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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 旧道の町並み

  ア 旧道の商店

 「旧道には、商売をしているところが多かったと思います。松丸町役場のすぐ隣に正木酒造の支店があり、その並びには米屋、料亭などの商店が古くからありました(図表1-1-1の㋐、㋑参照)。正木酒造の支店の向かい側には、三間屋という菓子屋がありました(図表1-1-1の㋒参照)。もともと三間(みま)から来た人が商売を始めて、煎餅やまんじゅうなどを販売していたことを私(Aさん)は憶えています。ちょうど、滑床渓谷の開発が始まった頃には、滑床煎餅という名前のお菓子を作って販売していました。
 現在も旧道沿いに歯科医院がありますが、以前は旧道沿いの別の場所にありました。この建物は昭和初期まで銀行の松丸出張所として使われていました。その付近の旧道に面したところに現在は大きな門があり『不器男之家』という看板が掛かっており、町立の芝不器男記念館があります(写真1-1-1参照)。道路沿いの間口は狭いですが、呉服屋や歯科医院の敷地の裏に、昔は芝不器男(1903~1930年)の生家があったそうです。土地の持ち主だった人がその生家を松野町に寄附した後、改修されて記念館となっています。」
 「旧道には鮮魚店があり、お婆さんが汽車で魚を運んできて、松丸で販売していました(図表1-1-1の㋓参照)。その隣には下駄や履物を扱う店がありましたが、永昌寺の入り口の辺りまでもともとは同じ一族が持っていた土地を分けたものだと私(Bさん)は聞いています。」

  イ タクシー会社を始める

 「私(Bさん)が宇和島から松丸へ転居して来たのは、父がタクシー会社を経営するためでした。父は宇和島にいた頃はタクシー会社をしておらず、会社勤めをしていました。その当時、松丸に住んでいた親戚が駅前の道でタクシー会社をしていたそうですが、会社を畳むという話を聞いて、松丸でタクシー会社を始めようということになったそうです。昭和28年(1953年)頃に話をいただいて、松丸の旧道で実際に営業を始めたのが昭和30年(1955年)のことでした。私たちが来る前、その建物には銀行か何か金融関係の事業所が入っていたと聞いています(図表1-1-1の㋔参照)。私たちが松野町に引っ越してきた当初、建物の中に計算機やその面影が残るものがまだ置いてあったことを憶えています。
 正木酒造の支店と岡清商店の間に小道がありますが、その角地に引っ越してきました。その土地は、もともとは岡清商店の土地だったのですが、私が引っ越してくる以前にもいくらか人の出入りがあったそうです。岡清商店はもともと、岡田清太郎さんが米や精蠟(ろう)を取り扱っていたそうです。そして旧道の向かい側には岡忠商店があり、岡田忠一郎さんが呉服屋を経営していたと聞いています。現在もタクシー会社を経営していますが、今は新道に会社を移転しています。」

  ウ 松丸の娯楽施設

 「天満神社の麓の辺りに松栄座いう芝居小屋がありました(図表1-1-1の㋕参照)。昔は、地方巡業をしている芝居一座の役者さんたちが通りのこの辺りによくいたことを私(Aさん)は憶えています。そのため、天満神社の階段の所には、役者さん専用のような旅館がありました(図表1-1-1の㋖参照)。私は小学生の頃でしたが、役者さんがやって来たと聞くと、よく見に行っていました。終戦直後には水谷八重子さんが来たことを憶えています。松旭斎天勝が来たこともありました。
 その後、テレビが普及し、芝居の人気が徐々に下火になっていって、松栄座は建設会社に売られた後、一時期、別の人が映画館を経営していました。毎週のように入れ替わりで上映している映画が変わっていたので、よく行っていました。その映画館は昭和30年(1955年)頃まであったと思います。その後、新道沿いの現在JAの駐車場がある辺りに松野劇場という映画館ができたと思います。」
 「新道に新しくできた松野劇場にはよく行っていました。当時、小学生だった私(Bさん)は、『今日は映画に行く。』と親に言っては、学校から友達と椅子を持って映画館に行っていました。あの頃は東映が華やかな時代でしたし、私が小学生の頃は松丸にも子どもたちが本当にたくさんいました。」

