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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大島の石材業

(1) 戦後の石材業の展開

  ア 大島の石材業

   (ア) 「石屋」と呼ばれる石材業

 「私(Bさん)たち石材業者は自分たちのことを『石屋』と呼んでいますし、石屋として広く知られています。石屋の仕事場は山にある石切り場(採石場)で、ふだんは『丁場』とか『山』と言っています。私たちの仕事は、基本的には丁場から石を切り出すところまでです。その後は、石材の仲買や加工業者に石材が渡ります。中には、自社で加工販売をするところもあります。いろいろな販売ルートがあるのです。
 石の切り出しですが、昔は火薬を爆発させた上で、鑿(のみ)と鎚(つち)を使った手作業によって切り出していました。現在はジェットバーナーを使って切り出しています。ジェットバーナーとは、燃料と酸素が混ざったものが高圧で供給され、それを着火させて使う機械です。薄い水色をした、温度にして2,000℃くらいの高温の炎が出てきます。それを石に当てると、圧力と温度により石が吹き飛んでいきます。具体的には、石を構成している石英や長石、雲母(も)が熱を加えられることによって膨張していきます。膨張率がそれぞれ異なるために、膨張する過程で結合が切れてばらばらになり、さらに炎の圧力で吹き飛ばされていくのです。
 私のところは、父が石材業を起こしました。私が会社を継ぐことは既定路線でしたので、県外の大学を卒業後、すぐにこちらに帰って仕事を始めました。そのときには、すでにジェットバーナーが導入されていました。ですから、手作業が中心だったころの経験はありません。ジェットバーナーによって、石材の生産量が増えたと言われています。今はどこの丁場でも使われていますが、飛躍的に石が切り出しやすくなったそうです。仕事を始めたころはバブル景気の前に当たり、当時はそこまで意識していませんでしたが、今考えると景気は良かったと思います。」

   (イ) 昭和30年代までの丁場(石切り場)

 「昭和30年代、私(Aさん)が子どものころ、石材業の景気は良いものではありませんでした。私の兄の世代(昭和10年代生まれ)が、昔ながらの職人気質(かたぎ)の時代の最後に当たり、仕事に就くと最初に『かしき』と呼ばれる飯炊きから始めていました。当時は、とても勉強ができる者でなければ、『お前は力があるのだから、丁場で働いたら米の飯が食えるぞ。丁場に行け、丁場しかないぞ。』ということで職人になっていたのです。当時は、山で寝起きをしていました。お日さまと一緒に仕事をしたというか、外が明るくなったら働き始めて、日が沈んで外が見えなくなったら中に入る、そんな時代だったのです。
 私が高校を卒業して石屋の仕事を始めるころには、エアーコンプレッサーが導入されていました。エアーコンプレッサーは、強力な回転力で石を切っていく機械です。同じころ余所国に産業道路が通りました。石材の切り出し量が増えて、景気が上向いてくるようになったと思います。
 エアーコンプレッサーの次に、ジェットバーナーが導入されました。また、シャベルに代わってユンボ(パワーショベル)を導入したことも、切り出し量の増加に大きく貢献していたと思います。私は、昭和45年(1970年)に大島で最初にユンボを導入しました。したがって、昭和40年代の後半から石材の切り出し量が大幅に増加していったと思います。
 ジェットバーナーなどの機械が導入されるまでは、毎年のように丁場で人が亡くなっていました。石材を切り出すための取り口をつくることを、私たちの間で『つまり抜く』と言います。この『つまり抜く』とき、今はジェットバーナーを使いますが、以前は発破(火薬を爆破させて石を破砕する)を行っていました。発破の際、作業員は身を隠していますが、破片が飛び散るので、頭に当たって亡くなる事故が発生していました。また、足場の悪い所から落ちる事故も発生していました。バーナーの導入によって死亡事故はほとんど発生しなくなりましたが、丁場の仕事は命懸けだったのです。ですから、端から見れば自然にある石を採って簡単にもうかっているように思われますが、なかなか大変な仕事なのです。」

