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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 西日本豪雨からの復興

 平成30年(2018年)7月、肱川流域では、梅雨前線や台風7号から変わった温帯低気圧の影響で、4日午後10時ころから断続的に雨が降り続いていた。特に7日午前3時から午前7時の間は、時間雨量20㎜を超える激しい雨が続き、48時間の降雨量は鹿野川ダム上流域で、大洲市の7月総雨量の平年値である234.9㎜を大きく超える380㎜を記録した。これにより肱川では大規模な氾濫が発生し、流域に甚大な被害をもたらした。昭和34年(1959年)に鹿野川ダムが完成した後は道路冠水の経験がなかった、養老酒造が立地する旧肱川町鹿野川地区も浸水し、多くの家屋が被災した。西日本豪雨による被災とその復興について、Aさんに話を聞いた。

(1) 西日本豪雨災害

 ア 西日本豪雨災害の発生

 「数日前から雨が降り続いていましたが、自宅の裏を流れている河辺川は、流れに異常があるようには見えず、『いつもの雨よりも少し水量が多いかな』と思った程度でした。親戚の結婚式に出席するために、母、妻と私(Aさん)の3人で松山空港に向けて、午前7時30分ころに自宅を出発しましたが、ちょうどそのころ鹿野川ダムの放流が始まりました。入り口に掛けていた時計が8時37分過ぎで止まっていたため、およそ1時間後にこの辺りは浸水して水没したようです(写真2-2-8参照)。
 国道197号を進んでいる際、並行している肱川を見て、『やけに水量が多いな』と思いました。途中で倒木があったため引き返して橋を渡り、反対側の県道を通って内子五十崎インターチェンジまで行きました。ところが、高速道路がストップしていたため、国道56号を松山方面へ進むと、立川の少し手前で消防団の人が立っていて、『ここから先は進めません。水が出ているので引き返してください。』と言われ引き返しました。そこで長浜回りでどうにか行けないかと考えて、長浜の知り合いに電話を掛けてみたところ、『崖崩れが起きていて危ないので、絶対に無理だと思います。』と言われて、仕方がなく結婚式への参加を諦めました。しかし、川が氾濫していて自宅まで引き返せず、遠縁の親戚が鳥首の少し小高い場所に住んでいるため、そこに車を停(と)めて水が引くのを待ちました。
 昼ころに水が引いて自宅に戻ったところ、建物の外見はそれほど変わっていませんでしたが、作業場の戸を開けて中の光景を見たとき、大変な衝撃を受けて『もう駄目だ』と思いました。作業場の壁に浸水した跡が消えずに残っていますが、梁(はり)の下ぎりぎりの高さである、床から3m30㎝の高さまで浸水した後に水が引いて、作業場がぐちゃぐちゃになっていました(写真2-2-9参照)。床の上には15㎝ほど泥がたまっていて、ホーロータンクが一旦浮いて天井を突き破った後に床に倒れていました。ホーロータンクはどこかに少し当たっただけでひびが入ります。泥水に浮いた際に天井に当たったり、タンク同士でぶつかったりして、小さなものも合わせて40本あったタンクのほぼ全てが使えなくなりました。
 2坪(約6.6㎡)と3坪(約9.9㎡)のプレハブ冷蔵庫も水に浮いて倒れ、中に瓶詰めして貯蔵していた日本酒が泥をかぶっていました。その年の日本酒は良い香りがしていたのに、一部のにごり酒を除いて処分しなければならず、何とも言えない気持ちになりました。なお、処分されなかったにごり酒は、すぐにトラックで駆け付けてくれた西予(せいよ)市の酒造会社の友人が、自分の酒造会社に持ち帰って1本ずつ洗って冷蔵庫で貯蔵してくれて、本当に助かりました。」

 イ 片づけ

 「被災後の1、2日は『何をどうしたらいいのか分からない』というのが正直なところで、私(Aさん)は何も手を付けられずにいました。しかし、被災してから数日後、割合早くから1日に20人から30人ほどのボランティアが来てくれて、一緒に片づけ始めました。また、東温(とうおん)市の酒造会社の友人が声を掛けてくれ、しばらくしてから愛媛県酒造協同組合から毎日10人くらいの若手が片づけに来てくれました。ほかにも企業のソフトボールチームなどが来てくれて、どこの片づけをお願いするのか悩むこともあるほど、多くの人たちが片づけに来てくれました。特に組合の若手の人たちは、酒造りの道具、機械の扱い方や選別について分かっているため、片づけの際に大変助かりました。
 こうした人たちの力で、手を付けられずにいた光景がどんどん片づいていくのを見て、『マンパワーはすごい』と思いました。また、真夏の盛りで大変な暑さの中、皆さんが玉のような汗をかいて、一生懸命に泥だらけになりながら、無償で片づけを手伝ってくれている姿を見ていると、『私が先に諦めたらいけない』という気持ちが芽生えて、『もうひと頑張りしないといけない』と思うようになりました。」

 ウ 酒造り再開の決意

 「それでも、窓やドアが何度拭いてもすぐに白くなるなど、来る日も来る日も片づけが続くと、何のために片づけているのか目的を失いそうになってきました。このままでは体力的にだけでなく、精神的にも追い詰められてしまうと私(Aさん)は考え、『今期も休まずに、1月から酒造りをする』と目標を決めて片づけることにしました。酒造りの機械は量販店ですぐに購入できるようなものではなく、全て受注生産で、注文してから届くまでに3か月くらいはかかります。1月に始める酒造りに間に合うように逆算して、9月の初めころには目標を公言していたと思います。
 片づけを手伝ってくれている組合の若手の人たちに、『1月から酒造りをする。』と伝えると、彼らは口々に『本気ですか。』とか『この状況で本当にやるつもりですか。』と言って、大変驚いていました。目標を決めたことで、その目標に向けてやる気が出たというか、片づけもそれまで以上に一生懸命に取り組むことができました。1月までに全てを片づけることはできませんでしたが、作業場の一画を仕切って、まだ片づいていないものを押し込んで酒造り後に片づけることにして、酒造りに必要な場所を確保しました。」

