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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 機械抄き製紙

(1)製紙会社での勤務

 ア 大王製紙に入社

 「私(Bさん)は高校を卒業後、大阪の大学に進学しましたが、一人息子で親の面倒を見る必要があるため、大学卒業後は地元に帰って就職しようと考えていました。大学在学中に帰省したとき、たまたま駅前通り商店街の人たちを大王製紙の工場見学に招待してくれる機会があり、私も参加しました。それまでは大王製紙の工場を外からしか見たことがありませんでしたが、大規模な最新の設備が整備されているのを見て、このような大きな会社に就職して地元の産業の発展に少しでも役に立ちたいと考え、昭和52年(1977年)に大王製紙に入社しました。私は大学では機械工学を専攻しており、技術系の社員として採用されました。
 私が最初に配属されたのは、第五製紙部という新聞抄紙機の管理などを行う部署でしたが、すぐに設備の建設を担当する工務部に移るよう命じられました。工務部にはプロジェクトチームがいくつもあり、私は新しい設備を建設中だったプロジェクトチームに、原料調成部門の担当として参加することになりました。私はそのチームでは最年少で、何々をしなさいと指示を受けても、何をしてよいのか分からないという状態だったため、先輩から直接教わったり、先輩の姿を見て学んだりしながら少しずつ仕事を覚えていきました。私にとって最もつらかったのは電話の応対でした。こちらが相手の部署や役職、名前などをある程度分かっていればそれなりの応対はできるのですが、私は相手のことを全く知りませんし、相手も私のことを全く知らないため、重要な内容の電話が掛かってきてもきちんとした応対をすることができませんでした。電話が掛かってくると、若手社員が取らなければならないのですが、最初は電話の応対をするのが怖かったことを憶えています。
 新しい設備が無事に稼働すると第五製紙部に戻りましたが、今度は工場で3交替制勤務による抄紙を経験することになりました。1年間くらいで各パートの勤務を経験する予定でしたが、実際には1か月余りで切り上げて、その後は事務所に戻って仕事を行うことになりました。事務所では現場保全の仕事をしていました。定期的に機械に異常がないか点検し、異常があれば修理の手配を行っていました。また、現場から、こういうものを購入してほしい、ここをこういうふうに直してほしい、などといったさまざまな要望を聞き、購入伝票や工事工作依頼書、仕様書などの必要書類を作成して購入・工事の手配を行っていました。購入した物が届くと現場へ渡したり、工事を行うときには立ち会ってこちらの要望を伝えたり、工事が終了するとこちらの要望どおりにできているか確認したりしていました。大学では機械工学を専攻していましたが、入社してみると大学で学んだ知識や技術はすぐには役に立ちませんでした。実際にものを造ったり修理したりという経験は全くなかったので、最初は先輩社員の方々に一つ一つ教えてもらいながら覚えていきました。入社して2年くらいしたとき、会社からアメリカのニューヨーク州立大学へ約5か月間留学させていただきました。大学では製紙工学を専攻していて、紙の表面に塗工する光沢加工の機械の発明などで有名だったブラッククローソン社を見学させてもらったこともありました。」

 イ 先進的なヨーロッパ製の製紙機械

 「ニューヨーク留学を終えて会社へ戻ると、私(Bさん)は再び工務部に配属されました。工務部では、設備の新設や増設の計画を行ったり、建設工事の手配や管理を行ったり、設備の完成後は、該当する部署へ配属され保全の仕事を行ったりしていました。当時、日本国内の製紙工場で新設される設備は、アメリカのベロイト社、ブラッククローソン社などの抄紙機・加工機メーカーと三菱重工、石川島播磨重工業などが提携して製造していました。アメリカ製の抄紙機は一定の条件で大量生産するのに適していて、同じような品質で幅9mくらいの紙を大量に抄くことが求められる新聞用紙の生産には適していました。ところが、時代とともに多様なニーズに応じて多品種小ロットの紙を抄くことが増えてくると、大量生産ができても操業条件を変更するのが難しいアメリカ製の抄紙機では対応が難しくなりました。それに対して、フィンランドやドイツなどのヨーロッパ製の抄紙機は、比較的容易に操業条件を変更することができたため、アメリカ製の抄紙機に代わって主流となりました。
 日本国内では、三菱重工が技術提携先だったベロイト社の経営破綻により製紙機械事業から撤退し、ヨーロッパの抄紙機メーカーが石川島播磨重工業や住友重機械工業と提携したり、日本法人を作ったりしています。製紙機械の製造では、地元の川之江造機や大昌鉄工所が国内でも有力な会社となっており、小型の抄紙機を独自の技術で製造しているほか、大型の抄紙機をバルメット社などの技術を導入して製造しています。以前は静岡県にも独自に製紙機械を製造していた会社がありましたが、今はそのような会社は少なくなりました。」

