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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 生計を立てる

 ア 木炭作り

 「私(Bさん)が子どものころ、周辺の山は戦時中に木が切り出されたために山林がそれほどなく、ほとんどが雑木でした。父は、その雑木で木炭を作って生計を立てていました。炭窯が山の至る所に造られ、あちらこちらから煙が上っていたことを憶えています。炭窯を造るための水は、下を流れる川から汲んで上がっていました。炭窯の隣に作業小屋を作り、そこで炭俵に木炭を詰めました。炭俵は家で作り、小屋まで持って上がっていました。木炭を詰めた炭俵は負い子でかろうて(背負って)、県道まで運び、そこへ業者が取りに来ました。『学校から帰ったら、炭を取りに来なさい。』と言われるのが嫌でたまりませんでしたが、取りに行かないと怒られるため、仕方なく手伝っていたことを憶えています。山道を重い炭俵をかろうて県道まで下りて、また小屋まで上がってと繰り返さなくてはいけなかったため、1日に3回くらいしか運べませんでした。とても大変でしたが、私たちは木炭で育ててもらったようなものです。そのほか、孟宗竹(もうそうちく)は熊手にしたり、真竹(まだけ)や淡竹(はちく)は壁の材料にしたりするため、副収入になっていました。子どものころ、竹を担いで小遣いをもらったことを憶えています。
 木炭を作るために雑木を伐採した場所にはミツマタを植え、10年ほど収穫した後にスギやヒノキを植林しました。現在、当時植林したスギやヒノキの伐期になっています。この辺りは急峻(きゅうしゅん)な地形であるため、畑はあっても狭く、自給自足で麦や雑穀を作るくらいで、農作物では生計を立てることはできませんでした。」

 イ 葉タバコ栽培

 「昭和30年代は、私(Aさん)の家では、クリ栽培も行っていましたが、まだ葉タバコ栽培が中心でした。当時の河辺村には、多くの葉タバコ農家がありました。私が小学生のころは、葉タバコ以外にもミツマタを栽培していました。この辺りでは長い間、ミツマタが収入源だったようです。蒸したミツマタの皮を剝いで、道路端で竿(さお)のようなものに干していたことを憶えています。ミツマタ栽培は昭和30年代には終わったと思います。葉タバコ栽培は、小学校の高学年のころ、私も手伝っていました。手伝いをするときは、私たちが『ボンボン』と呼んでいた、ゴムに入ったアイスキャンデーを1本もらっていました。畑が上の方にあったため、狭い山道を通って、ボンボンを食べながら一輪車を押して収穫した葉タバコを家まで運んでいたことを憶えています。
 持ち帰った葉タバコは、家にある乾燥場の中に吊るし、薪(まき)を使って火を焚(た)いて乾燥させました(写真3-1-7参照)。一晩中、乾燥させているため、乾燥場にベッドを据えて横になり、ラジオを聞きながら火の番をしたことを憶えています。
 私の家では、葉タバコは昭和44、45年(1969、70年)ころまで続いたと思います。そのころには、葉タバコ農家も数軒になっていました。その後、国営パイロット事業で耕地を広げて大規模に行い、共同乾燥場も作っていましたが、平成に入るころには、河辺村で葉タバコ栽培は行われなくなっていたと思います。」

 ウ 養蚕をしていた家

 「私(Aさん)が生まれる前は、養蚕農家が多かったようです。この家も2階が蚕室でしたが、そのような家は多いです。この家は先代のときには旅館や小売店もしていました。小売店では日用雑貨や子ども向けの菓子やアイスキャンデーを売っていました。今も、戦前の小売許可証が残っています。小売店時代の名残で、昨年(令和2年〔2020年〕)の秋まではそこに自動販売機を置いていました。」
 「私(Cさん)の実家では、私が生まれる前、昭和初期から戦後間もなくにかけて、養蚕をしていました。この家はその時代の建物ですが、養蚕をするために建坪が大きくなっています。養蚕以外にもコウゾ、ミツマタを栽培していて、私が4、5歳ころに家の前で蒸す様子を見た記憶があり、倉庫にはそのとき使った桶(おけ)が残っています。現在、国営パイロット事業で整備した畑の場所が、桑畑とコウゾ、ミツマタの栽培に利用されていました。」

