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遍路のこころ(平成14年度)

(1)接待①

 ア 接待の意味

 (ア)「接待」という語

 現在、一般的に使われている「接待」という言葉は、人をもてなすという意味である。日本でのこの語の初出例は、鎌倉時代の道元の『正法眼蔵 安居』(寛元3年〔1245年〕)に「諸方の接待及び諸寺の旦過みな門を鎖せり」とあるのがそれだとされ、旅人に茶を施すという意味合いで用いられたという。その後の用例もおおむね同様で、近世に発達した俳諧の世界においても、茶を振る舞うという意味の秋の季語として使われたようである。しかしこの語は、四国遍路の世界では茶のみにとどまらず、それ以上の広い意味合いを持って発展することになる(①)。
 それでは、四国遍路における接待をどう定義すべきだろうか。山本和加子氏は、接待とは「遍路している人を助けるために、米・味噌・野菜の食べ物や、わらじ、手拭、ちり紙などの必要品を与えてねぎらう風習がそれである。(②)」と述べている。また前田卓氏は、「庶民などが門前や路傍で行脚の僧や巡礼に湯茶や更には金銭や品物を施す(③)」ことが接待であるとし、星野英紀氏は「接待とは遍路者に対して金銭や物品類を与える慣習のことである。(④)」と定義づけている。さらに藤沢真理子氏は、「物品や行為などで親切を施すことをお接待という。(⑤)」として、例えば遍路を自動車に同乗させて運ぶといったような「行為」もまた接待であると指摘している。
 遍路に無料で宿を提供する善根宿を接待の範疇(はんちゅう)に含めるかどうかについては、谷口廣之氏は「四国八十八ヶ所をめぐるお遍路さんに米銭を施したり、宿を提供したりする、それがお接待である。(⑥)」として、無料宿泊もまた接待としてとらえている。また新城常三氏は、「旅宿の積極的な提供、すなわち善根宿も実質的には接待であり(⑦)」としながらも、「接待は、一般に積極的な物品の供与を指し、宿泊の積極的提供は接待といわず、普通善根・善根宿等というようである。(⑧)」と指摘している。さらに星野氏は、その著書の中で接待講を論じるに際して、「接待の範疇に、遍路者に無料で一夜の宿を提供する、いわゆる善根宿を含める場合もあるが、ここではそれを含めず遍路者に対する金品の接待のみを扱うことにする。(⑨)」という限定を加えている。古い例では、元禄3年(1690年)の真念の『四国徧礼功徳記』に「接待をし、宿をかしなど、こゝろざしあさからず(⑩)」という言葉が見え、ここでも接待と善根宿を明確に分けている。
 以上をまとめてみると、接待とは、狭義の意味においては四国遍路に対する物品・金銭・行為(労力)を無償提供する風習を指し、広義の意味においてはそれらに善根宿などの無料宿泊の提供を含むと考えられる。本節では、そのうち狭義の意味に限定して接待を取り上げることとし、宿泊については次節「遍路の宿と交流」において述べることとしたい。
 なお、接待をさらに厳密に定義づけるならば、托鉢(たくはつ)(行乞(ぎょうこつ)・お修行)など遍路者の求めに応じて行う受動的なもてなしとは異なる点が重要である。この点について新城氏は、「積極的に、遍路に乞われずして物を施し、乞われずして宿泊さす慣行が、広汎に存していた。(中略)すなわち接待である。(⑪)」として、遍路による要求の有無にかかわらず「積極的な物品の供与」などを行うことが接待だとしている。同じく小嶋博巳氏は、接待について「遍路に対して食料や日用品、あるいは金銭などを、無償で、自発的に提供すること(⑫)」とし、星野氏も「接待の特徴は、乞われて初めて与えるという受動的態度ではなしに、積極的援助という能動的姿勢がその根底にあることである。(⑬)」と述べている。
 なお、この接待という言葉は歴史的・地域的な差異により様々な名称で呼ばれてきた。白井加寿志氏は、接待のほかにも、施得・施泰・施行・施与・恵施・布施・供養・饗応(きょうおう)・ふるまい・ほどこし、などという異字、あるいは別の言い方を紹介している。さらに、例えばそれが茶であれば門茶・施茶・振舞水・茶頭などという言い方もあること、遍路を無料で川を渡す労力奉仕を「善渡し」と呼ぶことなどにも言及している(⑭)。また、江戸時代の文献などを見ると「せったい」の表記に「接」と「摂」の二通りの字が使用されているが、この点について近藤喜博氏は「摂ハ接二通ズ」るとして変わりはないとしており(⑮)、白井氏もはっきりした結論は出ていないようだと述べている(⑯)。
 白井氏はさらに、一般的に接待が、地元四国では「お」をつけて「お接待」と呼ばれている点にも注目する。氏によると、お接待は、お四国・お遍路さんなどの呼ばれ方と同じ流れの中で理解されるべきであり、昔から接待を行う人々は「四国を霊場として尊び、そこを苦行しながら廻る巡礼を、とくにお遍路さんと呼んで大切にもてなす」ために、「『お接待』という習俗として、時代による変遷をしながら、根本的な心は継承し、実践してきた、してきている(⑰)」という。白井氏は「お接待」という言葉の中に、接待を行う人々の特別な思い入れを感じ取っているのである。