 ウ N4号抄紙機の完成

 「私(Bさん)が入社する前から、国道11号の北側の臨海部で三島新工場の建設工事が始まっていました。私が入社した昭和52年(1977年)に完成した三島新工場では、クラフトライナー(クラフトパルプを原料とした段ボールシートの表面に使用される紙)を製造するライナーマシンが稼働していましたが、新たな新聞抄紙機としてN4号抄紙機が稼働を開始しました。私たちはその抄紙機をN4マシンと呼んでいました。N4号抄紙機は新聞用紙5本取りで幅が約9mもある大型抄紙機で、アメリカのベロイト社が開発したベルベフォーマーⅡ型のツインワイヤー方式が採用されていました。N4号抄紙機は、1枚ワイヤーの抄紙機に比べ、表裏差がほとんどなく紙粉が少ない高品質の紙を抄くことができ、新聞社の高速化された輪転機でも印刷適正が非常に良いということで評判になりました。また、抄紙速度が非常に速く、国内で初めて分速1,000mを達成したのもN4号抄紙機だったと思います。こうして、N4号抄紙機は、国内におけるツインワイヤー方式を採用した抄紙機の先駆けとして大成功を収めました。
 昭和48年(1973年)に完成していたN3号抄紙機は1枚ワイヤーの抄紙機でしたが、N4号抄紙機との品質格差が大きくなったため、昭和54年(1979年)にツインワイヤー方式に改造されました。大王製紙は、私が入社する前後の約20年間で、数千億円を投じて積極的に設備投資を行い、躍進を遂げていきました。」

 エ 新聞用紙の生産

 「どの新聞社でも一つの製紙会社に全ての新聞用紙を発注するようなことはなく、業界でのシェアに応じて購入量を割り当てていました。新聞社は明け方までに紙面を刷り終わらなければなりませんが、印刷の途中で断紙といって紙が切れたり、新聞用紙に欠陥があったりして製品にできない用紙が多かったような場合には、すぐに新聞社から会社の営業部が呼び出しを受け、ペナルティーとして新聞用紙の購入量を減らされることになっていました。そのようなことが積み重なった製紙会社は、最悪の場合には取引を停止されることもあり得るわけです。大王製紙の新聞用紙の品質は、各新聞社から高い評価を得ていて、特に、N4号抄紙機が完成したときには非常に高い評価を得ることができたので、新聞用紙の販売量をどんどん増やしていったことを私(Bさん)は憶えています。現在はインターネットが普及した影響で、各新聞社とも販売量を減らしているため、新聞用紙の需要自体が減ってきています。また、印刷・出版用紙も、インターネットが普及した影響で、書店で紙媒体の商品を購入する人が減ってきているため、需要が落ち込んでいます。」