   (ウ) 歴史のある家業を継ぐ

 「私(Cさん)のところは、少なくとも江戸後期から石屋をしていました。当時の帳面が残っていますし、神社の鳥居に先祖の名前が刻まれています。昔から引き継いできた屋号を会社名にしています。私は短大を卒業後、大阪で勤めていましたが、しばらくして大島に戻って今の会社に入り、現在は代表取締役を務めています。」

  イ 石材を売る

   (ア) 大島石の良さ

 「大島石の良いところは、一般的に言うと『石が硬い』点です。硬いので、石の風化がほかの石よりも遅くなります。風化が遅いために、いつまでも艶持ちが良くなります。さらに、表面の模様、石目が上品であることが挙げられると私(Bさん)は思います。大島石は、表面を磨くことで光沢を持つようになります。
 風化と言いましたが、細かく説明すると石は雨風にさらされますから、結果として水を吸い込むようになります。水を吸収することで風化が起こるのですが、同時に変色が発生して艶が落ちるようになります。大島石は水分が吸収されにくい特質があるので、風化が遅くなるのです。『風化しない』と誤解されている人がいますが、あくまで風化が遅くなるということです。」
「私(Aさん)は、ひいき目に見ていたと思っていたのですが、大島石の石目は日本人にとって好みのものであることは事実であるようです。関東では黒い石が好まれるのですが、大島石が全国で一定の評価が得られているのは、石目が無難であることが挙げられると思います。風化が遅いことが長所ですが、墓石材として最適だと思います。」

   (イ) 仲買の存在

 「大島石の切り出し、流通と販売が最盛期を迎えたのは昭和40年代の後半です。私(Aさん)が仕事を始めてからの数年間がそれに当たります。最盛期を迎えた背景としては、高度経済成長期を経て人々の生活が豊かになったこともありますが、丁場に機械が浸透し生産量が増えたからです。
 最盛期のころ、丁場は70余りありました。そして、切り出した石材を扱う仲買は、小規模なものも含めると丁場の数と同じくらいありました。ここは島ですから、切り出した石材を運ぶ船が必要となります。仲買はその船の所有者でもありました。つまり、仲買なくして大島石の流通が成り立たなかったのです。そうしたことから、世間の人は仲買を『大島石の原石を扱っている人』と見ていたので、一生懸命丁場から石を切り出している私たちは目立たなかったと思います。それが大島石の流通が増えて好景気になってくると、石屋の立場が強くなり、仲買に対して『石を売ってやっている』という意識が強くなることもあったと私は思います。仲買が、『親父さん、手形取引にしてもらっても大丈夫でしょうか。』と聞いてきたとき、『手形なんて言うのなら、お前に石は売らない。』と断る石屋もいました。今思えば、ぜいたくなことをしていたなと思います。ですが、大島石がここまで有名になって発展したのは、京阪神や九州に販路を広げ、最近では関東まで進出できるように努力した仲買の存在があると私は思います。」

