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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 平井の町並み

  ア なんでもそろった商店街

 「もともと私(Aさん)は現在の東温(とうおん)市出身ですが、昔から平井の商店街に行ったら、ないものはないと言われていました。横河原や久米の商店街よりも後からできた商店街ですが、平井の商店街の方が店も多く、賑わっていました。久米まで行く必要は全くありませんでした。」
 「昭和30年代、40年代の頃は、平井に来たらなんでもそろう、ないのは靴屋だけだと言われていたことを私(Bさん)は憶えています。」

  イ 平井橋と平井駅

 「明治時代にこの商店街ができた頃には、東西をつなぐ主要な道は平井橋を通る道しかなく、小野川を渡るときは平井橋を通るしかなかったということになります。それで、皆がこの道を通って、往来したので、平井橋が中心になりました。古い平井橋は大正12年(1923年)頃に焼けたそうで、大正13年(1924年)に再建されました(図表1-2-1㋐参照)。その橋が昭和48年(1973年)に付け替えられて現在の橋になっています。
 さらに、伊予鉄道平井駅ができ、人の流れも平井駅に集まるようになりますが、品物も同様で平井駅に農作物などの市が立つようになったそうです。私(Cさん)が3歳の頃まで、横河原線には坊ちゃん列車(蒸気機関車)が走っており、私も乗ったことがあります。その頃は田窪の隻手薬師(香積寺)の春祭りなどに多くの人が伊予鉄道に乗って参拝していたそうです。坊ちゃん列車は昭和29年(1954年)に廃止になり、私が高校1年生だった昭和41年(1966年)くらいまでディーゼル機関車で、その後電化されて電車になりました。自転車で通う人もいましたが、当時は多くの人が通学や通勤に伊予鉄道の列車やバスを利用していました。それで、商店街の道をたくさんの人が通っていました。また、重信(しげのぶ)町からも野田地区の人々は自転車やバイクで平井駅まで出てきて平井駅から伊予鉄道で通学や通勤をしていました。平井駅があるから人が集まり、なんでも平井の商店街にあったので、鷹子、北梅本や南梅本、重信、川内(かわうち)の方からもお客さん来ていました。やはり人の流れがないと商売もうまくいきません。今は伊予鉄道もお客さんが減って、電車に乗る人が少なくなりました。」

  ウ 平井の両面句碑

 「平井駅の前には石碑がありますが、正岡子規が小野を詠んだ句が表と裏にあって、平井の両面句碑というので有名です(写真1-2-1参照)。表側の俳句は『巡礼の夢を冷やすや松の露』で明治24年(1891年)に川内の白猪の滝に行った帰りに平井城跡にあった兜松という大きな松を詠んだ句で、その頃まだ平井駅はありませんでした。
 裏側の句が明治33年(1900年)の『茸狩りや浅き山々女連れ』という句です。明治26年(1893年)に平井駅ができたのですが、周辺では松茸がたくさん採れるので平井駅は松茸市で有名だったと私(Cさん)は聞いたことがあります。」

  エ 昭和40年頃の商店街西側

  (ア) 授産場

 「戦前は平井にも酒蔵があったそうですが、私(Cさん)が子どもの頃にはやっていませんでした。酒蔵があったところは建物が広かったので、建物の一部がクリーニング店になりました(図表1-2-1㋑参照)。個人の経営するクリーニング店ではなく、授産場と呼ばれており、夫に先立たれた人やシングルマザーが働いていたことを憶えています。そこでは主に、自衛隊の隊員の制服やじゅうたんなど普通のクリーニング店では扱うことが難しいものを扱っていました。一般の家庭にもセールスがあって、洗濯物の収集を行っていました。授産場は昭和50年代の半ば頃まではあったと思いますが、中心になってやっていた人が亡くなってから店はなくなり、現在は更地になっています。
 小野地区には自衛隊の松山駐屯地があり、学校の近くに与力(よりき)住宅、明神住宅、大野住宅と呼ばれる1戸建てが10数軒並んだ自衛官の官舎がありました。昭和20年代に建てられた官舎には風呂がなく、旧国道11号沿いにあった銭湯を利用していました。多くの自衛隊員さんがおり、商店街にもたくさん買い物に来てくれました。官舎には同級生が大勢いたのでよく遊びに行っていました。2、3年で転勤する人もいましたが、退職後に小野地区に家を建てて、長い間店に来てくれていたお得意さんもいました。小学校時代に転勤していった文通友達が永井洋品店の100周年のお祝いに大きな盛花を送ってきてくれてとてもうれしかったです。」

