データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 荏原地区の農業
(1) 荏原地区の農業とくらし
ア 荏原地区の農業の様子
「荏原地区の主産業は農業で、稲作が主で、裸麦も作っていました。麦はおにぎりにできませんが、戦後すぐは弁当も麦御飯ばかりでした。荏原地区は、専業の農家はほとんどなく兼業で農業をしている人が多い地域で、専業農家は数軒でした。以前は、私(Eさん)も兼業で農業をしていましたが、退職後は専業で農業を行っています。」
「私(Fさん)は、勤めをした後に自営業をしていました。兼業で自営業と農業をしていました。」
「私(Gさん)も定年まではほかの仕事をしながら農業をしていました。」
イ 重信川水害の記憶
「荏原地区の農業全体を考える上で、昭和18年(1943年)と昭和20年(1945年)の重信川の氾濫が大きな出来事だったと私(Eさん)は思います。復興に4年か5年掛かりました。農業は壊滅的な状況になり、米や麦を何年も作ることができませんでした。
昭和18年の氾濫では、東温市の下林からこちらに水が流れてきました。重信川の南側の堤防が決壊して、砥部川と御坂川の合流する所が一杯になってあふれたのだと思います。中野、小村、河原、上河原、上野、高尾田の集落が水害の影響があった地域です。
私が住んでいる小村はもともとお寺を入れて8軒で、田んぼは広くありませんが、自分たちが食べるものを作ることができていた小さな地域だったと聞いています。その小村は水害に遭ったときは20軒くらい家があるまでになっていました。
重信川の氾濫のとき、私は小学校に入学する前でした。田んぼだけではなく家の中まで浸水しました。外ではスイカが流れてきたり、飼っている牛が流れてきたりしていました。小村のお寺と今の金沢整形外科がある場所が境で田んぼは水につかり川になりました。浸水したわけですから、水が引いた後は田んぼが石や砂まみれで、自分の家の田んぼがどれか分からないような状況でした。私は小さかったので何がなんだか分からず怖くて外に出ることができませんでした。大人たちは畳を上げて、板をのけてスコップで泥を取り、私は家で畳を上げるのを手伝ったりしていました。」
「重信川の堤防が決壊して、家も人も牛も流れました。田んぼに流れ込んでいた石を子どもも出て拾いにいっていました。そのような土地ではモモを植えたりしましたが、うまくいかなかったことを私(Fさん)は憶えています。復興のときには、下林の山からトロッコで土を運んで土地を造成しました。」
「重信川の氾濫の後は稲作を復活させるのが地域の人たちの夢でした。当時は重機などがないためとても大変なことでした。手箕(てみ)と鍬(くわ)を使って人力で石と土を仕分けしていました。田んぼは水をためないといけませんから、大きな石を取り除いた後、水が抜けないように厚さ10cmから20cmくらい粘土を敷きました。粘土は水害の起きていないところからトロッコ列車を作って運んでいました。粘土の上に作り土(耕作する部分の土壌)を入れました。私(Eさん)はまだ仕事の手伝いはできない年齢で、夕方作業が終わるとトロッコに乗って遊んでいたことを憶えています。勤労奉仕で今の高校生の年齢の人たちが片付けをしてくれていました。学校ごとに来てくれて、その人たちの助けが大きかったと聞いています。親が家で『この学校の生徒はよく仕事してくれる。』などと話していたことを憶えています。
石がたまったところと砂がたまったところがありました。流れてきた石を重信川に戻すことはできないので、石は使えなくなった田んぼや畑に積んでいました。高さが2mから3mになり、現在の登記簿では原野や山林となっています。砂がたまったところは畑にして、当時は食糧難でしたのでサツマイモを植えていました。」
ウ 稲作にまつわる記憶
(ア) 牛を飼う
「私(Fさん)が子どもの頃は、農業機械がなかったため牛を使って農作業をしていました。田植などの農作業を家族総出で行っていました。私は小学4年生くらいから牛を使って作業をしていました。その頃は農家には牛が1頭は必ずおり、牛は夕方に子どもが道の草を食べさせていました。ため池の土手に生えている草は貴重な飼料だったため、入札して草の権利をみんなで分けてそれを牛に与えていました。わらを切って牛に食べさせたりもしました。」
