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遍路のこころ(平成14年度)

(1)庵坊(庵主)と地域の人々

 遍路道沿いに点在する大師堂などの堂宇や庵は、札所と札所を結ぶ長丁場の四国遍路の休息所であり、その中には番外霊場になっているものも多い。ここに居住する堂守や庵坊(庵主)は往来する遍路に接待をし、一夜の宿を提供し、遍路の心を癒しもする。また、祈禱(きとう)などを通じて地域の人々とのかかわりも深い(③)。そういった堂守・庵坊と人々の交流を見ていきたい。

 ア 伊予の庵主

 (ア)鎌大師堂堂守、「自素庵」庵主 手束妙絹

 北条市下難波の腰折山の山すそ、鴻之坂(こうのさか)越えの遍路道に面した道端に番外霊場鎌大師堂がある。
 この鎌大師堂には、疫病の流行で父母兄弟をみな亡くし泣きながら草を刈っていた童児に弘法大師が、童児の持っていた鎌で仏像を刻んで、これを祀(まつ)って病気平癒の祈りをするよう諭して立ち去った後、疫病も収まり村も安泰になったので、村人は喜んで鎌彫りの仏像を堂に祀り、信仰したという伝説が残る。今も年に3回の大師忌大祭を催している。
 現在、鎌大師堂の傍らに「自素庵」とひそやかな板札のかかった庵がある(写真2-1-1)。そこに地域の人々や道行く多くの遍路から、「庵主(あんじゅ)さん」「妙絹さん」また「女良寛さん」と慕われる手束妙絹(てづかみょうけん)さんが住んでいる。昭和に入ってから5代目の堂守である。
 この鎌大師堂の堂守(庵坊・庵主)や鎌大師堂の維持・管理などについて、かつて下難波地区の自治会長を務め、現在鎌大師信仰会の世話役を務める**さん(昭和5年生まれ)に聞いた。
 **さんによると、大正のころから昭和23年(1948年)までは松峰探牛氏が堂守を務めていた。その後半年くらい若い夫婦連れが住み込んだが、鎌大師や地域の信用を傷付けるような不祥事を重ねて姿を消した。それ以来地元では、堂守について簡単な身元調査をするようになったという。昭和24年からは新居浜市出身の中井祐慶氏が堂守を務め、昭和47年(1972年)ころから依田行戒氏が、昭和54年(1979年)から現在の手束妙絹さんが先代依田氏の紹介を得て堂守を務めているという。それぞれが、比較的長い期間鎌大師堂を守っているといえる。
 この堂守の生活保障や大師堂の維持・管理は、戦前は鎌大師堂所有の山(果樹園)や田畑であがる収入で、鎌大師総代が地区住民の意をくんで、全般を取り仕切っていた。しかし、戦後は農地改革などでその収入源が断たれ、堂守の手当てや灯明料、水道・電気などの光熱費や修繕料など大師堂の維持・管理の費用の支払いや大師堂の例大祭の運営は下難波地区(約200戸)の自治会で行うことになった。さらに、この地区には鎌大師信仰会が組織されている。この会は毎月15日に役員が寄り合い、1・4・8月に行われる鎌大師の例大祭の世話や接待の準備などを主に行っている。このように堂守への生活保障は十分とはいえないにしろ、地区ぐるみで鎌大師とかかわっている。
 これに対して堂守は、朝夕のお勤めはもちろん、日常の大師堂の管理に努める。例大祭をつかさどるとともに、年2回の地区の秋回り(米の収穫期、麦の収穫期)には地区の各戸を回って経をあげる。通夜堂に宿泊する遍路の世話や接待なども行う。また、大師堂境内で行われる地区催しの行事にも参加する。愛媛を代表する民俗芸能の一つ、下難波の伊予万歳の伝承にもかかわっている。その仕事内容は地区の人々との信頼関係によるものが多いという。また、松峰氏などは法が効く(効験がある)ということで、地元の人々に灸(きゅう)をすえることもあったという。
 青山淳平氏の『人、それぞれの本懐』によると、妙絹さんがここに住む因縁ともなった先代の庵坊依田行戒氏は山梨県甲府の人で、妻子を捨て四国の寺々を巡歴するなかで、風呂敷(ふろしき)包み一つで鎌大師堂に移り住んだ世捨て人だった。酒は飲まないが山頭火と同じだとうそぶき、俳句をよくした。妙絹さんは15回の遍路行を重ね、鎌大師堂を訪ねる度に、この四国の空のどこかに自分一人を置いてくれるお堂がないものか、と行戒氏に頼んだ。その都度、「あんたに、すべてが捨てられるか。」と、行戒氏は妙絹さんをためすように言うばかりだったという(④)。
 **さんによると、病を得て老人施設へ入った行戒氏は、下難波地区の自治会へ妙絹さんを次の堂守として紹介したという。昭和54年(1979年)末、妙絹さんは一切を処分し茶道具だけ持って鎌大師堂へ来た。古希を迎えた70歳の時である。当初は生活保障の条件の低さにたじろいだらしい。しかし、季節の収穫物などが地元の人々の心付けとして届けられる。遍路や鎌大師信仰者のさい銭も生活の一助になる。加えて、地元の人々は茶の指導を求めた。それも、地区民こぞってという風で、男性組、女性組、老人組などと組を作っての参加であった。また、近在の若い女性が生け花を習いたいと弟子入りしてきた。妙絹さんは半端に捨てた自分が地域の人々や道行く遍路に助けられて生きていると心底思ったという(⑤)。通りすがりの遍路や境内の通夜堂に泊まる遍路も妙絹さんのひたむきな優しさに心を許すようになり、悩みを打ち明け、人生相談にも乗ってもらうようになる。妙絹さんの著した書がさらに交流の輪を広げていった。今でも国道196号をそれて鴻之坂越えの遍路道に入り、この鎌大師堂を訪れる遍路は多いという。
 大正7年(1918年)に建立され老朽化してきた鎌大師堂や草庵が、平成2年に再建された。この再建にあたって、地域の人々に劣らず浄財の寄付に尽力したのが妙絹さんであったと**さんは言う。
 『時実新子のじぐざぐ遍路』の著者時実氏が鎌大師堂を訪れたのは、大師堂が新しく再建されている折であった。これも新しい木の香に包まれた完成直後の白素庵での妙絹さんとの出会いであった。この再建費用に集まった浄財は6,000万円余になったという。時実氏は、「村人の鎌大師信仰はもとよりながら、庵主妙絹さんへの信頼と好意の証であろう。(⑥)」と記している。
 平成6年の夏、妙絹さんを引き付けてきた樹齢600年といわれる大師松(⑦)が枯れ始め、枯れきってしまわないうちに伐採することになった。伐採が始まる前の日、「あの松があったからこそ私も堂守に入ろうと決心できたのよ。」と語っていた妙絹さんは「大師松を切るに忍びない。」と大師堂を離れ、この大木を運び出す際に帰庵したと**さんは当時を振り返って語っている。
 歩き遍路で訪れた細谷昌子氏は、妙絹さんとの出会いを「なんと温かく、涼しげな方だろう。そこにいらっしゃるだけで、瀬戸内の穏やかな太陽の温もりと、凛とした深山の匂いたつような雰囲気が流れる。(中略)話しながら妙絹尼さんは、手際よく抹茶をたててくださった。(中略)妙絹尼さんに生け花を習っているらしい地元の二人連れの女性が訪れたので、私も暇乞いをすることにして立ち上がる。帰り道を間違えないようにと、お弟子さんを部屋に残したまま妙絹尼さんは庭に出て見送ってくださった。(⑧)」と書き記している。それぞれの人々への妙絹さんの優しい心遣いがみられる。
 今年(平成14年)93歳の高齢の妙絹さんではあるが、毎朝5時半には勤行(ごんぎょう)を欠かさない。勤行の折には北条の市街地からもお勤めに来る篤信者もいる。梅雨入り前の6月初旬には篤信者の同道で自動車遍路を行い、札所の境内は同じ篤信者の寄贈による手押し車で88か寺を打った。納札はこれも篤信者の作成した白い納札であった。若い娘さんの茶や花の指導は今も行い、地元にすっかり定着し、地元民の心の拠(よ)り所として慕われている。

