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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 川之江の農業

(1)父が営んだ農業

 ア 暖地リンゴ

 「私(Bさん)の家では、私が幼いときには既にミカンの栽培を行っていました。家族から聞いた話によると、実際にいつから始めたのかがはっきりとは分かりませんが、当初は作付面積が広くはなかったけれども古くから栽培していたらしく、私の祖父が本格的に栽培を始めたようです。私が子どものころには、ミカンの栽培だけではなく、養鶏も行っていましたし、父がミカン以外にもいろいろと作っていたようで、1反半から2反(約15aから20a)くらいの農地を使ってブドウやナシを、現在ミカン山になっている場所ではリンゴの栽培を行っていました。
 リンゴは暖地リンゴという品種で、赤い色をしたリンゴと青い色をしたリンゴの2種類がありました。このリンゴは実際に食べてみると、どちらもおいしいリンゴを食べたときのように、シャキッとした歯ごたえがなく、水分が少なくスカスカの状態で、まるでスポンジを食べているかのような食感でした。自分の家で作っていたリンゴではありましたが、あまりおいしくなかった、というのが思い出です。私が子どものころには、樹園地に暖地リンゴの木が10本ほど植えられていて、それなりの収量があったはずなので、収穫されたリンゴは、当時作っていたナシやブドウと同じように青果市場などに出荷されていたのだと思います。昭和30年代から40年代にかけては、私の父がいろいろな作物を試行錯誤しながら栽培していた時期だったのではないかと思います。」

 イ 養鶏の仕事を手伝う

 (ア)採卵と餌やり

 「私(Bさん)が小学生のころに行っていた家の手伝いは、ニワトリの世話が中心でした。当時、家にはニワトリ小屋が全部で4棟あり、雛(ひな)を大きく育てるための育雛(いくすう)場もあったので、雛を購入してきて、自分たちで大きく成鶏に育てて採卵をしていたのです。
 私の家では常時1,000羽ほどの成鶏を飼っていて、私は学校から帰って来ると、まずニワトリが産んだ卵を集めていました。そのときの産卵率が7割から8割くらいだったので、1日に700個から800個の卵を採ることができていたと思います。集めた卵は一つ一つの重さを手作業で量り、階級別に分けてから箱詰めを行わなければなりませんでした。この作業は、現在であれば集卵から選別、箱詰めまで自動で行われていますが、当時の手伝いを振り返ってみると、時間がかかってかなりの労力が必要だったと思います。
 また、ニワトリの餌やりも私の仕事で、当時は父が作ってくれていた配合飼料を使っていました。既製の餌を用いるのではなく、米糠やトウモロコシ、牡蠣(かき)殻などを単体で購入し、それを撹拌(かくはん)機で混ぜて餌を作っていました。餌やりのときには、ニワトリに嘴(くちばし)で突(つつ)かれるのがとても嫌だったことを憶えています。餌箱に餌を入れていると、ニワトリも早く餌を食べたいのでしょう、ケージから勢いよく頭を出してくるので、そのときに勢い余って私の手を突いていたのだと思います。
 手伝いを終えると夕暮れになっていました。私には学校から帰るとこれだけの作業が待っていたので、放課後に友達と遊ぶ約束をすることができず、近所で遊んでいる友達の声が聞こえてくると、とても羨ましく思っていたことを憶えています。」