  (イ) 製材所

 「平井駅の北に製材所がありますが、私(Cさん)が子どもの頃、この製材所は羽振りが良かったことを憶えています(図表1-2-1㋒参照)。昭和11年(1936年)に旧国道11号ができましたが、その頃はまだ車もあまり通っておらず、馬車で釘などを川内や桜三里の方に運び、そこから馬車に材木を積んで、持って帰っていたそうです。それを製材して松山に持っていって、財を蓄えたと聞きました。
 小野で最も海外旅行をした人は、そこの奥さんだったという話も聞いたことがあります。ボウリングブームの頃には平井商店街の皆を夜、店を閉めてから迎えの車で北条(ほうじょう)のボウリング場に連れて行ったりしてくれました。」

  (ウ) 病院

 「今では商店街の中にも病院がありますが、昭和40年代には時計店の前に外科を専門とする石丸病院がありました(図表1-2-1㋓参照)。ここの医者はもともと軍医だったそうで、荒っぽいことで有名でした。私(Cさん)も傷を縫ってもらったことがありますが、とても速いスピードで傷を縫われたことを憶えています。しかし、ほかに外科がないので、必要になればそこに行っていました。」

  オ 昭和40年頃の商店街の東側

  (ア) 森本邸

 「私(Aさん)の店の西隣の邸宅の一部は昔伊予鉄道の前身の伊予鉄道電気の時代に社員が宿泊する散宿所だったそうです(図表1-2-1㋔参照)。この家は昭和の初期には呉服店を経営していたらしいのですが、裕福だったので、横河原線沿線で一番伊予鉄道の株を持っていると言われていました。」
 「平井町には銅像のある立派なお屋敷があるのですが、そこはもともと呉服店を営んでいたと私(Cさん)は聞きました。もともと横河原線を引く際に久米までの予定だったそうですが、建設資金が足りなかったので、出資を募ったところ、この元呉服店を営んでいた方がお金を出したので、平井駅まで伸ばすことになったそうです。」

  (イ) 平井座

 「平井座は私(Bさん)が中学校に入った昭和30年半ば頃まではあったと思います(図表1-2-1㋕参照)。もともとは芝居小屋で、浄瑠璃などをしていたのですが、映画館になり、その後、短期間ミカンの缶詰やジュースを作る工場になった後、歯科医が購入して開院しました。」
 「平井座では、毎日、映画が上映されていたことを憶えています。私(Cさん)が子どもの頃は毎日夕方になると、その当時の人気歌手の歌やクラシック音楽が流れて、家の隣のおばさんが平井座の宣伝の放送をしていました。『御通行中の皆様、御家庭の皆様、本日お送りいたします映画は、総天然色映画、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵出演・・・。』といった具合です。そのとき音楽を聞いて、クラシック音楽に目覚めた人もいるそうです。時代劇が多かったのですが、映画だけではなくて、芝居も時々やっていました。昭和35年(1960年)に前の道が舗装されたことを祝ったときにはまだあったようなので、その頃までは平井座があったのではないかと思います。
 平井座があった頃、商店は夜遅くまで開いていました。平井座で夜の11時くらいまで映画の上映があり、それが終わってから買い物に来る人もいたからです。小野谷の方からは映画を観(み)にたくさんの人がトラックの荷台に乗ってきていたことを憶えています。私もその頃は子どもだったのですが、夜遅くまで起きていて、『嬢は目が固いな。』と言われたことを憶えています。」

  (ウ) 郵便局

 「私(Aさん)の店の隣は、もともと郵便局だったそうです(図表1-2-1㋖参照)。その後郵便局は道路を挟んで前のところに移り、私の店の隣は後にパン屋となりました。郵便局はその後自転車中心の生活が車社会になったために旧国道11号沿いに移って現在に至ります。」
 「元の郵便局は局長さんの自宅でした。パン屋は昭和40年代の半ばくらいから始めたのではないかと思います。アンデルセンのパンを売っていましたが、サンドイッチは店で作っていました。朝早くからおばあちゃんが1人で作って、それで売り切れたら店を閉じていました。『元気なうちは続けたら。』などと私(Dさん)たちも言っていましたが、90歳を超えるまで店を続けていました。」