  エ 街道の旅館とウナギ

 「松丸の町はもともと街道だったので、旅館は昔からあったそうです。天満神社の下には藤井旅館という旅館がありました。現在の建物2、3軒分くらいの大きな旅館だったと思います。
 旅館はもう1軒、堀切橋の手前に末廣旅館もありました(図表1-1-1の㋗参照)。最近まで営業されていましたが、昭和30年(1955年)頃には、今とは別の人が経営していたと思います。通りの角の所で2軒分くらいの規模で旅館をしていて、通りの反対側では料亭をしていました。最初は角から2軒目のところで旅館をしていたのですが、角にあった隣の家を買って旅館を広げて、通りの反対側の家も買って料亭を始めてという具合で繁盛していたことを私(Bさん)は憶えています。
 末廣旅館の料亭では、最近まで松野町のウナギを出していましたが、現在は閉店してしまいました。末廣旅館を含めて3軒が松丸でウナギ料理を出していましたが、いずれも廃業しています。ウナギをとる人もウナギを出す料理屋も、後継者が出てくると良いのですが、そう簡単にはいかないようです。
 ウナギ漁が盛んだった頃、ウナギ漁に必要な道具を作る竹細工屋がありました(図表1-1-1の㋘参照)。ウナギをとる仕掛けはジゴクと呼ばれており、ジゴクの先端に取り付ける小舌と呼ばれる部品を竹で作って販売していましたし、ジゴク自体も製作していたと思います。竹細工屋の店主もウナギ漁のジゴクやカニ漁のジンドと呼ばれる仕掛けを使って、広見川でよく漁をしていたのを私は憶えています。現在は家族と一緒に松野町を離れ、空き家になってしまっています。」

  オ 松丸警察署

 「昭和20年代まで旧道に松丸警察署がありました(図表1-1-1の㋙参照)。松丸警察署は、2階建ての瓦ぶきでろうやもある大きな建物でした。武徳殿という柔剣道場もあり、警察官舎もありました。のちに警察署は近永に移動し、松野町は派出所になってしまいました。松丸警察署があった場所は、その後、若葉寮という松野中学校の寄宿舎ができましたが、現在は町営住宅になっています。派出所は現在、新道沿いにあります。
 戦後すぐの頃、小学校や中学校の北側には松丸警察署と鍛冶屋があったくらいで、周辺はほとんど田んぼだったことを私(Aさん)は憶えています。鍛冶屋は後に鉄工所になったと思います。その後、旧道に沿って建物は立ち並びましたが、商店が多かった旧道の東の方と比べて、住宅の割合が多かったように思います。」
 「松丸警察署の周辺は、旧道沿いに田んぼが広がっていたことを私(Bさん)は憶えています。その後、商売をする店が入ってくるのではなく、住宅が増えていきました。もともと松丸に住んでいた人がほとんどで、仕事を辞めてから家を建てる場合が多かったと聞いています。」

 (2) 旧道から新道へ

  ア 新道ができた頃

 「現在、松野町の庁舎がある東西の道路は、私(Aさん)が若い頃は新道と呼ばれていました。終戦のときにはまだ舗装されていませんでしたが、新道は既にできていたと思います。道はありましたが、現在の松野町庁舎がある辺りは全て田んぼで、石材屋が1軒あっただけでした。」
 「私(Bさん)は宇和島で生まれ、昭和32年(1957年)、6歳のときに松野町に引っ越してきました。旧道を上の道、新道を下の道と呼ぶ人もいます。当時、新道の辺りには農協と石材屋、あと養鶏小屋があったと思います。」

  イ 役場の移転

 「昔、宇和島バスは旧道を通っていましたが、役場が新道に移転した昭和36年(1961年)頃にバスのルートも新道を通るようになったことを私(Bさん)は憶えています。」
 「昭和30年(1955年)に松丸町と吉野生村が合併して松野町になりましたが、その頃、松丸町役場は旧道の現在の正木酒造の支店の西側にあり、合併後もしばらくは旧松丸役場を松野町役場として使用していました。松丸町役場があった土地自体はもともと正木酒造の土地で、東側の残りの土地は正木酒造の支店がありました。
 郵便局も永昌寺の階段を下りてきた旧道沿いにありました。昭和31年(1956年)、郵便局は旧道から新道に移転して、最初は現在の松野町コミュニティーセンターの場所に移ってきたのですが、松野町コミュニティーセンターが建設されることになり、昭和61年(1986年)に新道の南側の現在の場所に移転しました。そのように昭和30年代から、辺り一面に田んぼが広がっていた新道の景色が少しずつ変わっていったことを私(Aさん)は憶えています。」