 (イ)産卵率の確認と廃鶏

 「成鶏が年齢を重ねてきて産卵率が悪くなってくると、それらを更新していかなければなりませんでした。現在では、オールイン、オールアウトと言って、一つの鶏舎の全ての成鶏を廃鶏にして、そっくりそのまま入れ替えるのですが、当時は成鶏が入っているケージに番号が打たれていて、卵を産んでいる成鶏の番号に印を付けていました。私(Bさん)は、この作業を学校から帰って来ると毎日行っていて、1か月続けると産卵率が分かるので、産卵率が悪くなった成鶏だけを廃鶏にしていました。廃鶏となった成鶏は、月に1回くらいのペースで家に来ていた業者に引き取られていたことを憶えています。
 当時、山田井地区の各農家では、小規模ではありましたが養鶏を行うことが流行(はや)っていたようです。私が憶えているだけでも10軒くらいの農家が、1,000羽ほどの規模での養鶏を行っていました。養鶏が盛んに行われていたので、金生町には養鶏組合が設立されていたほどで、私の父は組合長を務めていたそうです。
 私の家の鶏舎は、私が高校生になる昭和40年代の前半のころまではありました。そのころになると、物価上昇の影響からか、餌代などの経費がそれまで以上にかかるようになり、養鶏での利益を上げることが難しくなったため、養鶏業をやめてしまう農家が増えていったのだと思います(図表2-2-2参照)。」

 ウ シイタケ

 「私(Bさん)の家では、養鶏をやめた後に鶏舎の跡地を利用してシイタケの栽培を始めました。必要な原木は、林地で立木のまま購入したものを、自分たちで伐採して持ち帰っていました。自宅へ持ち帰ったほだ木に菌を植える作業が終わると、菌は1年かけてほだ木の中で成長していくので、菌を育てるのに適した場所として購入した川滝地区の山へ運び、そのまま1年間寝かせておくことが必要でした。
 1年経ったほだ木は山から下ろして家まで持ち帰り、水の入ったタンクに一昼夜くらい浸(つ)けて、それが終わると密集した状態に立てて並べていました。そこへナイロンを掛け、内部の温度を上げることでシイタケの発芽を促し、芽が出始めるとナイロンを外して1本ずつ間隔を取ってほだ木を並べ替える作業を行わなければなりませんでした。
 ほだ木を林地で伐り出して自宅まで運び、さらに川滝の山へ持って行くときには、シイタケの事業を行うために購入していた2tトラックを父が運転していたことを憶えています。」

 エ いつの間にかいなくなった牛

 「私(Bさん)の家では田で米を作っていたので、耕耘機やトラクターがないころには牛を1頭飼っていたことを憶えています。しかし、私にはその牛を使って家族が農作業を行っているところを見た、という記憶がありません。ただ、敷地内にあった牛小屋に黒い牛が1頭いたということだけを憶えているのです。農耕用として飼っていましたが、肥育して最終的には売っていたのではないかと思います。牛を飼っていた当時、幼かった私は牛の世話をすることも、牛を使って農耕の手伝いをすることもなかったので、牛についての思い出が少ないのだと思います。今になって考えると、いつの間にか私の家から牛が消えていたのです。」

(2)ミカンの栽培

 ア 疎植大木主義

 「私(Bさん)が子どものころには、家が経営する樹園地がそれほど広くはなかったので、ミカンの収穫は11月の上旬から12月の中旬ころまでの二月ほどで行い、年内には作業を終えることができていました。ミカンを収穫する作業は家族で行う仕事で、子どもにはとてもしんどい作業だったと思います。
 私は今でもミカンを作っていますが、午前中に作業を行って、キャリーボックス6個分、120kgほどを収穫します。条件の良いミカン園であれば、一日中作業をすると240kgから300kgほど収穫できます。一方、木に登って収穫しなければならないなど、作業に支障がある場所での1日当たりの収穫量は当然少なくなります。私が子どものころには、父のミカン栽培に対する考え方として疎植大木(そしょくたいぼく)主義があり、これは、木と木の間隔を広くした状態で植え、1本の木を3mから4mと大きく育てて収量を増やすというものでした。現在のミカンの木は2mから高くても2m50cmほどの高さで、手を伸ばせば全て収穫できるほどですが、大きく育てた木では収穫するのに木に登らなければならないので、それだけ手間が掛かるということなのです。私が子どものころには、大きく育った木から収穫する作業を手伝っていて、父と母は木に登って収穫していましたが、私は中学生になるまでは木に登って作業をすることはなく、手を伸ばすと届く範囲のミカンを収穫していたことを憶えています。父と母は収穫したミカンを入れておく籠を持って木に登り、その籠がミカンで一杯になると、一度木から降りて籠を空にし、また登って収穫するということを繰り返していました。現在使われている籠でも10kg分のミカンを入れることができます。当時、父や母は布製の袋を肩から下げて収穫作業を行っていたので、10kgよりも重い状態で作業を続けていたのです。父母の仕事の様子を振り返ると、収穫作業はとても大変な作業だった、ということや、働くことがいかに大変なことか、ということなどを改めて認識できると思います。手を伸ばして収穫する子どもにも大変な手伝いだったので、父から、『ミカン採りに山行くぞ。』と言われると、『しんどいなあ』という思いの方が強かったことをよく憶えています。」

