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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 山間部の農業と大谷文楽

(1) 昭和30年代の農業

 「私(Aさん)は、昭和37年(1962年)に高校を卒業すると、自分の家で農業を始めました。もともと酪農はしておらず、農業を始めて4年ほど経(た)ってから酪農を始めました。そのころ、大谷地区では換金作物として養蚕や葉タバコ栽培が多く、酪農をする人はあまりいませんでした。あとは米作りです。ただ、米とはいってもこの辺りでは、50aとか60aの水田で米作りをする人が多く、かなり多い人でも1haもの水田は持っていません。両親と私と3人でしたので、水田で60aほど米を栽培して、そのうえ養蚕も行うと大変だったことを憶えています。さらに収入源として、冬は炭焼きをしていました。炭焼きをしなくなってからはシイタケ栽培に切り替えました。
 私の家の山林には雑木が多く、昭和30年代の終わりころまでは炭焼きをしていました。私が高校を卒業した昭和37年が炭焼きをしていた最後の年だったと思います。現在は車の通ることのできる道路が方々についているので、切った木を家の近くまで持って帰ることも可能ですが、昔は山の中へ小屋を建てて、そこに炭焼き窯を造って、近くの木を切ってその小屋に運んでいました。家から炭焼き小屋までは山道を歩いて行かなければならないので、大変だったことを憶えています。
 炭焼きをしなくなった後、シイタケ栽培を始めました。シイタケはまあまあ収入になりましたが、原木を切って、何度も往復して重い原木を運ばなければならないので大変でした。原木にするための木を切った所は裸山になります。シイタケ栽培のためにはその近くのスギ林などへ運んで、原木を組む必要があります。私が結婚をして酪農を始めた後も両親はシイタケ栽培に取り組んでいました。その後20年くらいは続けたのではないかと思います。両親が中心になってやっていたので、他の農家と比べると生産量は少なかったと思いますが、それでも数百kgはシイタケを収穫していたのではないかと思います。シイタケを収穫すると、山から家に持って帰って乾燥させます。当時は山の中の道を、多くのシイタケを背負って家まで持って帰っており、重労働でした。乾燥させたシイタケは、鹿野川にあった森林組合に出荷していました。当時はシイタケ栽培を森林組合が奨励していたので、シイタケの菌の代金の補助もありました。
 私の家では途中で続けることが難しくなりましたが、養蚕も行っており、多くの桑畑を所有していました。私が両親とは別々に農業を始めてからも、両親は数年間、養蚕を行っていました。山の畑から桑を持って帰って蚕に与えたり、繭を出荷したりするときなどの忙しい時期には手伝っていましたが、それ以外は両親が細々とやっていました。養蚕の景気が良かった時期の終わりころには、大谷の農家が数軒で集まって、養蚕の団地を作ってやっていましたが、ほどなくして、繭が安くなって養蚕が不振になり、多くの農家が養蚕をやめていったことを憶えています。
 私の家でももちろん米作りを行っていましたが、かなり遅い時期まで牛を使って水田を鋤(す)いていました。昔はこの辺りの7割くらいの家では牛を1頭ずつは飼っていましたが、テーラー(手押し式の耕うん機)を導入した後も、私の父は牛で水田を鋤いていました。テーラーでは時間がかかるからと言って、父が1人で牛を引っ張っていって水田を鋤いていました。父が牛でかなりの面積を1日で鋤いていたことを憶えています。そのあと、私がテーラーで代かきをしました。父が粗鋤きをして、その後の代かきはテーラーで行ったので、私は楽をさせてもらいました。
 トラクターが入ってきたのはもっと後になってからで、基盤整備を行って水田もある程度の広さになってからです。基盤整備が始まったのが昭和40年代の後半だったと思います。そのころから、大谷地区でもあちこちでトラクターを数人で1台使うようになりました。」

(2) 酪農

 ア 酪農を始める

 「私(Aさん)が高校で学んでいたころ、大谷地区のような山間地では畜産が良いのではないかと思うようになり、学校を卒業して私が農業をするときには酪農をしようと考えるようになりました。それで、昭和40年(1965年)ころから酪農に取り組むようになりましたが、思ったようにはいきませんでした。何とか良い方に向くようにと思って30年くらい取り組んでいましたが、なかなか大変でした。最も多いときで乳牛を10頭くらい飼っていましたが、世話をするには多くの時間がかかりました。
 餌を準備するのにも時間がかかりますし、搾乳にも時間がかかります。搾乳は毎日朝晩としなければなりません。餌は山で草を刈ってくることも必要でした。」

