データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 坂本地区の農林業
(1) 坂本地区の農林業とくらし
ア 坂本地区の産業
「この地域の主産業は農業で、林業もありますが専業でやっている人は非常に少ないと思います。私(Cさん)は石工業(石材加工業)をしていました。今は自分の家で食べる野菜などを作っていますが、サルやイノシシが悪さをするので困っています。
石工業で使う石は、明治の頃は地元の石を使っていたそうです。戦後は今治(いまばり)市などいろいろなところから入れていました。中国や韓国といった外国からも入ってきて、平成に入ってからは9割くらいが外国からの石になっています。墓石産業と言って、主に石を加工して墓石などを作っています。お城の石垣、道路や河川の石積みなどの修繕もやっていました。
私の家は石工業をしながら、私が子どもの頃に祖父や父が小さな畑にミカンを植えて栽培していたことを憶えています。しかし、植えてやっと実がなりだした頃には安いから作っても駄目だということになりました。石工業と農業の両方をしていましたが、割が合わないので石工業を専業でやろうということになりました。林業もヒノキで車が買えると言っていたのが暴落してしまいました。」
「坂本地区の産業というと農業ですが、自営業や公務員、サラリーマンをしながら農業をしていた人が多かったです。私(Aさん)の家も田んぼや畑がありますが多いわけではありません。農業だけで生活できないためどこかに勤めに行く必要がありました。当時の坂本では勤めるところといえば役場か農協、郵便局でした。私は郵便の仕事を希望し、郵便局に勤めました。郵便の仕事は、朝早くから始まり、終わるのが早かったため、仕事の後に農業ができるということが理由で希望しました。結局、郵便ではなく保険と貯金の仕事になりましたが、農業をやりやすい職場環境でした。」
「私(Bさん)は専業農家で、今も農業をしています。昭和30年代はミカン、米、麦を作っていました。昭和40年代にミカン価格が暴落してからはミカンをやめてイチゴをビニールハウスで栽培しています。」
イ 坂本地区の農業
(ア) 稲作の様子
「坂本地区には水田が多くありますが、米だけでは生活がしんどいということもあったので米と何かの作物を作っている農家が多いと思います。専門的な技術を持っている専業農家はタマネギやトマト、イチゴなどを作っています。
昔はどの家にも子どもが多く、私(Aさん)の周りの家も一家に子どもが5人から7人いるのが普通で、中には子どもが11人いる家庭もありました。子どもが多い家は人手が足りていたので家族で田植ができていました。家族だけでは人手が足りないところは違う地区の親戚が来て手伝っていました。基本的には家族や親族で田植をしていましたが、病気の家族がいたり、作業の遅い家庭があったりすると近所の人が手伝っていました。」
「当時は、田植が終わると田休みがありました。地域で田休みの日をあらかじめ決めておいて、田休みの日を楽しみに作業をしていました。作業の遅い家が残っていると田休みにならないので地域の人がみんなで手伝っていたことを私(Bさん)は憶えています。田休みの日には、地域の人が集まってかしわ餅を食べるなどしてお祭りごとを楽しんでいました。」
「私(Aさん)たちが子どもの頃はその年齢でやれることを手伝っていました。田植が下手であれば苗を運ぶなどいろいろな作業をしていました。田植が終わると田休みにはかしわ餅を作ってくれたので、それを食べて近所の子どもたちと遊んでいました。田休みは子どもにとっても楽しい行事の一つでした。
なぜ田休みがあるのかというと、牛がいない家では近所の人に牛を使った作業をしてもらったので、田休みの日に借りを清算するという意味があったからです。それがなかったらけじめが付かなくなってしまいます。」
「今は農業機械と給排水の設備が良いのでよほどの問題が起らない限り、自分の都合で田植も稲刈りもできます。かつては今のようなパイプでの給排水ではないので田植の時期が決まっていました。そのため、私(Cさん)たちが子どもの頃は、田植や稲刈りの時期には学校が休みになり、農家ではない子どもも近所の農家に手伝いに行っていました。当時は、近所の人、家族、親戚などみんなで助け合って田植をしていました。」
(イ) ミカン栽培