 (イ)接待の内容

   a 物品を提供する接待

 本節では、四国遍路に対する物品・金銭・行為(労力)を積極的に無償提供する風習を接待としてとらえると述べた。それでは接待の内容として具体的にどのようなものがあるのか、まず物品を提供する接待から整理をしておきたい。
 江戸時代から戦前にかけての接待で出された食べ物としては、その場で食するご飯類・湯茶・甘酒をはじめとして、携行も可能な餅(もち)類・漬物・梅干・味噌(みそ)・煎(い)り豆・ふかし芋・ミカン・梨など多種多様なものがあげられる。また、持ち運ぶのにはやや重いものの、白米の接待も一般的であった。食べ物以外の物品では、道中にどうしても履き替えが必要な草鞋(わらじ)やチリ紙などの紙類が主で、変わったものとしては弘法大師や四国霊場について記した本の接待(施本)などがあげられる。これら接待品には、それぞれ地域的・年代的にある程度差異が見られる。
 さしあたって必要のない物品をもらった遍路は、遍路道沿いの町で売ったり他の物と交換したりして、遍路行を続けるために役立てた。その代表的なものが白米で、宿で炊いてもらったり宿泊費の一部に充てたほか、余った分は売って現金に換えた。遍路の米には功徳があるとして、わざわざ高く買い取る人も多かったからである。
 現代の接待品については、平成3年に藤沢真理子氏が各札所の主に納経所で働く人々を対象に聞き取り調査を行っており、その結果を見ると、餅類・ミカン・お茶・ご飯類・ふかし芋など昔と同様の接待品に加えて、食べ物ではお菓子や菓子パン、ジュースなどの飲料水が登場しており、食物以外ではティッシュペーパー・巾着(きんちゃく)袋・タオルなど、すぐに役立つ旅の実用品が接待されているのが分かる。また、うどんの接待が多いのは香川県だということであり(⑱)、そういった意味では接待品に地域の特色も出ている。
 そのほかごく最近の接待品の事例として、交通量の多い道路を行く歩き遍路に対する活性炭入りのマスクや反射シールなどがあり、これなどはきわめて現代的な接待品だということができる。