 イ 土蔵造りの貯蔵庫

 「ミカンの収穫時期には、ミカン園で収穫したミカンをリンゴ運搬用の木箱に入れて家まで持ち帰ります。私(Bさん)が小学校5年生か6年生のころには、その木箱を運搬するための車がありました。その当時は車自体が高価で、この辺りでも所有する家は少なかったと思います。私の家でも新車を購入することは価格の面で難しかったようで、ダットサンの中古トラックを購入していたことを憶えています。
 昭和30年代の後半から昭和40年(1965年)にかけては、私の家ではミカン園を開墾して間もないころだったので、収穫できる樹園地が2反から3反(約20aから30a)程度しかなく、収量的には3tから4t程度、多い年で5tから6t程度だったのではないかと思います。家の裏にはミカンを貯蔵しておくために、土蔵造りの貯蔵庫があり、その中には、畳1枚分ほどの大きさの平たい升目状の木枠が何枚も置かれていて、一つの枠にミカンを一つずつきれいに並べて貯蔵して、年明けになると出荷していました。貯蔵庫に入れた後は、ミカンが傷んでいないかどうかのチェックを頻繁に行わなければならなかったことを憶えています。
 土蔵造りの貯蔵庫は、ある程度は室内の温度上昇を抑え、湿度も良好に保つことができるため、貯蔵には向いていることが特徴です。当時使っていた貯蔵庫は、土壁が塗られ、さらに天井板にも土が載せられていて、貯蔵室を土で囲うような造りであったことで、室内の環境を良好に保つことができていたのではないかと思います。この貯蔵庫は、私が中学生のころまでは使っていたことを憶えています。」

 ウ ミカン園の拡大

 「ミカンの値が良かった昭和40年代の前半には、ミカンの増産に向けてどの農家もミカン園を開墾して植栽していました。また、市有林の払い下げを受け、複数の農家が共同で樹園地を造成することも行われていたことを憶えています。ミカンの栽培が最盛期だったころには、旧川之江市でミカンの樹園地が400haほどはあったのではないかと思います(図表2-2-4参照)。
 ミカンの収量がまだそれほど多くないときには、収穫時期になると、民間の買い取り業者が農家まで直接買い付けに来ていた、と父から聞いています。業者さんによる直接の買い付けが行われていたときには、農家との間で、『ひと山いくら』という買い付けをしたり、農家の庭先で収穫後のミカンの収量や品質を見て、『全部でなんぼ』という買い付けをしたりしていたそうです。その後、樹園地が拡大してミカンの収量が増えてくると、それに合わせるように農協に選果機が導入されたこともあり、農協へ出荷することになっていったと思います。
 昭和40年代の中ごろになって、私(Bさん)の家でも持ち山のうち、開墾できる場所のほとんどをミカン園として開墾し、100tほどの収量があったころには、収穫作業に従事する2、3人の女性をパートタイムの形態で雇っていました。その当時は、作れば売れるという時代で、農協の選果場がフル稼働していたことを憶えています。
 農協からミカンが出荷されるときには、トラック便が使われていたと思います。ただ、川之江のミカンは、南予地方で収穫されたミカンとは出荷先が違っていて、南予のミカンは大消費地の東京や大阪へ出荷されるのに対して、東京や大阪では売ることが難しい川之江のミカンは、北海道や東北地方へ出荷されていて、品質に差があったということが一目瞭然でした。
 品質に差が出てしまう要因として日照時間があり、南予や中予と比べると日照量に差があると聞いています。私は品質の良いミカンを作るには、日照がとても大切だと思っていて、南予のミカン産地へ行くと、空からの直接の日射とともに、海からの照り返しがあります。照り返しで十分な日照を得ることができることから、海風が当たる場所のミカンは品質が良いと言われているのです。一方、川之江のミカン園を見てみると、ミカン園が位置するのは内陸部で、海からの照り返しは期待できません。私が子どものころには、家の周囲の山にはミカン園となっている所が多かったと思います。ミカンだけに限らず、どの農作物でも適地適作が大切ですが、昭和40年(1965年)前後には利益を重視して、ミカンの適地でないとされる場所にまで植えられていたこともあって、その結果、生産されるミカンの品質の低下の要因の一つになったようです。私の家では価格の暴落後もミカンの木の伐採を行っていないので、災害等で崩落してしまった園地の一部を除いて開墾したミカン園が現在も残っていて、今でも栽培を続けています。残された古い木は大きくなっていますが、ミカン園全体の収量は落ちてきていて、現在は20tあるかないかという程度だと思います。」