   (ウ) 商品になる石材の割合

 「丁場は、自らが所有する山であったり、別の所有者から借りる場合があったりとさまざまです。丁場が確保できても、一定の利益が保証されるとは限りません。石の品質や商品化の有無は、実際に切り出してみないと分からないのです。当然、切り出す前に機械をそろえたりしますから、全然保証のないところに投資してそれを回収しなければならない、『賭け』の側面があると私(Bさん)は思います。
 また、切り出した石が全て売り物になるのかと言えば、そうではありません。石には『キズ』が入っているものがあります。例えば、見た目が均一ではない層のことで、境目はまるで異なる石同士を接着剤でくっつけたようになっています。このような石は売り物になりません。見た目の問題もありますが、時間が経過して風化すると割れやすくなるからです。したがって、その部分は取り除くようになります。このようなキズが無数にあります。だから、良い山とは、キズが少ない山のことを言います。『良い石がよく採れたね。』と言えた場合でも、商品化できる割合は2割から3割程度です。意外に思われるかもしれませんが、その程度なのです。残りの約7割は商品になりません。
 最悪の場合、商品になるものが全く採れなかったということも起こります。しかし、良い石が採れたかどうかに関わらず経費は掛かります。そこが難しいところなのです。商品化できなかった石は、廃材として扱われます。主に護岸工事の埋め立て用として使われたり、建物の石垣に使われたりします。最近では愛媛県武道館の土台や外壁の石積みにも使われました。建築資材として役に立っていますが、山から出すときはただなのです。市場では値段が付くのですが、山では価値のないものなのです。それらが場所を取るようになりますから、その石を引き取る業者も存在します。しかし、石を引き取ってもらう場合、私たちの収入はないのです。毎日働いているからといって収入が保証される仕事ではありません。
 キズの入った石を採り進めていくうちに、キズがなくなることもあります。一方でいくら採ってもキズがなくならないこともあります。予想していたのとは違う丁場だからといって、簡単に場所を変えることもできません。その丁場に投資していますし、また、県の認可を受けて仕事をしていますから、それぞれの石屋で仕事のできる範囲が決まっているのです。」

   (エ) 良い石を探す

 「良い石が採れる所は、経費が掛からなくても良い石が採れると私(Aさん)は思います。反対にもうからない丁場は、キズのない良い石を探そうとお金と労力を費やします。『火薬代は掛かるけれど、良い石は採れない。』、このような状況に陥るのです。
 平成の初めころ、取引のある建設機具メーカーの紹介で大学の先生が大島に来たことがあります。硬い石の層の広がりを説明してくれ、実際に調査してくれました。ダイナマイトを等間隔に仕掛けて、それを電気で一度に爆破させ、その衝撃波の伝わり具合を計測する方法です。『何mまでは土の層で、次にこんな硬さの層があって、ここからが目当ての石の層です。』というように解説してもらって、図面を作成してもらいました。ところが、ほかの石屋が図面通りに掘ってみても、目当ての石はありませんでした。また、同じころ私は、岩手県にある銅山のボーリング調査に立ち会ったことがあります。そこは、大手企業が所有する銅山で、銅が採掘できなくなったので、代わりに石を採ろうとなって調査を行ったのですが、結局良い石に当たることはありませんでした。石の層の広がりは一定ではなく、縦方向や横方向に伸びているので、ボーリング調査でも探ることができませんでした。
 昭和40年代の後半、私は良い石が採れたほかの石屋の裏手を開発したことがあります。『あの丁場の裏なのだから、ええ石が採れるぞ。』と思い、にこにこしながら掘り進めましたが良い石は採れません。裏手の丁場には、上層部に良い石の塊がありました。『あの石の層が伸びているとして、うちの丁場のどの辺りにぶつかっているのだろうか。』と考えたことがあります。しかし、壁1枚隔てただけで、石の層の広がりは全然違っているのです。借金ばかりが増えていって、大いに弱った経験があります。」

  ウ 石切りの現場

   (ア) 手作業の現場

 「ジェットバーナー導入前は、発破が主体で採っていました。まさに石をもぎ取る手法でした。その上で石を小分けにしていきますが、私(Aさん)の父親が現役のころは、手作業が中心の人海戦術で採っていました。そのころに切り出された原石の表面は、現在のものよりもきれいです。先人たちは、相当に技術を修練していたのだと思います。もっとも、当時はそのやり方しかなかったのです。今、表面が美しいからと復活させても、採算が合わないでしょう。
 手作業のころは、切り出した石はマタ車と呼ばれた台車に載せて運んでいました。車輪は木でできていましたが、それに釘(くぎ)を打ち付けていきます。そうすることで木の腐食を防いでいました。マタ車の前方にはつっかえ棒が付いていて、下り坂ではブレーキの役割をしていました。後ろには女性がついて、マタ車を押していました。当時、丁場では夫婦で作業をしていて、マタ車の前方を旦那さんが、後方を奥さんが担当していたのです。平地になると旦那さんが奥さんに対して『しっかり押せ。』と、それはすごい剣幕で言っていました。この当時の写真を展示する機会があって、それを見たかつて丁場で働いていた女性が『辛い目したなあ。』と言って泣いていました。」

