データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 人々のくらし
(1) 石井小学校の記憶
ア 戦後の石井小学校
「昭和20年(1945年)、私(Bさん)は石井村立石井国民学校に入学しました。教室は、敷地の中の北側にあり、学級名は、雪、月、花のうち花組でした。1年花組の楽しい学校生活は入学後わずか3か月くらいでした。
7月には米軍が落とした焼夷(い)弾によって、全ての校舎が全焼し、焼け野原になってしまいました。焼ける前の学校や焼け落ちる校舎の記憶が今でも強烈に残っています。
昭和23年(1948年)3月、学校教育法の制定により、新しい学校体系に変わり、義務教育が小学校6年、中学校3年の9年間に延長されました。これにより、石井小学校と石井中学校は併設されました。
戦後、昭和21年(1946年)に撮られた石井小学校の学年写真が残っていますが、その集合写真では校庭にむしろを敷いて、みんな正座して写っています。」
イ 農場の思い出
「私(Bさん)が小学校の頃、給食当番をしていたときのことです。当時の石井支所の辺りに小学校の農場があり、そこでできたサツマイモを用務員さんが蒸かしてくれていました。蒸かして熱いサツマイモをみんなが素手で食べていたのですが、それがごちそうでした。給食当番の私がみんなに配っていたら、ある男子児童が『ワシのがこんまいが。』と言ってきたのですが、『もうこれ以上ないんじゃ。』ともめて困ったことを憶えています。
その頃の校舎はバラック建てだったので、便所は水洗ではなく穴を掘っただけの造りでした。そこに用を足していましたが、土地が低くなっているので雨が降ると運動場の水が流れ込んでいきます。そのまま放っておくと便所があふれてしまうので、倉庫から2人がかりで桶(おけ)を持ってきて、汲(く)み出しては農場まで運んでいって肥料にしていました。先生から『そろそろたまったぞ。』と言われたら、子どもたちが農場まで運んでいました。しかし、その桶は普段は使っていないので古くなっていて漏れてきていました。桶を2人で担ぐとき、前の人はいいのですが、後ろの人は足に散るので、本当にたまらなかったことを憶えています。本当に嫌でしたが、今度はそれを農場にまいてサツマイモを育てて、収穫したら、みんな笑顔で食べていました。
その当時は、回虫やらサナダ虫やら十二指腸虫やらたくさんいて、お腹が痛くなったり下したりすることもよくありました。今になって考えると、こういう風に循環していたのですから当然だと思います。
その後、農場があった場所には保育園、幼稚園が建ちました。当時、石井支所があった場所は、現在は保育園になっています。」
(2) 椿まつり
ア 昔の椿まつり
「私(Bさん)は居相生まれの居相育ちです。椿まつりも、この数十年の間に随分と変わりました。椿まつりが現在のようににぎやかになった理由の一つは、地域の人々の努力があると思います。私の父は明治35年(1902年)の生まれですが、青年団の頃に『椿さんにお参りに来てくださいや。』といって手弁当で勧誘に行っていたそうです。そして、実際に椿まつりに来てくれた人が声を掛けてくれたら、よく来てくれたと言って賄いを出していた歴史があるそうです。
昔は、椿まつりのことを『お八日』と言っていました。旧暦の1月7日から9日の3日間行われていましたが、中日である8日だけがにぎやかだったそうです。今では少なくなりましたが、年配の人の中には椿まつりのことを『お八日』と言っている人もいます。
昭和の前期、中期の頃、神社の前の表参道沿いの田んぼでは、浅草辺りから来た見せ物小屋やサーカス小屋が開かれ、近所の人には『櫓(やぐら)もと』として優待券が配られるので楽しみにしていました。
また、郡中の永井農機と松山の相原農機が展示販売に来ており、農業発動機のエンジン音や見せ物小屋からの呼び込みの大音声で朝から晩まで大変にぎやかでした。」
イ 大道芸人の巡業
「戦後も東京の浅草の辺りから芸人一座が来ていましたが、蛇を食べますとか、ガラスを食べますとか、朝から晩まで曲芸のようなことをする見せ物小屋ができていました。そこの呼び込みの人が非常に上手で、カーテンを少しめくっては『ただいま、蛇を食べています。』と言って興味を誘ったり、カーテンを下ろして中で実際にしているので続きは入って見るように促したりしていました。一旦入ったお客さんが値段が高過ぎるとか面白くなかったとか文句を言っていると、奥から怖いお兄さんがすごんだりしていました。
アサイのコマ回しという人が来て、参道沿いの屋敷の中で見せ物をやっていました。コマは糸の上をはわせて回すなど、上手に回していました。アサイのコマ回しという人は、マッカーサー元帥の前で、コマ回しがどんなものなのかを披露した人だそうで、お客をあおる講釈が上手だったことを私(Bさん)は憶えています。