(3)ミカン価格の暴落

 ア 市役所への就職

 「私(Bさん)は高校卒業後、松山(まつやま)市にあった果樹講習所へ講習生として入所することになっていましたが、実際に入所するときには果樹講習所が県立の農業大学校に組織替えされていました。2年間、農業大学校で学び、卒業を機に川之江に帰って来ましたが、そのころにはミカンの価格が大暴落していました。そのような状況でもあったので、農業では生活できないかもしれない、ということで市役所への就職を決めたのです。この時期のミカンの暴落については、供給過多となってしまうほどの作り過ぎが原因だと思います。ミカンの価格が良かった昭和40年代の前半にミカン園が拡大されていったので、木を植えて3年から5年くらいが経ち、収穫が可能になったことで生産量が増えたのだと思います。」

 イ 価格の暴落とミカン園の減少

 「ミカンの価格が暴落すると、その後、この地域のミカンの生産量は減少していきました。価格の暴落からは期間が空いていましたが、昭和50年代には国も改植や作物転換によるミカンの生産調整事業に乗り出しました。この事業は、3年間という期限付きのものではありましたが、ミカン園1反(約10a)を廃園にし、その後には何も作らないという条件で交付金が支給される制度となっていて、事業初年度に廃園を行うと満額の交付金が支給されていたのに対して、2年目や3年目と廃園が遅くなると、それだけ交付金の支給額が減額される仕組みになっていました。しかし、国が事業を始めて3年は交付金の支給対象となっていたので、その期間の中で川之江市内のミカン園が一気に減少していったことを私(Bさん)はよく憶えています(図表2-2-5参照)。」

 ウ 廃園へと向かうミカン園

 (ア)価格暴落後のミカン園

 「ミカン園を廃園の状態にするには、ミカンの木を伐採しなければならず、私(Bさん)が市役所でこの事業を担当していたときには、ミカン農家から廃園の申請書が出されると、申請書に記されたとおりの場所、面積、伐採された木の本数となっているかどうかの確認を行っていました。申請書のとおりに廃園作業が行われていた場合には手続きを進め、国からの交付金を農家に交付していました。
 この生産調整事業は、ミカンの価格が暴落してから数年が経ってからの措置であったので、市内のミカン園の中には既に栽培が放棄されて荒れ地のようになっている所もありました。既に耕作放棄地となっているような園地にも交付金を出すのか、という問題が生じていましたが、基本的には、申請書が出された時点でミカンの栽培を実際に行っている、ということが前提条件となり、既に耕作放棄地となっていたミカン園には適用されませんでした。交付金を受けて廃園となったミカン園には、交付金支給の条件にもあるとおり、その後の作付けに制限がありました。ミカン園を廃園にしているので、柑橘類の栽培は当然認められておらず、また、野菜など他の品目の作物を作る場合には、交付金が減額されていました。伐採後の園地の用途にまで制限を加えているので、国としてはミカンの流通量を抑えつつ、その価格をある程度高いところで維持したい、ということを考えていたのでしょう。」

