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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 長浜のくらし

 ア 空襲の記憶

 「戦争中、長浜は米軍のグラマン機によって銃撃されたことがありました。そのときには隣の家に機関銃の弾丸が1発撃ち込まれ、とても恐ろしくて気味が悪かったことを私(Aさん)は憶えています。現在でも長浜大橋の欄干には、機銃掃射を受けたときの弾痕が何か所も残っています(写真3-1-7参照)。この辺りも空襲の被害の恐れがあるということで、小学1、2年生のころ、数か月間ではありましたが、戒川に住んでいた叔母の家に疎開していたことがありました。」

 イ 子どものころの風景

 「肱川の下流域である長浜は、かつて木材の一大集積地でした。私(Aさん)が子どものころ、長浜には材木店や製材所も結構ありましたが、木材工業の衰退に伴い随分減ってしまいました。当時、長浜には旅館が何軒もあってにぎわっていました。宿泊客も比較的たくさんいて、『かめや』という大きな旅館には芸者さんが何人もいたことを憶えています。新富座と公永座という映画館もありました。どちらも大きな映画館でしたが、残念ながら建物は残っていません。また、子どものころは、この辺りでも旧暦10月の亥の日になると、子どもたちが集まって亥の子が行われていました。私は参加したことはありませんでしたが、子どもたちが5、6人で亥の子石を縄で持って地面を搗(つ)いていたことを憶えています。」

 ウ 遺族会での活動

 「私(Aさん)は青年団の活動にはほとんど参加しませんでしたが、遺族会の活動を昭和30年(1955年)ころからずっと継続して行っています。遺族会の活動を始めたきっかけは、母や近所に住んでいた役員の方から頼まれたことでした。組織形態としては日本遺族会の下部組織が愛媛県遺族会となっていて、その下部組織が郡市、町の遺族会となっています。活動歴は随分長くなり、現在も愛媛県遺族会の会合には監事として、定期的に出席しています。遺族会での主な活動は、会員の方々から会費を集めたり、会員の方々が年金を受給することができるように運動したり、遺族会の会合が開かれるときにお世話をしたりすることなどです。また、大臣に靖国神社への参拝を求めたり、外国の戦地巡拝や遺骨収集を進めるように求めたりする運動も行っています。」

 エ スポーツに親しむ

 「私(Aさん)は子どものころからスポーツがとても好きでした。近所の子どもたちとカッチンや独楽(こま)回し、凧揚げなどをして遊ぶこともありましたが、子ども用の柔らかいゴムボールを使って、しょっちゅう野球をして遊んでいたことを憶えています。高校を卒業して働き始めてからも、休日に旅行や食事に出掛けることはありましたが、10年くらいは野球やソフトボールに興じていました。今治の縫製会社に4年くらい勤務していたときは軟式野球をしていましたし、長浜に戻ってからも農協でソフトボールチームを結成し、県大会に出場して優勝したこともありました。
 今では仲間たちとクロッケーをするのが大きな楽しみになっています。晴海ふれあいパークにはクロッケー用のコートがあり、そこで週に2、3回は練習しています。クロッケー大会では4、5回優勝したことがあり、先日の大会でも準優勝してメダルをもらいました。最近は体の具合が悪いということで、練習を欠席する人が増えているのがとても心配です。」

(2) 出海のくらし

 ア 掛け持ちで映画を上映

 「長浜地区には映画館が2館くらいありましたが、私(Bさん)はそこまで出掛けて映画を観(み)たことはありませんでした。出海地区には映画館はありませんでしたが、映画の上映が行われていました。当時、出海地区には古い造り酒屋の大きな酒蔵が残っていて、出海地区の業者の方がそこに映写機を持ち込んで映画を上映していました。昔は1番組の映画のフィルムが何本かに分かれている場合、片方の映画館で1本上映して、終わるとすぐにもう一方の映画館に運んで上映するということがよくありました。出海地区でも同じ映画を旧保内(ほない)町の磯崎地区(現八幡浜(やわたはま)市)と掛け持ちで上映していたことがありました。こちらで1本目のフィルムの上映が終わる前に、自転車で磯崎地区へ2本目のフィルムを取りに行っていました。フィルムの到着が遅れたときには、『今、磯崎から次のフィルムを運んでいるところなので、少しお待ちください。』という説明が行われていました。また、途中でフィルムが切れることもよくあり、そのときにはフィルムをつなぎ終えるまで待たなければなりませんでした。上映されていたのはチャンバラ映画がほとんどで、洋画が上映されることはなかったと思います。私が少し大きくなったころには、小林旭の渡り鳥シリーズが上映されていたことを憶えています。」

