データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 白滝のにぎわい

 「昭和30年(1955年)に長浜町、喜多灘村、櫛生村、出海村、大和村、白滝村の6か町村が合併して、今の長浜町ができました。そのころは人口が23,000人くらいいましたが、今は7,200人くらいになり、3分の1くらいまで減りました。大洲市との合併が平成17年(2005年)でしたが、合併後の大洲市の人口は52,000人くらいでした。それが今は42,000人くらいで、10,000人ほど減ってしまいました。そのくらい若い人の働く場がないということだろうと思います。
 しかし、合併して長浜町ができたころは、白滝は愛媛八勝十二景の一つとして観光客も多く、急行列車も白滝駅に臨時停車して駅前はかなりのにぎわいでした。その当時、白滝には食堂が8軒あり、そのほかの店も18軒くらいはあったことを私(Bさん)は憶えています。理容店も4軒はあり、非常ににぎわっていました。」

(2) 商店が立ち並ぶ町並み

 ア 駅前の広場の様子

 「現在では空き地になっていますが、駅前には西上百貨店という大きな店がありました(図表1-2-2の㋐参照)。そこにみんなが買い物に来ていました。百貨店といっても、雑貨店やよろず屋さんのような店で、衣料品から何もかもがそろっていました。その隣には以前はパチンコ店がありましたが、昭和40年(1965年)ころ、鮮魚店と寿司店に替わったことを憶えています。
 私(Bさん)が小学生のころは、駅前では呼び込みが盛んだったことを憶えています。白滝駅に列車が到着すると、駅前に立っていた女性の方が声を張り上げて、お客さんを呼び込んでいました。呼び子さんを置いていたのは、駅前で商売をしていた土産物を扱っている店でした。ほかにも西上百貨店などのような店が人を雇って、白滝駅へ降りたお客さんに対して呼び込みをしていました。『お土産を買っていきませんか。』と言って、店が客の引っ張り合いをしていたことをよく憶えています。」
 「駅前には有名な火伏地蔵があります(図表1-2-2の㋑参照)。私(Aさん)の祖母から聞いた話では、江戸時代に白滝で大火事が起きたそうなのですが、その60年後にまた大火事になって、この場所で火が止まったので、火伏地蔵ができたということです。江戸時代の2回の大火事では、町がすっかり焼けてしまったと聞きました。昔の家の屋根は、瓦葺(ぶ)きではなく茅(かや)葺きだったので、風が強い日にはそのような大火事になったのではないかと思います。その後、江戸時代末期に山伏か僧侶にその話をしたところ、北東の方向にお宮を建ててお祭りするように言われ、天保時代にお宮を建ててお祭りすることにしたそうです。
 昭和45年(1970年)ころにも、家の近くで大火事が起きて弱りました。昔は家の壁が非常に厚かったので、延焼せずに助かりました。この辺りで家の壁が厚いのも、昔から火事に悩まされていたからではないかと思います。」

 イ 駅から北西の町並み

 「白滝で最初の学校が設置された場所が西滝寺だったという話を私(Bさん)は聞いたことがあります。西滝寺は曹洞宗のお寺ですが、明治6年(1873年)にお寺の境内に文滝尋常小学校が設置され、最初は生徒が50人だったそうです。
 駅から北西の方に行くと、青果店や精肉店がありました。崎岡うどん店では現在もうどんの製麺を行っていますが、65年くらい続いているのではないかと思います(図表1-2-2の㋒参照)。
 今はありませんが、籠屋さんもこの辺りにあり、竹で編んだ籠を作って売っていました。丸籠やウナギを獲(と)るためのじんどうなどを作っていた記憶があります。今も現役なのが衣料品店と化粧品店です。今は記念館になっている一宮工務店の本店の前には、ブリキ屋さんがありました。家のといや、壁に貼るブリキを扱う仕事をしていました。以前はこの辺りに派出所もありましたが、新しい県道ができると県道の方に移転しました。現在では長浜の方に集約されましたが、当時は警察官が派出所に駐在していました(図表1-2-2の㋓参照)。派出所が移転した後には、食堂ができました。派出所の前には呉服店があり、その北には製糸工場がありました。白滝製糸のような大きな工場ではありませんでしたが、近所の方が5、6人勤めていたことを憶えています。
 現在では空き地になっている場所には、花屋という飲食店がありました(図表1-2-2の㋔参照)。2階建ての居酒屋で、かなり繁盛していました。白滝の中心部は戒川や柴の人たちも集まりやすい所だったので、その辺りの人たちもやって来て、店はいつもお客さんでいっぱいだったことを憶えています。料理も安くて美味(おい)しかったので、自然とここへみんなが集まっていました。花屋の前には飲食店があり、花屋で飲んだ後はそこでよく2次会が行われていて、私もよく行っていたことを憶えています。
 昭和40年(1965年)ころに農協があった場所には、私が小学生や中学生のころには映画館がありました(図表1-2-2の㋕参照)。経営者の方が炭の商売をしていたそうで、中には炭がたくさん置かれていて炭小屋のようでした。その中に舞台のようなものがあり、そこで映画を上映していました。当時の映画は無声映画で、活弁士がいたことを憶えています。嵐勘十郎や片岡千恵蔵のチャンバラ映画がよく上映されていました。私は子どもだったので、こっそり裏から映画館に入り、無料で観(み)せてもらっていたことを思い出します。当時は娯楽があまりない時代だったので、映画を観ることが楽しみでした。中学生のころにもよく観に行っていましたが、そのころになると活弁士はいなかったことを憶えています。」
 「私(Aさん)は戦後、中学生のころには八多喜の映画館へよく行っていました。そこでは映画の上映や芝居が行われていたことを憶えています。
 私が子どものころには、村役場は崎岡さんの所にありました(図表1-2-2の㋒参照)。昭和41年(1966年)に白滝診療所が開設されましたが、その場所に昭和30年(1955年)に合併する前の白滝村役場があり、私たちはそこで成人式を行ったことを憶えています(図表1-2-2の㋖参照)。役場の裏には農協の精米所があり、そこから上に登った場所に避病舎がありました。」