 (イ)廃園に向けた手続き

 「担当者だった私(Bさん)は、申請書が提出されると、そのミカン園に行き、申請された園地が廃園状態となっていないか、実際にミカンが作られている状態かどうかの確認を行いました。現地へ行くと、申請された園地の中には既に廃園状態になっている所があり、その場合は対象外としていました。ミカン園として利用している場合は、申請者に対して、『いついつまでに伐ってくださいよ。』とお願いをしていました。この現地確認のときに土地の利用状況を見て、面積の確認も同時に行っていました。
 2回目の現地確認は、実際にミカンの木が伐られているかを確認するために行っていました。川之江市内のほぼ全てのミカン園を対象に現地確認を行っていたので、土曜日や日曜日の休みを返上してほぼ毎日山へ行かなければならず、とても大変だったことを憶えています。
 この事業を担当しているときには、日中に市役所の自分の席に座って仕事をするということがほとんどなく、昼間は現地確認へ行き、夕方に市役所へ戻って、そこから夜にかけてその日の測量データを基に図面を描いたり事務処理を行ったりして、日付が変わってから仕事を終えて帰宅するという日々が続いていました。
 さらに、事業の初年度は、国の事業開始自体が遅れて年度の途中からのスタートとなった影響により、私たちの行う測量が3月末までに間に合わず、それに伴って木を伐って廃園の処理をすることができない農家が多数出てしまう状態になってしまったので、国に提出しなければならない実績報告の完成と提出が翌年度の6月になってしまいました。2年目以降はスムーズに事業を進めることができましたが、1年目は年度末の処理でとても慌ただしい思いをしたことを憶えています。」

 エ 栽培面積の減少と現在

 「国の事業によって、川之江市内でもミカン園の栽培面積がかなり抑えられましたが、ミカン作りに熱心な農家は継続してミカンの栽培に取り組んできました。この方たちは、品質が良いミカン作りに取り組み、その価格自体も維持できるように努力をされてきたと私(Bさん)は思います。
 この辺りは旧金生農協の管内になりますが、金生農協には選果機が導入された選果場がありました。また、川滝や金田の農協にも選果場があり、旧川之江市で選果場を整備していたのはこの三つの農協で、それぞれがミカンを共同選果し、出荷していました。現在でも温州ミカンの収穫は行われていますが、共同選果は行われていません。収穫されたミカンは農家が産直市へ出したり、農協が選果しないままのミカンを集めて卸業者へ渡したりしているようです。農家の視点に立つと、作った農作物を1個からでも直接持ち込んで、自分で値段を付けて販売できる産直市の存在は、非常にありがたいものなのです。産直市は、小規模な農家でもある程度の収益を上げることができる機能を有している、と言えるのです。」

(4)農家のくらし

 ア 子どものくらし

 (ア)ニワトリへの複雑な思い

 「私(Bさん)が子どものころ、家ではニワトリを飼っていたので、父はニワトリを捌(さば)くことができました。捌くときにはニワトリの首をはねて血抜きのために逆さに吊(つ)るし、羽をむしり取る作業があるのですが、私はその様子を度々見ていたので、子どもながらに複雑な気持ちになって、捌くことができませんでした。
 今でこそ鶏肉をおいしくいただくことができますが、子どものころには捌くところを見ていたからか、私は鶏肉を食べることができませんでした。また、鶏肉だけでなく、手伝いで毎日見なければならない卵もあまり好きではなかったことを憶えています。」