   b 金銭を提供する接待

 次に金銭の接待だが、お金の接待が12.8%もあかっているように、これも江戸時代から現代に至るまで続く接待である。今は主として歩き遍路に対し、飲料水代程度、あるいは500円・1,000円を接待する場合が多いようだ。また、接待品にさい銭として5円玉・10円玉を添えて渡す場合もある。もっとも、いくら接待だからといって金銭をもらうことに抵抗感を感じる遍路も中にはいるようである。
 形を変えた現代の金銭接待の例として、遍路宿の中には、いったん宿泊料を受け取った後に改めて接待として遍路に千円札を渡す宿、あるいは歩き遍路に限って宿泊料を接待する(無料にする)宿もある。かつては札所寺院が納経料を接待で無料にした場合もあり、事実、最近まで歩き遍路に限って納経料無料の接待を行っていた番外霊場もあるという。さらに、古くから遍路が長旅の疲れを癒(いや)す場所となっていた松山市の道後温泉では、江戸時代中期ころまでは遍路に限って3日間湯銭を免除する取り決めがあった(⑲)。
 大坂から讃岐丸亀(現香川県丸亀市)への江戸時代の渡航費を調査した白井加寿志氏によると、金毘羅(こんぴら)参りの人の渡航費よりも遍路のそれが安価であるとして、「金毘羅参りと遍路とを比べれば、同じ時代、同じ業者であっても遍路の船貨の方が安いというところに、遍路の庶民性が確認されるような気がして興味深い。(⑳)」と述べている。紀伊加太浦(現和歌山市)から阿波撫養(むや)(現徳島県鳴門市)への航路についても四国遍路への渡航費の減免措置がとられており、こういったことも遍路に対する金銭の接待ととらえることができる(㉑)。

   c 行為を提供する接待

 3番目は行為(労力)を提供する接待である。江戸時代によく見られたのは、髪結い(床屋)が札所境内などで遍路の頭髪を整える月代(さかやき)の接待で、こういった整髪の接待は明治40年(1907年)ころまではあったということである(㉒)。同じく按摩(あんま)やお灸(きゅう)の接待については、現在でも行われている例がある。打戻りの遍路道沿いにある家が遍路の荷物を一時的に預かるのも、行為による接待に含まれるだろう。
 交通関係では、江戸時代、阿波の吉野川や伊予の肱川など橋のない大河を無料で渡すいわゆる「善渡し」が知られている。川渡しについては、接待を思い立った人が数日間渡し舟を借り切って施しで遍路を渡したり、川が増水の時に限って地元の庄屋や村人が遍路を助けて渡したこともある(㉓)。
 また、遍路のために遍路道を整備するのも行為による接待といえよう。近藤喜博氏によると、阿波の六十六番雲辺寺から讃岐の六十七番大興寺に向かう50丁の山道を、遍路に出た土佐の人物が承応2年(1653年)に独力で切り拓(ひら)いたという。また、同じく江戸時代前期に、土佐の番外霊場・月山から三十九番延光寺に向かう途中の遍路道沿いのある村では、庄屋をはじめとする村人が遍路の往来の便を図って曲折した道を直線に付け替えたといい、これは地元の人々による道普請の接待である(㉔)。
 江戸時代の遍路道沿いの村々では、病気で行き倒れた遍路に対する接待にも篤(あつ)いものがあった。そういう遍路が村内に来ると、村人たちが藁(わら)や竹を少しずつ持ち寄って小屋掛けし、その中に収容して食事などを与えて療養させた。また「村送り」といって、その遍路を各村々の人々が故郷に向けて順番に引き継いで運ぶということも行われていたのである。
 そして、もし病気の遍路が村内で死亡すると、所持する納札(おさめふだ)などによって住所が判明すれば遍路の故郷へ便りを出したり、遍路の遺体を埋葬して墓を建てたりすることも行われた(写真1-1-2)。死亡した遍路に所持品やお金があれば埋葬・墓作りの必要経費に充てられるが、そういうものがなければ、これもまた村人たちの労力奉仕となる。こういった例は、結願することなく死亡した遍路を、四国の人々がいかに温かい眼で見ていたかということを如実に物語っている。
 現代において、行為による接待の代表的なものは、歩き遍路を自分の自動車に同乗させて運ぶこと、いわゆる車接待であろう。ただ車接待については、歩くことそのものを目的にしている歩き遍路が多いので、ありがたいと思いながらも断わるという場合もあるようだ。
 道行く遍路に対する温かい言葉掛けも接待である。遍路に道を聞かれて丁寧に教えることはもちろん、ちょっとした励ましの言葉であっても、疲れた遍路には心に響くものである。ある遍路は、「言葉のお接待っていうのがあるんでしたら、(中略)子供たちが『こんにちは』とか『ガンバッテー』とか声を掛けてくだざるのが、とっても嬉しかったです。(㉕)」と語っている。また田崎笙子氏の『娘遍路』には、「最御崎寺で出会ったおばあさんは私の手を握って、じっと私の顔を見つめて『まわっている間にかならず良いことがありますからね。』と言ってくださった。それだけです。しかし疲れている私にとって、その言葉がどんなに嬉しかったことか。思わず手を合わせました。(㉖)」という体験が記されている。