また、コマを回して見せるだけでなくて、日本刀で傷をつけたところにハマグリの殻に入った軟膏(こう)のようなものを塗ると、さっと傷口が治るのを客に見せて驚かせたりしていました。『みなさん、刀傷が治りました。』と客をあおると、事前にさくらを仕込んであり、『切り傷がこんなに簡単に治るんやったら買います、ください。』と観客を盛り上げていました。私は、隣の家なので朝から晩までそれを見ていたから、さくらの人が交代するのも見ていましたが、とてもにぎわっていたことを憶えています。
コマ回しが来なくなって、次に来た人は、親指と人差し指で鉄の棒をぐにゃぐにゃに曲げてしまうのを客に見せていました。この人は『この本を読んだら、誰でも鉄を曲げられるようになります。』と言っていました。文句に釣られて本を買って帰った人は、『火箸を曲げようと試してみたんだけど、なにも変わらない。』と言っていました。
また、柔道をしている人が出てきて『この本を読んだら絶対に倒されることはない。』と言って、実際に本を読んだという人が組み手をするのですが、何をどうやっても倒れないのです。この本を読んだら誰でもそうなれるといって、本を売って稼いでいましたが、さくら同士が組み合っているのですから倒されなくて当然です。近所で柔道をしている人がいて『昇段試験を受けても絶対に投げられない。』と言って、嬉しそうに本を買って帰っていましたが、後日、『この本を買ったのに、なにも効果がなかった。』と言っていたことを憶えています。これもいかさまでしたが、本当に盛り上がっていました。これが終戦直後の頃の様子だったと思います。
また、女相撲が来ていた時期もあります。相撲を取るだけでなく、横綱のお腹の上で餅をついたり、ついた餅を観客に配ったりしていました。それらを神社の前辺りでやっていました。世の中の価値観や世間の見方も変わり、見せ物小屋のようなものは次第になくなっていきました。
その後、旅行で浅草に行ったときに、椿神社に来ていた一座を見かけたことがあります。彼らのところに興行のカレンダーが掛かっていたのですが、椿まつりの日には二重丸が付いていました。そういったスケジュールに合わせて全国を巡業していたのだと思います。
調子の良い団体もいて、椿神社の近くにある私の家に滞在させて欲しいと言ってきたのですが、私の父も気が良い人だったので、『1人くらい泊っていきなさい。』と言って、布団の用意をしていました。それで、夜になったら私の手相を見てくれたり、いろいろ見せてくれたりしていました。その人もカレンダーを持っていましたが、椿まつりの日は三重丸になっていて、そういうところばかり全国を回っていると言っていました。」
ウ 露店と松山街商協同組合
「椿まつりのときにはたくさんの露店が出ています(写真2-3-2参照)。以前から、露店の商売人たちが次は大阪に行くとか九州に行くとか言いながら、全国を回っていたことを私(Bさん)は憶えています。
松山街商協同組合という組織があり、全国から集まってくる露天商の人たちの店の配置を決めるなどの世話をしています。露店の店構えにも特徴があり、組合に加入しているかどうかすぐに分かるように加盟している露店は、前の囲いが赤くなっているそうです。組合の人たちは、椿まつり後の清掃にも気を配ってくれているので、地域の人は大変助かっています。」
(3) 農業祭
ア 農業祭の催し
「農協には、石井地区の農業の振興と農業構造の改善に資することを目的とする総代会があります。この総代会が、毎年、農協と協同して、石井の農事センターで農業祭を開催しています。野菜や花などの展示や即売、餅まき、バザーなどでにぎわい、地域住民も楽しみにしてくれている行事の一つです。
私(Bさん)の父が役員をしていた頃は、農業祭は石井小学校、石井中学校の合同運動場で実施されていて、私も縄ない競争や桟俵(米俵の両端につけるわら製の丸い蓋)編み競争に出場した思い出があります。」
イ 野菜の品評会
「農業祭では、収穫した野菜の品評会や即売会などが行われていて、現在でも続いています。今は農家も少なくなりましたが、農業祭のために野菜を作ってくださる篤農家もいらっしゃいます。12月第1日曜日の農業祭に間に合うように、種まきをして肥培管理しないといけないので大変です。野菜は石井地区の農家が、ダイコン、ハクサイ、ホウレンソウなどを軽トラック一杯に積んできてくれます。
私(Bさん)の親戚で農協の専務をしている人がいます。愛大附属農高から東京農大を卒業し、農協に就職した人です。昔から彼はまず自分で野菜を作ってみて、良い野菜だと思ったものだけを地域の農家の人に教えてあげていますから、農家の人達にとても信頼されています。農業祭のときには、みんなに認められる目を見張るような立派なダイコンやハクサイなどを出品し、金賞、銀賞、銅賞をたくさん受賞し、会を盛り上げてくれるのでとても感謝しています。」
(4) 伊予鉄道森松線の思い出
ア 立花の上り坂
