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遍路のこころ(平成14年度)

(2)近代・現代の宿②

 (イ)宿坊の誕生

 昭和38年(1963年)バス遍路に参加した松田富太郎氏の遍路記『四国八十八ヶ所霊場巡拝記』によると、バス遍路の一行30名は、14泊で四国遍路を回っている。その宿泊先は、寺院6回、旅館7回、ホテル1回である。この時、松田氏は宿坊ができる以前の四十番観自在寺に宿泊している。観自在寺住職の**さん(昭和35年生まれ)は、「宿坊ができる以前は、庫裡(くり)の広い部屋に雑魚寝してもらってました。」と言う。
 **住職さんは、「お遍路さんの泊まる宿坊は、バス遍路が開始され、それを受け入れる形で始められたと聞いています。うちの宿坊は昭和45年(1970年)にできました。」と言う。バス遍路がきっかけとしても、状況は札所によりそれぞれ異なる。もともと賄い付きの大通夜堂があった六十一番香園寺の住職**さん(昭和35年生まれ)は、「バス遍路が始まる前から宿坊があった寺は、そんなに無いと思います。特別な講(信者組織)があった所じゃないでしょうか。香園寺には子安講があるので、各地から参詣して来る信者を泊める必要があったんです。今は、本州との間に橋も架かり、信者さんは日帰りできますので、宿坊の利用者はお遍路さんが中心です。香園寺には2棟の宿坊がありますが、古い方は昭和45年にできました。」と言う。宿坊建設の原因を他に求める意見もあったが、バス遍路がきっかけという意見が大勢のようである。宿坊が出来る時期も、大体巡拝バス開始時期以後、昭和40年代が多い。こうして、遍路が宿泊する場所として宿坊が新しく登場した。
 宿坊(写真1-2-5)とは、早稲田大学道空間研究会によると、「利用可能な宿泊施設として第一にあげられるのは、(中略)多くの札所が寺院内あるいは寺院に隣接したところに設けている『宿坊』である。宿坊はその定義から、遍路道の線上にあり、遍路道を外れた移動をしなくて済むという意味では最も合理的な宿泊施設である。設備、料金、サービスはほぼ民宿に準じるが、なかにはホテル並の設備をそなえた宿坊もある。宿坊での宿泊は、i)他の宿泊者もほとんどすべてが遍路者であること、ⅱ)宿坊によっては住職による説法が行われること、ⅲ)遍路の結節点である札所の『内部』に包まれているという感覚を伴うこと、等の特性をもち、遍路の旅をその他の旅から区別して特徴づける主要な要素のひとつと考えられる。(㉜)」としている。
 また、団体予約があった時のみ賄い人を雇用する経営形態の宿坊の場合は、個人の宿泊は自由にならない。香園寺のように常に賄い人がいる宿坊は少ないと思われる。遍路のシーズンのみ開いているところや、寺の行事によっては閉鎖するなどの特徴を持っている。上記のように、宿泊して勤行(ごんぎょう)があるのも特徴である。観自在寺の**住職は、「朝6時からの勤行が本堂で行われる。般若心経、御真言、法話があります。その後食事をしていただき出発ということになります。」と言う。ほとんどはこの形式である。香園寺の**住職は、「翌日、お遍路さんは横峰寺に上がるために出発が早いので、香園寺では夜の7時からの勤行ですが、夜の勤行は珍しいと思います。」と言う。食事は、精進料理を出す宿坊もあるが、ほとんどは民宿と変わらない。