 オ 家庭紙への参入

 「大王製紙は、クラフトライナーや新聞用紙といった分野から発展しましたが、今ではティシューペーパーやトイレットペーパーをはじめとする家庭紙が会社の主力の一つとなっています。大王製紙がティシューペーパーの製造を開始した当初は、元々あった古い小型の抄紙機を改造して使用していました。製造したティシューペーパーは、しばらくの間、大王製紙の製品として販売せずに、別の会社で加工・販売を行いながら、ある程度手応えをつかんだ後、本格的に大王製紙から『エリエール』という商品名で販売を開始しました。エリエールという語は、風の妖精という意味のフランス語の造語であるそうで、2代目社長だった井川高雄氏が商品名を決定しました。エリエールの販売を開始したときは、1人でも多くのお客さんに商品の名前と品質を売り込まなければならないということで、各部署から社員が数人ずつ選ばれて、県内外のスーパーマーケットなどで営業活動を行っていました。私(Bさん)も先輩の方と一緒に、徳島駅前のスーパーマーケットでお客さんの呼び込みを1日だけ経験しました。どのスーパーマーケットでも、売れるかどうか分からない商品は目立つ場所に置いてもらえないので、店頭に商品を並べて呼び込みを行いました。たくさん購入してくれたお客さんには、頼まれれば車まで運んであげるなどのサービスも行いましたが、最初は全く売れませんでした。当時は、王子製紙や山陽スコット(現日本製紙クレシア株式会社)の商品の方がネームバリューもあり、売れ行きも良かったのです。そこで、先輩の方が独断で少し値下げして販売したところよく売れるようになったのですが、会社に帰ってから上司に叱られたということがありました。エリエールの販売当初にはそのような苦労もありましたが、今では業界シェア第1位の商品になっています。」

 カ 家庭紙の品質改善と商品開発

 「その後、私(Bさん)は家庭紙用マシンなどの操業部署の管理職となり、機械及び従業員の管理とともに商品の品質管理も行っていました。その当時、工場全体では抄紙機が何十台もあり、私が担当していたのは6台の抄紙機で、200名が操業していました。機械に何かトラブルがあったときには、24時間待ったなしで連絡が入ってきたので、非常にしんどい思いをしたこともありました。また、ティシューペーパーやトイレットペーパーの品質改善に取り組みました。ティシューペーパーでは、ソフトネス(肌触り、柔らかさのこと)がとても重要でした。また、箱入りティシューペーパーは、1枚取り出すと次の組の一部が穴から飛び出すようになっているポップアップ式が一般的になっていますが、ティシューペーパーを取り出したときに紙粉といって、紙の細かい繊維の付着した物が飛散しないよう改善することも大切でした。トイレットペーパーには、原材料がバージンパルプ(古紙などを再生したものではなく、はじめから木材を材料にして製造したパルプ)100%のもの、バージンパルプと古紙パルプを混ぜ合わせたものなど、いろいろな種類があります。トイレットペーパーは、あまりに薄くて柔らかすぎると、お尻を拭くときに手が汚れるのではないかとユーザーが気にするため、手肉感といって、手に持ったときにある程度しっかりした感じがなければなりませんでしたが、表面がザラザラしているとお尻が痛くなることがあるので柔らかさも必要でした。そのため、設備の改善を行ったり、操業の仕方を少し変更したりするなど随分大変な思いをしながら品質改善に取り組みました。その当時、ティシューペーパーはJIS(日本工業規格〔現日本産業規格〕)規格品でなければ一流の商品ではないという風潮があり、JIS規格を取得するために苦労したことを憶えています。エリエールがJIS規格を取得したのは、国内のティシューペーパーの中でも最初くらいであったように思います。
 新商品の開発などを行うとき、最終的には社外モニターを導入することになりますが、開発初期の段階では、社外に情報が漏れないように、社員の家庭で新商品のテストを行ったり、会社が社員の奥さんを何人か集めて新商品についての意見を聞いたりしていました。赤ちゃん用の紙おむつを開発していたときには、私も紙おむつを何種類か自宅に持ち帰り、子どもに付けさせて、お尻がかぶれないか、尿漏れがないかなど、いろいろなテストをしてアンケートに協力したことを憶えています。また、トイレットペーパーにローションを掛けて、痔(じ)の人でもお尻を拭くときに柔らかく湿った状態になるかというテストを行ったことを憶えています。私が担当した商品はごく一部にすぎず、主に家庭紙事業部という関係会社を統括して企画などを行っていた部署が、次々と新しいアイデアを出していました。現在、箱入りティシューペーパーは、5箱が1パック(5個ポリ)となって販売されているのを量販店などでよく見掛けますが、そのような販売を最初に始めたのは恐らく大王製紙だったのではないかと思います。」

