データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 奥内の農業と人々のくらし
(1) 奥内の農業
ア 奥内の農業の様子
「私(Bさん)は兼業で農業をしていますが、現在は、稲作だけでなく10年くらい前からユズも作っています。
奥内の農業は自給的な農業で、土地が広いわけではないので、専業農家は少なく、兼業農家が多いです。会社勤めの人や個人事業主の人が休日に米作りをしています。私の家は祖父が専業農家でしたが、父は働きに出ていた兼業農家でした。
昭和45(1970)年から減反が始まりましたが、もともと奥内は田んぼの面積が広い地域ではなかったので、米の作付面積を減らさなければならないということはあまりありませんでした。私の家も含めて、この地域の農家は自分の家で食べる分だけの米しか作っていないところが多かったので減反の影響はなかったと思います。
子どもの頃と比べて、農業機械を導入したことや農道が整備されたこと、あぜがコンクリートになったという変化はありますが、田んぼの面積はそんなに変わっていません。」
イ 子どもの手伝い
「私(Bさん)が家の農業の手伝いを始めたのは小学校高学年の頃で、初めはわらを運んだりしていました。今は農協から育苗箱の苗を購入していますが、昔は家ごとに苗代がありましたので種もみから苗を育てており、その苗を取って束にして縄で縛る作業や田植も手伝いましたし、農業機械を使い始めるまでは、まだ手で稲刈りをしていましたので稲刈りも手伝っていました。
田植のときは、稲を植える場所を示すための縄を引くのは祖父と父の仕事で、植えるのは女性や子どもの仕事でした。私が20歳代前半までは田植機はありませんでしたので、私が大人になってからは縄を引くのが私の仕事になりました。」
ウ 農業機械
「私(Bさん)が20歳代後半のときに、歩いて押しながら使う田植機が導入されましたが、その後は乗用の田植機に代わりました。機械が導入された頃は、稲刈りは手で刈るか、歩いて押しながら収穫して束にするバインダーというものを使っていました。脱穀だけできる脱穀機を使っていて、脱穀機を祖父や父が担いで田んぼまで運んで使っていました。その頃の脱穀機は、脱穀と発動は別で、発動機という小さなディーゼルのエンジンを回転させてベルトを掛けその動力で脱穀機を動かしていました。その後にハーベスター(自走自脱型脱穀機)になり、機械をその場所に持っていきもみを入れたら脱穀できるものになりました。バインダーで稲を刈った後は束をまとめて置いておきます。何日かシートをかぶせておいてから、機械を持っていき脱穀していました。」
エ 山での稲作
「私(Aさん)の子どもの頃には、山の上に田んぼを持っている人がいたことを憶えています。その田んぼは広く、牛を使って農作業をしていました。現在は米作りをやめて植林していますが、石積みは残っています。今は害獣も多いので、米作りをしても害獣の餌になってしまいます。
農業機械を購入するようになったのは、父が働きに出るようになってからです。昔は共同で田植などをしていましたが、各家庭が単独で稲作をするようになってからは農業機械が必要になりました。山の上の田んぼで米作りをやめた理由の一つとして、農業機械が入らないこともあったのだと思います。」
オ 林業
「奥内では林業だけをしていた人はおらず、農業の合間に林業をしていた人がいるくらいです。昔は奥野川地区には林業を専門でやっている人がいたそうです。
私(Bさん)の家でも林業をしており、祖父のときは木炭を焼いて出荷していたと聞いています。祖父は専業農家だったのでできたところもあるのではないかと思います。父は働きに出ていたので、仕事が休みのときに山林の手入れに行ったり、植樹や間伐に行ったりしていました。
昭和38年(1963年)の木材輸入の自由化の影響が大きかったと思います。かつて父は子どもに一財産残そうと思って林業をしていたと思いますが、暴落後は利益が少なく、今は木材の価格が安くなってしまい、木材の売り上げよりもコストの方が高いくらいです。」
カ 奥内の水利
「奥内の米作りは山の水だけを利用しており、ため池やポンプはありません(写真2-3-7参照)。奥内は水が豊かなので、山から流れてくる川の水を分水して田んぼに入れており、下の方の田んぼも困ることはないため、水で争うことはあまりなかったと思います。はっきりしたことは分かりませんが、原生林があることも水が豊富な理由ではないかと言われています。
自然の山からの水が頼りですので、日照りが続くと水が足りなくなることもありますので、昔は水の神様にお願いしていたそうです。70歳代の人からおじいさんやお父さんは山に祈禱(とう)に行っていたという話を私(Bさん)は聞いたことがあります。」