 イ 酪農の苦労

 「予定どおりに乳量を増やすためには、乳牛が順調に種付きして、妊娠して出産するという循環がうまくいく必要があります。ところが、何回か妊娠をしなかったり、遅れがあったりすると、乳量が少ない時期が長くなります。また、出産がうまくいかず子牛が無事に生まれなかったり、親牛が駄目になってしまったりすることもありました。始めたころに乳牛が2、3頭だったうちは、牛が事故で亡くなるということはなかったのですが、少し牛の頭数が増えると、手が回らなくなってくるためか、牛が事故で駄目になるということも増えてきました。やはり牛1頭が駄目になると相当の痛手です。また、乳量を多くしようと思い、飼料を良いものに変えると、飼料代が負担になってきて大変でした。私(Aさん)は30年間ほど酪農に取り組みましたが、ずっと苦労ばかりしていたような気がします。」

 ウ 牛乳の出荷

 「牛乳を酪農組合でまとめて出荷していた、昭和40年(1965年)ころは鹿野川に集乳所があり、そこに集めていました。途中からは大洲でまとめていたように思います。鹿野川の集乳所は、集落奥の農協の加工場があった所にありました。私(Aさん)たち大谷地区の生産者が鹿野川の集乳所まで直接持って行くのではなく、請け負った方が集落ごとに集めて持って行ってくれたので、私たちは牛乳を集落の集荷場所に持って行っていました。以前は牛乳の出荷基準が厳しくありませんでしたが、だんだんと鮮度に関する基準が厳しくなっていきました。搾乳をするとすぐに冷却することが必要になり、集荷場所で検査をして基準を満たしていないと、廃棄されるようになりました。以前は夜に搾乳した牛乳を缶に入れてそのまま朝まで置いておき出荷するということもありましたが、厳しくなってからは『これはいけんぞ。』と言って廃棄されることもあったようです。」

 エ キュウリ栽培に取り組む

 「酪農が大変だったこともあり、トマト栽培を行う前の数年間は露地でキュウリ栽培を行いました。今の時代は園芸作物も割と面白いのではないかという気持ちがあったからです。当時はキュウリの値段も良い年もありました。その時期はキュウリと酪農の両方をやっており、妻も働きに出ていたので、かなり忙しかったことを憶えています。当時はキュウリを朝と夕方に収穫していたので、朝、搾乳する前に妻と畑に行って収穫し、妻は仕事に出掛け、私(Aさん)は搾乳を行い、夕方、妻が仕事から帰ってきてから一緒にキュウリを収穫し、選別して箱に詰めるという生活が4、5年続きました。今はキュウリを箱詰めせずに出荷しているのではないかと思います。選果場で選果して箱詰めしているのだと思いますが、自分で選果して箱詰めする方が、選果の費用がかからないので、そちらの方が良いのではないかと考えていました。
 今でも米作りは続けています。米作りはほとんど機械で行うので、今は以前と比べると楽になり、私がトマト栽培を始めてからも、仕事に行く前や休みの日の朝夕に、1人で取り組んでいました。水田での米栽培は、他の作物に比べても一番手間がかからないようになりました。トラクターで田起こしや代かきをして、田植え機で植えて、実ったらコンバインで収穫して、乾燥機に入れたら済んでしまいます。水田がかなり狭い所でも2条植えの田植え機ならうまく植えることができます。基盤整備を行い、機械が入るようにしていますし、水田がある程度狭くても細長い形にしているので、機械で植えることができます(写真2-1-4参照)。」

(3) トマト栽培

 ア トマト栽培会社の経営

 「酪農とキュウリ栽培を両方やっていたときに、『これでは体を壊してしまうかもしれないな』と思うようになり、『酪農を続けるのはもう限界かな』と思っていたときに、旧肱川町が山村振興事業で、予子林と大谷に『省エネルギーモデル温室』を整備し、トマト栽培を行うことになりました。それで誰かやる人がいないかと探していたときに、なかなか人が見つからなかったようで、地元の議員さんが私(Aさん)に、『あんたしかおらんわい。』と言ってくれたので、『じゃあやってみるか』と思い、トマト栽培を始めました。それが平成9年(1997年)のことで、有限会社肱川サントマトコーポという会社でトマト栽培を行っています(写真2-1-5参照)。」