「私(Aさん)が松山中学校に通っていた頃は、森松線に乗って通学していました。松山市駅に向かう列車は立花駅を越えると石手川の土手が上り坂になっています。私は立花駅で降りていましたが、朝、松山市駅まで行く人が大勢乗っていると運転士が上手な人だと土手をすんなりと上がれるのですが、その運転士でなければ『今日は押しに行かんといかんぞ。』などと言っていました。実際に、私を含む学生が大勢降りていって機関車を押して坂道を上がったことも一度だけあったことを憶えています。
おそらく、あのときは石炭ではなく木を燃やしていたのだと思います。石炭に比べて木は火力が弱いので、坂道にたどり着くまでにどんどん燃やして、上手にスピードを上げていないと坂道を上ることができなかったのだと思います。気温が低い日の早朝の列車は速度が遅く、なかなか上って行かなかったことを憶えています。
松山市駅から立花駅に向かうときは、傾斜が緩くて上ることができるのですが、立花駅から松山市駅に向かうときは住宅地の中を通って、石手川の土手の前は坂道の傾斜が急で運転が難しかったのだと思います。当時の機関車でも計器などを見ていたら運転士は分かっていたと思いますが、出力の調整や乗客の人数などで大変だったのだと思います。私は立花駅で下車していましたが、列車を降りた後はすぐには行かず、列車が坂道に向かっていくのを眺めながら、坂道を上れそうになかったら押しに行くぞといつも思っていました。」
イ 坊ちゃん列車の記憶
「当時の森松線を走っていた坊ちゃん列車(蒸気機関車)は、今の電車と比べて速度が遅かったように思います。出発した後でも、走ったら追いつくことができました。また、現在の列車と比べて車両の作りが開放的だったように思います。内側に扉はありますが、外側には手すりがあるくらいでした。そこに乗客が大勢乗るので、車両から落ちない程度に少しでも握っていたら大丈夫ということで発車していました。私(Bさん)たちも列車から身体を半分出して乗るのが格好良いと思って乗っていました。」
ウ 石井駅の利用客
「私(Aさん)が松山中学校に通学していた頃、石井駅で伊予鉄道に乗って、立花駅で降りて、そこから徒歩で通学していました。遅れそうだと思ったら石井駅まで行かないで、星岡のそばを通って真っ直ぐ学校まで走っていくと、汽車に乗った人よりも早く学校に着いていましたので、当時の汽車はそのくらいの速度だったのだと思います。しかし、南の方から松山市内の学校に通うとなると、森松線に乗らないと通学している感じがしなかったのだと思います。」
「私(Bさん)の家は椿参道沿いにありますので、森松線の石井駅を利用する通勤者や街への買い物客がよく通っていました。」
(5) 石井地区の道路開発
ア 国道33号の整備
「現在の国道33号が建設されるとき、森松線の線路の上を中央分離帯にして道路を建設したので、国道は元の線路から東側に拡幅されたことを私(Aさん)は憶えています。しかし、天山橋のところは旧道と線路が離れていたため、旧道がそのまま残っています。また、立花駅の南側にも森松線の線路があった名残が見られます(写真2-3-3参照)。」
イ 高速道路と松山インターチェンジの完成
「高速道路を建設したときは、土地の買収に伴って、土居町にある私(Aさん)の家の周辺も一気に住宅地が広がっていったことを憶えています。住宅地が広がっていくと、それに伴ってまた新しい土地が売れます。住民が増えると商店ができて生活環境が良くなり、さらに住宅地が広がっていきます。」
「高速道路ができた頃から急激に住宅地が広がっていきました。現在でもそうですが、行くたびに景色が変っているので、私(Bさん)は道を間違えそうになります。石井地区の中でも、北土居町や土居町の辺りは、水田や畑が比較的残っていました。昔は国道33号からでも田園風景が見渡せていたのですが、今は全く見えなくなってしまいました。」
「松山インターチェンジが建設されていた頃、北土居町に高速道路の建設事務所があったことを私(Cさん)は憶えています。高速道路を建設したときには、広範囲にわたって土地が買収され、替え地に新しい家がたくさん建ちました。」
ウ 変わりゆく生活環境
「現在も松山市の外環状線の建設に伴って、新しい家が建設されています。高速道路建設のときも少なからず、住民の生活や農業への影響はありましたが、外環状道路インター東線が完成したら地域の環境がさらに変わると私(Cさん)は思います。外環状道路の空港線やインター線などの区間は高架になっていて下をくぐることができますが、これから建設されるインター東線はほかの区間とは異なり、高架の橋脚ではなく盛土工法になる予定です。そのため、インター東線が完成したら、今在家町や土居町の辺りは、地域の景観も生活環境も少なからず変わってくるのではないかと思います。」
参考文献
・ 石井村史追録編集委員会『愛媛県温泉郡石井村史』1982
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 石井地区ふるさと史編集委員会『わが郷土石井の今昔そして未来へ』2007
・ 町誌編集委員『ふるさと北土居のあゆみ』2008