「昭和30年頃はこの辺りは周りを見渡すとミカン畑ばかりだったことを私(Aさん)は憶えています。昭和30年代、40年代はミカンが全盛期でした。箕甲(みのこ)付きの屋根の家はあの頃にミカン5,000貫(約18,750kg)以上作っていた農家が多いです。終戦後は限られた農家だけがミカン畑を持っていました。『うつむいてやる仕事では金にならん。上を向いてやる仕事でないと金にならん。』と言って、米を作るよりミカンを作る方がお金になるので、みんな一生懸命ミカン畑を開墾しました。私も仕事が終わったら道具を持って畑に行きミカンの苗木を植えました。苗木を植えてこの木が大きくなった頃にはミカン畑が子どもたちを大学に行かせてくれると思っていましたが、成木になった頃には価格が暴落してしまいました。
ミカン畑を廃園にした後はキウイフルーツを生産した農家が多かったことを憶えています。当時、キウイフルーツはかなりの収入になったようで、山の裾野辺りに植えていました。現在はキウイフルーツを生産している人は減りましたが、今でも数人が生産しています。」
(ウ) イチゴ栽培
「昭和40年代にミカンの価格が暴落してしまいミカンでは生活できない状況になりました。ミカンをやめた後は、キウイフルーツやトマトなどいろいろな作物を作り、今はイチゴに落ち着いています。
その頃、重信川沿いの松前(まさき)、浮穴、東温辺りはイチゴの適地という話でした。坂本はちょっと標高が高過ぎると言われていましたが、山でもなんとかすればできるだろうと田んぼにビニールハウスを建ててイチゴの栽培を始めました。私(Bさん)がイチゴを作り始めてから半世紀たちますが、今もイチゴの栽培を続けています。」
ウ 坂本地区の林業
「昭和20年代には国が荒廃している山を緑にしようという方針を示し、植樹をする動きがありました。ところが、昭和38年(1963年)に木材の輸入が解禁されて木材の価格が下がったので、林業はこの年を境に徐々に衰退していきました。私(Bさん)も林業に若干関わっており、その頃に植えた木は今では立派になっていますが、現在は山林の管理に困っています。」
「坂本は山に囲まれた土地ですので、林業にかなり力を入れていたことを私(Aさん)は憶えています。この地域ではスギとヒノキを育てていて、山の峰の辺りではヒノキを、谷間ではスギを植えていました。山や木は財産で、米のように秋がきて収穫すればすぐに金になるというものではありませんが、山にスギでも植えておけば子どもが家を新築するときや娘が結婚するときのための財産になるという気持ちでいました。昭和38年までは山にスギを植えていたら生活ができていました。山のスギを3本売ったら1年分の米代になっていました。
集落でも組の山があったり、坂本村の村有林があったりしました。昭和23年(1948年)くらいから植樹した山が久谷でも13か所あります。当時、株を持っていた人は270人くらいいました。株を持っていたら配当があり、山の木を売ったらお金になると思っていました。今は村有林の株を持っていても値打ちがなくなっていて、放棄する人も多くなっています。
現在は、間伐する人もいませんので放置している山が多く、自分で管理できないので管理して欲しいという人が増えています。」
「坂本は荏原より植林していた人が多かったと思います。私(Dさん)はつづら川ですが、つづら川は林業に携わっている人が多かったことを憶えています。私は、自分の家の山がどこにあるかはある程度は分かりますが、境については何年も山に入らないと分からなくなります。印を付けるなどして境が分かるようにしていますが、それでも定期的に見に行かないと分からなくなります。昔はどの家も間伐したり枝打ちしたりしてきちんと管理していたのですが、今は木材の値段が安いので放置しているところが多いと思います。」
エ 坂本地区の水利
「農業で必要な水については、三坂峠からの川の水を使っています。荏原地区はため池が多いと思いますが、坂本地区はため池だけではなく久谷川や御坂川などの川の水を使っています。昭和9年(1934年)の大干ばつの年があったり、私(Aさん)が憶えているものでは、平成6年(1994年)に干ばつがありましたが、それ以外は水に困ることはありませんでした。」
「坂本地区は平地より山地が多いため山からの水で賄うことができています。私(Bさん)が農業をしていて水を心配することはそんなに多くはありません。ミカンを栽培していたときは、ミカンの灌(かん)水をしていました。もしこの地域の山が全部ミカン山だったら水が足りないという問題が起こっていたかもしれません。」
「農地を多く持っている農家は川からポンプで水を引いて、スプリンクラーでミカンの灌水をやっていました。私(Aさん)の家のように小規模な農家の水まきは自分でホースを使ってやっていました。」
「坂本地区は山林が多く、米の作付け量に対して水の量は足りています。植林をしたということもあり、木が多く残っているので保水力があるのだと私(Cさん)は思います。