 (3) 松丸駅界わい

  ア 駅前のにぎわい

 「大正時代に近永から吉野まで宇和島鉄道が延長されて松丸駅と吉野駅ができ、昭和に入ってから宇和島鉄道から国鉄に代わったそうです。昭和20年(1945年)頃、新道には松丸農協くらいしかありませんでしたし、もちろん新しいと言っても現在のような舗装された道路ではありませんでした。それでも新しい道ができて、少しずつ田んぼが住宅地になり始めると、それまであった松丸駅から旧道に向かう南北の通りもさらににぎわい、商店が立ち並んでいたことを私(Aさん)は憶えています。」
 「松丸の駅を出ると、両側に食堂があったことを私(Bさん)は憶えています。その隣にはそれぞれうどん屋や駄菓子屋があったと思います。」

  イ 鉄道貨物輸送の時代

 「昭和30年代は、松丸駅には貨物列車が行ったり来たりしていて、木材や木炭を積んで宇和島まで運んでいました。駅前の交差点には木材などを保管しておく倉庫があり、まきと木炭でもうかっていたと思います(図表1-1-1の㋚参照)。子どもたちが炭俵でかくれんぼをして遊んでいたことを私(Aさん)は憶えています。
 当時は、まきや木炭を取り扱ってもうかっていたのですが、その時代が終わるともう商売にならなくなってしまい、今はプロパンガスを取り扱っています。経営者も世代が代わり、まきや木炭で商売をしていた時代のことはもう知らないと思います。」
 「松丸駅の周辺には、倉庫や資材を置いてある場所が幾つかありました。その当時は、駅のホームを挟んで線路が2本あり、上りと下りの列車がすれ違ったり、貨物列車が止まったりしていたことを私(Bさん)は憶えています(写真1-1-2参照)。」

 (4) 町の変化

  ア 増える空き家

 「現在の旧道沿いは、ここも空き家、あっちも空き家、向こうは取り壊してしまって土地だけになってしまったというような状態です。人が松野町の外に出て行ってしまい、空き家が本当に多くなっています。かつての旧道にはあれだけの商店が並んでいましたが、現在、商売を続けているのは4つか5つほどではないでしょうか。
 旧道と新道との間にある中通りは、今では商売している人はいませんが、昭和30年代、40年代も中通りはほとんど家がなく、旧道と新道に挟まれて田んぼばかりだったことを私(Aさん)は憶えています。結局、新道が舗装されて役場などが新道に移ってくると、それにつれてみんなが中通り沿いに家を建てていました。しかし、住宅が建って人が住んでも、子どもが小学校に通い、中学校に通ったら、あとは松野町から出て行ってしまいます。松野町には高校がないから、近永や宇和島に通わないといけなくなってしまうのです。長い間、このことがずっと問題だと言い続けています。」
 「駅からの南北の通りにあった松野ホールというパチンコ店も旅館も今は営業していません。新道で商売を始めた商店もほとんどが商売をやめてしまいました。地図には描かれていたり、建物や看板が残っていたりして昔の面影がありますが、すでに商売をしていないところばかりです。
 今でも松丸の町に住んでいる人は、昔からここに住んでいた人が多いと思います。若い人がどんどん外に出ていってしまうので、親がいなくなり子の代になると建物だけは残っているけれど誰も住んでいないという家が多くなってきています。最近になって町外から移住してきた人というのはほとんどいないと私(Bさん)は思います。」

  イ 国道381号ができて

 「現在では松野町内に駐在所はありますが、警察署はありません。公的な機関はほとんど鬼北町に移っていってしまいましたし、銀行やガソリンスタンドも町内にはなくなってしまいました。
 しかし、松野町のにぎわいが鬼北町に移っていったと感じていたのは僅かな間で、最近では鬼北町の中心部である近永の町も空き店舗が多くなってきたと感じています。新しくできた国道に沿って大手のチェーン店が建つと、町の中にあった個人店舗がどんどん廃業していってしまいました。松丸の町でも近永の町でも、『バイパス(国道381号)を町の向こう側に通すのは反対じゃ。車の通りが向こうに行って町の中に寄り道せんなるんやけん、こっちの店が静かになって廃れるん分かっとるやないか。』と話していたことを私(Bさん)は憶えています。松丸はまだ役場がありますが、吉野生の町はもっと影響が大きかったと思います。新しい道路ができた影響で吉野生で商売をやっていた店は、軒並みなくなってしまいました。」

写真1-1-1 松野町立芝不器男記念館

写真1-1-1 松野町立芝不器男記念館

松野町 令和7年1月撮影

図表1-1-1 昭和30年代から40年代における松丸の町並み

図表1-1-1 昭和30年代から40年代における松丸の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-1-2 現在のJR松丸駅ホーム

写真1-1-2 現在のJR松丸駅ホーム

松野町 令和7年1月撮影