   (イ) 石を切り出す

 「岩盤から石を切り出すとき、ある程度はジェットバーナーで切っていくようになります。バーナーを当てたところは溝状になります。丁場によって差はあると思いますが、おおむね1辺5mくらいの立方体になるように切っていきます。地球の磁場の関係で、岩盤には割れやすい方角があります。私(Bさん)たちはその方角を頭に入れた上で、墨金(採寸をとること、この場合は直角を作り出すこと)していきます。岩盤の状況に合わせて切り方を変えたり、石にキズが入っていればそこを除去したりします。ジェットバーナーで切り出して、底面のみが岩盤とくっついている状態にした上で、立方体の底面部に直径3㎝から4㎝の穴を掘って、そこに火薬を詰めて爆破すると石が持ち上がったようになって岩盤から分離されるのです。良い石だと火薬用の穴1本で分離させることができますが、キズが入っていると穴を増やさないといけません。
 分離できた5m角の石ですが、これでは高さがありますので、中間部分に先ほどと同じ要領で火薬を施して持ち上げていきます。そうやって分離された石をさらに二つに分けるために、上面に『セリ矢』と呼ばれるくさび型の金具を打ち込んで、ハンマーでたたいて割っていくのです。
 石を持ち上げると言いましたが、火薬は水平方向に力がかかりやすいので、そうなるように仕掛けていきます。ここで重要なことは、水平方向に対してしっかりと直角の角を作り、真四角の立方体を作り出していくことにあります。水平に対して、いかに直角を作り出すか、直角に割っていくか、ここが技術の見せ所になります。
5m立法で切り出すと言いましたが、実際に石の売買で使用される単位は尺貫法に基づいています。1尺(約30㎝)×1尺×1尺=1才(約0.027㎥)の立方体を単位としています。1才当たり幾ら、が石の単価になります。
 丁場に出て、岩盤を割る方向を見極められないと、現場の責任者は務まりません。天然の状態、つまり岩盤から離れていない状態で割れやすい方角を見極めることは、丁場で経験を積んでいけば誰でも分かるようになります。しかし、岩盤から切り離した石をごろごろと転がした後で、元来の位置関係を復元できるかと言うと、これは至難の業になります。先ほども触れましたが、石には割れやすい方角があります。当然、切り離した石にもそれが通用するのですから、どんな状態になっても元の東西南北方向が分かっていないといけません。石材加工の際の失敗につながります。現場の責任者は、それが理解できないといけないのです。
 基本的に上から順番に石を切り出していきます。切り出した石は重機で運びますが、石は重量がありますから、その場である程度ブロック状に分けていきます。その後、チェーンで石をつり上げて、トラックやタイヤショベル(ホイールローダー)に載せていきます。採石した時点で売れる石もありますが、全てがそうではありません。キズがあったりしますから、それを取り除く工程が必要となります。大体、どこの石屋も小割場という作業場を持っていて、そこで整形を行っていきます。その後、販売していきます。切り出した状態で全て売ることができるのが理想ですが、まずそうはなりません。
 現在は便利な道具がいろいろとそろっていますが、人力による作業はなくなっていません。よって、基本的に力仕事の現場であることは昔と変わっていません。作業現場は石粉(粉じん)が付き物です。夏でも長袖を着用し、防じんマスクと耳栓は必需品です。人によってゴーグルを付ける場合もあります。石粉は、100円ライターの中にも入り込んでいたりします。どうやって入り込んだんだろうと不思議に思います。ジェットバーナーを使うとき、丁場は大きな音に包まれます。当然、人の声はかき消されますから、作業の指示はジェスチャーで行います。言葉で伝えられないために、新入りの作業員にジェットバーナーの使い方を教えるときは苦労します。」
「商品になる石は2割から3割しか採れません。石屋の親父(責任者)はただ闇雲に石を採るのではなく、割れやすい方角を頭に入れ、どのように切っていけば無駄なく石を採ることができるのか、あらかじめ計画を立てた上で作業に取り掛からないといけません。火薬量の目測を間違えると、岩盤を割るよりも砕いてしまいます。歩留りの良い悪いは、石屋の親父の判断にかかっていると私(Aさん)は思います。
ジェットバーナーの音の大きさは、ジェット機の音を想像してもらったらと思います。当時は耳栓をしないで作業をしていたので、今は難聴で弱っています。昔、一日の作業を終えて家に戻ってきたとき、耳も息をしていたのかと思うくらい石粉が耳に詰まっていました。言葉による意思疎通ができないので、石屋には石屋の間で通用する手話があります。休憩、たばこ、水を飲む、昼食、などです。」