大干ばつがなければ水は心配なかったと思いますが、農業をしている人にとって水は大切です。私が子どもの頃は夏に雨乞いをしていた記憶があります。この地域では、飲み水がないという問題はあまりありませんが、作物に水が行き届かなかったらいけませんので、雨が降りますようにという意味を込めて行われていたようです。夏には雨乞い、秋口には雨が降り過ぎたり台風が来たりという風水害に対して祈禱(とう)を行っていたと聞いたことがあります。毎年ではありませんが、その時節に応じて行っていたそうです。」
「雨乞いの儀式の形跡が窪野町に残っています。雨が降らない年に鐘をたたいたりしていたという話を私(Aさん)が幼いときに聞いたことがあります。終戦後は、雨乞いと銘打った大規模な年中行事が行われたという話は聞いていません。」
オ 農業機械
「私(Bさん)の記憶では、昭和28年(1953年)くらいから農業機械を使い始めたと思います。それまで、ほとんどの家では牛を使って田んぼを鋤(す)いていました。農業の様子は昭和20年代と昭和30年代とで大きく変わりました。私たちの世代にしたら農業機械が導入されたことは大改革でした。」
「昭和30年代になって少しずつ軽自動車を買う人がいたことを私(Aさん)は憶えています。それまでは軽トラックなどはありませんでした。近距離ならリヤカーや大八車を使っていましたが、リヤカーを持っている農家は金持ちでした。
農業機械が入るまでは牛を使っていました。牛の方向を決めるのは子どもの仕事でした。左に行くときは『はせ』、右に行くときは『へせ』と言っていました。右に行くときは簡単だったのですが、左に行くときは難しかったことを憶えています。
テーラーなどの農業機械が入りだしてから農家の出費が増えて小規模農家は付いて行けなくなりました。そのような状況だったため農業以外で収入を得る人が増えていったのだと思います。農業をしている家庭でも、お弁当を持って土木の仕事に行く方が現金収入になり、生活するのが楽になる家も多かったと思います。農業機械などを使うようになってくるとお米を作るのにも財産が必要な時代になっていきました。」
「私(Cさん)が子どもだった昭和30年代から農業の道具が良くなっていきました。牛を使っていたのが耕うん機になり、いつの間にかトラクターになり次々と5年、10年で目まぐるしく変化しました。変化に伴って兼業の農家が増えて専業の農家は少なくなったと思います。
農業機械を導入して便利になりました。牛を引っ張ったりたたいたりしなくて済むようになったのは大きいです。しかし、農業機械が高額であるため経済的負担は大きくなり、農業所得だけでは難しい状況になっていったと思います。
農業機械が導入されてからこの地域の風習も変わりました。雨乞いや虫送り、お日待ちといった行事をすることはなくなりました。高齢化が進み人口が減ったのもありますが、農業をする人が減ってきて農業に関連した行事をやらなくなってきました。農業を通じた地域の連帯感が希薄になっています。」
(2) 人々のくらし
ア 子どもの頃の遊び
「私(Aさん)が子どもだった頃は、自分たちで工夫をして自然の物をうまく使って、道具も自分たちで作って遊んでいました。例えば、桶(おけ)の竹の輪が外れたものを割った竹で挟んで転がして遊んでいました。竹を切ってきて弓を作って矢を飛ばして遊んだり、竹で水鉄砲を作ったり、ヤナギの木を使って刀を作ったりもしました。」
「私(Cさん)が子どもだった昭和30年代後半から40年代は野球をよくしていました。空き地や稲刈りが終わった後の田んぼに集まって遊んでいました。特別な道具があるわけではなかったので、人数が少ないときは鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりしていました。自然の物を使って遊ぶか、野球をして遊ぶかといったところでした。」
「昭和38年(1963年)の1月に三八豪雪があったように昔はよく雪が降りました。昔の坂本地区でもよく雪が降っていたことを私(Aさん)は憶えています。年に2回か3回は雪が積もって学校の屋根が真っ白になっていました。冬はみんなで雪遊びをしていました。」
「私(Cさん)が子どもの頃はまだ自動車を持っている人は少なかったですが、雪が結構降ると自動車のタイヤにチェーンを巻いても車が走らないという状況でした。道路は真っ白でゲレンデのようになっていて子どもの遊び場でした。」
イ お祭りの記憶
「お祭りは秋祭りと春祭りがあり、私(Cさん)たちはそれぞれの地域単位で氏神様にお参りをしていました。」
