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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 久谷の産業と人々のくらし

 久谷地区は、松山市の最南部に位置する農山村地域である。明治22年(1889年)に、南部の窪野、久谷、浄瑠璃寺の3か村が合併して下浮穴郡坂本(さかもと)村が成立し、北部にある津吉、中野、河原、東方、小村、上野、西野、恵原町の8か村が合併して下浮穴郡荏原(えばら)村が成立した。両村は明治30年(1897年)に温泉郡に所属となり、昭和31年(1956年)に荏原村と坂本村が合併して温泉郡久谷(くたに)村が誕生し、その後、昭和43年(1968年)に久谷村は松山市に合併した。
 久谷地区の地形は面積が44.55㎢、南北は約11km、東西約3.7kmほどであり、南北に長い長方形の地形である。面積の70%は山地で南高北低となっており、南側には黒森山など1,000m級の急峻な山地を境に久万高原(くまこうげん)町に接し、西側は伊予郡砥部(とべ)町、東側は東温(とうおん)市と接している。久谷地区の中心部には南から北に御坂川が流れており、地域内各所に河岸段丘が認められる。北部には重信川が東から西に流れており、地域の30%を占める北部低地には水田が広がっている。古来より交通の要衝で、四国八十八箇所霊場である浄瑠璃寺と八坂寺があり、遍路道が続いている。ほかにも四国遍路ゆかりの文殊院や八ツ塚群集墳など、寺院や古墳が多く残っている。
 坂本地区は、御坂川とその支流の久谷川と窪野川流域に位置しており、米麦作や畑作が営まれている。大正10年(1921年)頃から柑橘などの果樹栽培に着手する農家が増加したが、昭和40年代以降、温州ミカンの価格低下によって生産量は減少した。山地であることから、かつては林業も盛んであったが、現在では山林の管理が課題となっている。
 荏原地区は、重信川の左岸流域と御坂川の流域の水田や畑が多い地区で、御坂川やため池の水、重信川の自然湧水による地下水を利用した農業が営まれている。稲作が中心の地域だが、戦前は果樹栽培も盛んでナシが古くから栽培されていた。終戦後はナシに代わって温州ミカンの栽培に力が注がれたが、現在では温州ミカンの生産量は減少している。
 本節では、坂本地区の農林業や人々のくらしについて、Aさん(昭和10年生まれ)、Bさん(昭和11年生まれ)、Cさん(昭和28年生まれ)、Dさん(昭和34年生まれ)から、荏原地区の農業と人々のくらしについて、Eさん(昭和12年生まれ)、Fさん(昭和14年生まれ)、Gさん(昭和26年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。