「昔の稲作は人力でやるしかありませんでした。各家庭で1頭か2頭の牛を飼っており、農業をする上で大事なことは牛を大切にすることでした。当時の牛は今でいう農業機械のような役割を果たしていて、牛が自分たちの労力を減らしてくれると感じていました。
私(Eさん)が牛を使い始めたのは小学3年生のときでした。私の祖母が牛を使っていましたが、高齢になりけがをしてから孫の私がすることになりました。当時は牛を大事に育てていましたので、牛が暴れたりすることはありませんでした。
農閑期には、人が乗った板を牛に引かせて訓練をしていました。慣らしておかないと水田で牛が暴れてしまいます。ただ餌を与えるだけでは次に田んぼに入れたときに言うことを聞きかず、真っすぐ進みませんでした。近所で『あそこの子どもは牛が言うこと聞かず、田んぼで泣いているぞ。』と言っているのをよく聞きました。
農家の人は、自分たちが十分に御飯を食べることができなくても牛には食事を与えていました。子どもは牛の世話をしないと御飯を食べさせてもらえませんでした。牛は大きいほど長時間働いてくれます。痩せた牛では役に立ちませんから、私たちも麦を食べていましたが、牛もわらの中に麦を混ぜて食べさせて大きくしていました。昔の農家は本当に牛を大事にしていました。」
(イ) 農業機械
「昭和30年代の前半から昔の農具が徐々に農業機械に代わっていきました(写真2-1-7参照)。この頃に牛から耕うん機に代わったと思います。機械だと1回通ると畝ができますが、牛の場合は4回通らないと畝ができませんでしたので、農業機械は便利だと思ったことを私(Fさん)は憶えています。」
「私(Eさん)の家では、父が井関農機の社長と親しかったこともあり農業機械を実験的に使わせてもらっていたので、農業機械が手に入るのが早い方でした。籾摺(もみす)り機が手に入ったときはほかの農家のところもやってあげようと言って、窪野の農家まで請け負っていました。耕うん機を導入して、テーラー(小型耕うん機)も買いました。テーラーには専用のエンジンが付いているものと牛に引かせるものと二つありました。牛に引かせるものの方が安かったと聞いています。この頃の農業の変化として、品種改良と農業機械の進歩がありました。その反面、田んぼが少なくて農業機械を買うと採算が取れないという農家も出てきました。」
(ウ) 荏原地区の水利
「私(Gさん)たちが生活している荏原地区は稲作が中心ですので水は大切です。地域によって御坂川の水やため池の水を使っています。一部では湧き水を使っているところもあります。」
「重信川から離れるとため池を使用しています。笠方に面河ダムができてからダムの水をため池にためています。私(Fさん)はダムができてから水に困った記憶がありません。荏原地区ではパイプで引いて、土地改良区の代表がおおよそ何t水が要ると申し込めば、ダム管理事務所が水門を開けてくれて水を得ることができます。」
「私(Eさん)が住んでいる小村町は重信川の付近ですので、重信川の伏流水を使うため井戸を多く掘っています。普段は自然に湧き出ますが、湧き水が止まったらモーターのスイッチを入れ、水を汲(く)み上げています。
ため池の水と伏流水では水温が違います。おいしいお米を作るためには、水の温度管理が大切になると思います。」
エ 様々な農業の記憶
「かつて荏原地区では、米と裸麦以外にも養蚕と葉タバコにも取り組んでいました。私(Eさん)が幼い頃は蚕を飼っており、祖母が機(はた)を織っていたと聞いています。私も葉タバコ栽培の手伝いを少ししたことを憶えています。」
「戦後の食糧難のときは学校の運動場にもサツマイモを植えていました。昭和27年(1952年)から昭和30年(1955年)頃に、村有林や学校林でのマツタケの権利を、現在にすると数百万円のお金で数名が共同で落札し、そこにマツタケを取りにいったことを私(Fさん)は憶えています。当時はこの辺りはマツタケの産地で、今の幼稚園の所に共選があり、マツタケの市がありました。」
「マツタケ山は昭和40年代にミカン山になっていったことを私(Gさん)は憶えています。田んぼでもミカンを作っていました。今では荏原でミカンを作っているのは山の方だけになっています。」