「私(Aさん)たちが子どもの頃はお祭りが楽しみでした。秋祭りは、松山市と合併してからは10月7日に行っていますが、当時は地域ごとにお祭りの日が異なっていました。中通り祭りは10月15日で、この辺りでは秋祭りの日が遅かったことを憶えています。祭りがあるとその地域の人に呼ばれて、お土産に餅をもらって帰り、お返しに私たちの地域の祭りに来てもらっていました。昔は集落の交流が盛んで、私の母は久万町の出身でしたので久万の祭りに行ったり、久万の人をこちらに呼んだりして交流がありました。」
ウ 全国植樹祭の思い出
「昭和41年(1966年)の全国植樹祭のときは手伝いに行きました。当時の人たちはみんな記憶に残っている大きな出来事でした。このとき久谷村の役場が地域の若者を集めて建設班というのを作りました。私(Bさん)はその班長として道路の清掃や整備をしたことを憶えています。」
「私(Cさん)は中学生だったので大久保坂に行って旗を振りました。小学生も旗を振りに来ていました。私の父も手伝いをしていた記憶があります。」
「それまで国道33号はまだ舗装されていませんでしたが、全国植樹祭のときに整備されました。昭和天皇が植樹した会場は厳しい警備で限られた人しか入場できませんでした。私(Aさん)は郵便局に勤めていましたので、記念スタンプを押す仕事で行き、天皇陛下が植樹される様子を見ることができました(写真2-1-1参照)。」
エ くらしの変化
「令和3年(2021年)4月から坂本地区に来るバスがなくなりました。高齢者や免許を持っていない方はお店や病院に行くのも困っているという話を私(Cさん)は聞きます。それまでは徒歩で坂を上り下りして1kmから2kmでバス停に着き、そこからバスで移動できていました。バスがなくなってからは予約制の乗り合いタクシーになっています。もともとバスの停留所まで乗り合いタクシーは来ていましたが不便だという声がありました。今は少しでも利用しやすいように各集落の集会所まで来てくれています。予約制の乗り合いタクシーはうまく利用できれば便利ですが、予約することが手間に感じている人もいます。」
「過疎化が進んで私(Aさん)たちの生活はいろいろと変わりました。現在の坂本にはお酒を売っているところがありませんが、以前は大黒座といって造り酒屋がありました。また、集落ごとに小さな店が数軒ありましたが、それもほとんどなくなりました。今は砥部のAコープまで行って買い物をしなくてはいけません。」
オ 大黒座
「大黒座は、もともとは大正期にできた造り酒屋だったと私(Aさん)は聞いています。その後、舞台を作って芝居小屋になり、旅回りの芝居が来ていました。昭和30年代は映画館でした。この頃はまだ各家庭にテレビがありませんでしたので、映画が楽しみでした。東京オリンピックの頃には各家庭でテレビを購入するようになり、昭和38年(1963年)に映画館はやめることになりました。
現在はまちづくり事業で整備され、コーラスをやったり、カラオケをやったりして地域住民に活用されています(写真2-1-2参照)。」
「松山市の『坂の上の雲』のまちづくり事業の一環として、久谷地区の活性化のために大黒座を保存、活用をしています。平成18年(2006年)に大黒座は修復され、私(Cさん)たち地域住民の活動の場所になっています。」
カ 坂本屋
「現在、宿泊はできませんが、坂本屋は昭和23年(1948年)までは遍路宿としてお遍路さんを泊めていたと私(Cさん)は聞いています(写真2-1-3参照)。終戦後の復興期になってからお遍路さんがほとんどいなくなったそうです。車社会になって歩き遍路が減ってしまい廃屋となったので、潰そうかと言っていました。そのとき、大学の教授から築100年以上の貴重な建物だから残した方が良いと言われ、『坂の上の雲』のまちづくり事業の一環として建物を残すことにしました。現在はお遍路さんや観光客など毎年多くの人が訪ねてくれます。
坂本屋の活動に私も18年間くらい関わっていますが、30歳から90歳の幅広い年齢の人が関わってくれており、代々引き継がれています。役員も交代しながら継続して取り組んでいますので、今後も続けることができると思います。
地域の人だけでなく、地域外の人も協力してくれています。SNSでの発信も積極的に行っています。地域の人だけでまとまるのも良いことですが、地域以外の人が関わることで新しい知恵を授けてくれ、良い刺激を与えてくれます。地域の若者や高齢者、地域以外の人などいろんな方が関わってくれています。」
「遍路道には弘法大師の網掛石や道標などがあります(写真2-1-4参照)。道標は指で道を示しているものが多いのですが、中には軍服の袖が描かれているものもあり、道標を作った当時の様子を感じることができます。道標などに触れることで、歴史を感じ学びながら歩いて欲しいと私(Aさん)は思います。」
