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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 植松での商い

 ア 精米所を営む

 (ア) 戦中・戦後の思い出

 「私(Aさん)の家では父の代から精米所を営んでいます(図表1-2-2の㋐参照)。父はもともと川向かいで水車を利用した精米所を営んでいて、その後、植松の現在地へ移り住みました。私は昭和11年(1936年)に現在地で生まれたので、それ以前に移ってきたことになります。
 年代がはっきりしませんが、植松は河辺の中でも早くから電気が使えるようになり、父は電動機を利用して精米を行うようになりました。そのころの河辺には水車を利用した小さな精米所はありましたが、電動機を利用した精米所は私の家だけでした。当時、一般家庭の電気の使用は制限されていました。電力メーターを設置していない家では午後5時から翌朝の午前8時までしか電気を使用することができませんでしたが、私の家は電力メーターを設置していたので日中も電気を使用することができたことを憶えています。
 戦時中には従業員の男性を2、3人雇っていて、女子衆(おなごし)さんもいました。従業員の男性のうち、まだ若かった2人くらいは召集令状を受け取り、出征しました。当時は政府の統制が厳しく自由に精米の販売を行うことができませんでした。終戦後は私より4、5歳くらい年上の男性1人を住み込みで雇っていました。物不足だったころは、機械が故障しても簡単に部品を交換することができませんでした。また、近くに鉄工所もなかったので、部品のガス溶接を行う必要があるときには五十崎(いかざき)(現内子(うちこ)町)にあった大久喜鉱山へ持ち込んでいました。そのころは内子方面行きのバスがなく、従業員の男性が取り外した部品を自転車で大久喜鉱山まで運んでいたことを憶えています。私の代になってから機械を買い替えたので、父の代に使っていた機械は残っていません(写真1-2-1参照)。」

 (イ) 素麺を作り始める

 「私(Aさん)の家で素麺(そうめん)を作り始めたのは終戦から1、2年後のことだったと思います。河辺では精米所が増え、私の家への精米の注文がめっきり減っていたので、父は素麺を作ることを思い付いたのだと思います。当時は雇っていた人に精米の仕事を任せ、私は両親、兄、弟と一緒に素麺を作っていました。小麦を臼式の製粉機2台で製粉していたことや、裁断した素麺を束ねていたことなどを憶えています。中学1年生のときに素麺の製麺機に誤って手を入れてしまい、大けがをしたことがありました。そのころ診療所はまだありませんでしたが、智葉旅館の隣に住んでいたお医者さんの下へ毎日通い、診察してもらいました。あるとき国鉄バスが店の前で止まり、『なぜ止まったのだろう』と思っていると、車掌さんが降りてきて、素麺1箱を買ってくれたということもありました。」

 (ウ) 多忙だったころの思い出

 「父はもともと精米業だけでなく米の販売も行っていました。小学校(堀尋常高等小学校)の校舎落成式で餅まきを行うために必要な餅米を販売したと話していましたし、この辺りで建設工事が行われたときには飯場(土木工事や鉱山の現場にある宿泊所)へ米の販売に行っていました。そのほか、一般の家庭からも米の注文が結構ありました。この辺りはお店などの農家以外の家が比較的多く、そのような家から米の注文が結構あったのです。ところが戦時中に食糧が配給制になり、自由に米を販売することができなくなりました。
 私(Aさん)の代になってからは米の販売許可を取り、積極的に米の販売を行うようになりました。また、注文先へ車で配達するようになり、毎月、川崎方面と北平方面に3回ずつ、合計6回くらいは配達に行っていたことを憶えています。配達日は、4の付く日が川崎方面、8の付く日が北平方面というように決めていました。最初のころは車を借りて配達していましたが、後に車を購入しました。賃加工した品物や販売用の米などを2tトラックの荷台一杯に積んで配達し、帰りには空になった荷台に精米・精麦されていない米や麦を山のように積んで帰っていました。それを降ろして10日間で精米・精麦し、配達に行っていたので、とても忙しかったことを憶えています。それが昭和40年(1965年)ころのことだったと思いますが、本当によくやっていたと思います。そのころは、この辺りでも農家の多くの人が農閑期には建設現場に働きに出ていて、河辺村だけでなく内子町など村外に出掛ける人もいました。そのような人たちが米や麦を私の家に置いてから建設現場に行き、仕事帰りに精米・精麦を持ち帰っていました。そのため、朝起きると私の家の軒下に米や麦が一杯積まれていたことを憶えています。当時、愛媛県経済連食糧配給課(現株式会社ひめライス)とあいしょくから玄米を仕入れて、こちらで精米したものを販売していました。玄米は最初のうちは米俵に入っていたことを憶えています。台湾産の精米を仕入れたこともあり、そのときは米ぬかに混ぜてからもう1回精米機にかけて販売していました。
河辺村では高齢者が増え若い人が少なくなったこともあり、今は米の注文も大変少なくなりました。その代わり、近ごろは蕎麦(そば)ひきの依頼が増えてきました。内子町の業者の方や、大洲市、松山(まつやま)市、久万高原(くまこうげん)町、城川(現西予(せいよ)市)の個人やグループから依頼を受けています。また、昨年(令和2年〔2020年〕)は高知の方から餅麦をついてほしいという依頼を受けました。その方は、大洲の精米所に依頼したところ、3年前(平成30年〔2018年〕)の洪水で機械が故障し、修理していないということで断られ、私の店に依頼に来たそうです。」