 イ 温室でのトマト栽培時期

 「私(Aさん)の会社では現在従業員が9人います。通常のスケジュールだと、例年は7月の始めから中旬にかけて植え付けを行い、9月の末から10月ころから収穫を始めて、翌年の6月一杯まで収穫をして、それから、前の年に植えたものを片づけて、新しく7月に植え付けるということを繰り返してきました。収穫はだいたい9か月にわたって行います。ただ、終わりごろに木の勢いがなくなって収量が少なくなってしまうと早目に切り上げることもありますし、まだトマトも多く実をつけるし、ある程度はまだ値段がつくので片づけるのは惜しいなというときには、長引かせることもありました。そのようにして露地のトマトが市場に出ていない時期に出荷しています。そのようなサイクルでやっていますが、真冬は暖房費がかかるわりに値段もあまり良くありません。外食でも家庭でも、一年中需要があるのですが、冬は誰もがトマトを食べたい時期ではないようで、どうしても一般の人が店頭で買って食べるということは少なくなるようです。さらに、現在は新型コロナウイルス感染症の影響もあって、外食産業もなかなか厳しい状態で、どうしても値段が安くなっています。」

 ウ 栽培方法

 「トマトは岩石を焼いて、溶かして繊維状にしたものを集めて作ったロックウールに植えて育てています。また、最近はヤシがらを使った培地なども使っています。四角いポットにトマトを植えているのですが、そこへ点滴チューブで養液を送って栽培をしています。
 最初はタキイ種苗の『桃太郎』という品種のトマトを栽培していましたが、ここ数年はサカタという会社の『りんか』というトマトの品種を作っていました。『りんか』にしたら少しは楽になったなと思っていたのですが、病気が出てしまったので、今年は違う品種でやってみようと思っています。私(Aさん)たちの会社では初めてのことですが、試してみようと思っています。」

 エ 出荷

 「私(Aさん)たちがトマトを植えるハウスの広さはだいたい1haです。そこにトマトを2万4千本くらい植えています。例年は収穫量が年間で300tくらいあります。300t以上収穫できないと費用を賄うことは難しいのです。300t収穫できると、1kg当たり300円の値段がつけば9千万円ですので、そのくらいで何とか費用を賄うことができます。売上額が1億円を超えるとまあまあ良かったなということになるのですが、ここ数年はトマトの病気が出たりしたこともあってなかなか厳しい状態です。出荷は市場出しですが、大阪の大果(大果大阪青果株式会社)や岡山の丸果(株式会社岡山丸果)、松山の丸温(丸温松山中央青果株式会社)といった荷受会社に出荷しています。その中で大阪に出荷するトマトが3分の1くらいです。荷受会社に送ると、競りに出したり、相対で仲買さんに売ったりしてくれます。しかし、時期や量が安定して出荷していると、買い手もついていますから、だいたい決まったような値段もついてくるのですが、出荷量が少なくなったり、多くなったりすると、向こうも不安になります。また、ここ数年は十分な量を出荷できておらず、最近では輸送費もかかるので、より近い松山市場へ送ることが多くなってきています。
 輸送は運送業者に頼んで、取りに来てもらっています。一度に出荷する量は、量が多いときには4kg入るケースで500ケースになりますから2tになります。たいていは200ケースくらいですので、1日に1tまでは行かないくらいです。1年間で収穫できる日が300日弱ですから、1日に平均で250ケース以上、重さにすると1tは収穫できないと年間で300tにはならないことになります。」

 オ 近年の状況

 「近年は根腐れ病などの病気が出てしまって、思うように収穫できていません。仕事ですから、何をやっても苦労はあるものですが、生き物相手ですから計算どおりにいかないことも多いです。
 トマトを大規模に栽培している温室は、予子林にもあります。そちらが先にできたのですが、予子林の会社も私(Aさん)たちの会社も、当時の肱川町が作った施設を借りてやっています。当時の肱川町は、山間地の新しい農業や産業をここから作ろうということでものすごく力を入れていました。施設もかなり古くなって、あちこち壊れてくるところも出てきます。特に平成30年(2018年)の水害ではハウスそのものは無事だったのですが、管理棟があった場所が崖崩れを起こして、倒壊してしまいました。災害があったときでも公共の施設は補助が受けられないそうで、元のように直すのは難しい状況です。しかし現在は、新しい植え付けに向けて、準備をしているところです。」