 イ 出海神社の秋祭り

 「出海神社の秋祭りの宮出しには、かつて神輿(みこし)と、その前後に四つ太鼓、獅子舞、牛鬼、子どもの相撲ねり、鉄砲隊などがありましたが、今は子どもの相撲ねりと鉄砲隊だけになりました。当時、神輿は大人が担いでいて、私(Bさん)も担いでいた時期がありましたが、後に担ぎ手が不足してくると、台車に神輿を載せて運んだこともあったことを憶えています。宮出しを行うためには多くの人手が必要となります。昔はほとんどの家が農家だったので、曜日に関わらず10月17日に祭りを実施することができました。ところが、今はサラリーマンが増え、仕事の関係で日曜日でなければ祭りに参加できないという人が多くなったため、10月の第2日曜日に祭りを実施するようになりました。
 秋祭りの前日の夜には宵宮奉納相撲が行われ、子どもだけでなく近辺からやって来た相撲好きの方も参加していて、結構にぎやかだったと思います。宵宮奉納相撲は一時期、途絶えていましたが、出海地区愛護班の初代会長さんが復活させ、化粧回しなど相撲に必要な道具を寄付してもらい運営していました。そのときに、祭り当日の昼に行われるねり相撲口上も復活しました。行司も子どもが務め、口上は6年生が行うことになっていました。口上は、普段使われることのないような難しい言葉ばかりでした。私の息子の代くらいまでは、『これまでの人もやっていたのだから。』と言って、一生懸命口上を暗記していましたが、息子よりも下の学年くらいから、軍配に貼り付けた口上を読むようになりました。その後、出海地区の子どもが減少し、男子だけでは宵宮奉納相撲を継続することが難しくなったため女子も参加するようになりました。今はさらに子どもの数が減少し、実施することが難しくなっています。私が小学生のころは、宵宮奉納相撲以外にもさまざまな相撲大会が行われていました。当時は娯楽の乏しかった時代で、相撲大会が大きな楽しみの一つでした。小学生のときには、校庭に設けられた土俵で校内相撲大会が行われたり、お盆のころには戦没者の慰霊碑前の広場で相撲大会が行われたりしていたことを憶えています。」

 ウ 小中学校合同の運動会

 「私(Bさん)が出海小学校に通学していたころは木造の校舎でした。私たちの学年は全学年で最も児童数が多く、43人くらいいました。各学年1クラスでしたが、43人が入るには教室が手狭でした。そこで、教室と教室の間の仕切りを取り除き、二つの教室を一つの教室として使用していたことを憶えています。同級生の半数くらいは中学校を卒業後、集団就職で出海地区を離れ、そのほとんどの人が大阪の方で就職し、東京の方で就職したという人はあまりいませんでした。
 当時は、秋祭りの翌日に出海小学校と出海中学校が合同で運動会を行っていました。小中学校全体の児童・生徒数は、最も多いときで300人くらいだったと思います。秋祭りのときには、隣村などから来る親戚のために御馳走(ごちそう)を作っていたため、翌日の運動会には、どの家庭でもその御馳走の余りをお弁当として持ってきていました。また、そのころには体育館はありませんでしたが、木造の講堂があり、運動会や学芸会などの催し物のときには、保護者のほかに近所のお年寄りなど多くの人たちが講堂に集まっていたことを憶えています。」

 エ 消防団での活動

 「私(Bさん)は20歳のころに消防団に入団し、51、52歳くらいで退団しました。消防団に入団したきっかけは出海小中学校で行われた運動会だったと思います。運動会には地区の大人たちも参加していて、出海郵便局や選果場、漁業組合、消防団などがチームを組んで参加していました。そのとき私は消防団に入団してはいませんでしたが、消防団の方から頼まれて、消防団チームの一員として参加し、それ以降、私は消防団に加わることになったと思います。そのため、一般的には消防団への入団時期は4月なのですが、私は例外的に10月に入団したのだと思います。長年にわたり消防団で活動していた間には、火災以外にもさまざまな災害がありました。その中でも、平成元年(1989年)9月に出海地区が水害に見舞われたときのことが強く印象に残っています。集中豪雨により出海川が氾濫して洪水を引き起こし、出海川の近辺にあった住宅が床上浸水の被害を受けました。そのとき、私は自分の家のことは後回しにして、1週間くらい床上浸水した家の畳を外へ出したり、ゴミを片付けたりといった作業に追われていたことを憶えています。」


引用参考文献
① 長浜町『長浜町誌』1975
参考文献
・ 村上節太郎『柑橘栽培地域の研究』1967
・ 長浜町『長浜町誌』1975
・ 愛媛県青果農業協同組合連合会『愛媛青果連50年史』1998
・ 長浜町『長浜町誌 続編』2004
・ 長浜町『ながはま風土記 第4巻 出海地区』2005

写真3-1-7 長浜大橋

写真3-1-7 長浜大橋

令和2年9月撮影