 イ 自動車整備工場を営む

 「私(Bさん)は昭和22年(1947年)に北平で生まれました。私の家では昔から山林を所有していたので、林業をして木材を少しずつ売ったりして現金収入を得ていたほか、自家用に農作物を作っていました。
 私は子どものころから手先が器用で、よくラジオやテレビを修理していました。オートバイにとても興味があったので、松山の愛媛自動車学校で1年間学んだ後、昭和41年(1966年)に河辺村に戻ってきました。そのとき河辺農協の元組合長さんから、自動車整備工場を始めてはどうか、と勧められ、出合で自動車整備工場を開業しました。整備工場の場所はもともと農協の牛市場があった所で、現在は河辺郵便局が建っています。そのころの農協は赤字を抱えており、少しでも財産を処分したかったのかもしれません。当時、ほとんどの農家は農耕用の牛を飼育していました。子牛を買って農作業に使いながら肥育し、ある程度大きくなったら売って副収入としていたのです。そのため、河辺村には牛市場が何か所かありました。私が自動車整備工場を開業したときは20歳くらいだったので技術は十分ではなく、街の人たちとの付き合いもありませんでした。そのころ河辺村でオートバイを所有している人はいましたが、車を所有している家は一つの集落に1軒くらいしかありませんでした。そのため、開業した当初は主にオートバイや農機具などを修理していました。昭和50年(1975年)ころから河辺村でも車が急速に普及し始めると、車の修理やガソリンスタンドの仕事が忙しくなりました。そこで、昭和57、58年(1982、83年)ころに工場を植松へ移し、規模も徐々に大きくしました。昭和50年代ころは高速道路の建設などの公共事業が多かったので、河辺村の多くの人が建設現場へ出稼ぎに行っていました。多くの人は夏場に出稼ぎに行き、冬場にはこちらへ帰ってきていました。そのころは1年くらい出稼ぎに行き、こちらへ帰ってきて3か月くらい過ごしていた人が結構いたと思います。」