 その利用状況は、愛媛県生涯学習センター編『四国遍路のあゆみ』の「遍路が利用した宿泊施設」調査(㉝)によると、宿坊は、民宿・旅館に次いで利用した遍路が多く、全体の15%の利用率(民宿は19%、旅館は16%)となっている。香園寺提供の資料を見ても、バス、自家用車、タクシー、徒歩など様々な遍路が宿坊を利用しているのが分かる。宿坊に宿泊した経験を記す遍路記から、具体例を一つあげてみる。昭和60年(1985年)に区切り打ち(全ての札所を何回かに区切って参拝する方法)をした西岡寿美子氏の『四国おんな遍路記』の一節である。「宿坊の泊まりが一般の旅館とどう違うか。(中略)部屋に通されると茶菓がでる。お風呂の案内もある。そこまでは同じだが、タオルも、寝巻も自前である。ハブラシもない。ユカタは賃貸(150円)。布団も自分で敷く。わたしが通されたのは八畳であったが、この部屋に団体なら三人くらいは泊まるようである。(中略)床板にたくさん擦り傷が付いているのは、お遍路さんの金剛杖をここに置くせいだろう。(中略)浴場は二、三十人も入れる広さ。(中略)夕食は午後六時半。大広間にずらりとお膳を並べ、泊まり客全員が揃っていただく。献立は主として精進料理だが、結構美味なうえ、量も多い。ご飯のお代わり、『酒、ビールもどうですか』と男性には声がかかっていたから、かなり自由なようである。ちゃんとお給仕のおばさんが付いている。その日は、ハマチの刺身。ナス、カボチャ、サヤ豆、レンコンの煮物。ジャガイモ、サヤ豆、シイタケ、貝柱等の揚げ物。麺とかまぼこのお吸物。キュウリの酢もみ。漬物二種。ミカン一個。(中略)なかなかの量であった。食事の後、お寺の製作したスライドを見て、お遍路の意義や心得のお勉強をする。七時から本堂でお勤め。(中略)法話はなかなかいいものだと思って一語も聞き漏らさずに拝聴した。(㉞)」著者は、宿坊が気に入ったらしく、「やはり長丁場(ながちょうば)のお遍路さんは、お寺に泊めていただいたほうがいい。」と締めくくっている。
 このような宿坊は、戦後の愛媛県内だけでも17か所に誕生した。しかし、平成14年現在、宿泊できるのはそのうち7か所に過ぎない。10か所の宿坊が、閉鎖あるいは休止している。
 資料を提供してくれた香園寺の**住職は、「当宿坊の利用者の傾向を見ますと歩き遍路は増えていますが、その他は減っています。また、総計では、昭和50年代前半が最も多く、昭和55年ころから減少傾向です。今のお遍路さんの総計は、一番多かった年と比較したら、4分の1くらいじゃないでしょうか。瀬戸内海に三つも橋が架かって、四国外のお遍路さんも日帰りができ始めました。日曜遍路で宿泊を伴わないお遍路さんが増えてきています。」と分析する。
 西岡寿美子氏の遍路記は、一方で次のように記している。「『風情、清潔、美味、人情、(しかも安価)』は、誰でも望むだろうが、わたしらは、多忙な仕事をやりくりしてきている反動で、何につけ『羽を伸ばしたい』気分がある。宿となればまた格別。日常から超脱した珍味。雅趣ある浴場。快適な寝具。行き届いたサービス。(㉟)」と記している。現代遍路の一つの意見が集約されていると言えよう。かつて、「さいなし」と嘆いた江戸時代の升屋徳兵衛、朝は「味噌汁とオコンコ」の近代、それが現代は、「朝食は、ガンモドキ、煮豆、生卵、ノリ、梅干し、タクアンと、寺らしく簡素。(㊱)」となる。現代といっても、実際は高度経済成長が始まった昭和30年代(1955年~)以来の生活の変化である。この傾向が強くなっていくと、早稲田大学道空間研究会が述べているように、「ホテル並の設備をそなえた宿坊」が必要とされるようになる。
 わずか数十年の間の社会の変化が遍路の変化を呼び、遍路の変化が遍路宿だけでなく、宿坊をも変化させてきたと言っていいだろう。