  (エ) 鍛冶屋

 「川沿いにあるしょう油屋は、もともと桶(おけ)を製造していたと私(Cさん)は聞いています。(図表1-2-1㋗参照)。それが、戦死したお兄さんの代わりに大阪で警察官をしていた弟さんが帰ってきてしょう油の製造を始めたそうです。昭和40年代にはまだしょう油製造を行っていました。鍛冶屋ではおじさんが炉を燃やして、鍬(くわ)などの製造や修理をしていました(図表1-2-1㋘参照)。その横の部屋でおばさんが和裁をしていました。結構長い間やっていたことを憶えています。
 すきや書店は元鍛冶屋だったそうで、鋤(すき)や鍬などの農機具を作っていたそうです(図表1-2-1㋙参照)。それで『すきや』という名前になったそうです。」

  (オ) すきや書店

 「すきや書店を開いたおじさんは、私(Cさん)の母と同級生で元特攻隊員(少年飛行兵)でした。戦後、文房具店と貸し本店を兼ねたすきや書店を開き、90歳近くになるまで生涯現役で店を続けました。商店街の世話役や青色申告会の委員も長年続けて、皆の良き相談相手でした。私の父とも仲が良く、私は子どもの頃から、すきや書店へ行って、新しい本を借りたり、買ったりすることが何よりの楽しみでした。昭和30年代に、母に月500円で借り放題にしてもらい、毎日借りていました。昭和40年代に、私は1冊750円くらいの文学全集を毎月買って集めていたのですが、途中で河出書房が倒産して、続きが出版されなくなりがっかりしたこともあります。
 文房具は万年筆や高級な書道の筆、アルバム、そろばん、額縁、地球儀などなんでもあり、なくてはならない店でしたし、自衛隊の駐屯地にも売店を出していました。」

  (カ) 河本建材店

 「河本建材店は私(Cさん)のところの向かいに平成28年(2016年)までありましたが、今は内科医院になっています(図表1-2-1㋚参照)。古くからの名家で電話は壁掛け式の小野局1番でした。代々、村会議員や小野中学校PTA会長などを務め、地域の発展に努めていたことを憶えています。3代目の方が小野中PTA会長だったときからPTAの会員さんが土曜夜市の手伝いをするようになり、青少年の健全育成に役立っており、それは今も続いています。
 昭和30年代、40年代にはこの店に、たばこ、塩を始め、金物、荒物、瀬戸物などなんでもありました。夏には虫取り網や虫かご、金魚鉢、冬には七輪や火鉢、炭、豆炭、豆炭こたつ、火ばさみなどが、正月が近づくと、杵(きね)や臼、室蓋、お神酒とっくり、折敷(おしき)、三宝(三方)などのお正月用品が並んでいました。私は小学2年生から中学3年生まで生け花を習ったのですが、花器、剣山、花ばさみをこの店で買ってもらいました。店の番犬のための首輪や鎖もあり、壊れたときにはすぐに買うことができて助かりました。車庫兼倉庫には塩ビパイプやセメント、ブロック、瓦、タイル地などが積み上げられており、それをトラックで運んでいました。車のない頃には重労働だったと思います。敷地も広く、店の裏には借家が2軒、ビニールハウスが1棟、卵を採るためのニワトリ小屋が1棟ありました。水泥町に田畑を所有しており、私の父が田植のときに手伝いに行き、風呂に入り、ごちそうになって帰ってきていました。」

  (キ) 食料品の購入

 「子どもの頃、野菜は脇坂で、肉は大川食料品で、魚は豊田鮮魚店かつたえやでと商店街の各店を回って食料品を購入していました。つたえやには2階に広い宴会場があり、私(Cさん)の長兄はそこで結婚式の披露宴をしました(図表1-2-1㋛参照)。
 平井橋を渡ったところの下駄屋が、昭和48年(1973年)頃に平井橋ストアというスーパーマーケットを始めました(図表1-2-1㋜参照)。平井橋ストアはかなり繁盛していました。私も平井橋ストアが盛んに営業している頃はそこで食料品を買うことが多かったです。そこがなくなってからは、スーパーZやそごうマートに買いに行くことになりました。」