 (イ)子どものころの金生

 「私(Bさん)が学校から帰ると、たまに農作業の手伝いがない日がありました。手伝いがなく、友達と遊ぶ時間ができたときには、メンコやビー玉などで遊んでいたことを憶えています。メンコで遊ぶときには、相手のメンコをひっくり返して手に入れるために、少しでも風と振動を起こそうと、自分のメンコを全力で地面に叩(たた)き付けていたことが思い出されます。
 また、私の家の近所で最も早くテレビを購入したのは、すぐ近くに住み、小鳥の販売をしていた方の家でした。その方は、観賞用の鳥を自分で繁殖し、販売をしていたようです。その方の家にテレビが来てからは、家に行ってテレビを観させてもらっていたことを憶えています。私の家にテレビが来たのは、昭和39年(1964年)の東京オリンピックよりも後のことだったと思います。中学生のときにもテレビがあったかどうか、記憶が定かではありませんが、映画を観に行っていたことはよく憶えています。
 川之江には映画館が割と多くあって、私が憶えているだけでも川之江地区に2館、金生地区に1館の3館ありました。小学生のころには、祖母に連れられて金生の映画館へよく行っていました。祖母が観たい映画に連れて行かれるので、いつも時代劇だったことをよく憶えています。当時は2本立て、3本立てで上映されていましたが、ほとんどが時代劇だったと思います。金生の映画館は、中へ入ると個別に座ることができる椅子が設置されていました。私が祖母と行ったときには大勢の観客が入場していて、ほぼ満席の状態になっていたと思います。」

 (ウ)五右衛門風呂

 「家にはお風呂がありましたが、薪を使って沸かす五右衛門(ごえもん)風呂でした。風呂を沸かすのが誰の役割なのか、家族の中で決められてはいませんでしたが、今思い起こすと、私(Bさん)が風呂焚(た)きをしていたと思います。五右衛門風呂を沸かすには、最初は強い火力を使いますが、一旦沸くと種火を残しておいて、そのうちお湯が冷めてくると、再び薪を入れて沸かしていました。風呂焚きに使う焚き物は、所有する山に生えている雑木を伐り出してきて確保していました。
 五右衛門風呂の思い出で最初に浮かぶのは、とにかく熱いということです。風呂釜が鉄製で、それに下から火を使ってお湯を沸かすので、大きな鍋と同じです。特に一番に風呂へ入ると、沸きたてでお湯が熱く、さらに風呂釜自体も熱せられていてとても熱いのです。底に敷く板を足で沈めながらゆっくりと風呂に浸かっていきますが、身体のどこかが少しでも風呂釜に直接触れようものなら、火傷(やけど)をしてしまうのではないか、というくらいの熱さだったことを憶えています。
 また、子どものころ住んでいた家には、おくどさん(かまど)がありました。玄関から奥の台所までが土間でつながっていたことをよく憶えていて、これは当時の農家の住居の代表的な造りだと思います。畳が敷かれている部屋は土間よりも高い位置にあって、大人が腰掛けるとちょうど土間に足が着くくらいだったと思います。」

 イ 農業科へ進む

 (ア)農業を継ぐ気持ち

 「私(Bさん)は中学校を卒業後、農業の勉強をするために香川県の笠田高校(香川県立笠田高等学校)へ進学しました。父が農業を営んでいたことから、その仕事を継ぐことを考えて、農業科がある高校を選択したのです。進路選択に際しては、父から『農業を継げ。』というようなことは、一言も言われていませんでしたが、私自身としては、家業を継いで農業をするという気持ちになっていたので、将来、農業に従事するのであれば、農業高校で学んだ方が良いのではないか、と考えたのです。
 当時、川之江から国鉄で通学することを考えると、進学するのであれば西条(さいじょう)市の西条農業高校か香川県の笠田高校のどちらかでした。西条へ行くには距離があり遠いのですが、笠田高校であれば観音寺駅の一つ向こうの本山駅まで汽車で行くと距離が近く、通学にも便利であることから進学先として選びました。中学校の同級生も数名は同じ学校へ進学したので、香川県の高校も当時のこの辺りの中学生の進学先の一つになっていたのでしょう。入学後は川之江駅から国鉄を使って通学していました。本山駅に着くと、駅から学校までは自転車で通学しました。」