  (イ)堂守としてお堂再建に取り組む

 妙絹さんとの出会いが、人生の転機になった人も多い。遍路道沿いにあるお堂再建に取り組む**氏もその一人である。昭和18年(1943年)大阪で生まれ育った**氏は、40代で念願の建築業の仕事が軌道に乗り、人生の充実期を迎えた矢先の昭和62年(1987年)脳溢血に倒れ、右手足が全く動かない半身不随になり、一時失語症にも陥る重い障害をうけ、四国遍路に救いを求めて苦行の遍路を重ねていた時期のことである。**氏は「どへんろ日記」に、「6、7年前の小・中学生程度の私が、一番お世話を掛けた鎌大師の手束妙絹様は、…(⑨)」と述懐しているが、病後の苦行の遍路を重ねる度に立ち寄り、自分の終生の場所について相談した。今も不自由な身体をおして既に三十余度の遍路を重ねているという。
 この**氏の活動状況を、「平成お遍路」(『読売新聞』平成12年7月12日付)、「法海上人堂 奇跡の人々」(月刊へんろ編集部編『月刊へんろ』 No.2~No.3及び四国へんろ編集部編『四国へんろ』 No.4~No.15)、「松尾大師堂再興記」(『四国へんろ』No.16~No.24)で簡潔にまとめると、次のようである。
 まず、平成8年愛媛県大洲市野佐来にある、10年余無住の荒廃した札掛大師堂・仏陀懸寺(ふだかけじ)へ堂守として住みこみ、その大修理をなした(写真2-1-2)。次に、平成11年には高知県東洋町から室戸市佐喜浜に至る難所淀ヶ磯にある、台風で崩壊した法海上人堂の復興に努め、さらに平成13年には高知県宿毛市と愛媛県一本松町との県境松尾峠にある大師堂跡に松尾大師堂一夜庵の再建に取り組んだ。
 これらの復興・再建において、地主や地元の許可、役所への諸届けからはじまって再建計画・資材の調達や建設は、すべて遍路や地域の人々の資金や無償での資材・労力の提供などの協力・支援を受けて取り組んできている。完全なボランティア活動であり、またそれに共鳴する人々がいてなされる行為である。

