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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 山間部の産業と人々のくらし

 旧伊予三島(いよみしま)市の中央部には法皇山脈が東西に走っており、法皇山脈以南の銅山川流域の山間部は、嶺南(れいなん)地域と呼ばれる。平坦地が少ないこの地域では、かつて養蚕や葉タバコの栽培が盛んであった。一方、豊富な林産資源を有しているが、交通の便が悪く、木材の搬出が容易でないことから、林業の発達は遅れていた。しかし、大正初期ころから、銅山川による木材の流送が始まり、昭和8年(1933年)、高知県土佐郡大川(おおかわ)村の白滝鉱山から銅山川流域の諸集落を経由して三島(現四国中央(しこくちゅうおう)市中之庄具定)までの索道が架設されると、林業が盛んになっていった。さらに昭和11年(1936年)の堀切峠の開通、昭和35年(1960年)の法皇トンネルの開通は、トラックによる木材搬出を可能にし、木材の生産量が増加していった。平成26年度の四国中央市の素材生産量は20,859m³で県の生産量の約4.5%を占め、東予地方随一の生産量を占めている。
 旧伊予三島市金砂町小川山(現四国中央市金砂町小川山)に位置した佐々連(さざれ)鉱山は、元禄2年(1689年)の開坑と伝えられるが、明治に至るまで確かな記録はない。明治30年(1897年)以降、数人の手を経て経営されていたが、大正年間に神戸(こうべ)市の岩城商会の所有となった。同商会は、大正7年(1918年)、岩城鉱業株式会社を設立し、新鉱脈の発見、佐々連-江之元港(現四国中央市寒川町)間の索道の架設など、佐々連鉱山発展の基礎を築いた。その後、住友鉱業株式会社(現住友金属鉱山株式会社)が経営参加し、昭和17年(1942年)、同社の子会社となって社名も佐々連鉱業株式会社に変更された。なお、開坑当初から戦後しばらくの間までの鉱山地区は、現在の管理事務所から約2km南東にあり、旧佐々連鉱山(旧佐々連)と呼ばれている。戦後の昭和25年(1950年)に親会社に統合され、昭和27年(1952年)、住友金属鉱山株式会社佐々連鉱業所となった。昭和25年から31年(1956年)にかけての3回にわたる復興、拡張起業の実施により出鉱量が飛躍的に増え、住友金属鉱山の中堅鉱山として繁栄した。しかし、コストの上昇や世界不況も重なり、昭和54年(1979年)に閉山した。
 本節では、嶺南地域の林業について、Aさん(昭和22年生まれ)、Bさん(昭和27年生まれ)から、佐々連鉱山について、Cさん(昭和12年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。