「マツの木があったところを桑にして、その後にミカンの木を植えたことを私(Fさん)は憶えています。ミカンが暴落してからは耕作放棄地となり、今では人も入ることができなくなっている所もあります。ミカンを植えた後にナシを植えましたが、その後はやめてしまいました。この辺りは温州ミカンに適した気候ではないので、今でしたら施設園芸で紅まどんななどを作る必要があると思います。」
「私(Eさん)の家もミカンを植えていました。3年か4年してミカンが出来始めた頃にミカンの価格が暴落しました。価格が暴落したときにみんなミカンの木を切っていました。田んぼの場合はミカンの木を切って稲を植えることができますが、畑の場合はミカンの木を切ってもイモを植えるか野菜を植えるかしかできませんので、私の家は今もミカンの木が残っています。」
「私(Gさん)の家では、5月に葉タバコ、7月に稲を植え、冬は麦を育てていました。田んぼのあぜにダイズを植えたりして、農地を有効に使っていました。
葉タバコは乾燥室に張ったなわに一枚一枚つるして乾燥させて出荷していました。昔は葉タバコの値が良かったので作っている人が多かったのですが、今は1軒も作っているところはありません。子どもの頃に手伝いをして、手が真っ黒になっていたことを憶えています。」
「昔は三毛作などをして農業だけでも生活ができていた家があったと私(Fさん)は思います。ところが今は、米価は安く、麦は植えなくなりました。若い人は勤めに出ることが多いので農業離れが進んで、耕作放棄地が増えています。」
オ 子どもの仕事
「私(Fさん)たちが子どもの頃は害虫駆除が子どもの仕事でした。朝、子どもは竹の棒を田んぼに持って行き、苗代の蛾の卵を取ったり、蛾を手でたたいて瓶に入れたりして学校に持って行きました。学校で友だちと今日は何匹捕ったとか、卵がどれだけあったとか話していました。」
「苗代は田んぼに1m20㎝くらいの幅の畝を作ってそこに種をまいて作ります。田植の時期になると夜に苗を取ります。苗を束ねて田植をしますが、苗を面倒くさがってまとめて抜くと根っこがからまって田植のときにさばかなくてはならないので、苗を取るときには1本1本丁寧に抜くように親から言われていました。
また、小学生のとき、田植の時期に2、3日農繁期で学校が休みになったことを私(Gさん)は憶えています。」
「麦の場合は、授業がなくなると家に帰って田んぼで落ち穂拾いをすることがありました。拾った麦の穂は学校に持って行きました。学校では穂を山のように積んでいたことを私(Eさん)は憶えています。」
「今はコンバインでやっているので刈った後に稲穂を拾いませんが、昔は拾っていました。私(Fさん)が子どもの頃は、お米一粒でも大事にしていました。稲刈りの後はみんなで落ち穂拾いをして回っていました。
ドングリも拾っていました。ドングリを拾って学校に持っていくと回虫の駆虫薬である海人草という薬を飲んでいた記憶があります。苦かったのでその後にあめをもらいました。」
カ 荏原地区の農業の課題
(ア) 自然環境の変化
「自然環境の変化は農業に影響を与えていると私(Fさん)は思います。今はジャンボタニシがいて稲を食べてしまうという問題があります。ジャンボタニシは外国から日本に入ってきました。一時は食用として養殖をしていましたが、それが田んぼで繁殖して被害が出ています。田んぼをきちんと管理しないと半分くらい食べられることもあります。
また、現在は全国的に気温が上がっていますので、高温障害で今までの米の品種の味が落ちていると言われています。そこで品種改良が行われているという話を聞きます。」
「以前の稲は植えてから刈るまでの期間が長い晩生(おくて)という品種でした。今は短い期間で育つ品種が多くなりました。稲は品種改良で丈が短くてたくさん米ができるものに変わってきています。昔は稲でも背が高く、台風がきたら稲が倒れて寝てしまっていました。その頃は手で刈るので稲が倒れてもそこまで問題はありませんでした。環境の変化やこの地域に適した品種について研究していくことが必要です。
私(Eさん)の地域では東北産の稲が多く作られるようになり、昼間は温かい水で成長させて夜は冷たい水を使って育てています。この地域にあった生産の工夫をして、ほかではできないがこの地域ならできるという特色を見付けていくことも大切です。」
(イ) 耕作放棄地の増加
