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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)下畑野川から岩屋寺へ

 ア 下野川から岩屋寺への道

 下畑野川河合は、四国遍路道の中でもいくつかある打戻りの地の一つである。『四国遍礼名所図会』には、「畑の川村、此所二荷物預ケ岩屋寺へ行是より六十丁也。住吉社村の半に左手二有リ、是より四拾丁行石ノ地蔵尊左ハ下向道右ハ上向道、廿丁余坂山道なり。<28>」とある。下畑野川河合の遍路宿「かどや旅館」の前は三差路になっている。この三差路は、大宝寺から進んできて岩屋寺へ向かう道と、岩屋寺から打ち戻り浄瑠璃寺へ向かう道との分岐点(写真2-1-14)である。ここには道標4基が集積されているが、道標(55)は丁数からみて峠御堂近くからの移設と考えられる。道標(56)は手印で岩屋寺を指示している。道標(57)・(58)は、岩屋寺と浄瑠璃寺への道筋と距離を示しており、一際大きい道標(57)には「うちもどり」の文字が刻まれている。この河合で荷物を預け岩屋寺へと向かう。少し進むと左手に大師堂があり、さらに進むと道端に岩屋寺までの距離「六十五丁」と「五十九丁」を示した丁石2基が並んで立っている。「六十五丁」の丁石は道路工事のため峠御堂付近から移設されたものらしい。さらに50mほど進むと三差路に道標(59)がある。そこで左折し住吉神社の木立ちを左にして進むと県道久万西条線(12号)に出る。遍路道は、ここで右折して県道12号を東に進み、住吉橋を渡り、立石橋を渡ると、橋の東詰左側に嘉永6年(1853)建立の大きな道標(60)と手印の道標(61)とが2基並んで立っている。しばらく進んで県道を左折し、湾曲した道を100mほど進むと、再び県道と合流する。その手前に薬師堂があり、その横に「五十八丁」の舟形石仏丁石がある。この後遍路道は、県道を横切り県道の右側を流れる小川を渡って、田畑のなかの山道に入り、途中の狩場の道筋にある「五十三丁」「四十六丁」「四十丁」などの石仏丁石を過ぎて、だらだらとした坂を4kmほど進むと、八丁坂の入り口に至る。ここから、右へ向かうと八丁坂を越えて岩屋寺への道、左へ下ると古岩屋を経て岩屋寺への道となる。
 真念は「左右に道有、右よし。<29>」とし、澄禅も右道を行き<30>、『四国遍礼名所図会』も右が上向道とし、また茂兵衛も右の八丁坂越えの道を進んでいる<31>。一方、大宝寺の僧賢明や松浦武四郎は左道の古岩屋を経由している<32>。四國道人は大正12年(1923年)の案内記に、道の難易から考えて、行きは左の道を進み、帰りは右の道に出るのがよいと記している<33>。
 右に行く道は、杉林の中の曲がりくねった坂道、この700mほどは正に胸突き八丁の急勾配の上り道である。少し上ると右に「廿七丁」の舟形石仏丁石と遍路墓、さらに進むと安永2年(1773年)の遍路墓がある。しばらく丁石もなく、やがて下が苔(こけ)むした道標(62)、そして「廿五丁」の丁石と続き、「廿四丁」の丁石を過ぎてしばらく上ると八丁坂の頂上に達する。この頂上には昔は「八丁坂の茶店」があったという。ここが前述した槇谷から上ってきた打戻りなしの遍路道との合流点でもある。ここに「(梵字)南無遍照金剛」と刻まれ、延享5年(1748年)に建立された地上3mほどの石碑と道標(63)、それに舟形石仏の「廿二丁」「従是岩屋迄十九丁」「いわやへ十九丁」の3基が並んで立っている。道標(63)の手印は、指の向きが下り坂(大宝寺への道)は下向き、岩屋寺へは水平になっているが、これからの岩屋寺までの道もなだらかなものでなく、急坂もあり、下ったり上ったりの道である。ただ、全体には山の尾根を歩く道筋(写真2-1-15)である。
 八丁坂の頂上から少し行くと、『予陽郡郷俚諺集』に「岩屋山に七霊鳥あり、仏法僧、慈悲鳥、鈴鳥、三光鳥、のしこふ鳥、かつぽう鳥、杜鵑也、是に依て七鳥村と号く。<34>」と記された七鳥村(現美川村七鳥)に入る。この間、順不同になっているものも多いが、舟形石仏丁石が道筋に立ち並んでいて昔ながらの遍路道の姿を色濃く残している。この道筋を真念は、「坂、山、道すがらおがミしよおおし。<35>」と記している。また、澄禅は、「折節暮秋之頃ナレハ、江葉落重テ錦ヲ布キタル様ナル峰ヲ往テ<36>」と尾根道の様子を表現している。
 ちなみに梅村武氏の調査によると、八丁坂から「五丁」の丁石までの間には、「○○丁」と刻まれた舟形石仏丁石で、座像のもの12基、立像のもの5基、また立像の横に「従是岩屋迄○○丁」と刻まれたもの6基、座像の下に「是より岩屋山○丁」、立像の両脇に「いわやへ ○○丁」など合わせて20基を越える丁石が立ち並んでいるとある<37>。「五丁」を過ぎた辺りからは険しい岩場の逼割(せりわり)行場があり、坂は急な下りになるが、石仏や老杉(ろうさん)の間を縫うようにして下ると仁王門の手前で最後の舟形石仏丁石があり、赤い腹掛けの下に「一丁」の刻字が隠れている。
 仁王門をくぐると四十五番岩屋寺に至る。手前に大師堂、次に本堂、仙人堂が岩に守られるように並んで建っている。寺の左右にある礫岩(れきがん)峰は、右が金剛界峰、左が胎蔵界峰と呼ばれている。『一遍聖絵』には、三坂峠麓の窪寺で3年の修行を終えた一遍上人が、「文永十年癸酉七月に予州浮穴郡に菅生の岩屋という(ふ)ころに参籠し給(ふ)、」とあって修行の様子や女人仙人譚と空海練行の古跡とが記されている<38>。僧坊を押し潰(つぶ)すかのようにせり出した岩塊や周囲に屹立(きつりつ)したいくつもの奇岩が目を奪う。岩窟の中には弘法大師が掘り出したという独鈷(こ)の水が湧出(ゆうしゅつ)している。逼割(せりわり)行場については、『愛媛面影』に「此(の)辺すべて断巌絶壁にて、風景たぐひなし。巌と巌との間わずかに人身を通すべき処あり。俗に迫割(せりわり)と名づく。鏁(くさり)を攀(よぢ)て升る処あり、此を鏁の禅定と言(ふ)。二十一級の階子を升りて白山権現社に至る。此所は危険(あやう)し。此より東を望めば阿波・讃岐の海見ゆ、又西を望めば宇和島・九州の境まで見渡さる。(中略)此国第一の奇観といふべきなり。<39>」と記している。