 (ウ)善根宿

 大洲市の**さん(昭和2年生まれ)は、「戦前には、自分の家もだが近所の家も二度や三度は善根宿の経験があると思います。」と言う。このように、遍路道沿いでは善根宿を経験した家がかなりの数あったと思われる。しかし、ここではある程度継続的に現在も行っている、愛媛県内の善根宿を幾つか取り上げてみる。

   a 善根宿を始めた動機

 善根宿を行う動機は様々で、大師信仰に基づくものや、ボランティアのような気持ちから善根宿を行っている場合もある。
 まず、大師信仰に基づくと思われる善根宿を紹介する。
 善根宿を始めて十数年になる小松町の**さん(昭和8年生まれ)は、母親がお大師様に祈願して授かった子だから、「お前は大師子だ」と言われて育った。県外から戻ってきた時も、故郷よりも、札所の多いこの小松町を選んで自宅を構えた。趣味で始めた陶芸も、窯の名を大師窯と名付けて、今は同好者の指導に当たっている。四国遍路の回数も十数回を数え、先達の資格を持つようになった。善根宿は「お大師さんに、ここへ行けと言われたから、お遍路さんが来ているのだ。」と思って宿を提供している。
 子供の病気が原因で大師信仰に入った新居浜市の**さん(昭和15年生まれ)。四国を離れていたが、「夫が退職になったのを機に、郷里であり、大師信仰の聖地でもある四国へ帰った。」と言う。その後、母や知人の病気で苦労する日々が続き、夫が生涯学習の遍路講座(㊲)に通っていたこともあって、一人での車遍路を思い立ち実行した。翌年には、夫が1か月掛けて歩き遍路を行った。これらの経験から、「何か人の役に立てたら。」と、夫とともに善根宿を思い立った。そのため民家を購入し、鎌大師の手束妙絹さんにお願いして「お大師さん」を勧請(かんじょう)してもらい、平成13年から土居町津根で善根宿を始めた。
 両親が千人宿の願掛けをして始めた善根宿を継承発展させているのが、内子町の**(大正12年生まれ)・**(大正15年生まれ)さん夫妻である。千人宿記念大師堂の始まりについては、愛媛県生涯学習センター編『四国遍路のあゆみ』に詳しい(㊳)。しばらく中断した時もあったが、「せっかく親の建てた大師堂があるのに」と言う人もいて善根宿を再開した。今(平成14年)は、製めん業を兼業しているが、始めたころ、讃岐の遍路にうどんの製法を教えられ、飛躍的に販売実績が伸びたことなど、「お大師さんのお陰かな。」と思うこともある。両親が、善根宿で千人の遍路を宿泊させたことを記念して大師堂を建ててから、もう75年を迎えようとしている。
 次にボランティアとして善根宿を行っている例を紹介する。
 宇和町で善根宿を始めて10年近くになるという**さん(昭和9年生まれ)は、「お遍路さんだから泊めるというわけではない。仕事の出張で来た人を泊めたりもする。子供も居ないし、少しでも人の役に立てたらと思っているだけです。」と言う。夫婦でバス遍路の区切打ちをし、一層親切を心掛けようと思うようになった。善根宿だけではなく、歩いている遍路を見たら、お金やジュース、ゆで卵やおにぎりなどを接待するようにしていると言う。
 善根宿を始めて、もう40年近くになるという西条市の**さん(昭和15年生まれ)は、「20歳のころ、自転車で四国一周をしたことがあります。遍路じゃありませんが、いろんな方の世話になりました。それに早く父を亡くしたもので、苦労している若い連中を見ると、つい声をかけます」そして「中学生時代からボランティア活動をしていましたが、農業をしている今も、仕事とぶつかったらボランティア活動を優先します。」と言う。奥さんの**さん(昭和17年生まれ)は、四国遍路2回の経験者でもある。遍路だけでなく、四国一周の大学生に泊まっていくように声を掛けたりもする。
 善根宿を始めてもう20年になる内子町の**さん(昭和8年生まれ)は、結婚5年目に夫が入院し、以来ずっと闘病生活が続いた。その間、幼い子を二人抱えて、世間の辛酸をなめ尽くしていた。そんな生活をしていたころ、木枯らしの吹く寒い夜に、遍路が溝に落ちていた洗濯物を拾ってくれた。それが縁で善根宿を提供したところ、大変感激したという礼状をもらったことがきっかけとなり、以来時々善根宿を提供し、数年後に専用の建物「お遍路無料宿」を作ったと言う。「世間の荒波にもまれたことと人に感謝された経験が、善根宿をするきっかけです。お金や物は無くなりますが、感動した気持ちは心の貯金になります。」と話す。