  カ 車社会になって

 「大川食料品店は学校給食の材料を納入しており、永井か大川かというくらい商店街では繁盛している店の一つでした(図表1-2-1㋝参照)。ところが、駐車場がなく卸屋が車で商品を運んできても、店の前に路上駐車をするしかありません。私(Cさん)のところにはたまたま横に1台駐車するスペースがあったので、まだ良かったのですが、やはり車で買いに来るお客さんには不便でした。
 平井橋ストアがオープンした頃もまだバイクや自転車が多かったのですが、駐輪するところがなくて店の前にたくさんの自転車やバイクが並んでいました。そうすると卸屋の駐車ができないので、現在老人介護施設小梅になっているところの土地を買い平井橋ストアを新築開店しました。地下駐車場があり、大変繁盛していました。やはり駐車場がないと商売は難しいです。」

 (2) 商店を経営する

  ア 豊田鮮魚店

  (ア) 鮮魚店を始める

 「豊田鮮魚店は、私(Bさん)が子どもの頃はなんでも取り扱っている雑貨屋でした(図表1-2-1㋞、写真1-2-2参照)。それで、お菓子がたくさん売ってあったので、私は虫歯が多かったのだと思います。もともと祖母が営んでいたのですが、私が中学校の頃に祖母が亡くなって父が魚屋を始めました。昔は車がなかったので、父が三津の市場までバイクで買いに行っていたことを憶えています。バイクなので量はそれほど運べませんが、その日のうちに売り切れるように仕入れていたようです。それで、私が高校を卒業すると同時に車の免許を取って、私が父を乗せて行くようになりました。」
 「私(Aさん)はもともと南野田(東温市)出身だったのですが、妻と結婚してこちらの家に入ってきて、今は閉店しましたが数年前まで鮮魚店を経営していました。この店はもともとは妻のお母さんが雑貨屋をしており、お父さんの方は農業をしていました。雑貨屋といっても昔のなんでも屋で、いろいろなものを売っていたようです。
 私がこちらに来たときにはすでに鮮魚店で、その頃はお父さんと一緒に三津の市場に車で魚を買いに行っていました。その頃は魚屋が平井の商店街に2軒ありました。お母さんが家で少しずつ料理をして出すようになっていたのですが、お母さんとも相談して私も料理をするようになりました。私は若い頃に京都で働いていたのですが、そのときに料理をしていたこともあって、仕出しも行うようになったのです。いわゆる会席料理を始めたのですが、それがうまくいってその後長く続けることになりました。」

  (イ) 鮮魚の配達

 「店が一番忙しかったのは昭和40年代だったと思います(写真1-2-3参照)。その頃は魚も多く売れていましたし、そのうえ、昔は消費者の立場が強く、注文をもらうと私(Aさん)たちが家まで配達をしていました。特に盆や正月などは、帰省する人も多く、皆が家でごちそうを作るため、注文も多く忙しかったのです。前日に注文をもらって配達をするのですが、あまりにも忙しく大変なので友人に運転をしてもらって一緒に配達をしていました。それでも配達は夜の10時頃まで掛かることもありました。正月も2日から仕事をしていましたが、大みそかには、配達が終わって片付けをしていると日付が変わって年が明けていることがほとんどで、私は紅白歌合戦も見たことがありませんでした。」

  (ウ) 店頭でウナギを焼く

 「平成に入るとなかなか厳しい状況でしたが、私(Aさん)の店では仕出しもあり、夏になると店の前でウナギを焼いていたので結構忙しかったです。立ったままウナギを焼くための私専用の焼き台を近所の鉄工所に作ってもらったりもしました。ウナギはよく売れましたが、焼いていると熱くてかないませんでした。ずっと火を付けたままですし、きれいに焼くためには、火から離れずウナギの上に体を乗り出して焼いているので熱いのです。特にたれを付けて焼きだすと火からは片ときも離れられません。それを考えるとあの頃は若かったなと思います。」
 「自慢ではありませんがたれがおいしかったので、ウナギはよく売れました。しょう油の焼ける匂いは食欲をそそるので、学校帰りの男の子が店の前に集まって、『匂いでご飯が食べられる。』とよく言っていました。私(Bさん)も今でもまたやってくれと言われますが、もうそれだけの馬力はありません。一度、市場の人に頼んで焼いてもらったことがありますが、『こんなしんどいことはもうやれない。』と一度きりでした。」