(2) 昭和40年代のくらしの記憶
ア 買い物
「食事は自分のところで作ったお米を食べていました。買い物については、行商の方が売りに来ていましたので、自分が買いに出るということはありませんでした。あとは父が仕事に行っていましたので、その帰りに買い物をしていたと思います。
行商の方は宇和島から来ており、私(Bさん)たちは大浦のおばちゃんと呼んでいて、いりこやじゃこ天といった海産物を売っていました。大浦のおばちゃんは予土線で真土駅まで来て、そこからリヤカーを引いて奥内まで行商に来ていました。
日用品は、吉野にあった雑貨屋に注文して配達してもらっていました。ティッシュやしょう油がなくなったら注文してまとめて持ってきてもらっていました。雑貨屋の従業員のおばさんが単車に乗って配達してくれていました。私が小学生の頃はまだ来ていたと思います。」
「吉野から魚屋も配達してくれていました。今の移動販売のようなものでした。当時は吉野に店がたくさんありましたので吉野とのつながりが強かったです。
私(Aさん)が小学1年生か2年生のときには吉野に映画館があり、学校でまとまって行っていました。私の子どものときには奥内の集会所にも移動映画館が来ていて映画を観(み)た記憶があります。」
「当時は買い物に行くにしても、バスで行くか歩いて行くかでした。歩いても1時間くらいで吉野に行くことができていました。私(Bさん)を含めて昔の人は歩くのが苦ではありませんでした。」
イ バス停
「バス停までが遠く、私たちの地域から1番近いのは奥野川地区の本村組にあるバス停でした。家からそこまで2㎞から3㎞はあったと思います。
通学でも通勤でもバスが使われていましたから、朝は乗客で一杯だったことを私(Aさん)は憶えています。」
ウ 道路の整備
「私(Bさん)が子どもの頃、生活で困っていたことは特にありませんでしたが、今と比べていろいろと不便でしたので、親は苦労していたのかもしれません。」
「農協などが荷物を持ってくることがあったのですが、私(Aさん)が子どもの頃は車が通ることができる家までの道路はありませんでした。家からかなり離れている終点と呼んでいた場所から親が荷物を運び上げていましたが、小道でしたので荷物を担いで運ぶのは大変だったと思います。昭和40年代半ばだったと思いますが、私が高校生のときに道路ができて便利になりました。」
エ 水道とテレビ
「この地域は水道が通ったのが早かったと私(Aさん)は聞いています。ほかの地域が井戸の水や山水を使っているときに簡易水道が通っていました。ほかの地域からこちらの診療所に来た先生が蛇口をひねったら水が出るのが珍しいと言っていたそうです。
テレビの共聴施設も早かったと思います。テレビが普及し始めた頃は共聴でしたが、ほかの地区がテレビの映りが悪いと言っているときにこちらはきれいに映っていました。」
オ 自動車の普及
「私(Bさん)が子どもの頃は自動車を持っている人は少なく、交通手段はバスかバイクでした。父親が125ccか90ccくらいのバイクを持っていたので後ろに乗せてもらったことを憶えています。自動車が普及してからは、持っていても一家に1台だったと思います。」
「昭和40年代から自動車を購入する人が出てきて、父が自動車を買ったのは昭和42年(1967年)くらいだったと思いますが、私(Aさん)が高校生のときには家に自動車がありました。私が運転免許を取ったのは昭和46年(1971年)で、免許を取ったら自動車が欲しくなって購入しました。その頃から自動車が普及していったと思います。昔は道が整備されていなかったのですが、そこまで不便だとは思っていませんでした。
自動車を購入する前の話ですが、子どもの頃に農協の三輪自動車に乗ってみんなで滑床まで行ったことを憶えています。今のような丸ハンドルではなくバイクみたいなハンドルの車だったと思います。まだ目黒へのトンネルも開通しておらず、峠を越えて行きました。」
カ 大雪の記憶
「それほど雪で困ったことはありませんが、たまに大雪になることがありました。吉野の方は積もりませんが、私(Aさん)たちが住んでいる奥内は積もりました。小学生のときは大雪になると休みになっていたことを憶えています。
私が吉野の郵便局に勤めていたときに年末に胸の高さまで雪が積もったことがありました。朝起きると車庫の前の雪が車のボンネットと同じ高さまで積もっていました。私は仕事を休んでも良いと言われましたが、妻は仕事に出なくてはいけなかったので一緒に歩いて行ったことを憶えています。私が憶えている限りでは、そのときが最も降りました。」
(3) 子どもの頃の記憶
ア 子どもの頃の遊び