 エ 道具、機械の買い替え

 「酒造りの道具、機械は全て買い換えました。泥水に浸(つ)かったものは、どんなに清掃しても小さな汚れがなかなか取れません。たとえ見た目がきれいになったとしても、人の口に入るものを造るわけですから、衛生面を考えると泥水に浸かったものを使うことはできないと考えたからです。一見使えそうな小さなホースも、泥水に浸かったものは全て買い換えました。ポンプもタービンを交換すれば使えるのではないかと考えましたが、汲(く)み上げた水や日本酒がポンプの中を通るために諦めました。
 そのため、多額の資金が必要となりましたが、グループ補助金やクラウドファンディングなどで調達しました。当初、私(Aさん)はクラウドファンディングのことを考えていませんでしたが、県の災害復興担当者からお話をいただいて、挑戦してみることにしました。そのようにして資金を調達し、道具や機械をそろえていきました。ただし、機械は受注生産であるため、洗瓶機や瓶詰め機など、1月の酒造りの開始時には間に合わないものもありました。それでも、まだ届いていない機械が必要な工程は届いてからすることにして、1月からの酒造りに必要なものは、何とか最低限のものをそろえることができました。」

 オ 麴を作ってもらう

 「酒造りに必要な麴は、麴作りのための麴室が水害で使用できなくなったため、自前で用意することができませんでした。市販の麴を購入することもできたのですが、市販の麴を使うことに抵抗がありました。どうしたらいいのか考えていたところ、西予市の酒造会社の友人が『うちで作りましょうか。』と言ってくれました。麴作りは、それこそ寝ずの番をしなくてはならず、とても大変な作業です。それにもかかわらず、自分の蔵だけでなく、うちの蔵のために麴を作ると言ってもらい、大変有り難かったです。私(Aさん)は厚意に甘えて麴作りをお願いし、おかげで1月から酒造りを始めることができました。」

 カ 長男の決意

 「息子たちに家業を強要したくなかったため、養老酒造は私(Aさん)の代で終わりになると思っていました。被災後、息子たちが何回か片づけの手伝いに帰っていましたが、あるとき、松山市で働いていた長男が『1月に帰る。』と言いました。普通に帰省するものだと思っていると、家業を継ぐために会社を辞めて帰ってきたのです。それまで長男は、家業を継いで酒造りをしようとは全く考えていなかったと思いますが、被災後の片づけを手伝ううちに考えが変わったようです。早速、1月から一緒に酒造りを行いました。」

(2) 被災からの復興とこれから

 ア 被災後、最初の酒造り

 「被災後、最初の日本酒が完成したときは、被災してからそれまでのことがさまざまに思い出され、酒質はともかく『できた』と私(Aさん)は感動しました。周囲の人たちも『あんな状況だったのにすごい。』と驚いていました。『完成して良かった』という思いではなく、ボランティアの人たち、組合の人たちやクラウドファンディングに協力してくれた人たちなど、本当に多くの方々のおかげで完成したことに、感謝の気持ちで一杯でした。その年は最終的に、例年の半分以上の量を造りました。お世話になった一人一人にお礼を言いたいところですが、それは難しいため、毎年元気に酒造りをして、少しずつ酒質を良くしていくことが、皆さんへの恩返しになると思っています。」

 イ コロナ禍に立ち向かう

 「被災後2回目の酒造りでは、サーマルタンクを2本増やし、『被災したこともある意味でチャンスだと思って、どんどん造っていこう』と私(Aさん)は考えていましたが、その最中にコロナ禍に巻き込まれてしまいました。日本酒関連のイベントが中止になったり、営業に回ることもできなかったりと販売促進のための活動が行えなくなり、もどかしい思いをしています。また、飲食店での酒類提供が制限されたことで、『酒』が悪いという風潮になって残念です。うちの蔵の信条は『和醸良酒』で、『和を以て醸すと良い酒ができ、その良い酒が人の和を作る』という意味です。その信条が示すように、酒は人間関係を良好にするものであるため、酒をそこまで悪者にしてほしくないと思っています。
 西日本豪雨から復興して、『さあこれから』というときにコロナ禍に巻き込まれ、弱り目に祟(たた)り目といった感じです。コロナ禍でなかなか思うような動きが取れない状況ですが、今後どうすればよいのか考える時間を与えてもらったと前向きに捉えて、コロナ禍の収束後に向けて取り組むしかないと思っています。」


参考文献
・ 伊方町『伊方杜氏』1992
・ 肱川町『新編肱川町誌』2003
・ 大洲市『大洲市復興計画《第2版》』2020
・ 気象庁ホームページ『大洲 平年値(年・月ごとの値)主な要素』
(https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=73&block_no=0959&year=&month=&day=&view=p1)
・ 国土地理院ホームページ『平成30年7月豪雨に関する情報』
(https://www.gsi.go.jp/BOUSAI/H30.taihuu7gou.html)
・ 養老酒造ホームページ(https://yoroshuzo.jp/)




写真2-2-8 入り口に掛けていた時計

写真2-2-8 入り口に掛けていた時計

令和3年7月撮影

写真2-2-9 壁に残る浸水の跡

写真2-2-9 壁に残る浸水の跡

令和3年7月撮影