  (エ) 仕出し

 「私(Aさん)の店では注文を受けて、会席料理を作り配達する仕出しも行っていました。最も多かったのは法事のときの料理ですが、上棟式であったり、昔は結婚式を家で行っていたので、結婚式のための料理の注文もありました。
 会席料理ですので料理の品数が大体7品あります。今はパックで出されることも多いですが、以前は全て器に並べて出していました(写真1-2-4参照)。そうすると例えば法事だということで10人分の注文があれば、70皿必要です。それを全て車で運んで配達するので大変でした。松山方面にはあまり行きませんでしたが、小野地区や東温市の川内や上林などいろいろなところに配達しました。かなり山の奥の方まで行くこともありました。上林の花山に行ったときは笹をかき分けて行ったことを憶えています。
 配達のときは幅が1mくらいの箱にお椀を先に入れて、その上に板を貼ってその上にお皿を置きます。お椀の料理はまだましですが、お皿の上に置いた焼き魚などはちょっとブレーキを踏んだら、さっと落ちてしまいます。それで、ゆっくりと進まないといけませんし、昔はアスファルトで舗装されていない砂利道も多く振動が大変でした。今考えると本当によくやったなと思います。しかし、慎重に運転しても前の車が急ブレーキを掛けることもあるので、そうするとどうしても料理がずれます。その家の近くまで行って、車の荷台を開けて、手直ししてから納めざるを得ないこともありました。ただ、お客さんも口コミで頼んでくれる人が多く、知り合いが多かったので、良かったのだと思います。」

  (オ) 休みなく働く

 「景気の良いときは本当に夜も眠ることができないくらい忙しかったです。平日も配達や料理で、また商店街振興組合の仕事もあったので忙しく、商店街が休みの日曜日にも料理をしますから休みはありませんでした。毎日が忙しく、日曜日も休みなしで夕食ものどを通らず、どうしてもしんどさを紛らわすために酒量が増えていきました。それが悪かったのか、私(Aさん)は20年ほど前に体調を崩してしまい、入院することになりました。ただ、そのときも入院はしましたが、主治医の先生に許可をもらって、土曜日、日曜日は帰って料理をしていました。今思うと若かったからできたのではないでしょうか。」

  イ 永井洋品店

  (ア) 永井洋品店の初代

 「明治34年(1901年)この店を作った私(Cさん)の祖母が小野谷の農家で生まれました。明治生まれの女性はたしなみとして伊予かすりなどの機(はた)を織っていたそうです。1日1反を織るのが名手だったそうですが、祖母の姉が上手な人で、祖母はどうしても姉には勝てないと思い、機を織らずミシンで洋裁をしようと考えたそうです。それで、たまたま親族が高砂町でしていた牛乳店の前にミシンの店があったので、そこでミシンを買ってもらったと話していました。大正9年(1920年)にアメリカのシンガー社製のミシンを買ったのですが、値段が米10俵(約600kg)と変わらなかったそうです。今だとどのくらいの価値なのかはよく分かりませんが、その前年が米騒動の年で米の値段が高騰していたということなので、かなり高価だったのだと思います。その頃はミシンを使って洋裁をする人がほとんどいなかったそうですが、先見の明があったのでしょう。祖母は洋裁を習って、曾祖母と一緒にこの平井町で永井仕立屋という店を始めたそうです。若い娘が1人で商売を始めたわけですが、物がない時代なので仕立てる一方から売れたそうです。パンツから上着までなんでも布さえあったら縫って、仕立てたそうです。帽子も仕立てていたし、小学校の制服も縫ったと言っていました。高砂町の店は松山空襲で焼けてしまい、親族は小野谷に帰りミカンや米を作るようになりました。」
 「現在、私(Dさん)で永井洋品店は3代目になりますが、大正10年(1921年)にオープンしたので、今年(令和6年〔2024年〕)で103年になります(図表1-2-1㋟参照)。」

  (イ) 掛け売り

 「昭和30年代には店ではまだ大きなそろばんを使って会計をしていました。その頃は基本的には掛け売りで、盆と暮れに集金に行っていました。私(Cさん)も妹(Dさん)も子どもの頃に近所へ集金に行かされました。集金に行くと『借金取りが来たぞな。』と言われたことを憶えています。子どもでもできることはなんでもしていました。
 特に年末は商店街の売り出しがあり忙しかったことを憶えています。支払いに来たお客さんにあげるタオルを袋に詰めて、熨斗(のし)紙を貼っていました。また福引券の裏にはんこをついたりするのも全部子どもの仕事でした。福引券は100円で1枚出して、10枚たまったら1回くじが引けました。特賞は琴平(ことひら)のこんぴらさんへの初詣で、バケツ、自転車、布団など商店街の店で売っているものが景品になっていました。昭和40年(1965年)頃はにぎやかで、子どもがたくさんいて、くじ引きは大人気でおもしろかったです。
 私が子どもの頃に旧国道11号にあったガソリンスタンドのおばさんから店で聞いた話なのですが、そのおばさんは小野地区の女性で初めて自動車の運転免許を取得したそうです。どうやって免許を取ったのか聞いたら、小学校の校庭でくるっと回ったら、はい合格ということになったそうです。それでどうして免許を取る必要があったかというと、ガソリン代も盆暮れの集金で、お客さんの一人に重信川の上流にある山之内(東温市)に住んでいたトラックの運転手さんがいたそうで、トラック運転の仕事は朝早く出掛けてしまうため、その前に山之内まで集金に行く必要があったのですが、さすがに自転車ではしんどいので自動車の免許を取らないと体が持たないと思ったからだそうです。」