   b 善根宿のあらまし

 善根宿をする人は、歩き遍路を対象とするので、ほとんどは遍路道沿いに自宅がある。さらに、次の札所までの距離がかなり残されており、夕方に通りかかった場合、適当な宿泊場所は得難い所が多い。例えば、峠を越さなければ次の町には出られないような所に自宅があることが多い。
 今では遍路への勧誘のため、夕方道端で待っていたり、札所に伝言したりしている宿主は少なくなった。「出会いです。」と言うのは西条市の**さん。「ここを出ると三角寺まで札所は無いので、時間的に遅かったりすると声を掛けるんです。」遍路道の近くに水田を持っており、その見回りで出会うこともよくあると言う。あるいは宇和町の**さんのように「電話ボックスで寝ていた若者を知人が連れて来た。」など隣人の紹介で来ることもある。また、小松町の**さんも言うように、遍路相互の口コミや札所で善根宿をしていることを聞き、訪ねてくる場合も多いようである。新居浜の**さんも「口コミで来られたら100%信用して泊めています。電話があったら車で迎えに行きます。」と言う。千人宿記念大師堂(**さん夫妻)やお遍路無料宿(**さん)は、四国遍路の案内書に載っているくらいだから、遍路からの依頼がほとんどである。
 現在は自宅を宿に提供するところが少なくなった。調査した6か所のうち、自宅とは別棟になっている所が4か所である。気遣いは少なくなったが、一方で「家族みんなと一緒に食事するんです。お酒も一緒に飲んだり、遍路をする思いや故郷の話を聞いたり、すばらしい出会いです。」と話す**さんのような交流は少なくなったと思われる。**さんは、朝夕の仏壇へのお勤め、納札のお礼は、必ずあるという。別棟の建物の場合は、お勤めについては不明だが、納札は必ず部屋に残されている。ただ、かつてのように納札を特別な呪力を持つものとして大切に保存する風習は無くなってきたようである。
 ともかく、善根宿を行うということは見ず知らずの人を泊めることであり、遍路、あるいは遠来の旅人を温かく接待しようとする気持ちが基本にあってこそ初めて可能となる。その人を「100%信用する」のでなければできないであろう。