 ウ 旅館に生まれて

 「私(Cさん)の家では鷹の家という旅館を経営していました(図表1-2-2の㋑参照)。これは母から聞いた話ですが、両親は戦時中に満州(まんしゅう)(現中国東北部)で知り合い、戦後こちらに帰ってきて結婚しました。昭和21年(1946年)に旅館を始め、主に母が切り盛りしていました。そのころ植松には鷹の家のほかに智葉旅館という旅館もあり、役場の忘年会や新年会を智葉旅館と鷹の家とで交互に行うようにしていました(図表1-2-2の㋒参照)。また、鷹の家では結婚式も行われていました。当時、2階の部屋は全て和室で、部屋と部屋の間の仕切りを全て取り払うと40畳の部屋になり、そこで結婚式と祝宴が行われていました。祝宴には漆塗りのお膳が使用されていて、私も配膳の手伝いをしたことを憶えています。そのころはまだ交通の便が悪かったので、各家庭を回る置き薬屋さんが何日間かこちらに宿泊していました。また、私が高校生のころまでは大洲市の味噌(みそ)店の方が月に1回はこちらに宿泊し、河辺の方に味噌や醬油(しょうゆ)を卸していました。旅館の仕事が忙しいときには、家族で一緒に食事をすることはほとんどなかったことを憶えています。
23歳のころ、この辺りで山を切り開いて農地を造成する工事が始まり、工事の関係者の方々が鷹の家に長期間宿泊していました。おそらく国営総合農地開発事業の工事だったのだと思いますが、工事現場には大きなダンプカーやブルドーザーがあったことを憶えています。そのころは姉2人と私とで旅館を切り盛りしており、工事の関係者の方々の食事も作っていました。24歳のときに母が亡くなり、それから何年も経(た)たないうちに旅館をやめたと思います。」

(2) 町のにぎわい

 ア 終戦前後から昭和30年ころの町並み

 「戦前から戦後、私(Aさん)の家の隣には農産物を取り扱う商店がありました。その隣は郵便局長の自宅で、その隣に郵便局がありました。郵便局長の自宅にはサイレンのスイッチが設置されていて、毎日午前6時、正午、午後6時には時報のサイレンを鳴らしていましたし、警戒警報や空襲警報が発令されたときにもサイレンを鳴らしていました。私が友人たちと河辺川のほとりで盆飯を炊いていたときに空襲警報のサイレンが鳴り、慌てて避難したことを憶えています。昭和26年(1951年)に河辺村ができたとき、郵便局長の自宅が役場になりました。私の隣の家には鍛冶屋さんが住んでいました。城川から植松へ移ってきた方で、自宅の向かいにあった作業場では農具を作ったり、馬の蹄鉄(ていてつ)(馬のひづめの底につける鉄製の輪で、ひづめの保護をするもの)を作ったりしていました(図表1-2-2の㋓参照)。当時はこの辺りで車を持っていた人はほとんどおらず、材木などの荷物を運ぶ馬車が多かったことを憶えています。」

 イ さまざまな店

 「植松は役場や診療所のある河辺村の中心地で、北平に住んでいた私(Bさん)は子どものころからよく買い物に来ていました。植松に来るときは国鉄バスを利用していました。当時は植松方面行きの便が1日に5、6便くらいあったと思います。自動車整備工場を開業したころ、植松にはお店が5、6軒くらいあり、鮮魚店も1軒ありました(図表1-2-2の㋔参照)。サバやアジといった食卓でおなじみの魚が並んでいて、お祭りのときには刺身も売られていたので、私も買いに行っていました。鮮魚店は植松以外の地区にも何軒かありました。また、精米所があり、注文先にトラックで米などを配達していました。そのころ、北平や川崎などにも水車を利用した精米所が何か所かあり、オート三輪で米などを配達していたお店もあったことを憶えています。また、智葉旅館と鷹の家旅館という大きな旅館が2軒あり、それぞれの旅館には常連客がいて宿泊客も結構多かったと思います。」
 「私(Aさん)は主に北川商店で買い物をしていました(図表1-2-2の㋕、写真1-2-4参照)。植松にはそのほかに何軒も商店があり、近所の雑貨店でも買い物をしていました(図表1-2-2の㋖参照)。私の家の向かいにはたばこ店があり、そのお店がやめた後は、北川商店がたばこの販売を始めました(図表1-2-2の㋗参照)。その当時はだいたいの買い物をこの辺りで済ますことができていました。そのころはお客さんが多かったこともあったのでしょうが、お店には定休日がなく、日曜日でも休んでいるお店はめったにありませんでした。」