  (ウ) 仕入れ

 「昔まだ車がなかったときは、荷物を駅留めにして汽車が運んできた荷物を平井駅まで取りに行っていたそうです。平井駅があったからこそ品物が流通していました。私(Cさん)の店でも車がない頃は『便利さん』と呼んでいた人がいて、各店を回って『今日はどこそこに行って、何を仕入れてきます。』と方々の店で御用聞きをして、それで注文を受けたものを仕入れて持って来てくれました。最初は大八車みたいなもので配達をしていましたが、それから自転車やバイクになっていったようです。その頃に布団店の人が自転車の後ろに板を載せて、その板に布団の綿を積んで持ってきてくれていたことを憶えています。
 私の父はよくスクーターで仕入れに行っていました。今だったら怒られますが、私が子どもの頃にスクーターの前に立って、新立の橋を渡って中の川通りを通って、湊町の三浦屋まで仕入れについて行きました。帰りも私がスクーターの前に立って、後ろに仕入れた荷物を載せていました。昭和40年(1965年)頃には車になりましたが、その後、卸屋が品物を持ってくるようになってからは自分で行かなくても電話で注文したら届けてくれるようになりました。この頃家には古い型の黒電話がありましたが、電話番号が小野局32番で交換手を呼び出し、相手番号につないでもらっていました。」

  (エ) 景気の良かった時代

 「昭和30年代にはだんだん既製品も増えていったのですが、中学校や高校の女子生徒の制服やブラウス、エプロン、ワンピース、スカート、スラックス、モンペイ、スーツも全て仕立てで、私(Dさん)の店の中にも服地がずらっと並べられていました。高度経済成長の時代には着物もたくさん売れていました。」
 「初代の祖母は小野谷の生まれですが、母も私(Cさん)たちも平井で生まれました。その中でいろいろと苦労はしたのだと思いますが、ものすごく景気が良くなって、店も大きな利益を出していたようです。人に恵まれたということもあると思います。
 高度経済成長の時代、デパートの全盛期ですが、デパートの売り場に洋服の生地売り場がかなりありました。大街道や銀天街には服地やボタン、手芸品、毛糸、それぞれの専門店がありました。私は短大を出てからドレメ(ドレスメーカー女学院)に1年行きました。ただ、その頃ドレメの洋裁科は終わりの方で、私が通っている頃に愛媛調理師専門学校が併設されました。銀天街の文化学院という編み物教室にも3か月ほど通いました。
 私は永井洋品店に生まれて、昭和49年(1974年)に結婚したのですが、従業員としても53年間働いており、日本商工会議所から表彰してもらいました。子どもの頃から店番をしたり、集金に行ったりいろいろとできることはしてきました。
 店には多いときには4人の職人さんが働いていましたし、ほかにも各家で仕事をする人がいました。洋服は母がデザイン画を帳面に書いて、生地を選んでもらって、寸法を測ります。それをもとに裁断士に裁断してもらい、仮縫いする人のところに持っていきます。裁断がしっかりできる人がいたことで、私のところではどんなものでも仕立てができました。縫うのは誰でもできますが、元になる型を裁断するのは誰でもはできません。裁断がやはり大事で、その裁断士さんは戦後ドレメで最新の技術や縫う方法を勉強していました。仮縫いの後、店で縫う3人と、家で内職をしている人が3人いました。洋服だけで8人の職人がいました。また店の奥の部屋でカーテンや学生の車ひだスカートは父が、布団は祖母が仕立てていました。
 ほかにも着物の仕立てに3人、編み物に3人とそれぞれ腕の立つ職人が近所にいました。昭和40年代には、日本中の景気が良かったのですが、この辺りでもミカン農家がもうけた頃だったので、着物がたくさん売れました。私の義母の実家は北梅本のミカン農家で、トラック1台のミカンを出荷すると家が1軒建ったほどだそうで、昭和30年代に新宅を5軒建てたそうです。それで、一時期は嫁入り道具も豪華で、私が20歳になる頃までは、嫁入りのときに200万円とか、300万円の着物をあつらえて、たんす一杯に詰めて持って行っていました。持っていくと、新郎側の親族がそれを開けて見ていました。
 着物は年に数回、三浦屋が主催してファミリー温泉(現東道後のそらともり)で展示会を開き、招待状を配り、来てくれるお客さんを父が車で送迎し、たくさん買ってもらいました。バブル景気の時代には宝石やショール、毛皮、バッグ、草履もよく売れました。
 毛糸はテレビコマーシャルで『かーんかーんカネボウ、かーんかーんカネボウ、赤ちゃんのときからカネボウ毛糸・・・。』という歌が流れていた頃で、カネボウ毛糸会社から表彰されるくらいたくさん売りました。編み機を持っている人も大勢いましたし、子どもが生まれるとお祝いに毛糸を贈る人がたくさんいたからです。編む注文はセーター、カーディガン、スーツ、子ども服が多かったです。
 ところが、世の中が不景気になって、生活も団地が増えて洋式になり、着物を着る機会も少なくなってしまいました。それが昭和48年(1973年)のオイルショックの頃です。オイルショックのときには祖母がトイレットペーパーや洗剤がなくなると言って段ボール箱に一杯買ってきてくれて、私に持たせてくれました。
お得意さんにミカン農家が多かったのですが、ミカン農家もミカンの値段が下がって、だんだんと苦しくなってきます。またフジができてからとにかく客足が減りました。」

