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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)生木道②

 ウ 生木地蔵より中山川へ

 遍路道は生木地蔵から横峰寺をめざし、四尾山の西麓を進む。境内の南通路に「横峯寺へ三里」の道標(67)がある。山すそに沿って南東に進むと中山川まで延びる道に至る。昔は田んぼの中のあぜ道のようであったが、今は舗装された広い道を約90m進むと、南からくる江戸時代の「松山道」(中山道ともいう)に出合う。この松山道は桧皮(ひわだ)峠を越えて石経(いしきょう)(丹原町)、今井、願連寺を経て壬生川(にゅうがわ)港(東予市)へ至る道であり、松山領の道前地方の物産を積み出すための道でもあった<28>。この四つ角右手に、地蔵の台座の道標(68)がある。さらに遍路道を240mほど南東に進むと四つ角に至る。左折すると丹原町辻堂へ至る道である。この四つ角の南西の角に舟形地蔵(写真3-2-19)が立っている。この舟形地蔵にまつわる次のような話が伝わっている。それは、文化年間(1804年~1818年)のころ一人の女遍路が見事な稲穂を国に持って帰ろうとしてある百姓に打ち据えられたため死亡した。その後、女遍路を打ち据えたその百姓の家運は衰えてしまった。そこで祈禱(きとう)してみると、その女遍路の崇(たた)りであることが分かり供養のために建てたものであるという<29>。
 舟型地蔵から南東に240m行くと、左手に「沙界霊」と刻字された台石の上に首をセメントで接いだ地蔵があり、さらに180m南東に進むと道の右側に、角柱の道標(69)と丸い自然石の道標(70)がある。そこから約250m南東に進むと、左側に「野中の大師」(写真3-2-20)と呼ばれている接待所跡がある。『丹原町の文化財』には、「石に刻まれた地蔵菩薩と、弘法大師座像の石仏及び2基の回国供養塔がある。このあたりは往時は広々とした田野(でんや)で、弘法大師の石仏も風雨にさらされていたので、『野中の大師』と名付けられ、茶堂場として、また接待所として親しまれていたと思われる。<30>」と記されている。ここにも自然石の道標(71)がある。**さん(昭和4年生まれ)の話によると、この道標は平成元年の遍路道改修に際してここへ移動させられたもので、以前はここから北西約150mの四つ角にあったという。
 遍路道はここから中山川に向かって進み四つ角で左折し、**邸(田野上方947)の前で二手に分岐したうちの右の細道を進む。さらに現在は工場群の敷地となっている所を斜めに横切り、中山川に架かる石鎚橋のやや上手に出ていたようである。

写真3-2-19 女遍路供養のための舟形地蔵

写真3-2-19 女遍路供養のための舟形地蔵

丹原町北田野。平成13年5月撮影

写真3-2-20 野中の大師

写真3-2-20 野中の大師

丹原町田野上方の接待所跡。平成13年5月撮影