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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)鳥坂番所跡から十夜ヶ橋へ②

 『四国邊路道指南』に「大ず城下、諸事調物よき所なり。町はずれに大川有、舟わたし。<48>」と記されている肱川渡しは、明治以後、城下(しろした)渡し、桝形渡し、油屋下渡し、柚木下渡しの公認の四渡しがあった。それぞれの渡しには、一隻の船と一人の船頭がいて、大洲町と中村側、大洲町と柚木村(菅田(すげた)方面の人の通路)を往来する人々を渡していた。船が向こう岸で客待ちしている時は、こちらへ客を運んで来るまで川べりで待たねばならなかったので、急ぐ人の中には裸になって浅瀬を渡る者もいたという<49>。
 その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々の中には、明治6年(1873年)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた<50>。
 しかし、大正2年(1913年)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。そのため中町三丁目から中町二丁目を通って国道56号に合流する中町一丁目の入ロに、大正4年建立の「すがわさんへ十三里 へんろ道」と刻んだ道標があったとされるが<51>、現在は行方不明になっている。
 大洲は藩政時代には加藤氏6万石の城下町として栄えていた。文化2年(1805年)に土佐朝倉村の兼太郎が記した『四国中道筋日記』によると、「いろいろ売物有、宿屋・はたご(旅籠)・きちん(木賃宿)、三つニて多し<52>」とある。また、明治40年(1907年)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で、「此町(このまち)、肱川(ひぢかは)に臨(のぞ)みて、小繁華(せうはんくわ)の土地(とち)なり。(中略)雨合羽(あまがっぱ)の名所(めいしょ)ときヽて、鹽屋町(しほやまち)に求(もと)む。(中略)上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたず)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かっぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まへ)の北岡屋(きたおかや)と云(い)う宿屋(やどや)に陣取(じんど)る。<53>」と記している。遍路はここ大洲で諸物資を調達したり、宿泊していた模様である。
 遍路も歩いた大洲街道は、肱川を渡ることから始まる。油屋の対岸には船着き場があり、上陸地点には「渡場」という地名が残っている。
 遍路道はこの「渡場」から弁財天の横を進み、すぐに国道と交差するが、国道を横断すると殿町(とのまち)、常盤町(ときわまち)の町並みを通って県道大洲長浜線(24号)を直進し、やがて古い町並の残る若宮に入る。そののち若宮を抜けると、国道に合流してやがて大洲市徳森に入り、十夜ヶ橋(とよがはし)に至る。ここには次の札所四十四番大宝寺(菅生山)までの里程を示す徳右衛門道標㊼が立っている。
 『四国遍礼名所図会』には、当時の十夜ヶ橋の面影を伝えている絵図が掲載されており、「十夜の橋大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下二て休足遊ばしし時、甚だ御苦身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云、大師堂橋の側にあり<54>」と弘法大師にまつわる伝承を紹介している。
 十夜ヶ橋の由来については、一般的には、弘法大師にとって一夜の野宿が十夜にも思うほどであったということから起こったと伝えられているが、十夜ヶ橋は実は都谷橋(とやはし)であったのが、弘法大師の伝説と結びついて十夜ヶ橋の文字を当てるようになったという説もある<55>。