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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)龍光院から龍光寺へ

 龍光院の西参道から四十一番龍光寺(旧稲荷社)へ向かう。龍光院の石段を下りた所には、中務茂兵衛の道標①があり、手印は和霊社と稲荷社の方向を示している。
 手印が示す和霊社(和霊神社)は、江戸時代以降、霊験あらたかな和霊信仰の神社として多くの参詣者を集めている。この神社には、寄り道する遍路も多かったようで、江戸時代の『四国遍礼名所図会』の図絵でもその繁栄ぶりをうかがうことができる<1>。
 龍光寺への遍路道は、道標①に従って石段下から右に山麓の道を進む。少し行くと、天神町にある宇和島地方合同庁舎付近に至るが、この辺りから道は左折してJR予讃線の踏切を渡り、和霊中町で国道320号に合流する。そこから国道を少し進むと、和霊中町2丁目と3丁目の接した地に三差路があり、そこに稲荷社と等妙寺の方向を示す道標②が立っている。さらにこの三差路を左折すると、道はすぐに須賀川(すかがわ)に架かる道連橋に達し、この橋のたもとに稲荷社への里程を示す武田徳右衛門の道標③がある。和霊神社を参拝した遍路も、おそらく須賀川沿いの道を歩いて道連橋を渡り、ここで合流したものと考えられる。
 そののち、遍路道は道標③から須賀川の左岸を上流に向かって進み、右手に地蔵堂、さらに行くとエノキやクヌギの大木がある所にさしかかる。この辺りから土手道を離れて右にそれ、八幡橋の近くに出るのが昔の遍路道であったと地元の人はいう。しかし、この道は、住宅地となっていて通行不能である。今は土手道を直進して八幡橋に出る。
 一方、道標②から国道320号を100mほど進むと、三間町・日吉村へ通じる市道と広見町・松野町に通じる国道の分岐点に至る。その分岐点の電話ボックス横には明治16年(1883年)建立の道標④があり、「右等妙寺、左遍路道」と表示している。昭和53年(1978年)に調査した村上節太郎の『四国遍路の道標』によると、もう一つこの辺りには明治36年(1903年)建立の「左遍路道 是よりいなり八幡村 奈良等妙寺」なる道標が立っていたが、和霊小学校の校庭に移されている<2>と記載されている。しかし、現在は行方不明になっている。
 道標②と道標④に記されている等妙寺とは、北宇和郡広見町芝にある奈良山等妙寺のことである。幾つかの道標に刻字があることから、この寺への参詣者が多かったことがうかがえる。
 江戸末期に日本中を旅した松浦武四郎は、『四國遍路道中雑誌』で、「下村此邊りより右の山二奈良山是心院等妙寺と云寺有。本尊は如意輪かんおん。後醍醐帝の勅願所也。日本四ヶ所之戒壇也。昔は此上に有しが炎上し、後山の下に再建有しとかや。是より直二いなり二行ニも又よろし<3>。下村を越而」と記しており、等妙寺に詣でてから稲荷社に行く遍路もいたようである。
 道標は、道標③では須賀川沿いの道を遍路道とし、道標④では分岐点から左折する道を遍路道としているが、道の新旧は正確に判別しえないものの、おそらく道標の建立年代から道標③の道の方が古い遍路道であろう。
 道標④から左折する遍路道は、やがて道標③で示す遍路道と八幡橋のあたりで合流する。そこから道は伊吹町に入る。JR北宇和島駅前を経て進むと、やがてバス停根無川下に達し、そこを右折して予讃線より分岐するJR予土線の踏切を渡り、丸山橋を渡ると県道広見三間宇和島線(57号)、かつての吉野街道に出る。
 その途中にある伊吹町の八幡神社もまた、多くの遍路が立ち寄った神社であった。澄禅も『四国遍路日記』で、「十五日、宿ヲ出テ戌亥ノ方へ往、八幡宮二詣フデ、夫ヨリ猶戌亥ノ方エ往テ坂ヲ越テ稲荷ノ社二至ル<4>」と記している。『宇和旧記』によると「開基の時代不知といへども、宮前のびやくしんの大木を見れば、四五百年には、はやくなるべし<5>」とあり、遍路も八幡神社の大木を仰ぎ見たことであろう。このイブキは、今も健在で国の天然記念物として指定されている。
 こののち遍路道は、光満川の流れに沿うように走る県道57号を進む。現在のバス停、根無川下・鳥越・梅林口を経て、光満川に架かる中組橋の手前で県道を外れて左に残る旧道を行き、再び県道に合流する地点に達すると、左側の一段高い場所に大師堂(写真1-2-1)があり、その手前に稲荷社までの距離を示す徳右衛門道標⑤が木立ちに隠れるように立っている。
 この大師堂は、「清水大師」と呼ばれている。『四国遍礼名所図会』には、「清水大師堂右手に有り、庵 清水大師の傍二あり<6>」と記載されている。大師伝説の伝わるこのお堂は幾度か建立場所を変えているようである。
 地元の人の話によると、大正3年(1914年)に宇和島から広見町近永間に現JR予土線の前身である軽便鉄道が開業する以前には、かつての吉野街道は、現在の鉄道軌道よりさらに山寄りを通っていたという。その街道沿いに、現在簡易水道の水源地となっている湧水地(ゆうすいち)があり、その側には大師堂があったという。地元では、今までにいかなる干ばつでも水が枯れたことがないこの清水を、「大師水」と呼んで大切に保守しており、毎年8月7日には「水祭り」を行っている。
 道標⑤から県道をしばらく進むと、やがて光満の新屋敷に至る。そのバス停近くの三差路には、茂兵衛道標⑥が立っている。この後も遍路道は県道57号を行くが、三間町馬根を過ぎるころから緩やかな坂道となり、やがて窓峠(まどのとう)にさしかかる。
 この峠には、『四国遍礼名所図会』に、(山路ゆく、窓峠坂、庵 峠二有リ、大師を安置ス、七度栗大師加治遊て壱年二七度実る栗也、茶屋二て支度。<7>」と記されているように、現在も峠には大師堂(写真1-2-2)があり、「七度栗」の大師伝説も伝わっている。
 栗の木が一年に七度も実をつけることは一般に考えられないが、地元に住む**さん(昭和3年生まれ)の話によれば、昭和40年(1965年)ころまでは付近の山に自生しており、順次に下枝の方から上枝に向かって花が咲き、普通の柴栗(しばぐり)より小さな実をつけていく栗であったという。
 この「七度栗」の大師伝説は、『四国徧礼功徳記』に、絵図とともに詳しく紹介されており<8>、松浦武四郎もまた次のように記している。

