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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 酒造りに携わる

(1) 酒造りに携わるまで

 ア 子どものころの記憶

 「養老酒造は、今年(令和3年〔2021年〕)でちょうど創業100年となります。創業後しばらくして祖父が経営権を取得し、代々引き継がれて私(Aさん)で3代目です。祖父は農協の組合長をするなどしていて酒造りには直接携わっておらず、いつも忙しそうで家にはほとんどいなかったと記憶しています。2代目となる父は、跡を継ぐ前からときどき、酒造りの手伝いをしていました。
 私が物心つくころ、うちの蔵には広島県出身の杜氏(酒造りの責任者)を含めて5、6人の蔵人(くらびと)(酒造りに従事する人)がいましたが、皆さん優しい人ばかりでした。蔵人には近所の人もいて、遊んでもらうこともありました。2、3歳のころに、裏の畑に干してある仕込み用の大きな木製の樽(たる)の中に土足で入って遊んでいて、蔵人に怒られたことを憶えていますが、それがうちの蔵での私の一番古い記憶です。蔵人は笑いながら怒っていましたが、樽は洗うのが大変であるため、せっかくきれいに洗った樽を汚されて、本当は怒り心頭だったのではないかと思います。今になって考えると、幼いころはそのように酒造所でやってはいけないことをいろいろとして遊んでいました。
 なお、昭和40年代の初めころから、手入れのしやすいホーロータンクが仕込みに使われるようになり、うちの蔵でも私が小学生の間に、木製の樽からホーロータンクに替わっていきました。現在では木製の樽を作ることのできる職人が少なくなって貴重なものであるため、倉庫に使わなくなった樽を3、4本残しています。
 小学生になってからは、蔵人が忙しそうにしているのが分かるようになったため、小学校から帰ってくると、怒られないように少し離れた場所から酒造りの様子をじっと見ることもありました。」

 イ 家業を継ぐ
 
 「私(Aさん)は高校卒業後、県外の大学に進学しましたが、そのころは家業を継いで酒造りに携わろうとは考えていませんでした。子どものころに見た、日本酒に酔った大人の印象が良くなかったためです。しかし、20歳になって自分で日本酒を飲むようになると、少しずつ酒造りに興味を持つようになりました。決定的となったのは、入社試験での面接でした。10人くらいの面接官がいたのですが、その中にかなり高齢の方がいて、『このような人の下で働くより、実家の酒造所で一国の主人になる』という気持ちが芽生えたのです。
 いきなりうちの蔵で働くと甘えてしまうため、酒造りや商売について学ぶために、修業として別の酒造会社で働きたいと考えました。そこで父に相談したところ、父の紹介で新居浜(にいはま)市の酒造会社で働くことになりました。当初は3年間の予定でしたが、社長さんが『もう少しここで働きなさい。』と言ってくれて、5年間お世話になり、酒造りのことをいろいろと教えていただきました。
 27歳のときに私は肱川町に帰ってきましたが、当時のうちの蔵には、伊方(いかた)町出身のいわゆる伊方杜氏を含めて蔵人が3人と外回りの営業の方が1人いました。営業の方は高齢だったため間もなく退職し、その後は営業担当者を雇わずに私や妻が営業をしていましたが、息子が帰ってきてからは息子がしています。私はこちらに帰ってきてから、蔵人と一緒に酒造りに携わりました。大事なところや微細なところは、教えてもらいますが、経験がないため任せてはもらえませんでした。一方で、酸度や日本酒度などの分析は任せてもらいました。酒造りの現場は杜氏が仕切りますが、それぞれの杜氏にそれぞれのやり方があり、その指示を受けて酒造りを行いました。」

 ウ 杜氏として

 「杜氏から『自分でやってみなさい。』と言われたことがきっかけで、平成18年(2006年)1月から私(Aさん)が杜氏として、家族と近所の方に手伝いをお願いして酒造りをするようになりました。今年(令和3年〔2021年〕)で16回目、年明けからが17回目となります。そのときの杜氏は伊方杜氏の中で当時一番若かった方で、後に組合長になりました。漁師でもあったためいろいろと忙しく、地元近くで働きたかったのではないかと思います。うちの蔵を辞められた後は、八幡浜(やわたはま)市の酒造所で働いたそうです。私が杜氏として最初に酒造りをしたときには、様子を見に来てくれて、できた酒を『これは上等ですよ。』と言ってくれました。
 初めて杜氏として酒造りをした際は、うまくできるかどうか不安で、寝ていても『電源を落としただろうか』などと目を覚ますことがしばしばあり、まともに眠れませんでした。初めての日本酒が完成したときはもちろんうれしかったですが、『やはりできるのだ』とも思いました。やり方を急激に変えるわけではないため、温度管理などをきちんと踏まえれば、日本酒を造ることはできますが、自分で仕切って造っていなかったため、『このやり方で大丈夫だろうか』と不安だったのです。その後は、自分なりのやり方や技術、好みを踏まえて、何とか日本酒を造ることができるようになりました。」