(4) 子どものころのくらし

 ア 国鉄バス

 「私(Aさん)が高校に通っていた当時は国鉄バスが大谷地区の白石という集落まで上がってきていました。割と便数も多く、朝早い便が6時過ぎに出発していましたので、それに乗って、大洲へ8時前に着いていました。大洲から鹿野川まではちょうど1時間で着きますが、鹿野川から大谷までは道が細いので、30分以上かかっていました。ですから冬になると家を真っ暗なうちに出発して、真っ暗になってから帰っていました。国鉄バスは、昭和50年(1975年)ころまではあったのではないかと思います。」

 イ 小学校・中学校の思い出

 「大谷には昔は小学校・中学校がありました。一緒の場所にあったので、その当時は『大谷小中学校』とよく言っていました。私(Aさん)は大谷中学校を卒業したので、後にできた肱川中学校には通学していません。私が中学校を卒業したころに、肱川町で中学校統合の話が出て、かなりもめたようです。名目統合した後、4学年下の生徒は新しくできた校舎に通いました。私が高校を卒業してこちらで農業を始めたころです。当時はまだ国鉄バスがかなりの本数で運行していたので、新しくできた肱川中学校へは、女子生徒はバスで通っていましたが、男子生徒の多くは自転車で通っていました。今はスクールバスが運行しています。
 大谷小学校では私たちの学年で同級生が25人くらいいました。私たちの数年下の学年、つまり終戦直後に生まれた学年は30人以上いたことを憶えています。一番多い学年では40人以上いました。そのくらいの人数がいたので、山の中でも寂しいということはありませんでした。上の学年にしても下の学年にしても、子どもがたくさんいました。
 小学生のときでも家に帰ったら、『忙しいから早く帰って手伝え。』と両親に言われることが多くありました。学校から帰ると、どこそこの畑に来いとか、どこそこの水田に来いと書き置きがあって、そこに手伝いに行きました。外が暗くなるまで手伝いをしていたことを憶えています。」

 ウ 子どものころの食事

 「子どものころには多くの家で牛を飼っており、博労さんが集落を回っていたことも憶えています。博労さんは若い牛を連れてきて、『肥えて肉がついた牛と換えようや。』と言って交渉していました。集落の中には作業に使わない牛を1頭か2頭飼って、肥えたら売って、若い牛と換えるという農家も多かったのですが、私(Aさん)の家では、めったに換えるということはありませんでした。私が子どものころは博労さんもトラックを持っていなかったので、人を雇って途中までトラックで来て、そこから家までは牛を引っ張って連れてきていたことを憶えています。
 牛の世話ですが、穀物や飼料を与えるということはあまりありませんでした。だいたい、水田の畔(あぜ)や畑のそばの草を刈ってきて食べさせたり、稲藁(わら)を食べさせたりすることが多かったように思います。
 今は全く作っていませんが、当時はある程度は麦も作っていました。子どものころは米に麦を混ぜた麦飯がほとんどでしたが、高校を卒業して家に戻ってきたころから、麦飯を食べることは少なくなりました。麦自体を作ることが少なくなってきたこともありますし、御飯を炊くのに麦の方が大変だったこともあると思います。麦はそのままでは炊きにくいので、押し麦にしてもらわないといけないのですが、そのころは水車屋さん(精米・精麦業者)が近所からだんだんなくなっていました。炊くときも米と麦の両方を混ぜて炊くのには手間がかかるので、忙しくなってくると、かえって米の御飯の方が良くなっていったのではないかと思います。米だけの方が腹持ちが良くて食べる量が少なくて済むということもあります。昭和30年代の後半にこの辺りでもはっきりと生活が変わっていきました。
 トウモロコシも作っていましたが、大豆をひいたきな粉のように、トウモロコシを煎って、それを粉にひいたものをよく食べていました。粉にせずに、ひき割って御飯と一緒に炊くこともありましたが、すぐに硬くなるので、あまり炊くことはなかったように思います。トウモロコシの粉のことをおちらしとかはったい粉と言っていたことを憶えています。」