(2) 石材業を取り巻く環境と今後について

 ア ほかの産地との競争

 「大島石の産地は、大島の北部にある念仏山の裾野で、主に北側斜面の余所国地区になります(図表2-1-1参照)。念仏山から旧吉海町側の斜面でも石は採れるのですが、品質が落ちます。良い石は北側にあるのです。大島石は一等、二等、三等と品質によって分けられていますが、旧宮窪町側で一等石がよく採れます。ですが、現在は一等石でないと採算が取りづらくなっています。三等石を扱っている業者はありません。二等石を扱っている業者が1軒あるくらいで、残りは一等石を扱っています。
昔は、手頃な価格帯の石材ということで二等石や三等石にもかなりの需要がありました。しかし、徐々に外国産石材が国内に入ってきて、見た目と単価で負けてしまったのです。今では、世界各国から石材が輸入されていますが、主に中国産です。外国産の石材が本格的に入ってきたのは、平成に入ってからだと私(Bさん)は思います。」
 「現在は中国産が多いですが、最初は昭和のころに韓国産が少しずつ入ってきていました。このとき、大島石に様子が似ているということで韓国産を『新大島石』として売り出したのです。そこで、大島としても何か対抗措置を取らないといけないと運動を始めたのですが、結局『やっぱり大島石じゃないといかん』ということになって、そこまでの脅威にはならないまま運動が終息したことを憶えています。このように、最近まで大島石は品質の面において、ほかの産地の石に打ち勝ってきた一面があったと私(Aさん)は思います。」

 イ 国内で販路を拡大することの難しさ

 「私(Cさん)は、墓石材の販路を広げるために関東地方へ営業に行ったことがありますが、そのとき『難しいな』と感じました。なぜなら、関東地方にはそこでシェアを持っている石材があり、実績を持って根付いているからです。それらの石材を押しのけて大島石を売ることの大変さを実感しました。」
 「新規市場の開拓について、例えば石屋が単身関東地方に出向いて、飛び込みで営業に向かっても結果は厳しいのではないかと私(Bさん)は考えます。仲買と話したことがありますが、石材の流通には大手の問屋や商社が入っているので、そちらで大島石を売り込んでもらった方が早いと言われたことがあります。
 関東地方では福島や茨城産の石がシェアを持っています。国内で最大の流通量を誇る『真壁石』がありますが、それは茨城産です。私も関東地方へ営業に行った経験があり、そのときに『大島石は中途半端に高い。』と言われたことがあります。大島石は、高級石材の部類に入ると思いますが、ある部分、中国産の石材に似ていると言われるのです。なぜなら、商社が中国産の石材を輸入する場合、大島石に似ているものを入れてくるのです。売りやすいのだと思います。そのため、一見すると見分けがつかないというのです。また、国産の最高級石材として広く知られているのが香川県の『庵治石』なのですが、大島石はそこまで高級石材として認知されていません。そのため、大島石の魅力を浸透させるにはまだまだ時間が掛かると考えています。実際、大島石は西日本や関西圏では圧倒的な知名度を持っていますが、そこでも飽和状態になっています。さらに、市場規模が今後拡大するとも思えません。新市場を求めるとしたら、規模の大きい関東圏となりますが、現状は厳しいです。」