   窓峠と云なり。少し過て下りぎわに、務清山常善坊と云。又此寺を七度栗の庵とも云へり。本尊地蔵菩薩。此寺より七度
  栗と云ものを出す。其實椎の實の位也。土俗の云るにむかし大師順行の時、子供栗を取りいたる時其栗を無心し給ひしか
  ば、童子ども早々是を奉りしと。其時是より此栗を一年二七度ならし遣ハすぞと云給ひしかば、其よりし志(て)一年二七
  度ヅヽなりしとかや。此寺のうら皆其栗斗也。其木の高さ凡四尺より五尺位也<9>。

 窓峠を越えると、その名の通り窓を開いたように米どころとして知られる三間盆地が眼前に開ける。峠のある務田は、藩政時代から宇和島城下への往還の要衝として重視されてきた。
 遍路道は、峠に切通しができて吉野街道(現在の県道57号)が通じる以前は、切通しの手前から左折して山中に入って大師堂に至り、そこから下山して務田橋を渡って北進し、利近池(としちかいけ)の手前で右折してJA成妙(なるたえ)支所横に立つ道標⑦を経て龍光寺に向かっていたという。
 しかし、やがて吉野街道が通じ、また軽便鉄道の開業にともなって務田駅ができると、遍路道はJR予土線務田駅の手前で渡瀬橋を渡り、一直線に北に600mほど田園地帯の道を進んで、三間中学校前を通る県道広見吉田線(283号)に突き当たって左折し、JA成妙支所前で以前の遍路道に合流するようになった。そのため、地元の人が渡瀬橋の手前に道標⑧を建て道案内している。
 そののち遍路道は、道標⑦から500mほど北進し、**邸(戸雁304)前の三差路に立つ道標⑨を経て四十一番龍光寺の参道入口に至る。そこには鳥居があり、その左側に茂兵衛道標⑩がある。寺に鳥居があるのは珍しいが、かつて寺が稲荷社と呼ばれ、稲荷信仰にかかわる神社であったことの証(あかし)を示している。稲荷信仰は、もともと稲の精霊が宗教的に高められ成立したものとされるが<10>、三間米として知られる米どころにふさわしい伝承と言えよう。稲荷社の名前の由来については、寂本が、『四国徧礼霊場記』に「其稲をになへるが故に稲荷と号す。<11>」と記している。
 稲荷社は、明治時代の神仏分離令によって現本堂を建てて龍光寺と称するようになった。現在も神社であった時代の名残りをとどめ、本堂、大師堂以外に石段を上がった最上段には稲荷神社が地元の氏神として祀(まつ)られている。そのため、明治以前の道標は、すべて「いなり(稲荷)へ」と表示されており、地元では今でも「お稲荷さん」の名前で親しまれ、二月の初午(はつうま)の日は縁日としてにぎわいをみせている。
 明治期の稲荷社付近の状況については、『成妙村誌』に、「稲荷神社付近二四国遍路ヲ宿スベキ木賃宿飲食店等合セテ八戸<12>」と紹介されており、当時の門前の様子をうかがい知ることができる。
 龍光寺の鳥居をくぐって参道を少し上ると石段がある。その石段の途中の踊り場に徳右衛門道標⑪がある。それよりさらに石段を上って境内に入ると、すぐに灯ろうが目に付く。その台石は道標⑫となっており、手印が本堂の方向を指し示している。

写真1-2-1 清水大師堂

写真1-2-1 清水大師堂

平成13年6月撮影

写真1-2-2 窓峠の大師堂

写真1-2-2 窓峠の大師堂

平成13年11月撮影