 イ 岩屋寺から下畑野川への道

 岩屋寺からの道は、今来た八丁坂の道を引き返すか、寺から坂道を下って直瀬川沿いをさかのぼり古岩屋へ出て、そこから八丁坂の入り口に向かうかである。真念は、「これよりじやうるりじへ八里。但岩屋より下向には下道を行。ふもとに家里ひとつ、橋、又橋ひとつすぎて古岩屋、先亡回向する所也。<40>」とあり、また『四国遍礼名所図会』には、「竹谷村、毘離耶窟流霞橋の手前少し行有リ、流霞橋。是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居(ずへ)有り、洗月泉、石仏大師、是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰にて一宿。<41>」と下道の戻り道を記す。
 岩屋寺(標高約650m)からは標高差約200mほどの急坂を直瀬川に向かって下る。途中には苔(こけ)むした多くの遍路墓が目に付く。また、この急坂の道には現在総延長約400mほどの手摺(す)りが取り付けられている。遍路道は下りきった所で目の前の直瀬川を渡らずに左折して川の右岸を北進し、2kmほど行き古岩屋の手前で県道12号と合流し古岩屋に至る。
 岩屋寺と古岩屋一帯は、久万層群二名層の礫岩が侵食されて形成された岩峰からなり、古来久万山第一の奇勝として知られてきた。また、この一帯は、このような変化に富んだ岩峰に加えて、植物景観も変化に富んでいる。また野鳥も多い。このように地形・地質ならびに動植物景観に富むこの地は、昭和19年(1944年)国指定の名勝地に、同39年(1964年)には四国カルスト県立自然公園に指定され、全域がその特別地域となっている<42>。
 この古岩屋の県道12号の道端に杖立(つえたて)堂があり、その堂の左横にある「四十七丁」の丁石が河合までの距離を示している。ここから遍路道は、県道から左にそれて谷川沿いに1kmほど上っていく。途中、大師堂・不動堂、また逼割などがある。やがて八丁坂の入り口に達し、下畑野川にはもと来た道を引き返していく。

写真2-1-14 打戻り河合の分岐点

写真2-1-14 打戻り河合の分岐点

右が岩屋寺、左が浄瑠璃寺への道。平成13年6月撮影

写真2-1-15 八丁坂から岩屋寺に向かう尾根道

写真2-1-15 八丁坂から岩屋寺に向かう尾根道

平成13年4月撮影