データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 人々のくらし
(1) 学生時代の記憶
ア 松丸にある学校
「現在、旧道の南側の坂道を登ったところに松野西小学校と保育園がありますが、戦後に松丸国民学校が松丸町立松丸小学校となり、町村合併によって昭和30年(1955年)から松野町立松野西小学校になりました。同じ敷地内には、昭和22年(1947年)に松丸町立松丸中学校ができましたが、同様に町村合併によって昭和30年(1955年)から松野町立松野西中学校になり、昭和44年(1969年)には目黒にあった松野南中学校と吉野生にあった松野東中学校と統合され、松野町立松野中学校になっています。その後、松野中学校の校舎は延野々地区に移っています。戦後、松丸高等学校(後に北宇和高等学校松丸分校)も同じ敷地内にありましたが、松丸高等学校があったのは戦後の十数年の間だけだったと私(Aさん)は憶えています。」
「昭和30年(1955年)頃、松野町の人口は9,000人以上いたと思います。いわゆるベビーブーム世代の辺りですから、私(Bさん)がいた学年も1学年に150人くらい子どもがいて、一つ上の学年には200人くらいいたのではないかと思います。反対に、私の2、3学年下から子どもの数がどんどん減っていって、1クラス減ったことを憶えています。私たちの学年は、1クラス50人くらいの3クラスありましたが、現在でも年齢別の人口で見ると私たちの世代がピークではないでしょうか。
私が幼かった時代から高校は松野町の外に通学するしかありませんでしたが、保育園と小学校と中学校は同じ敷地内にありました。そのため、保育園と小学校と中学校が一緒になって、現在の松野西小学校のグラウンドで運動会をしていたことを憶えています。当時は本当に子どもが多かったので、運動会では私は走る種目ともう一つの種目の2種目しか出場することができませんでした。また、小学校の隣には松野西中学校があって、小学生の私たちから見ると中学3年生の人がとても怖かったことを憶えています。」
イ 小学校の頃の思い出
「昭和20年(1945年)、私(Aさん)は、小学3年生のときに終戦を迎えました。戦争中、皇族が松丸を通られるということになって、ほこりが立たないように通りに水をまいて、松丸駅前から正木酒造本店の辺りまで児童生徒がみんな並んで手を振ったことを憶えています。」
「小学校の近くには文房具屋があり、紙芝居をしたり、駄菓子やくじを売ったりしていました(図表1-1-1の㋛参照)。子どもたちが買うことができる値段のものがたくさんありましたので、たくさんの子どもが集まっていました。私(Bさん)もその店に水あめを買いに行っては、それをなめながら家に帰っていたことを憶えています。
店の客層のほとんどは小学生で、時々、仕入れ値よりも安い値段で売ったりしていたそうなので大赤字になり、最後は全て支払いを済ませて閉店したと聞いています。小学生だった私には良い思い出です。」
(2) 松野町の産業と開発
ア 県営農地開発事業とモモ栽培
「特産品となっているモモは、昭和50年代に県営農地開発事業によって、ブルドーザーを入れて大規模に整地したところで栽培したのが始まりで、それ以前は松野町でモモの栽培をしている農家はいなかったと聞いています。
現在、松野町は県内最大のモモの産地として有名になりました。毎年7月には道の駅虹の森公園で『まつのの桃まつり』が開催されるくらい盛んになっていますが、モモを栽培しているのはほとんど延野々地区の農家で、松丸地区でモモを栽培している人はいないと思います。松野町でモモの栽培が始まった最初の頃にモモの栽培を始めた農家の人も、年齢的にももう農業をやめてしまったり、土地を持っていても農業してくれる人に土地を貸したりしている人が多く、現在、モモの栽培をしている農家は少しずつ若い人に世代交代しつつあります。モモの栽培を始めた頃は、県外にもいろいろ視察や研修に行ったりしながら、試行錯誤していました。私(Bさん)は、運転手として山梨県への視察に付いて行ったことを憶えています。」
イ 茶を売り出すアイデア
「昭和30年代には、松野町が主導して真土地区で茶の栽培が始まりました。JR真土駅の踏切の近くに『茶発祥の地』という碑が立っています(写真1-1-3参照)。愛媛県内で茶というと今では新宮が有名になっていますが、それよりもずっと前からかなりの予算を組んで広見川沿いで栽培が行われていたと思います。松の香りがするという宣伝で人気が出て、県内で茶摘みの話題と言えば、松野町の真土というくらい有名だったことを私(Bさん)は憶えています。最初の頃は、松野町も相当に力を入れていて、補助金を出すなど支援していたのですが、その当時の農家の人が高齢になってしまい、若い人に引き継ぐ頃には茶畑も荒れてしまっていましたし、そもそも後継者もほとんどいませんでした。現在は、ほんの一部の人が道の駅で販売する分か、自分たちの家で飲む分くらいしか作っていません。