 (ウ)接待の約束事

 接待は、四国遍路の歴史とともに形成されてきた風習である。その長い歴史の中で、接待を受ける遍路と接待を行う側の両者について、一種の作法ともいうべき暗黙の約束事が成立した。現代では急激に失われつつある、接待にかかわる約束事について見ていきたい。
 まず接待を受ける側の遍路について最も重要なのは、接待は断わってはならないという点である。遍路は、接待者に「お手のうちを取って下さい。」と言われれば、好むと好まざるとにかかわらず、その接待品をもらわなければならない(㉗)。もし断わると、以後、その遍路は接待に出会うことが全くなくなる、あるいは道中に何らかの罰を受けるとされているのである。
 接待品をもらう際の作法としては、昭和6年(1931年)に発行された安田寛明の『四国遍路のすゝめ』によると、遍路が接待を受けた場合には「なるべく笠(かさ)を脱(ぬ)ぎ納(おさ)め札(ふだ)を差出(さしいだ)し有(あ)りがたく拝受(はいじゆ)して、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじよこんごう)に心經(しんぎやう)の一巻(いつくわん)を讀誦(どくじゅ)するか或(あるひ)は御詠歌(ごゑいか)を唱(とな)へて心(こゝろ)からの感謝(かんしゃ)を表(ひよう)すべきです。(㉘)」とある。特に、受けた接待のお礼として接待者に自分の納札を渡すのは最低限の約束事であった。
 一方接待を行う側については、遍路であれば相手を選ばず接待するというのが原則である。したがって現代の接待においても、例えば歩き遍路と団体バスの遍路で差をつけて接待しているというような例はあまり見られない。
 接待のお礼として遍路からもらった納札については、それを集めて家のお守りとする風習がかつて一般的に行われていた。例えば、納札を小さな俵に入れて家の鴨居(かもい)や屋根裏・軒下につるしておく、同じく幾重にも折り、縄にはさんで玄関の裏側などにつるしておく、札の中の弘法大師の絵の部分だけを切り取って戸口に貼(は)りつけておく、といった事例が四国各地で見られる(㉙)。これらはすべて、納札に対して魔よけや盗難よけ、あるいは招福などの霊験を期待したものである。
 松山市教育委員会編の『おへんろさん』には、絶対に接待をしない村が火事になった際、一人だけ接待を行っていた老人の家では納札を入れた軒下の俵が焼けただけで済んだという、ある番外霊場の住職の戦前の見聞が記されている。納札には呪力(じゅりょく)があり、それは接待という積善の功徳の結果と考えられていたことをうかがわせる話である(㉚)。
 そのほかに納札の扱いとしては、お札流しの供養の際に出して海に流したり、一か所に集めて供養して焼いたりする風習が四国各地にあった。現在でも行われている事例として、松山市近辺の札所が合同で高浜港沖で行う納札流しがよく知られている。

写真1-1-2 松山市南高井町に残る遍路墓

写真1-1-2 松山市南高井町に残る遍路墓

平成13年6月撮影