 ウ 何でもある百貨店

 「北川商店は植松に古くからあるお店で、昔は北川百貨店という名前でした。3階建ての診療所が建設されたときに店舗を新しく建て替えました(図表1-2-2の㋘)。鍬(くわ)などの農具から始まって食料品まで幅広い商品が売られていました。肥料も扱っていたので、当時は肥料を積んだトラックがよくお店に来ていました。また、店主の方が注文を受けた農家などにトラックで配達されていたことを私(Bさん)は憶えています。昭和40年代には店の前の道路はまだ舗装されておらず、昭和40年代後半には四輪車のほかにまだオート三輪が走っていました。この辺りの道路が舗装されたのは昭和50年代に入ってからだったと思います。道幅は今とほとんど変わっていませんが、当時は道路の両側の側溝が蓋で覆われていなかったので狭く感じられました。そのころはまだ木材を運搬するトラックがかなり走っていたので、木材もお金になっていたのだと思いますが、平成に入ってからは本当にお金にならなくなりました。」

 エ 駄菓子屋さんの思い出

 「私(Cさん)が子どものころ、鍛冶屋さんのお家でおばあさんが下駄を作っていたことと、紙袋に入った昔ながらのアイスクリームを販売していたことを憶えています(図表1-2-2の㋙参照)。大野さんがされていた食堂では、ガラスケースに入ったおもちゃや駄菓子を売っていたので、私もよく行っていました(図表1-2-2の㋚参照)。梶本さんがされていた食堂ではうどんなどを出していて、大きな飴(あめ)玉や駄菓子も売っていました(図表1-2-2の㋛参照)。そのころ駄菓子屋さんでは飴玉1個が5円で、アイスクリーム1個が10円で買うことができました。駄菓子屋さんには、何かの理由でお小遣いをもらったときによく行っていて、お店でくじを引くのが楽しかったことを憶えています。お店のおじさんやおばさんは優しい方が多かったので、気軽に入ることができたように思います。当時は子どもの数が多く、植松だけで男子3人、女子4人の同級生がいましたし、年齢の近い友人もたくさんいたので、みんなで一緒に駄菓子屋さんに行っていたことを憶えています。学校の帰りにお店に寄ることはなく、家に帰りカバンを置いてから行っていました。」

 オ 人々の楽しみ

 (ア) 音楽・演劇の鑑賞

「終戦後の一時期、植松の青年たちが『せせらぎ楽団』という名前の楽団を作って興行を行っていました。せせらぎ楽団は招きを受けて惣川(現西予市)の方でも演奏会を開いていたそうです。公会堂で開かれていた演奏会には多くのお客さんが集まっていました(図表1-2-2の㋜参照)。私(Aさん)の妻も独身のころ、岩谷(旧肱川町)より上の方の集落から植松まで演奏を聴きに来ていたそうです。私も演奏を聴くのをとても楽しみにしていました。演奏会には何回も行ったことがあり、本番前の練習の日などにも演奏を聴いていたことをよく憶えています。また、終戦後は各所で青年団が演劇を行っていました。分村して間もないころ、日の平で地元の青年団の人たちが演劇を行ったときや、肱川町の青年団の人たちが、敷水へ向かう谷口の川向かいの田んぼで演劇を行ったとき、私も観(み)に行ったことがあります。」

 (イ) 映画の思い出

 「智葉旅館の前にあった公会堂で映画を上映していて、川崎では倉庫だった所で映画を上映していました。神納にも映画を上映していた場所があり、そこへも何度か行ったことを私(Aさん)は憶えています。」
 「小学校に入学する前後のころ、私(Bさん)は北平で無声映画を観たことを憶えています。2、3人の活動弁士が男性役、女性役に分かれて演じていて、100人くらいは入れる建物がぎゅうぎゅう詰めになっていたことを憶えています。昭和40年代中ごろまでは河辺村に映画館が4か所くらいあり、私もあちこちに映画を観に行っていました。また、常設の映画館ではありませんが、植松では牛市場で映画が上映されていました(図表1-2-2の㋝参照)。牛市は春によく開かれていたと思いますが、夏にはほとんど開かれなかったので、夜によく映画が上映されていました。小屋のような建物に幕を張ったりロープを張ったりして会場を設営し、観客は入場料を払っていました。そのころの観客はお年寄りが多かったので、時代劇が上映されることが多かったことを憶えています。昭和40年代後半には各家庭にテレビが普及して映画が振るわなくなり、河辺村で映画が上映される場所がなくなりました。」
 「私(Cさん)が子どものころ、植松でも2か所で映画が上映されていました。昭和40年(1965年)より少し前かもしれませんが、玉井劇場で映画を観たとき、上映が終わると周りの観客が拍手していて、私もそれに合わせて拍手したことを憶えています。また、公会堂にも映画を観に行った記憶があります。そのときの公会堂は木造の古い建物で、板に寄付者の氏名と金額を記した紙が貼られていた場所がありました。小学5年生のころ、遠足で肱川町に行き東京オリンピックの記録映画を観ましたが、そのころ植松では映画は上映されていませんでした。」