当時から、ただ茶葉として販売するだけではなくて、工夫して売り出していかないと長続きしないのではないかという声もあったのですが、そういう方向には進んでいきませんでした。例えば、茶葉を加工して何か販売できるものを作るとか、松丸に温泉があるので茶葉を温泉の湯につけたらどうかとか、いろいろアイデアはあったのですが実りませんでした。松野町もいろいろと新しいことに取り組んではいるのですが、なかなか次につながっていかないことが多くありました。真土のお茶はその一つだと思います。」
ウ 後に続く人
「昭和30年代、県営の事業で大規模に農地を開墾して、花木の栽培にも取り組んだのですが、販売面ではあまり振るわず栽培は縮小していったようです。
その後、花木から桑に転作した農地もありましたが、養蚕をメインにしている農家はなく、規模は小さかったと思います。後を継いでいく若い人たちがいませんでしたし、昭和40年代後半以降、養蚕業自体が廃れていってしまいました。
いろいろ新しいことにも挑戦してきましたが、先頭に立って引っ張る人がいなくなったら周りにいた人がそれに続いていかないし、そもそも松野町にはその後継者がいないと私(Bさん)は思います。若者は松野町にとどまっても生活できないと考えて、よそで活躍している人もいます。両親が松野町にいても面倒を見ることができるからと言って宇和島に出ていってしまうし、さらに、松山にいても高速道路で帰ってくることができると思ったら松山に行ってしまいます。」
(3) 松野町の資源
ア 滑床渓谷の試み
「松丸の町は、時代時代で変わろう、変化しようとしてきたと思います。滑床渓谷を観光名所にしようとしていた頃には、菓子屋さんが滑床煎餅を作って売り出すなど、町全体の雰囲気も松野町の政策を後押ししようとしていましたし、その結果、外から松野町に来てくれる人もそれなりにいました(写真1-1-4参照)。私(Bさん)はタクシーの運転手をしていましたが、その頃、松丸駅からお客さんを乗せて滑床渓谷まで1日に9往復したこともありました。当時は松丸駅から滑床渓谷まで1日に何便もバスが出ていましたので、タクシーのお客さんを滑床まで何往復も乗せていたということは、それだけたくさんの人が外から入ってきていた時期だったということです。お客さんを乗せたバスの運転手も、夕方の便の場合は滑床で1泊して、翌朝、またお客さんを乗せて松丸駅まで戻ってきていました。
その後、滑床観光は寂れていってしまいましたが、やはり滑床渓谷を売り出さないといけないとなり、滑床祭りを企画した時期もありました。今はキャニオニングやラフティングなどを売りにして活動していますが、それ以前に私たちがまだ若かった頃にも、いかだ下りやその競争を滑床祭りの一環として実施していた時期がありました。滑床でのこぎりを使って丸太を切る速さを競うコンテストをしたこともありました。
現在でもキャニオニングは人気があり、お客さんもよく来ているので、事業展開している業者が2軒あります。松野町だけでなく、四万十川でラフティングをやったり仁淀川でカヌーをしたりと、1か所だけでなく複数個所で事業展開しているそうです。1か所だけでは事業にならないですし、仁淀川を体験したら次は滑床渓谷へというように別の地域に来たお客さんをリピーターとして誘客しやすいそうです。
しかし、滑床も松野町の管理ではなくなり、民間経営でホテルの運営も行われています。もちろん、当事者は当事者で一生懸命に考えていますし、長期滞在型のお客さんをホテルで受け入れたり、滑床でしかできない様々な体験を提供できる取組を始めたりしています。一方、ロッジでは新規のお客をメインターゲットにしていると聞いています。
その時々で、松野町がどういうことをしたら良いかとか、どうやって外から人に来てもらおうとか、いろいろ考えて動いているのですが、それがなかなか続いていかないのが課題ではないかと思います。」
「現在の滑床渓谷の状況に、特に大きな影響を及ぼしたのは、水害とコロナ禍です。平成30年(2018年)の西日本豪雨で崖崩れが発生し、滑床渓谷に通じる道路が通行止めになってしまいました。滑床渓谷はあの様な地形なので、崖崩れで道路が完全に寸断されていたそうです。