   c 善根宿をめぐる人々

 **さんは、青年の遍路がちょうど祭りの時期に宿泊したので、「『一緒に祭りをして行かんかね』と誘ったら『はい。』言うんで、法被(はっぴ)を貸してあげて、2泊して太鼓台担いでいった子も居るんですよ。」さらに「出発するときに『2泊もして、御馳走いただいて、お礼に何か農作業を手伝わして下さい』と言うんです。『うちは、泊まってもらったらうれしいんよ。』と言うて送り出したんですがね。」と笑う。この青年以外にも、かつて遍路で宿泊した学生に祭りに来ないかと連絡したところ、わざわざ高知から、原動機付き自転車で4時間掛けてやって来た。もう2回目の参加だという。善根宿と遍路の関係は、このようにして長らく続く場合がある。他の善根宿でも、5年、10年と長期間の交流が続いている例も見られる。
 **さんの善根宿に泊まり、その間の事情を遍路記に書いた遍路がいる。彼は、還暦で歩き遍路に挑戦した真言宗の僧侶であるが、善根宿を提供してくれた**さんへの礼状をそのまま遍路記に転載している。その礼状に「遍路修業巡拝中(中略)一夜の宿をお貸し下されましたこと、感謝し、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。その当日には数時間も前から野宿する場所を足の『マメ』と闘いながら探し歩いておりましたが夕方近くになっても無く、夜通し鳥坂峠を越えるか、それとも山中で寝るか等々、悩みながら歩いている時、車を止めてじっと私を見てくれました。車窓から手を大きく振りながら一戸建ての家に案内して頂き、風呂の用意やら酒、ビールもあるからと言って出してくれました(私は修行中は、アルコール類は飲まず、乗り物には乗らないと決めていたので、せっかくですが口にしませんでした。)。まったく思いもよらぬ夢の様であり感動致しました。翌朝には、朝食の用意もして頂いたのに、私が出発した後で、(中略)私が『十夜ケ橋』にいる所に、貴方様が突然に現れて、昨日の方でしょうと言って、おまんじゅう、お菓子等に合わせて大層なお接待を賜り、大変気をつかって頂きましたことは(中略)私は生涯忘れることができません。(中略)下手な俳句ですが思い出の場所です。『お接待 心に残る 十夜ヶ橋(㊴)』」と書かれている。
 図表1-2-6は、**さんの千人宿記念大師堂に残された昭和8年(1933年)の「四国巡拝人名簿」から分かる宿泊者数と、平成11年の宿泊者数を表にしたものである(十夜ヶ橋永徳寺通夜堂の宿泊者数も同時に記載している。)。人数の差は、昭和8年当時の大師堂が6畳と8畳の二間であったのに対して、平成11年の大師堂が6畳一間であることにもよるが、歩き遍路自体の人数の差が大きく影響していると思われる。この図表1-2-6から分かるように、これまでにこの大師堂で行われた善根宿の恩恵に浴した遍路たちは大変な人数にのぼるであろう。
 また、この千人宿記念大師堂にかかわったのは遍路たちだけではない。両親が善根宿で千人の遍路を宿泊させたことを記念して、昭和5年(1930年)に大師堂を建てたが、この建設にあたっては120人に及ぶ人たちが賛同し、協力している。また、昭和61年(1986年)には、老朽化した大師堂を**さんが再建したが、その時にも30人余の人たちが協力をしている。
 さらに、**さんの話によると、「近所の人や経営する店のお得意さん、それに遍路をしたことがある人等が集まって、お籠(こも)りをするようになりました。始めは2~3人だったんですが、段々に増えて20人くらいがお大師さんの月命日に集まって、お勤めして、一杯飲んで。もう25年ほどになります。」という。善根宿を囲む人たちの輪はさらに新しい活動を形成し始めている。この善根宿は、「子供たちが受け継ぐと言ってくれました。」と**さんは言う。
 近世以来、遍路の行く先々に宿泊できる大師堂などが建設され、それを利用した遍路たちは数知れない。千人宿記念大師堂は、善根宿というだけでなく、そのような大師堂がどんな経過で建設されたのかを示す一例でもある。
 最後に、善根宿に宿泊した遍路たちが、そこに置かれたノートに書き残した言葉の数例をあげる。

   ○ 11月24日 和歌山県 男性 年齢不詳
     テント持参の遍路。あちらこちらでテントを張りながら歩いていると、本当に畳のある部屋で寝ることは幸せの一言
    につきる。海、川、公園、バス停、JRの待合所そして通夜堂、あるいは神社にもお願いして泊めてもらった。寒さが
    身にしみる今日この頃、こんなお堂で一夜を過ごせるのは、本当にありがたいことだと思っています。
     歩いて遍路をしていると、色々の友達と出会う。歩いている人の心は様々、どんな心で遍路しているのだろう。歩く
    ことによってその心がどのように変化していくのだろう。歩くことによって、その心や思いが癒(いや)されて行くのな
    ら、その遍路は、きっと次のステップになることだろう。有り難うございました。
   ○ 7月23日 広島県 女性 年齢不詳
     今日は電話も入れず勝手に上がってしまって申し訳ありませんでした。いかなりの訪問にもかかわらず、快く受け入
    れて下さり、しかもシャワー、美味しいごはん(うどん、煮物)まで出して下さって本当に感謝の気持ちで一杯です。
     私は今回の旅でいろんなものを日々に得ています。まず自分に自信が持てるようになりました。今までは少しでも失
    敗したりすると「何で私はこうなんだろう。ダメな人間だ。」と卑屈になっていました。そんな自分が一人で毎日歩き
    続けている。しんどくて暑くて足が痛くて、もうやめたいと思ったことも何度もあるけど、それでも今日まで頑張って
    きました。今回のこの旅は必ず今後の私の人生においてプラスになるでしょう。あと、私かここまで頑張れたのは、地
    域の皆さんやボランティアの方々のお陰です。励ましの言葉や、数々のお接待、いろんな所にある立て札や、山道の整
    備をして下さった方々、すべての人たちのお陰です。人間ていうのはやっぱり一人では生きていけない。お互い助け合
    い支え合って生きていくものなんだと感じています。今後何らかの形で返していきたいと思います(とりあえず、今は
    空き缶を拾っているだけですが…)。
   ○ 10月30日 神奈川県 男性 59歳
     歩き続けてやっとここまで来ました。私にとってここは想い出深い所で、一生忘れることのできない所です。初めて
    お会いすることができうれしく思います。また、柿や梨のお接待や夕食まで頂き、一夜の宿まで下さって、大変うれし
    く思っています。ただただ感謝するのみです。いつまでも健康で幸せでお過ごしいただきたいと思います。本当に有り
    難うございました。南無大師遍照金剛。お礼も言わず旅立つことをお許し下さい。