「遺産相続で土地が分けられると、田んぼはあるけど小規模になりますから自分のところで食べる米が作れたら良いと考える人が多くなりました。90歳に近い私(Eさん)たちにも、自分の田んぼで米を作って欲しいと頼まれることがあります。土地が小さいので数百万円の農機具を買っても採算が取れませんから、自分で作るより作ってもらう方が良いという家が増えてきました。
現在では、稲を植えていない田んぼもあり、耕作放棄地が増えています。耕作放棄地については、自分の土地ではないので勝手に耕すわけにはいきません。田んぼは、米を作らないと虫が湧いてしまうので、周りの田んぼにも悪影響があり、迷惑してしまいます。
そのような中で、農家ではなかった人が米作りを始めることが増えており、農協から農機具などを借りて米作りをしています。」
「市街化調整区域の土地は簡単に売ることはできません。本来、水利費は作物を作る人が支払っていましたが、今では地主が水利費を払うから米を作って欲しいというところが増えています。また、あぜがコンクリートでないと草刈りの必要があるので、そのような田んぼでは請負で米を作る人が少ないという話を私(Fさん)はよく聞きます。
平成15年(2003年)頃に松山市農林水産課から耕作放棄地でなんとか作物を作って欲しいという話がありました。私を含めて6名で里山整備事業として耕作放棄地3町(約3ha)ほどを借り受け、貸農園として30名ほどに貸していましたが、貸農園でも高齢化で年々作る人がいなくなり、8年ほどでやめました。」
「耕作放棄地は全国的な問題で、この地域も耕作放棄地が増えています。耕作放棄地には鳥が種を落としていくため木が生えてしまい、何年かするとのこぎりを持って行くだけではどうしようもない状況になります。私(Gさん)は数年前にまちづくり協議会の活動で、耕作放棄地にコスモスを植える取組をしたのですが、コスモスを植えるときも油圧ショベルで木を取り除いて種まきをしました。
人口減少による後継者問題も地域の大きな問題です。10年、15年するとどのようになるのかと考えてしまいます。地域として対策を考えていかなくてはいけません。幼稚園児も減ってしまいました。子どもが増えてくることが地域の活性化にとって大切なことだと思います。」
(2) 人々のくらし
ア 地域の行事
(ア) 農業に関係する伝統行事
「地蔵祭り、秋祭りなど、町ごとで伝統行事として残っているものが10くらいあります。たくさんの行事を実施して、農家の人たちが集まる機会を作って交流していたのだと私(Eさん)は思います。昔は農家だけでしたので農業に関係している行事が多かったです。土用祈禱は虫が湧かないように願うもので、みんなが歌を歌いながらお祈りをして、その後に懇親会をしたりしました。」
「夏には輪越し祭り、土用祈禱といって地域の人が集まって祈禱をして健康や豊作を願う行事がありました。ほかにも小さな行事ごとがたくさんあったことを私(Gさん)は憶えています。かつては、竹の先に付けたわら縄に火をつけて、田んぼの周りを子どもが歩く虫送りの行事がありました。子どもの頃はその行事のときに地域の人たちがおにぎりを作ってくれたりして、それを食べるのが楽しみでした。亥(い)の子では、昔は一番亥の子、二番亥の子、三番亥の子まで3回していましたが、今は1回だけになっています。」
(イ) 秋祭り
「この地域は各町にお宮があります。宮司さんも減っているので掛け持ちのお宮もあります。春や夏もお祭りをしていますが、秋祭りが最も活発だと私(Gさん)は思います。春や夏はのぼりを立てるくらいですが、秋は神輿(みこし)が出ています。現在も津吉町、中野町、上野町、恵原町から神輿が好きな若い人たちが神輿会をつくり、お祭りの前の週の日曜日にかきくらべをしています。2年前から南道後温泉ていれぎの湯の駐車場を借りて行っています。若いといっても60歳代の人たちですが、地域を盛り上げようと頑張ってくれています。」
(ウ) お日待
「お正月にはお日待という行事がありました。お日待は新年の日の出を待つという意味です。宿に集まって酒を飲んで日の出を拝んで解散していました。昔は各家が順に当番をしていました。材料なども自分たちで準備して料理をしたものを持ち寄っていたことを私(Gさん)は憶えています。」