 ウ 大島石の需要の掘り起こし

 「大島石は墓石が収益の大半を占めており、それ以外の商品化は、どうしてもそのときどきのものとなってしまうため、安定した収益は見込めないと私(Bさん)は思います。また、石のテーブルなど大島石を使用した商品を見掛けますが、基本的に石屋から引き取られた石を材料としているので、石屋の利益にはなりません。それでは、石屋が加工から販売まで手掛ければという話も出てきますが、今度は採算が合わなくなります。」
 「私(Cさん)は、はっきり言って今後は厳しいと思っています。少し前まで、何とか生き残っていけるのではないか思っていました。しかし、それも怪しくなってきています。墓石はまだ需要がありますが、更なる需要拡大のためにいろいろと商品を作っています。ですが、そうした試みをしても手応えが感じられません。今後も墓石以外の活用法を考える必要がありますし、2割3割しか商品化できない現状から、残りの約7割の石も商品化できるようにしていく必要があると思います。」
 「現在の一番の課題は、仕事として存続していくことだろうと思います。このような言い方は無責任かもしれませんが、今は辛抱の時期ではないかと私(Aさん)は思います。まだ石屋に職人気質が残っていたころ、石屋の社会的地位は低く、周りから下に見られていました。そのような時期でも辛抱しながら一生懸命に仕事をして、だんだんと景気が上向いてくると石屋の立場も向上してきました。現在に至るまでに、そのような周期というか、巡り合わせはあるかもしれません。
 私は蛭川(岐阜県中津川(なかつがわ)市)へ勉強に行ったことがあります。そこでは京都の鞍馬石を模した物を作っていました。鞍馬石は庭石の代表格で、鉄分を多く含んでいるので、表面が赤茶色をしているのが特徴です。そのような石を化学的に再現しようと、鉄分を含んだ液体を石に染み込ませる試みをしていました。私も試したことがありますが、周りの人たちからは『そんなことをして、売れるかどうか分からない物を作るよりも、良い石を採った方が良いぞ。』と言われるだけでした。ですが、そのときは真剣に何とかしようと思って努力していたのです。蛭川の石屋は、ほかにもたくさんの試みを続けていました。真剣に努力し続けていれば、何か報われるのではないかと考えています。
 昭和7年(1932年)生まれの私の兄は、中学生のころ、学校に『石材研究会』というものがあって、レポートを作っています。ガリ版刷りの冊子で、今も私の手元にあります。私が中学生のころ、学校の先生が『浩成君、あんたにはこういうのがいるんじゃないか。』と言って渡してくれたのです。その中を見ると、真面目に取り組んでいた様子が分かります。私の父やそのころの石屋さんが協力者として名を連ねていますが、『終戦直後の中学生が石のことを研究しよったんやなあ』と思うと、今の人がいけないということではありませんが、どんなときでも真剣に努力する必要はあるのではないかと思います。」

(3) 昭和40年代の旧宮窪町

 「昭和40年代後半は石屋の最盛期でしたが、町内の漁師も羽振りが良かった時期です。そのころは宮窪の町も活気があったと私(Aさん)は思います。石屋と漁師の羽振りの良い人たちが年に1回酒盛りをしていました。『お前ら、今日は浜の人のところに行くぞ。』と連れて行ってもらったことを憶えています。当時は石屋の子は石屋、漁師の子は漁師の時代で、人口も多かったと思います(写真2-1-1参照)。
 町では神輿(みこし)を担いだ祭りをしていましたが、山では正月と5月と9月に祭りがありました。祭りと言っても神輿を担ぐものではなく、丁場の人間が集まって、神主を呼んで祭礼を行うものでした。その後で会合を持ったのですが、会合と言っても酒が入って、酒の力を借りてそれぞれが近況を打ち明ける場でした。」

写真2-1-1 漁港と丁場

写真2-1-1 漁港と丁場

今治市 令和4年9月撮影