データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
第1節 森松商店街の町並み
森松商店街がある浮穴(うけな)地区は松山市の南部に位置する。江戸時代は松山藩に属し重信川を隔てて、南は大洲新谷領に接している重信川に沿った農村地帯であった。明治22年(1889年)に町村制が施行され、高井村、森松村、井門村の3か村が合併して浮穴村が成立し、昭和34年(1959年)に松山市に編入合併した。道路網の整備、重信橋の架設、伊予鉄道森松線の開通により、森松駅付近は人の往来が活発になり、物資の供給、貨物の集散地として、宿屋や料理屋、飲食店等が立ち並んだ。
明治12年(1879年)に愛媛県において国道及び県道が設定され、土佐街道は一等県道として設定されたが、道幅が一間(約1.8m)余り程度であったため、一般の荷車より大きい馬車を運行するのは難しかった。明治19年(1886年)に国道32号(高松から高知)と国道33号(松山から高知)の原形となる「四国新道」が着工され、明治27年(1894年)に完成した。重信川は、渡し船で渡っていたが、明治37年(1904年)に重信橋が架設された。この橋ができたことにより、久万地方の木材の運搬が可能になり、森松で伊予鉄道に積み替えて、三津浜港まで輸送していた。昭和14年から15年(1939年から1940年)に改修工事が行われ、さらに昭和25年(1950年)に大改修がなされ、現在の姿となった。
明治29年(1896年)に開業した伊予鉄道森松線は、横河原線と分岐する伊予立花駅(現いよ立花駅)を含めて、石井駅、森松駅(現伊予鉄バス森松営業所)の3駅からなり、立花から森松に至る4.4kmの土佐街道沿いに鉄道を敷設したものである。森松線沿線には、椿神社があり、旧正月7日から3日間の祭礼には10万人余りの参拝者が詰めかけるドル箱路線となったが、自動車の普及が進んだことにより経営が悪化し、昭和40年(1965年)に廃止になった。廃止の日の森松発の最後の列車には、3,400人もの人が集まり、森松商工業会から機関士と車掌に花束が贈呈され、「蛍の光」が流れる中、惜しまれながら列車は森松駅を離れていった。
本節では、昭和30年代から40年代を中心とする森松商店街の町並みの様子や、地域でのくらしについて、Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和18年生まれ)、Cさん(昭和23年生まれ)、Dさん(昭和26年生まれ)、Eさん(昭和29年生まれ)、Fさん(昭和34年生まれ)から、話を聞いた。