「46番札所から45番札所というふうに逆打ちの道標があったりします。うるう年に逆打ちをすると御利益(やく)が3倍になると言われており、4年に1度逆打ちの年があります。
歩き遍路はコロナ禍で減りましたが、徐々に増えてきていると私(Cさん)は思います。20年くらい前からは外国から観光で来る人も多く、10人中5人か6人は外国の人でした。今は日本人だけでなく外国人も増えてきています。」
キ ほたる祭り
「ほたる祭りは平成11年(1999年)に奥久谷で第1回が開催されたことを私(Bさん)は憶えています。奥久谷で20年間開催され、コロナ禍の明けた令和4年(2022年)から窪野で開催されるようになり、3年開催しました。今年(令和6年〔2024年〕)は2,000人余りの人が来てくれました。」
「ほたる祭りの会場が奥久谷から窪野になったのは、奥久谷で運営のスタッフが70歳代から90歳代になったからです。続けていかないといけないと思っていたイベントだったので、窪野が継承してくれて良かったと私(Dさん)は思っています。」
ク 窪野のヒガンバナ
「窪野のヒガンバナは全国的に有名で、毎年多くの人が来ます(写真2-1-5参照)。たくさんの人に坂本地区に足を運んでもらえるのは、私(Dさん)たち地域の住民にとってはうれしいことです。」
「ヒガンバナを植えておけばモグラが穴を開けないという理由で、農家の人たちが田んぼのあぜに植えていました。もともと窪野はヒガンバナが多いところだったのですが、水田の基盤整備をするという話があり、このままではヒガンバナがなくなってしまうということで地域の若者がヒガンバナを移植したのが始まりだったと私(Bさん)は記憶しています。それが2年か3年で増えて今のように多くの人が来てくれるようになりました。」
ケ つづら川のくらし
(ア) くらしの様子
「私(Dさん)が子どもの頃、つづら川ではニンジンを作っている人が多く、道端にニンジンを並べていたことを憶えています(写真2-1-6参照)。少数でしたが谷で米を作っている人がおり、10年くらい前までは1人か2人は米を作っていましたが、今は誰も作っていないため荒れてしまってイノシシの遊び場になっています。
木材の利益が良かったのでつづら川の主な産業は林業でした。林業の利益が減少すると、砥部町の原町などに働きに出るようになりました。林業が悪くなる昭和38年(1963年)が大きな変化の年で、つづら川にも大きな影響がありました。今のつづら川は、家は5軒くらいで10人くらいの人が住んでいます。三坂道路ができたことで集落へのアクセスは良くなりましたが、バスが止まらないので車を運転できない人にとっては不便です。高齢者だけで住んでいるところには家族が週に何回か買い物したものを持ってきています。」
(イ) つづら川の子どもの遊び
「私(Dさん)は子どもの頃、冬は坂本小学校つづら川分校の斜面の雪を踏み固めてスキーで楽しんでいました。肥料袋で滑ったり、竹でスキー板を作って板スキーで滑ったり、木馬(きんま)(そりのような道具)を作って滑ったりして雪で遊んでいました。雪が降るとバスが止まって先生が学校に来ることができないので、1日中遊んでいました。当時は今と違いよく雪が降っていました。」
(ウ) 坂本小学校つづら川分校の思い出
「坂本小学校つづら川分校は昭和57年(1982年)までありました。坂本小学校つづら川分校には分校の校歌があったことを私(Dさん)は憶えています。分校には先生が2人いて、つづら川に先生が住む住宅もありました。中学校は、私たちの少し上の年代からは砥部中学校に通っていました。」
「今年(令和6年〔2024年〕)67歳か68歳くらいの人までは、塩ヶ森のバス停から歩いて久谷中学校に通っていたそうです。私(Cさん)が中学生のとき、つづら川から久谷中学校に通学していた人は1学年に4人か5人いました。私たちより上の年代の人は坂本中学校に通っていました。」
「私(Bさん)たちのときは、坂本小学校の隣に坂本中学校がありました。私が坂本中学校に通っていたときはつづら川から通学している同級生が5人いました。通学は大変だったと思います。」
写真2-1-1 お手植えの杉 松山市 令和6年9月撮影 |
写真2-1-2 大黒座 松山市 令和6年12月撮影 |
写真2-1-3 坂本屋 松山市 令和6年12月撮影 |
写真2-1-4 弘法大師の網掛石 松山市 令和6年8月撮影 |
写真2-1-5 窪野のヒガンバナ 松山市 令和6年9月撮影 |
写真2-1-6 つづら川の集落 松山市 令和6年8月撮影 |