「昔はお日待のときに神主が来て祈禱をしてくれていたことを私(Fさん)は憶えています。今ではお日待をしているところは少なくなっています。昔の宿はふすまの部屋なので大部屋を作ることができましたが、今は宿が個室になっていますので人が集まりにくくなっています。津吉町でお日待をしていたところは12か所くらいあったのですが、今は2か所か3か所だと思います。」
(エ) 葬儀の様子
「昔の葬儀は、斎場で行うのではなく各家で行っていました。地域の人が総出でお世話をしていました。私(Gさん)の家では10数年前に自宅で葬儀をしましたが、今では家で葬儀をする人はほとんどいなくなりました。」
イ 久谷中学校
「昭和35年(1960年)に荏原中学校と坂本両中学校の統合により久谷中学校が開校しました。久谷中学校の1期生と2期生は荏原中学校の校舎を使用しており荏原教場と呼んでいました。昭和37年(1962年)に久谷中学校に鉄筋コンクリート3階建ての校舎ができました。鉄筋コンクリートの校舎は当時としては珍しく、私(Gさん)が中学生のときに青森県から視察があった記憶があります。」
「久谷中学校は坂本中学校と荏原中学校の中間に作ることになりました。家から遠くなる生徒もいましたので、役場に自転車を買ってくれと生徒の保護者が言っていたという話を私(Fさん)は聞きました。」
「久谷中学校という名前については、いろいろな案があったそうですが久谷川が流れているから久谷中学校にしようと決めたと聞いています。
久谷中学校は西日本でも給食制度ができたのが早かったと聞いています。久谷中学校の給食室は立派な建物でした。毎日のように県内外から視察が来ていたことを私(Eさん)は憶えています。」
ウ 森松線の思い出
「昭和40年(1965年)までは松山市中心部に行く場合は森松線を利用していました。森松駅まで歩いて行って、森松駅から汽車で移動していました。森松線は立花駅で横河原線と分岐して、駅は石井駅と、森松駅の二つでした。
私(Eさん)たちの世代が高校生のときは坊ちゃん列車(蒸気機関車)でした。立花駅から石手川に上がるとき人がたくさん乗っているため汽車が上がらないので、男子は汽車から降ろされて石手川の鉄橋まで歩いていたことを憶えています。ディーゼル化したときはよく走るので驚きました。」
エ 久谷大橋の思い出
「久谷大橋は昭和46年(1971年)にできました。久谷大橋ができる以前、私(Gさん)が高校生のときは堰(えん)堤でした。堰堤は上を通ることができたので自転車で堰堤の上を通っていました。自動車も通っており、すれ違うことができなかったので、そのときは自転車ごと堰堤の外によける必要があったことを憶えています。」
「水量が増すと川の水が堰堤を越えるので通れなくなっていました。雨の日に自動車で渡ろうとしたら堰堤の真ん中でエンジンが止まってしまいました。近所の人20人くらいで車を押してもらったことを私(Eさん)は憶えています。
堰堤ができる前は、大きな石を集めてひもを掛けて木の橋を作っていましたが、雨が降ったら流れるような橋でした。遍路道だったのですが、当時は森松町まで行かないと橋がなかったので、人が渡れるように木の橋を架けていたのだと思います。小村町には大師堂があり、札始大師堂と呼ばれています。昔、お遍路さんは雨で橋が何日か渡れないときは大師堂に泊まっていました。炊事もでき、トイレもありました。そこに今でも石を積んだ無縁墓があります。遍路の途中で亡くなった人を弔ったもので、地元の人が作ったものです。」
オ 重信川と人々のくらし
「この辺りの重信川は広く、下流に行けば土手は高く、川は狭くなっています。建設ブームになってから重信川の石と砂を採ったことで河床が2m以上低くなりました。昔は川の方が高く、重信川の中に立つと土手の向こうの家が見えていたことを私(Eさん)は憶えています。
小村町は地下水が豊富で、昔はどこの家も井戸を掘って、ポンプを付けて地下水を使用していました。今では台所は上水道の水を使用していますが、風呂などは井戸水を使っています。重信川の豊富な伏流水があるため、松山市はこの地域に上水施設を作り、久谷地区全体で水道が使えるようにしています。また、農業用水も重信川の伏流水が湧き出てくる泉の水を使用しています。重信川の伏流水がこの地域の産業基盤になっています。」
参考文献
・ 久谷村『久谷村史』1967
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 坂本公民館『郷土読本 ふるさと坂本』1992