  (オ) 休日

 「私(Cさん)が子どもの頃に月に1日、第3日曜日に商店街全体が休日になりましたが、それまでは盆と秋祭りと正月の年に3回くらいしか休みがなく、ほとんど年中無休で、朝6時から夜は11時、12時くらいまで店が開いていました。お客さんに農家が多いので朝が早く、夜は平井座の上映が終わってから店に寄る人がいたからです。私は子どもなのに遅くまで起きていたことを憶えています。昭和45年(1970年)くらいの景気が良い頃、私が高校生の頃には全ての日曜日が休みになったと思います。」
 「私(Dさん)の店は現在も日曜日が休みで、今は朝8時半から夕方6時半まで営業しています。朝は出勤前に来るお客様もいるので早い時間から開けています。いつまでできるか分かりませんが、可能な限りやっていこうと思っています。」

  (カ) 母の姿

 「私(Cさん)の祖母がミシンを使った洋裁で商売を始めて順調にいっていたのですが、苦しい時代もあったようです。母が14歳のときに祖父が亡くなったためです。母の弟たちがまだ小さかったので、母は18歳のときに父と結婚して家を支えていかなければならなくなったのです。
 母は洋裁を本格的には学んでいなかったのですが、絵を描くのが上手で、流行をいつも本で調べて勉強していました。毎月出版される雑誌をすきや書店で購入し、流行や新しいデザインを調べて、お客さんにこの生地でこんなスタイルはどうですかと勧めていました。
 母は亡くなる90歳まで70年以上商売をしましたが、とにかく景気が良くてもうかったのでやれたのだと思います。やはり売れるとおもしろいので、それこそ寝る間もないくらい働いていました。御飯も立ったままかきこむくらいで、昼食は2時、3時に食べるのが当たり前でした。いつも交代で店番をしており、私たちは食卓を囲んで一緒に御飯を食べた記憶がありません。祖母が家のことを全て引き受けてくれたので、母は商売ができたのです。」