  イ 各地の庵坊

  (ア)阿波国の庵坊

 真野俊和氏は、『旅のなかの宗教』において、昭和48年(1973年)ころ土地の古老からの聞き取り調査で得た阿波国(現徳島県)の草庵(西光庵と杖杉庵(じょうしんあん))に住みついた旅僧や遍路の例を収録している(⑩)。その幾例かを紹介する。
 十九番立江寺の末・西光庵では、ここに住みついと庵坊は墓地の墓守をしていたという。その代償として地域の人は、一人あたり夏には麦1升(1升は約1.8ℓ)、冬になると米1升を集めて生活費に充ててもらっていた。庵坊はそれ以外にも村を回って托鉢(たくはつ)をしていた。住みついた庵坊が、まじないや祈禱(きとう)のできる人であれば、村人から頼まれることもあったという。檀家の葬式や法事には立江寺の住職の供をすることもあった。しかし、現在は庵坊も途絶えて久しいという。
 十二番焼山寺の近くにある杖杉庵は焼山寺の末寺にあたる。ここにも庵坊が住みついていたという。この杖杉庵は名西郡神山町下分地中の集落の管理下にあるという。ただ、この集落では特に生活費は出していないので、杖杉庵に詣(もう)でる遍路のさい銭やお茶代、それから夏・秋などの遍路の少ない季節の托鉢で賄っていたようである。時に、ごく近くで営まれる葬式や法事に出かけていって般若心経程度を唱える。ただし正式の僧侶でないので、袈裟(けさ)は着けなかった。この時にもなにがしかのお布施があったらしい。
 なお、真野氏はこの聞き取り調査で、杖杉庵では50~60年の間に庵坊は5人交代しており、遍路の途中住みついたのがはっきりしているのは1人であるが、他の者も多かれ少なかれ似たような状況であろうと推測している。また、これらの聞き取り調査のわずかな例で一般化してしまうのは危険としながらも、「アンボウになろうという者に地元の人がいないのは興味深い。」と記し、「土地の者はいかに貧しく暮すとても其親を庵主とする人は曾てなし。水飲百姓の老て掛るべき子もなき者など稀に庵主となるのみ也」と『享和雑記』の一文をあげている(⑪)。

  (イ)土佐国の庵坊

 「四国遍路と文化交流」を著した坂本正夫氏は土佐国(現高知県)の庵坊の聞き取り調査を行っている。それは次のようなものである(⑫)。
 室戸市佐喜浜町入木の仏海庵(写真2-1-3)では古くから旅の遍路が住み着いて、村人の求めに応じて祈禱をしたりしていた。このような者を村人は庵坊さんと呼んでいたが、2、3年でどこかへ立ち去る者もあるし、10年も20年もいて村で死んだ者もあり、地元で米麦などを集めて生活費を出していたという。
 明治20年代のこと、高知県安芸郡安田村(現安田町)の二十七番神峯寺を訪ねた年若い遍路があった。当時はこの札所は衰退していたということだが、この遍路が経を読むのが上手なのを見込んだ住職が引き止めて寺の小使のようなことをさせていた。後に同村内にある無住の寺の住職となって永住した。この遍路は信州(現長野県)善光寺平の小作農の三男坊であり、家では食えないので遍路となって四国路へ来たのであったという。
 また、安芸郡室戸村行当(現室戸市)では、回って来た越後(現新潟県)の遍路に村の無住の寺で説教させたところ、なかなかよい坊さんだったので数年の間留まってもらって寺を任せたことがあった。このほか、庵坊ではないが、同じ室戸村行当で、ある遍路が病気で動けなくなった。村人たちは小屋を建てて7、8年「回り養い」(地元の人が持ち回りで薬や食料を与えて世話をすること)をしたというが、この遍路が物知りだったので村の若者たちが読み書き、そろばんなどを習ったという。

写真2-1-1 鎌大師堂と白素庵 

写真2-1-1 鎌大師堂と白素庵 

北条市下灘波。左が白素庵、右が鎌大師堂。平成14年6月撮影

写真2-1-2 現在の仏陀懸寺 

写真2-1-2 現在の仏陀懸寺 

大洲市野佐来。平成14年7月撮影

写真2-1-3 旧遍路沿いに建つ仏海庵

写真2-1-3 旧遍路沿いに建つ仏海庵

室戸市佐喜浜町入木。平成13年2月撮影