(5) 大谷文楽に熱中して

 ア 文楽を始める

 「私(Aさん)が中学校を卒業したころ、中学校の校長先生が生徒数人を集めて、『新聞部として、文楽の取材に行ってきてほしい。』と言ったので、生徒たちが文楽の世話役の方に話を聞きに行くと、人形の遣い方を教えてもらい、文楽を始めるようになったということがありました。私の一つ下の学年の後輩たちでしたが、校長先生と文楽の座長さんの間で事前にそのような話がついていたようです。私ももともと文楽に興味はあったのですが、高校を卒業した後、当時盛んだった青年団活動をしていると、文楽の座長から『後継者が少のうていけんのじゃが、青年の人ら何人かおらんか。』と声を掛けられました。私たちの世代には物好きがいたのでしょう、6人ほどが加わって文楽に取り組むようになりました。」

 イ 練習に励む

 「私(Aさん)が入ったころは、みんなが農業をしながら文楽に取り組んでいました。大谷地区の外に働きに出ている人もいることはいましたが、ほとんどの人は農業をしながら活動していました。以前は農業でも少し余裕を持つことができた農閑期がありましたので、そういうときには集中して活動していました。夏の農繁期でも日中の暑い間は休んでいたので、若い者はその間に集まって練習をしていました。そして夕方、涼しくなったら農作業に戻っていました。
 『農作業が忙しい中、練習に取り組むのは大変でしたか。』と聞かれることもありますが、私にとってはそれが忙しい農作業の息抜きでもあり、楽しみでもあったように思います。昔は春の花が咲くころに数回他の地域へ芝居に行っていました。普段は行かないような所に行って、芝居をしてその辺りの様子を見たり、終わった後に慰労会を開いてもらった際などにその地域の人たちといろいろな話をしたり、楽しいことも多くありました。
 農閑期が冬から春の水田の作業が始まる前ですから、公演は春にすることが多かったです。近ごろは秋の敬老の日に敬老会が行われることが多くなったのですが、当時は春に行われることが多く、そのときに公演を依頼されることもよくありました。」

 ウ 競い合い

 「若い人は練習をしっかりとしていたと思いますが、年配の人の中には練習をやらずに芝居を依頼されて行った先でぶっつけ本番でやる人もいました。それを見ながら、若い私(Aさん)たちはその人の演目はあまり好きではないので他の人のまねをした方が良いとか、自分たちで考えながら、お手本にする人を決めていました。もちろん本人の前で上手ではないと言ったりすることはありませんが、自分でこの人の女性の演技が良いとか、男性の演技だったらこの人のこういうところをまねしようといったように、それぞれが自分で決めて学んでいたと思います。
 そのように練習をしている中で、だんだんと得意な演目がそれぞれできていきました。『阿波十』をやるならこの人とか、『御所桜』をやるのはこの人というように決まっていきました。私は体格も小さいので、女性の人形を持つことが多かったです。私たちが参加して、最初にきちんと習ったのは五条橋の弁慶と牛若丸の場面だったことを憶えています。そのときに体の小さい私が牛若丸の人形を遣って、体の大きい人が弁慶の人形を遣いました。それから、お前はこれの方がいいのではないかとか、これをやったらなどと決まっていきました。誰かが休んだときには誰しも自分がやりたいと考えますから、そのときに自分がやれるようにいろいろな演目を練習したこともありました。
 当時は何人かメンバーが来られなくても、芝居の二段や三段くらいはできる人がいくらでもいました。それで、自分の番だと思っていると演目が違っていて、やれなくて怒る人がいたり、もめたりすることもしばしばありました。そういうときは座長が事情を説明して、酒を飲ませて機嫌を取るということもありました。」

