きの木挽鋸が広がる。中島長左衛門が技術を修得したのはこの鋸であったという。
 打刃物で知られる土佐山田町の『土佐山田町史』には、「もともと鋸の製法は文政末に尾立団次が安芸郡田野町より伝えたもの((85))」とある。この鋸鍛冶の技術を伝えた土佐片地の鋸鍛冶の祖尾立団次は、高知県東部の安芸方面に鋸鍛冶の名声を頼って修業に行く。そこで木挽鋸鍛造の技術を伝授したのが安芸に住んでぃた中島長左衛門である。
 この鋸鍛冶技術が土佐山田町に伝えられて以降の鋸鍛冶の隆盛について、香月洋一郎氏は「明治以降の急激な山林伐採、北海道開墾などによる刃物需要の高まりなどがあり、また、そうした地域をまわり販路を広げた、片地の鋸鍛冶の親方の動きがある。((86))」と解説している。

 (イ)炭焼きがま

 炭焼きは、煙の色や臭いから窯の中の状態を判断し、窯口と煙出しで空気の量を調節する、その煙出しが重要であるという。この炭焼きがまについて、弘法大師が伝えたとか遍路が伝授したなどという伝承がある。
 例えば、『愛媛県史』には、炭焼きがまの改良技術をお大師さんに授かったという伝承を載せている((87))。松山市や周辺地域には、「木炭製造の炭焼がまを『お大師がま』と称している。遍路からその技術を学んだという伝承である。松山市福見川では『お大師くど』と称している。昔、村人が炭焼がまを作り、火入れをしたがなかなか燃えない。思案投げ首をしている所へひとりの遍路が通りかかり、後ろのオドの所に手で穴をあけ、これが煙道だと教えた。村人はそれをお大師さんのお陰と、以後オドのことを『お大師くど』と呼び、お大師さんに感謝した。上浮穴郡美川村では『お大師穴』と呼んでいる。((88))」との伝承がある。
 香川県琴南町美台地区には、「むかし、炭焼窯には煙突がなかったが、弘法大師がこられて、窯の後ろへ穴をあけてくれた。それから炭がうまく焼けるようになった。だから、炭焼窯の火は大切にし、魚などは焼いてはならない。もし焼くと、小屋が焼けてしまうし山火事にもなる((89))」という伝承がある。
 『日本民俗大辞典』には、「西日本では煙出しをダイシアナとかショウジアナという。昔、うまく炭が焼けずに困っていたところ、通りかかった弘法大師が穴のあけ方を教えてくれたため、良い炭が焼けるようになり、煙出しをダイシアナというようになったという伝承がある。また、炭窯を伝えたのはよそから来た専業の職人であるという伝承が各地にある。((90))」と総括的にその伝承を伝えている。
 なお、慶長のころに土佐安芸地方では高橋五兵衛という遍路が瓦を焼き始めたという伝承もあるが、近世初期のことで、それを裏付ける史料がなく、伝説化されてあいまいな点が多い((91))。
 遍路や巡礼者による地域社会の住民との交流や文化の伝播は、これを裏付ける確たる史料が乏しく、その多くは伝承に委ねられている。しかし、今回あげた例以外にも遍路や巡礼が四国に様々な文化を持ち込み、また反対に四国から様々な文化を全国各地に広げていったと思われ、今後それらの掘り起こしが期待される。

写真2-1-14 宗昌禅定門の墓

写真2-1-14 宗昌禅定門の墓

五十崎町平岡の香林寺。平成14年7月撮影

写真2-1-15 大谷焼の大甕

写真2-1-15 大谷焼の大甕

鳴門市大麻町大谷。平成14年7月撮影

写真2-1-16 伊予絣創始者鍵谷カナの墓

写真2-1-16 伊予絣創始者鍵谷カナの墓

松山市西垣生町の長楽寺境内。平成14年7月撮影

写真2-1-17 「葉藍植始」の献額のかかる高神社

写真2-1-17 「葉藍植始」の献額のかかる高神社

八幡浜市川舞。平成14年9月撮影