 (イ)通学列車

 「私(Bさん)が高校生のときには、学校の始業に合わせて少し早めの7時ころには家を出なければなりませんでした。
 川之江駅から通学に使っていた列車は、気動車と呼ばれていたディーゼルカーで、蒸気機関車ではありませんでした。朝の時間帯の列車は満杯で、客車のデッキにも人が溢(あふ)れるほど、とまではいきませんでしたが、やはり大勢の乗客で車内は割と混んでいたと思います。川之江から香川県方面への通勤・通学客がそのほとんどでしたが、私と同様に、香川県の高校へ通学していた人も割といたのではないかと思います。」

 ウ 両親の姿を見て

 「家族で農業に従事し、両親が懸命に仕事をする姿を見て、誰かから教えられたり言われたりすることなく、私(Bさん)には、両親が頑張ってきた農業の仕事を続けていかなくてはならない、という気持ちが芽生えました。また、農業の仕事を守っていくのは私しかいない、という思いを持つようになったことも憶えています。
 ここで家族とともに生活をしてきて、私としてはここでのくらしを守っていかなければならない、という気持ちに自然となっていったのだと思います。このような思いになったのは、やはり、ニワトリの世話やミカンの収穫などの手伝いはもちろんのこと、農作業を通じて両親とともに過ごすことができた時間が大きく影響していると思います。子どものころは、友だちが楽しそうに遊んでいることもあって、手伝いをやらされるという感覚が強く、『どうしてこんなことをせんといかんのやろか、嫌だなあ』と、思うことが多かったのですが、あるとき両親に対して感謝の思いを持つようになり、『私が何とかしなければ』という気持ちに変わっていったのです。口うるさくあれこれと言うことなく、農業に従事する自分たちのありのままの姿を子どもに見せることで、子どもにこのような思いを持たせた両親はすごいな、と思うことがありますし、今でも心から尊敬しています。
 また、私の両親は、毎年決まった時期に行う農作業を確実に行っていました。農作業は行うべき時期に行わなければ、収穫のときに影響が出てくるものです。何事においてもどこかで手を抜くと、どこかでそれなりの結果が出てくることと同じです。毎年同じことの繰り返しになりますが、1年間を通して誠実に仕事に取り組まなければならないということです。両親が誠実に仕事に取り組んでくれたおかげで収入があり、私たち家族が生活できていたのです。子どもの目から見て、両親はよく仕事をしていましたし、懸命に仕事に取り組むその姿を間近に見ることができて本当に良かったと思っています。」


<参考文献>
・川之江市『昭和32年版 川之江市勢要覧』 1957
・川之江市『市勢要覧 川之江 1961年版』 1961
・伊予三島市『いよみしま 市制10年のあゆみ』 1965
・愛媛農林統計協会三島支部『川之江市農業の現状と展望』 1973
・愛媛農林統計協会西条支部『川之江市の農林水産業』 1982
・伊予三島市教育委員会『伊予三島のくらし』 1982
・愛媛農林統計協会西条支部『伊予三島市の農林水産業』 1984
・川之江市『川之江市誌』 1984
・伊予三島市『伊予三島市史(上巻)』 1984、『同(中巻、下巻)』 1986
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994

図表2-2-2 ニワトリの飼養戸数推移(川之江市)

図表2-2-2 ニワトリの飼養戸数推移(川之江市)

『川之江市農業の現状と展望』から作成。

図表2-2-4 温州ミカン栽培面積の推移(川之江市)

図表2-2-4 温州ミカン栽培面積の推移(川之江市)

『川之江市誌』から作成。

図表2-2-5 ミカンの栽培面積の推移(川之江市)

図表2-2-5 ミカンの栽培面積の推移(川之江市)

『川之江市の農林水産業』から作成(縦軸を360からとしている)。