 エ 『風の里』

 「私(Aさん)がこちらに帰ってきたころ、当時の肱川町では『風おこし運動』という町おこしを進めていました。現在のうちの蔵の銘柄である『風の里』が誕生したのは、そのころに肱川町の風おこし対策室長から『町おこしのための日本酒を造ってほしい。』とお話をいただいたのがきっかけです。翌年、うちの蔵では初めて本醸造酒を造り、その本醸造酒を町おこしのための酒として、当初は『本醸造養老』という名称で販売する予定でした。ラベルもすでに印刷していましたが、『風おこし運動の商品としては面白くない』ということで、何か良い商品名はないかといろいろと意見を聞いて『風の里』として、ラベルを印刷し直して販売したのが始まりです(写真2-2-2参照)。」

(2) 酒造業を営む

 ア 酒造りの流れ

 「12月から麴(こうじ)作りと酛(もと)仕込みが始まります。洗米した米を甑(こしき)で蒸して、並べた台に置いた簀(す)の子の上に広げて冷まします。適温に冷ました蒸米(むしまい)を麴室に持ち込んで麴を作りますが、麴室の室温をプレートヒーターで35℃に設定して作業をするため汗だくになります(写真2-2-3参照)。
 『一麴、二酛、三造り』と言われるほど麴は酒質を左右するため、麴作りは大変気を遣う作業です。麴室は事前に何回も殺菌して作業に備えたり、麴室に出入りする際の手洗いを徹底したりしています。また、作業が始まると丸2日間、昼夜を問わず麴室に入り、麴の状態を確認しなければなりません。酛仕込みは、日本酒の元になるものを仕込む工程で、2週間近くかかります。500ℓの小さなタンクに麴、蒸米、水を入れて酵母を培養し、できたものが酛になります(写真2-2-4参照)。
 12月の終わりから1月の初めころに、仕込みが始まります。酛を温度管理ができる大きなサーマルタンクに移し、1回目の『添(そえ)』、2回目の『仲(なか)』、3回目の『留(とめ)』と3回に分けて、麴、蒸米、水を少しずつ増やしながら加えます(写真2-2-5参照)。20日から30日かけて発酵させてもろ味にしていきますが、これを三段仕込みと言います。仕込みの最中は、毎日記録を取って温度の管理をしてもろ味の状態を確認しますが、うちの蔵の場合、純米大吟醸酒では10℃、本醸造酒では12℃のように種類によって最高温度を変えています。仕込みでは温度だけでなく、酸度やアルコール度数も記録を取って管理をしています。酸度は酒米の磨き方など、いろいろな条件で変わってきます。最近の傾向として、酸度の低い水のような日本酒ではなく、ある程度酸度が高い日本酒が好まれているようです。仕込みの最中は、添、仲、留のそれぞれの段階で、必要な蒸米、麴を作る作業もあるため、酒質を決める大事な時期であるとともに、一番忙しくて大変な時期で、私(Aさん)も一番神経を遣います。
 仕込みの後、20日から30日で上槽します。タンクのもろ味を圧搾機に通して清酒を搾ります(写真2-2-6参照)。このとき圧搾機に残ったものが酒粕(かす)で、圧搾機を通過してタンクに溜(た)まったものが清酒となります。この清酒をサーマルタンクに貯蔵し、酒質の状態を見ながら、3月中には瓶詰め機を使って瓶詰めをします。酒造りの作業は機械の洗浄や殺菌など、それぞれの工程に入るまでの準備が大切で、その後の片づけも洗浄殺菌を徹底して行う必要があり、準備と片づけが大半を占めます。毎年12月に酒造りに入るまでの時期は、販売促進等、日本酒関連のイベントに参加したり、営業に出向いたりしています。」