 エ 郷土文化保存伝習館

 「郷土文化保存伝習館は、地区内のいろいろな文化、芸能を練習したり、伝承したりするところということで建てているのですが、専ら大谷文楽のために使わせてもらっています(写真2-1-10参照)。伝習館が建っている場所が大谷文楽の発祥の地で、その土地の所有者が『大谷文楽のために寄付するから好きに使いなさい。』と言って、土地を寄贈してもらって昭和59年(1984年)に建物が建造されました。伝習館ができてからは練習をするときには伝習館を使っていますし、人形や衣装を保管したりする場所としても使用しています。また、伝習館では窓を全部開放するとステージのようになっており、昔の農村舞台のような形で、外にある観客席に向かって公演ができるようにしています。現在では新型コロナウイルス感染症の影響もあり、公演ができない状況が続いていますが、地元の人たちに後援会を作ってもらって、会費を負担してもらっているので、状況が許せば、少なくとも地元公演はやらないといけないと、私(Aさん)は考えています。」

 オ 文楽の喜び

 「私(Aさん)は長い間大谷文楽で活動をしてきましたが、人形でこのように表情を作りたいなと思ったときに、ふと思ったような表情が人形に出たりしたときには、充実や喜びを感じます。本職の人は毎日練習をして思いどおりにできると思いますが、私たちには思いどおりの表情や動作を行うことはなかなか難しいことです。
 最近は人数が少なくなってきており、仲間の中で切磋琢磨(せっさたくま)することは少なくなってきました。どうにかして人数をそろえて演じなければならないということばかり考えています。しかし、現在でもプロの演技を見て、ああいうふうにやりたいと思った表情や動きを練習して、研さんを積んでいきたいと思っています。内子座でも毎年文楽の公演があって、私たちも研修でよく見に行っていますが、やはりプロの演技には感動します。当然のことですが、大谷で上手にやっているなというのとは違います。プロは訓練で全ての動きを自然にやります。できればあのような動きができるようになりたいと思ってやってきました。」

 カ 現在の活動

 「私(Aさん)と同じころに始めたのは6人ほどでした。その後私はずっと続けてきたのですが、亡くなったり、他所(よそ)へ行ったりする人もいて、だんだん少なくなってしまいました。残っている人でも、会の名前の中にはいるけれども、実際には人形遣いはもう務まらないという人も出てきてしまっています。私が活動していた当初は浄瑠璃を語る人も大谷の座の中に数人いて、公演のときには『今度こそ私がやりたい。』というように競い合って出演機会を求めるほどだったのですが、現在では浄瑠璃を語る人は1人だけになってしまい、その人が浄瑠璃をやらないと公演ができないというような状態です。人形の頭を遣ったことのある人も3人しか残っていません。
 私は文楽保存会の会長として、何とか大谷文楽を残していきたいと考えています。そこで、大谷地区の人ではなくても興味のある人に声を掛けて練習してもらったりしています。その人たちには頭を遣ったり、手を遣ったりしてもらっています。せっかくやってみようと思い付いても、興味がなくなったり、面白くなくなったりしてもいけないので、少しずつでもやらないといけないと思っています。
 プロだったら人形の足から持って、それから手を遣うようになって、手から頭を遣うようになるために、10年単位と言いますが、そういうようにするとすぐに嫌になります。私たちも最初に始めたときに、興味を持ってもらわないといけないということで最初から頭を持たせてもらいました。それに、ある程度年を取った人がやってみようとなったときに、足遣いは中腰でずっとやらないといけないので、体にこたえるということもあります。
 ここ数年肱川中学校に行って文楽を教えていますが、中学校で子どもたちに指導するときも、子どもたちは膝をついて人形の足を遣おうとします。本来はしてはいけないことですが、数回練習して演じられるように指導しているため、細かいことは言えず、基本的には中腰で遣うことを教えてはいますが、子どもたちも中腰はしんどいので、難しいようです。まして、年を取った方はなかなかできないのです。
 ただ、子どもたちも中学校を卒業した後、この地域にはほとんど残りません。特に若い人が『これをやったら面白そう』と思える仕事が、なかなかないのだと思います。大谷に人を残して、その人たちにどうやって伝承していくかということを、考えていかなければならないと思っています。」

   



写真2-1-4 大谷地区の水田

写真2-1-4 大谷地区の水田

令和3年7月撮影

写真2-1-5 トマト栽培の温室

写真2-1-5 トマト栽培の温室

令和3年7月撮影

写真2-1-10 郷土文化保存伝習館

写真2-1-10 郷土文化保存伝習館

令和3年7月撮影