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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)仏木寺から歯長峠へ

 遍路道は、仏木寺を出ると、県道31号を横切って県道西谷吉田線(279号)を進み、三間川に架かる西谷橋を渡って右折する。この橋のたもとには、かつて、前述の仏木寺の山門脇に立つ茂兵衛道標⑯があった。ここから三間川の東岸の道を川に沿ってさかのぼり、歯長橋の手前で左折して車居池の右を通り300mほど行くと、歯長峠への山道入口に至り、そこに道標⑰がある。
 山道は、やや急な坂道であるが、途中に新しく敷かれた石畳の箇所もあり、全般的に歩きやすい道となっている。山道の中ほどに立つ道標⑱を過ぎると、急勾配を取りながら大きく迂回して上ってくる県道31号に合流する。ここから県道を少し進むと、右側の一段高い所に「四国のみち」の休憩所がある。歯長峠に通じるかつての遍路道はそこから山中に入る。道は、「これより200m急坂」の表示を通り過ぎて、鎖の手摺(すり)が取り付けられた難所にさしかかる。そこを登りきると緩やかな尾根道となり、やがて標高500mほどの歯長峠に出る。
 歯長峠は、三間町と吉田町と宇和町の境界に位置する。そこには見送大師を安置する「送迎庵見送大師」と呼ばれる大師堂(写真1-2-5)が建立されている。大師堂は、吉田町大河内の町有林(旧立間村有林)の中にあり、古くは辻堂として峠を行き交う遍路や馬子(まご)たちの信仰を集めていたという<18>。地元の人の話によると、この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていた。しかし、昭和39年(1964年)に遍路の失火によって焼失し、昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。現在はブロック造りの簡易なお堂となっている。
 この大師堂では、吉田町大河内の人たちが、昔は毎年3月の縁日に餅(もち)やミカンなどを持ち寄って接待をしていたが、現在では、大河内地区の年中行事として、仏木寺の縁日に、供物を持ち寄って大師堂に集まり、家内安全と豊作を祈願し、その後は仏木寺に参詣して帰ることにしているという。
 歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。その時の「峠の茶屋」にかかわる思い出を、「峠に着いたのは昼ころで、すでに幾人もが休憩していた。茶屋には駄菓子、ラムネ、草履(ぞうり)などが売られ、赤ケットを敷いた涼み台も置かれていた。時鳥(ほととぎす)やうぐいすの鳴き声、白装車の四国遍路が鈴を鳴らして、次々と峠を越えて行った姿が印象に残っている。<19>」と記している。

写真1-2-5 歯長峠と大師堂

写真1-2-5 歯長峠と大師堂

平成13年6月撮影