 イ 日本酒の種類と販路の拡大

 「うちの蔵で製造している日本酒の種類は少しずつ変わってきています。私(Aさん)がこちらに帰ってきたころは1級、2級、おり酒、原酒の4種類でしたが、今年(令和3年〔2021年〕)は昔の1級(日本酒級別制度は平成4年〔1992年〕に廃止)にあたる上撰の日本酒、本醸造酒、純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒、純米にごり酒、創業百年記念酒の7種類です。さらに細かくなりますが、純米吟醸酒は火入れ(加熱処理)をしていない生酒があります。ラベルは同じですが、生酒はキャップの色を変えてシールを貼って区別しています。
昔はこの辺りの人口が現在よりもはるかに多く、何らかの会合があるたびに現在よりも多くの日本酒が飲まれていたため、うちの蔵で造る日本酒は、この辺りでほとんどが消費されていました。少しずつ販路を拡大していき、現在では県内はもとより首都圏をはじめとする県外の酒店でも取り扱ってもらっています。また、インターネットサイトを立ち上げているため、あちらこちらから少しずつ注文をいただくようになりました。」

 ウ 新しい取り組み

 「最近は日本酒以外の商品も販売していて、数年前からにごり酒ゼリーを販売しています。うちの蔵で造ったにごり酒をベースにして、製菓メーカーにOEM(委託者の商標で販売する製品を受託生産すること)を依頼しています。桜の花の塩漬けを入れ甘さを控えめにしたゼリーで、アルコール度数を1%未満にしているため、お酒に弱い人が食べても大丈夫です。
昨年(令和2年〔2020年〕)からは、奈良漬けを販売しています(写真2-2-7参照)。材料は酒粕、粗塩、三温糖と野菜です。添加物は使用しておらず、水を使用していないため少し辛く感じる方もいるかもしれません。酒粕は新粕を使用しており、黒っぽくならずにきれいな色をしています。野菜はシロウリ、ダイコン、タマネギ、ニンジン、メロン、ショウガで、なるべく大洲産にしようとこだわっています。今年(令和3年〔2021年〕)の奈良漬けはシロウリとメロンが売り切れ、ダイコンももうすぐ売り切れになります。これからタマネギとニンジンを、秋にはショウガを販売する予定です。
 産業廃棄物として大量に処分する酒粕で何かできないかと考えて、以前から妻が少しずつ奈良漬けの試作を重ね、西日本豪雨の年に販売してみようとたくさん作りましたが、全て流されてしまいました。その後、コロナ禍で日本酒の販売が落ち込んだこともあって、本格的に始めようと、大洲産の野菜にこだわろうとか、『風』という文字を商品名に入れてラベルを作ろうなどと考えて、妻がいわば製造部長となり、昨年から販売を始めたのです。
 材料のメロンは小粒なものを使っていますが、これは摘果されたものだからです。つまり、甘くて大きなメロンを作るために生長途中で摘まれたメロンで、本来ならば廃棄物として処分されるものです。昨年は無料でいただきましたが、今年は『商品にするものを無料でいただけない』と代金を支払って購入しています。スイカ農家の方に声を掛けてもらったため、今年はスイカの奈良漬けを試作しようと考えています。」

 エ これからの酒造り

 「いろいろなことに挑戦したいという思いがあり、被災後最初の酒造りでは初めて純米吟醸酒を造り、昨年は新商品として純米大吟醸酒を造りました。今年は創業百年記念酒を販売しますが、上槽を圧搾機ではなく、初めて袋搾りで行います。ただし、通常は3人で酒造りをしているため、急いでいろいろなことに挑戦するのではなく、すでに製造している日本酒をどのような方向に持って行くかとか、どのように改良して品質の向上を図るかなどと、ときには立ち止まることも私(Aさん)は大事だと考えています。」


写真2-2-2 風の里 純米にごり酒

写真2-2-2 風の里 純米にごり酒

令和3年6月撮影

写真2-2-3 麴室

写真2-2-3 麴室

令和3年7月撮影

写真2-2-4 酛仕込み用タンク

写真2-2-4 酛仕込み用タンク

令和3年7月撮影

写真2-2-5 サーマルタンク

写真2-2-5 サーマルタンク

令和3年7月撮影

写真2-2-6 圧搾機

写真2-2-6 圧搾機

令和3年7月撮影

写真2-2-7 製造中の奈良漬け

写真2-2-7 製造中の奈良漬け

令和3年7月撮影