 ウ 駅から南東の町並み

 「駅から滝の方へ向かっていくと、大田本家があります(図表1-2-2の㋗参照)。その店では古くからもみじ饅頭(まんじゅう)を売っていて、現在も営業しています。以前は土産物店も営んでいました。別宮商店ではお酒と家電を販売しています(図表1-2-2の㋘参照)。昭和30年代の終わりころからここで商売をしていたと思います。駅から滝へと向かう道には多くの店があったことを私(Bさん)は憶えています。」
 「昔、他所(よそ)から白滝に移って酒店を始めた兄弟がいて、それぞれの店は上酒屋(うえざかや)と下酒屋(したざかや)と呼ばれていました。戦前のことになりますが、白滝に製糸会社があったころ、下酒屋では呉服を売っていました。その後、たばこなどを売るようになりましたが、昭和30年(1955年)ころには雑貨店になっていたのではないかと私(Aさん)は思います(図表1-2-2の㋙参照)。
 昭和40年(1965年)ころには、上酒屋はガソリンスタンドを経営していて、新しい県道ができてからしばらくして県道の方に移りました(図表1-2-2の㋚参照)。ガソリンスタンドをする前は、キャンディーの製造・販売を行っていたように思います。」
 「私(Bさん)は中学1年生のころに上酒屋でアルバイトをしたことを憶えています。1円や3円のキャンディーを売って、駄賃をもらっていました。キャンディーの製造をそこで行っていました。ガソリンスタンドの前の店ではたんすを作っていましたが、もみじ饅頭も作っていました。とても美味しくて、よく買いに行ったことを憶えています。その辺りには藤田屋さんといずみやさんという大きな旅館もありました(図表1-2-2の㋛参照)。道からの奥行きがかなりあり、2階にも多くの部屋がありました。急行列車から降りてきた多くの人たちが2軒の旅館に入り、三味線と太鼓の音が外まで聞こえるような宴会を行っていて、大変にぎわっていたことを憶えています。
 現在、一宮工務店がある場所の近くには雑貨店がありました(図表1-2-2の㋜、㋝参照)。たばこの販売が中心でしたが、駄菓子もたくさん売っていました。家から近かったので、子どものころにお小遣いをもらうと、買いに行っていたことを憶えています。」
 「駅の近くに一宮工務店の前身の製材所がありました。私(Aさん)が中学生のころには、現在の一宮工務店記念館の場所で衣料品店をしていたことも憶えています。昭和30年(1955年)ころだったと思いますが、一宮工務店は現在の場所に移ってきました(図表1-2-2の㋞参照)。戦前の話になりますが、その場所には大きな製糸工場(白滝製糸)があり、白滝公園の管理もその会社が行っていたそうです。」

 エ 滝川沿いの町並み

 「白滝からの川を滝川と言いますが、滝川を旧道が渡る場所に永平橋という橋が架かっています。かつてはその辺りが町の中心で、郵便局があり、米穀店が何軒もあったので、白滝で米を買うときにはその辺りで買っていたことを私(Bさん)は憶えています。また、有名な豆腐店もありました(図表1-2-2の㋟参照)。永平橋のほかにも立派な橋が何本も架かっていましたが、洪水で流されてしまい、現在は残っていません。白滝公民館が昭和42年(1967年)にできる前には、その場所に鮫島診療所があり、その近くには歯科医院もありました(図表1-2-2の㋠参照)。現在は診療所や医院がなくなり、石材店(石屋)は2軒あります。昔から隣の八多喜には医院がたくさんあるのに、白滝はイシャ(医院)がなくイシヤ(石屋)だけ栄えるとやゆされています。
 白滝で最初にテレビが入ったのは佐野理容店ではないかと思います(図表1-2-2の㋡参照)。その理容店が白滝で初めて白黒テレビを買ったので、みんなが散髪に来るようになりました。東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕開催)の前くらいだったので、昭和38年(1963年)ころだったと思います。」
 「私(Aさん)が大学を卒業して東京に行った昭和30年(1955年)ころ、喫茶店や食堂にテレビが設置されていて、よく見に行っていたことを憶えています。こちらに戻ってきてから、昭和38年(1963年)だったと思いますが、私の家でもテレビを買いました。当時はプロレスや相撲が人気だったので、夕方になると近所の人がよくテレビを見に来ていたことを憶えています。家庭用アンテナでは南海放送が映らなかったので、山の上にアンテナを立てて視聴していました。」

図表1-2-2 昭和40年ころの白滝中心部の町並み(1)

図表1-2-2 昭和40年ころの白滝中心部の町並み(1)

Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成  ※ 民家は表示していない

図表1-2-2 昭和40年ころの白滝中心部の町並み(2)

図表1-2-2 昭和40年ころの白滝中心部の町並み(2)

Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成  ※ 民家は表示していない