そこから復旧して、ようやく森の国ホテルの立て直しを図ろう、お客さんが滑床に行こうとしていたところで、今度は令和元年(2019年)からの新型コロナウイルス感染症の流行です。その影響で、町の外からやってくる人の流れが完全になくなってしまいました。現在は、森の国ホテルは休業中だと私(Aさん)は聞いています(写真1-1-5参照)。」
イ 森を活用する
「川だけでなく森をもっと活用することも大切でないかと、私(Bさん)は考えています。現在、西条(さいじょう)市などでは大きな木にロープを掛けてジップラインを整備したり、アスレチックコースを作ったりしていますが、あの様な取組をよそがやる前に一番にやってみることが大切なのではないかと思います。ツリーイング(ツリークライミング)というような取組はしていたのですが、継続はしませんでした。
もっと大きな取組をやろうと思えば、それができるだけの十分な観光資源が松野町にはあると思います。しかし、そのためには事業をコーディネートする人だけではなくて、自分も松野町にやって来て実際に体験してみたいという人を集めないといけないと思います。例えば、そういった人たちを一度無償で招待してみて、松野町に泊まってもらい、彼らから得られる意見や要望を集めてみる試みもしてはどうかと思っています。また、インストラクターのような免許や資格を持っている人を呼んできて、自分にはこういうことができるとか、松野町にはこういうものが不足しているといった提案も得られるのかもしれません。そういうことをしないと、松野町の中だけでアイデアを出し合っていても、産業を興すことはもうここでは難しいのではないかと思います。」
ウ 林業の需要
「林業と一くくりにしても、昔は木材や竹を運ぶことを専門的に仕事としている人が松丸にたくさん住んでいました。集材屋といって、竹を専門に運んだり保管したりしている竹屋さんが旧道沿いにありました。
以前は、製材屋があちらこちらにあって、松丸と吉野生に集まってきた松野町内の木材を鉄道で運んでいました。当時は木材で相当もうかっていたと思いますし、山を持っている人たちは夜な夜な町に飲みに行っていたことを憶えています。私(Bさん)はタクシーの運転手をしていましたが、随分利用してもらいました。」
「竹屋で保管されていた竹は、主に土壁のえつり(小舞竹)の材料にしていたことを私(Aさん)は憶えています。昭和の建設ブームで、この辺りに住宅がたくさんできた頃には需要もかなりあったようですが、今ではもう土壁のある家を作ることはなくなってしまいました。
高知県との県境に近い葛川では、一時期、炭窯を作って竹炭を製造している方がいましたが、その後どうなっているのかは分かりません。今では炭もよほどの品物でないと商売にはならないと思います。
今は趣味でマツタケを取りに行く人はいますが、どこにあるかは誰にも言いません。昔も林業だけで生計を立てているという人は少なかったと思いますが、今では林業を続けている人すらほとんどいないと思います。」
エ 山の管理
「木材がどんどん値崩れして林業を離れる人が増え始めると、山も整備されずにほったらかしになっています。きちんと整備されていたらかなりの価値があったと思われる山でも、整備されていなければ役に立たない財産になってしまっています。また、大雨が降ったりすると危険なので間伐しなければならず、以前は定期的に枝打ちや下刈りをしていたはずです。私(Bさん)よりも少し上の世代には、松丸に住んでいても山を所有している山主さんがいましたから、山を保全するために家族総出で一生懸命間伐しに行っていましたし、子どもたちも学校が終わったら山に付いて行っていたことを憶えています。
現在では、自分の山を森林組合に管理してもらっている人が多いのではないかと私は思います。ただし、管理してもらうので人件費でほとんど手元には残らないそうです。愛媛県の補助事業が始まって、ある程度以上の規模の山をまとめて整備したらプラスになるとも聞いていますが、そうでないと今では保全することができないのだと思います。昔は林業であれだけもうかっていたのに、今では補助があってようやく利益が出るという程度です。」
「松丸地区が所有している山の間伐でさえ、森林組合に依頼するとトラックが数十台も出て、その分の人件費が掛かってしまうので、利益は数万円にしかなりません。人件費がほとんどで、トラック1台分の木材が1,000円程度しか利益が出ないそうなので、補助金でもなければ個人では山を維持していくことすらできないと私(Aさん)は聞いています。」
参考文献
・ 松野町『松野町誌』1974
・ 松野町商工会『松野町商工誌』1978
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 松野町『松野町誌 改訂版』2005