 (エ)通夜堂その他

   a 通夜堂

 現在(平成14年)も賄い付き通夜堂として、愛媛県内で運営されている施設には、仙龍寺通夜堂がある。しかし、現在は大師講の信者が対象で、遍路への提供は行っていない。そのため、ここで取り上げるのは無料宿泊施設としての通夜堂である。近代には、ほとんどの札所に通夜堂があったが、その後、多くの通夜堂は取り壊され、現在も愛媛県内に残されているのは、札所と主な番外霊場を含めた35か寺中9か寺である。しかし、近来増えつつある歩き遍路を中心に、かなりの利用者がある。その実態を見てみよう。
 かつて通夜堂があった、六十四番前神寺住職の**さん(昭和25年生まれ)は、「通夜堂という建物があったのではなく、幾つかの部屋の内の一つに『通夜堂』という札が掛かっていました。ほかの部屋は石鎚講の信者さんが、縁日の日に使っていて、一部屋がお遍路さん用に開放されていたんです。15畳くらいの細長い部屋です。建物の外には、簡単な屋根が付いたかまどが二つ築かれていて、その上に真っ黒になった鍋がつってあったように記憶しています。谷から引いてきた水が3段になった水槽に溜められていました。お遍路さんが托鉢でもらった米や野菜を調理していたんだと思います。風呂は石鎚講の縁日の時に沸かされるくらいで、お遍路さんは近くの湯之谷温泉に行っていたと思います。宿賃は無かったんじゃないでしょうか。50円とか20円とか置いて行かれたようですが、お礼だったんだと思います。」と言う。前神寺は昭和42年(1967年)に本堂が火災に遭い、消防署などから「どこのだれが泊まっているか分からんでは困るんです。」との指摘を受けたことなどもあって、通夜堂を壊して宿坊を作った。「お遍路さんには残念がられました。通夜堂はいわば善意のお接待ですから。しかし、消防署が言われるのももっともです。」通夜堂が取り壊されていった背景には、このような火災の問題や歩き遍路の減少の問題、さらに遍路でもない人間が勝手に通夜堂を悪用する問題などがあり、その管理の難しさがうかがえる。
 一方、平成10年に老朽化した通夜堂を再建して、遍路の宿に供しているのは、大洲市にある番外霊場の十夜ヶ橋永徳寺である(写真1-2-7)。十夜ヶ橋は、大師が修行中に宿を借りることができず、橋の下で一夜を過ごしたと伝えられる霊場で、橋の下には横になった大師像が祀(まつ)ってあり、野宿や通夜に縁が深い霊場である。十夜ヶ橋永徳寺の副住職**さん(昭和46年生まれ)は、「昔は大師講で通夜堂に集まることもあったようですが、今はお金も持たずに歩かれているお遍路さんが夜を過ごすためのものであり、料金はいりません。」と話す。6畳一間で、布団は接待で置いてある。壁にはカナダ人の遍路が描いた大師像が掛けられていた。食事や風呂はない。便所は別棟だがいつでも使用できる。風呂屋は歩いて5分の距離にある。利用者数は図表1-2-6の通り(通夜堂内に置かれた遍路ノートに自ら名前などを記人した遍路の人数)で、年間を通してかなりの利用者になっている。「うちの場合、昔から通夜される方は多かったと思います。現在も暖かいころには橋の下で通夜される方がかなりおられます。そんな関係で、現在も通夜堂の利用者が多いんです。宿泊依頼の電話があった時には、男性も女性も同じ部屋で、食事も風呂もありませんが、それでよろしければどうぞ利用して下さい。と応じています。」また、「女性の方が泊まられるとき、男性が寝袋を持っていたら橋の下での通夜をお願いしています。また夜中に浮浪者が入って来てもめたりしたこともあります」と言う。橋の下はコンクリートで、吹きさらしではあるが、通夜できる広さは十分ある。**さんは「若い人が何周も四国遍路をされるうち、段々いい顔になっていくのを見て、これがお遍路さん、お大師様のお陰なんだなあと思うことがあります。」と語っている。