 (ウ) パチンコ店

 「昭和40年(1965年)ころ、全国的にはやっていた娯楽といえばパチンコとボーリングで、植松にもパチンコ店が2軒くらいあったと思います。そのうちの1軒は飲食店が物置を改造して開業した店で、昭和40年代くらいまではあったことを私(Bさん)は憶えています(図表1-2-2の㋞参照)。」
 「植松にはパチンコ店が何軒かあり、私(Aさん)もよく行っていたお店があります。一時期は仕出しの養老屋さんの隣でもパチンコ店をしていて、どこかのパチンコ店がやめたら別の人がパチンコ店を始めるという感じでした(図表1-2-2の㋟参照)。」

 カ 診療所

 「診療所には多くの患者さんが診察を受けに来ていたと思います(写真1-2-5参照)。診療所に入院病棟があったころには、比較的多くの入院患者さんがいました。外科のお医者さんが着任したときには手術もかなり行われていたことを私(Bさん)は憶えています。この辺りの飲食店は診療所の患者さんたちでもっていたという側面もあったと思います。」
 「診療所に着任していたのは自治医科大学出身のお医者さんが多かったと思いますが、だいたい2年から4年くらいで入れ替わっていました。昭和50年代には診療所に小児科がなかったため、私(Cさん)は子どもを診察してもらうため、大洲の小児科に車でよく通っていたことを憶えています。お医者さんの確保が難しくなり、診療所の存続が危ぶまれた時期がありましたが、河辺支所の方々が診療所を存続させるために尽力し、現在のお医者さんに着任してもらいました。診療所にはお医者さんが常駐しているので、河辺は恵まれていると思います。」

 キ 村外での買い物

 「私(Bさん)が植松へ移ってきてからも、河辺村の奥の方の集落であっても、道路沿いに何軒かお店があったことを憶えています。そのため、日常生活に必要なもののほとんどは植松の店や村内のほかの集落のお店で買いそろえることができていました。私は飲食店を経営しているため、商売柄いろいろなお店を利用していました。また、盆や正月を迎える前などにたくさん買う物があるときには、大洲や肱川町へ行って買いだめをしていました。」
 「私(Cさん)が子どものころ、鹿野川のお店まで自転車で母の日のプレゼントを買いに行ったことがありました。行きは下り坂が続くので楽だったのですが、帰りは上り坂が続き、かなりしんどかったことを憶えています。18歳のときに自動車の運転免許を取得しました。当時はこの辺りの道路は今のように舗装されていませんでしたが、昭和50年代に入ったころには舗装されていました。今は日用品で急に足りなくなったものは北川商店で買っていますが、車で大洲市内の方へ買い物に行くことが多くなっています。」

 ク 植松の移り変わり

 「昭和40年代にはこの辺りで自家用車を持っている人は少なく、道路も舗装されていませんでした。そのころ植松には養老屋という仕出し屋さんがあったほか食堂も何軒かあり、私(Cさん)は、日用品を雑貨店と北川商店で買っていました。私が中学生のころにはまだお店が何軒かありましたが、その後はだんだん寂れていったように思います。今では当時営業していたお店のほとんどが閉めています。」



写真1-2-1 精米機

写真1-2-1 精米機

令和3年7月撮影

図表1-2-2 昭和40年ころの植松の町並み(1)

図表1-2-2 昭和40年ころの植松の町並み(1)

Aさん、Bさん、Cさんからの聞き取りにより作成

写真1-2-4 北川商店

写真1-2-4 北川商店

通りの右側に見える店が北川商店 令和3年7月撮影

写真1-2-5 現在の診療所

写真1-2-5 現在の診療所

令和3年7月撮影