(2) 子どものころの記憶

 ア 学校の記憶

 (ア) 北平小学校と北平中学校

 「私(Bさん)が子どものころ、川沿いに現在の県道となっている道路があるだけで、各集落へ上がる道路はなく、人が通ることができる山道しかありませんでした。小中学校は集落の麓にあって、山道を通って歩いて通学していました。小中学校とも家から近くて、特に登校時は下り道になるため、小学校には感覚的には5分くらいで着いていたと思います。私が北平小学校に通っていたころ、1学年1クラスで、私のクラスにはちょうど30人いました。25人から30人くらいのクラスが多く、私より上の学年には40人ほどいたと思います。それぐらい、当時は子どもが、この山の中でもいました。
 私は24歳のときに結婚し、妻は旧大洲市内から嫁いできました。そのころも、まだ集落へ上がる道路はなく、妻は帯江橋という屋根付き橋まで三輪車に嫁入り道具を乗せてきて、そこからはこの家まで、花嫁衣裳のままで山道を歩いて上がってきました(写真3-1-8参照)。帯江橋の近くには北平中学校があり、妻が私の家まで歩いて上がる様子を、授業を中断して中学生が見ていたそうです。その後、行政が全ての集落に上がる道路を整備しました。」

 (イ) 坂本小学校と河辺中学校

 「私(Cさん)は、家から4、5㎞ある坂本小学校まで歩いて通っていました。当時の坂本小学校は1学年1クラスで、1クラスに30人くらいいたと思います。午前6時30分に、テレビ体操の放送が始まると、大急ぎで登校しなければいけませんでした。行きは下り道ですが、子どもの足では1時間近くかかっていたと思います。私の家の近辺に5、6人小学生がいて、合流しながら登校し、学校に着くころには20人くらいになっていました。下校の際は、私の家が一番遠くて高い場所にあるため、帰り道に友人の家に寄って遊びながら帰っていて、家に着いたときには薄暗くなっていたこともありました。そのため、家に帰ってからランドセルを置いて遊びに行ったという記憶はほとんどなく、遊びに行くとしても近所の家くらいでした。なお、幼稚園が小学校の隣にあり、やはり歩いて登園していました。今でしたらスクールバスが出てもよいような遠い距離ですが、当時は歩いて行くのが当然でした。小学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんに連れていってもらっていましたが、必死に付いて行ったことを憶えています。
 中学校は河辺中学校へ通いましたが、当時は現在の河辺小学校の場所にありました。自転車は近所では乗っていましたが、帰り道が上り道で大変であるため登下校には使わず、歩いて通っていました。当時の河辺中学校は1学年2クラスで、1クラス35人くらいいたと思います。」

 (ウ) 大伍小学校

 「私(Aさん)が通っていた大伍小学校は、河辺村で一番児童数が少なく、同級生は14人から16人くらいでした。大伍小学校は、坂本小学校と北平小学校の児童数が増えたため、昭和30年(1955年)に開校し、私が卒業してからしばらくして閉校した、歴史が浅く短い小学校でした。夏場は小学校から帰ると、プールがないため川で泳いでいました。川は現在よりも川幅が広くてきれいで、水量も多かったです。各地区で旗を立てて水泳場を作って高学年が監視をしていました。
 大伍小学校の跡地は『ふるさとの宿』になり、建物は大伍小学校の校舎の柱などが再利用され、面影が残されています。」

 イ 子どもの遊び

 「私(Aさん)は川で川魚やウナギを獲(と)って遊んでいました。大雨が降って川が増水すると、川岸に魚が近づいてきます。足を滑らせて濁流に流されないように気をつけながら、網ですくっていました。捕まえた魚は、腹を開いて串を刺し、七輪で焼いて食べていました。ハヤなどを捕まえていましたが、今考えると、あまりおいしくなかったと思います。」

 ウ 山の中の集落

 「私(Bさん)が子どものころ、山の中の集落でもそれなりに人がいたため、山にある各集落の麓の県道沿いに、多くの店がありました。たいていの生活必需品は麓の店にそろっていて、子どもたちが小学校や中学校からの帰りに寄って、家まで品物を持ち帰っていました。私の集落の麓、現在の北平郵便局の辺りには、食料品や生活必需品を扱う店が5軒ほど、旅館も2軒ありました。自家用車がない時代だったため、自家用車で買い物に町まで行く人がおらず、店も経営が成り立っていました。」


参考文献
・ 河辺村『河辺村誌』1978
・ 中国四国農政局愛媛統計情報事務所大洲出張所『河辺村の農林業』1982
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 河辺村『新刊河辺村誌』2005



写真3-1-7 乾燥場だった建物

写真3-1-7 乾燥場だった建物

令和3年7月撮影