  (キ) 父の思い出

 「私(Cさん)の父は戦争にも行きました。長兄は父が出兵した後、すぐ生まれたのですが、太平洋戦争で南方へ行ったそうです。そのとき食糧が不足したので、どこかの島へ上陸してイモを掘って食料を確保していると、その間に乗っていた船が沈められたそうです。上官や船に残っていた人は皆死んだそうですが、父は下っ端だったので助かったと話をしていました。魚雷の後始末などで終戦後もすぐには帰ってこられなかったのですが、運が良かったのだと思います。それで生きて帰ってきたから私たちが生まれました。私が生まれた頃は朝鮮戦争の影響で、ものすごく景気が良く、『この忙しいのに、子どもを産んで。』と母に言ったそうで、そのことをずっと母は怒っていました。
 そういう父はまじめで硬い人でしたが、そのおかげで店が持っていたのだと思います。とにかく父も母も仕事一筋でした。遊ぶといっても職人さんや卸屋さんとの旅行や平井の商店街の皆で琴平のこんぴらさんに行ったり、松茸狩りに行ったり、ボウリングに行ったりというくらいでした。商店街の寄合は別として、パチンコに行ったり外に酒を飲みに行ったりということはなく、そこが市の中心部で商売をしている人とは違っていたのではないかと思います。帳簿もきちんと付けており、税務署から4回表彰してもらいました。」

  (ク) 新しい店作り

 「平成5年(1993年)6月30日にフジ重信店(現フジグラン重信)がオープンしました。その日は今年(令和6年〔2024年〕)創業103年になる永井洋品店の創業者である私(Dさん)の祖母サカエが92歳で亡くなった1週間後のことでした。
 そのときのフジの1日の売り上げは1億円だったと聞いています。これでは商店街の小売店は勝負にならず、商店街の店舗はだんだんとなくなっていきました。小売店が減ってくると卸屋も厳しくなり、さらにコロナ禍の影響もあり、こちらも減っていきました。そのような中でもなんとか生き残っていく方法を模索していきました。10年以上前にはインターネットを利用したネットショップを作りましたが、会ったことのない他県のお客様から注文が入ったときには感激しました。諸事情で現在はやっていませんが、良い経験になったと思います。
 商店街の衣料品店も高齢化などで減少し、小学校や中学校の標準服や体操服、シューズなどを私のところだけで扱うことと、様々なお直しの需要に私の姉(Cさん)が誠実にリーズナブルな価格で対応してきたことで、店を続けてこられたと思っています。もちろんトレンドの新しい服も仕入れています。昔から『田舎の百貨店』と言われてきたように、シニアの方は帽子から上衣、Tブラウス、肌着、スラックス、スラックス下、ソックスに至るまで上から下まで店の座布団に座ったままでそろえることができます。
 しかし、2年前に学校衣料品を扱う新しい店舗ができたことで、安閑とはしていられなくなりました。そこで、いろいろな対策を取ることになりました。まず、店舗前の土地が売りに出ていたので駐車場として購入しました。また、それまで倉庫にしていたところを学生衣料品専用のスペースにするためリフォームし、商品を分かりやすく陳列し、試着室も複数作りました。
 さらに若い世代のお客様に対応するため、ほとんどのクレジットカードやQRコード決済ができるようにしました。スマートフォンのように持ち運び可能な1台の機械で対応できます(写真1-2-5参照)。松山市が取り組んでいる『プレミア付商品券』事業にも参加しています。店の公式LINE(ライン)も2年前から始め、現在では友達登録が670人となっており、お得な情報やクーポン券を配信してお客様に好評です。
 学生衣料品の販売では、標準服の袖丈直しと体操服の丈直しのお直しサービス券を私の娘に作成してもらいお客様に配布しています。また、制服採寸が店舗採寸に変更になったので混雑を避けるため予約制にすることをお願いし、娘にそのチラシをウェブで作成してもらいました。おかげでスムースに採寸が進んでいます。
 このように誠実な直しをしてくれる姉や販売を手伝ってくれるパートさん、ウェブチラシを作成してくれる娘など皆の助けとアイデアで、これからもお客様が利用しやすい店を目指して日々努力していきます。」

写真1-2-1 平井の両面句碑

写真1-2-1 平井の両面句碑

松山市 令和6年11月撮影

写真1-2-2 豊田鮮魚店

写真1-2-2 豊田鮮魚店

松山市 令和6年7月撮影

写真1-2-3 現在の店内

写真1-2-3 現在の店内

松山市 令和6年8月撮影

写真1-2-4 仕出し用の皿

写真1-2-4 仕出し用の皿

松山市 令和6年8月撮影

写真1-2-5 新しい取組

写真1-2-5 新しい取組

松山市 令和6年9月撮影

図表1-2-1 昭和40年頃の平井の町並み(西)

図表1-2-1 昭和40年頃の平井の町並み(西)

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-2-1 昭和40年頃の平井の町並み(東)

図表1-2-1 昭和40年頃の平井の町並み(東)

調査協力者からの聞き取りにより作成