   b その他

 江戸時代には遍路道沿いの大師堂や観音堂などに泊まった例が幾らもあったが、現在はどうであろうか。時折、遍路が宿泊している伊予三島市の三谷大師堂を管理する**さん(大正12年生まれ)は、「この大師堂は母が近所の人の協力もあって再建したもので、大師堂の前にある6畳一間の建物は私が再建しました。遍路の案内書(㊵)に三谷大師堂というのが載るようになって、それを見たお遍路さんが泊めてくれ言うて来だしたのが、泊める始まりです。この6畳に寝てもらうんですが、食事もないし、風呂もないし、布団もない。便所は近くのゲートボール場のを使ってもらっています。別に善根宿ではありません。何も出来んから、朝だけ弁当を買って来てお接待しています。」と話す。善根宿が始まりで、千人宿記念大師堂が生まれたのに対し、ここは大師堂があって遍路が宿泊し始めた。この大師堂は、結果としては善根宿の範疇(ちゅう)と思われるが、遍路を宿泊させ始めた出発点が違うのでここに記した。
 野宿や管理人の明確でない場所での宿泊は、実態の把握が難しい。平成7年に野宿遍路を行った松坂義晃氏の記述から、その一端を探ってみたい。松坂氏の遍路記を見ると、37泊のうちテント泊が24回で、全体の60%を超えている。テントはどこでも張れるものではなく、今夜はどこで寝ようかといつも心配しなければならない。「わざと気にしないふりをしていつもの調子で歩き続けてみるが、矢張り夕方寝場所の当てもなく歩くというのは切なくてたまらないものだ。」と書いている。彼は、キャンプ場、神社の境内、屋根付き休憩所、川の土手、橋の下、駅舎内、公園など様々な場所を探してテントを張っている。公園でテント泊をしている時に台風に遭遇し、急きょ屋根付き休憩所ヘテントを移動したが、「時々吹き飛ばされそうになるテントを両腕で押さえるのに必死で、とても寝るどころではなかった。夜半が近づくにつれ、風はさらに強くなってきた。そしてとてもテントを張り続けられる状態ではなくなった。水も浸み込んできていた。私はあきらめてテントを撤収することにした。」という苦労をしている。かつて江戸時代の甲斐の兵助も、大正期の高群逸枝も野宿で雨に遭って苦労しているが、現代のテントでも台風にはなす術(すべ)がなかったようである。
 しかし、テント泊で小学生のキャンプと一緒になり、子供たちとの交流が生まれ、最後には残り物だろうが、カレーの接待を受けた。彼は「一皿に大盛りにされたカレーを持って(中略)子供が何も言わず私の前に立った。(中略)私は本当はもう腹いっぱいだったけれども、嬉しさのあまり数分でそれを食べてしまった。その間ずっと立ったまま、私の食器の空くのを待っていた子供の姿が今でも忘れられない。(㊶)」と記している。

写真1-2-5 五十六番泰山寺宿坊

写真1-2-5 五十六番泰山寺宿坊

今治市小泉。平成14年9月撮影

図表1-2-6 善根宿・通夜堂理容者数

図表1-2-6 善根宿・通夜堂理容者数

十夜ヶ橋は、平成13年10月~平成14年9月である。千人宿記念大師堂・十夜ヶ橋永徳寺提供の資料より作成。

写真1-2-7 十夜ヶ橋通夜堂

写真1-2-7 十夜ヶ橋通夜堂

大洲市徳森(左側の建物)。平成14年7月撮影