「昭和40年代、私(Aさん)は小学校や中学校に通っていました。小学生のときは山に穴を掘って洞穴を作ったり、自分たちが作った罠で小鳥を捕ったりしました。広場がありませんでしたので、柔らかいボールを使った手打ちの野球をするくらいでソフトボールや野球をすることはなく、私たちの年代は自然の中で遊んでいました。
田んぼで遊んだ思い出は、自分で作ったゴム動力の飛行機を飛ばしたことです。冬に雪が降ったときには農道の雪を固めてソリ遊びをしました。」
「私(Bさん)が子どもの頃から田んぼや庭先で野球をするようになりました。ほかには、山や川に行って遊んでいました。山で秘密基地を作ったり、川で魚をとったりしていました。遊鶴羽の各戸に子どもは2人か3人おり、子どもも多かったので自然の中で、自分たちで考えて遊んでいました。」
イ 子どもの頃のごちそう
「私(Aさん)が子どもの頃は、お祝い事などがあると山で猟をする人が捕ってきたウサギやハトの肉を炊いたりして食べていました。当時は、それがおいしくてごちそうだったことを憶えています。その後、親が働きに出る家庭が増えると、食料品はよそから買ってくることが多くなったと思います。」
ウ 松野東小学校の記憶
「私(Aさん)は松野東小学校に通いました。その頃はまだ道路も整備されていませんでしたので、ウサギ道と言われるような狭い山道を通って、峠を二つ越えて小学校まで通っていました。
当時、通学バスか道路を作るかという議論になり、道路の方が地元のためになるということで道路を作ったという話を聞いたことがあります。小学6年生のときに小学校までの道路が整備されたと思います。
松野東小学校には吉野、奥野川、蕨生の子どもが来ており、当時は1学年が50人くらいで2クラスありましたが、私より5歳くらい年上の学年は3クラスあったそうです。昔は奥内だけでも子どもがたくさんおり、それぞれの組に子どもがいました。組で1年生から6年生の選手を出すことができ、組対抗リレーをしていました。
さらに、昔は、松野の小学校は松野東小学校の奥野川分校や松野西小学校の上家地分校がありましたが、蕨生の子どもは本校に通学していました。」
「家から小学校までが遠かったことを私(Bさん)は憶えています。今だったらバスや親の自動車で通学すると思いますが、小学校までは歩いて通っており、峠を二つ越えるので子どもの足で1時間くらい掛かっていました。奥野川地区の子どもはバスを使っても良かったのですが、私たち奥内の子どもは使えなかったので徒歩で通学でした。
小学生の頃、冬になると帰り道は真っ暗で車も通らないので怖かったことを憶えています。小学校から家に帰るときは誰か通らないかなと思いながら帰っていました。遠いので吉野などほかの地域から遊びに来ることも、私たちが遊びに行くこともほとんどなく、奥内の子ども同士で遊ぶことが多かったです。奥内の友だちと遊ぶのも土曜日や日曜日でした。昔は小学校の分校があるくらい子どもがいて、私が小学生のときは1学年30人はいましたが、現在は松野東小学校の全校児童数は30人になっています。」
エ 中学校の記憶
「私(Aさん)は松野東中学校の最後の卒業生ですが、私の学年の頃までは松野西中学校、松野東中学校、松野南中学校の三つの中学校がありました。」
「私(Bさん)が通っていた頃は松野中学校1校になっていました。当時の松野中学校は1学年に3クラスありました。奥内の子どもは基本的に若葉寮という寮に入っていました。
今は奥内の子どもは高校3年生が1人いるだけです。蕨生で小学生がいる家は4軒か5軒になっています。」
オ 薬師まつり
「毎年4月には奥内薬師堂で薬師まつりが行われています(写真2-3-8参照)。奥野川や吉野では秋祭りがありますが、奥内ではありません。奥内のお祭りは4月の薬師まつりです。今も行われていますが、昔は出店も出ていて、私(井上一弥さん)たちが子どもの頃はそれが楽しみでした。
薬師まつりには神輿(みこし)はありませんが餅まきなどをしており、今でも薬師まつりの恒例行事になっています。町内からだけでなく、町外からも地元出身の人たちが家族連れで来てくれています。
薬師堂の境内には、県の天然記念物である『逆杖のイチョウ』があります(写真2-3-9参照)。高さ30mを超える立派な巨木で、推定樹齢700年から1,000年です。このイチョウの木にはいろいろな伝説があります。山を越えて奥内にやってきた弘法大師が、杖にしていたイチョウの枝を突き刺したところ、その場所に根付いたといわれています。
また、11月に2回ある亥(い)の子でもらった小遣いでおもちゃを買ったり、お菓子を買ったりしていました。」
参考文献
・ 松野町『松野町誌』1974
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 松野町『松野町誌 改訂版』2005