 キ 需要の先読み

 「営業部から、この製品の販売量が増加したから増産してほしいと要求されても、工場の設備がその製品の生産に適したものでなければ増産することはできません。また、新たに設備を建設するとなると計画に1年から2年はかかり、建設工事には2年以上かかります。そのため、会社としては、今後の需要を見極めた上で先行投資により設備を建設する、言わば『需要の先読み』をしなければなりませんが、そこが装置産業(設備投資による機械化・設備の増強により省力化・合理化が可能な産業)の難しいところだと思います。設備を新設するとき、私(Bさん)たちは、営業部から提出してもらった各得意先への現在の販売量や、今後の予測値などのデータを基にして、現在の生産量から最大限に増産した場合の不足量を計算し、それを生産可能となるように設備の新設、あるいは既存の設備の増設や改造などを計画しなければなりませんでした。最近は、インターネットを通じて商品を購入できるサービスが広がっており、そこで購入した商品は、小さな商品であっても段ボール箱に入って送られてきます。そのため、クラフトライナーや段ボールの需要がどんどん増えており、既存の設備を改善したり、場合によっては設備を新設したりして対応する必要があります。かつての大王製紙はオーナー企業で、経営者からトップダウンで指示が出されたため、一般的な会社に比べると動きが早かったことは、大王製紙が発展した理由の一つだと思います。創業者の井川伊勢吉氏、2代目の井川高雄氏ともに先を読む力に長(た)けていて、さまざまな視点から情報を集めた上で的確な指示を与えていました。大王製紙が製紙会社としては後発でありながら、業界で大きな力を発揮してきた理由の一つは、優れた判断力をもつ経営者がいたからだと思います。」

 ク 就業時間と休日

 「私(Bさん)の入社当時、勤務時間は8時から16時45分まででした。その後、8時半から17時までに変わったように思います。休憩時間は、昼休み1時間と、勤務時間の途中に小休憩の時間がありました。入社して最初のうちは定時になると退社していましたが、仕事に慣れてくるにつれて少しずつ勤務する時間が延びて、退社時刻も遅くなりました。設備の新設や増設の計画を行ったり、建設工事を行ったりしているときには帰宅時間はかなり遅くなっていました。休日は、入社当時は週1日でしたが、そのうちに週2日になりました。現場で紙を抄く社員とは勤務形態も違っていました。現場で紙を抄く社員は4組3交替でした。1勤が7時から15時まで、2勤が15時から23時まで、3勤が23時から翌朝7時までの勤務となっていて、それ以外に休みの組が1組あり、4組でローテーションを組んで回していました。一つの勤務形態が3日間続き、それを繰り返して少しずつローテーションがずれていきます。3日目の1勤が終わってから次に3勤に入るまでに、2日間の休みが入っていました。」

 ケ 全国から集まる社員

 「私(Bさん)が入社した昭和52年(1977年)は、新入社員250名のうち大学卒業者は50名で、200名が高等学校卒業者でした。その年くらいが新入社員採用のピークで、その後はやや少なくなりましたが、大半が高等学校卒業者でした。その当時も、全国各地から社員が集まっていたので、多くの社宅や社員寮がありました。それに比べて、地元である伊予三島の出身者は少なく、三島高校(愛媛県立三島高等学校)の卒業生は全体の1割もいなかったと思います。大王製紙の工場や営業所は全国各地にあり、かつて秋田県に大王製紙の工場を建設する計画がありました。しかし、秋田県の反対もあって工場の建設は実現しませんでしたが、その当時は秋田県出身者を何年間か採用していました。また、福島県いわき市にいわき大王製紙という関連工場が建設されたので、福島県や東北地方の出身者もいました。さらに、大王製紙は大学卒業者の勧誘にも力を入れていて、私も大王製紙に入社後、出身大学を何回か訪れて後輩に大王製紙への就職を勧誘したことがあり、その後は大学卒業者の社員も増えてきました。」

 コ 会社の文化・スポーツ活動

 「私(Bさん)が入社したころ、社内でソフトボール大会やボウリング大会も開かれていました。また、会社の方針として、余暇に社員のサークル活動が推奨された時期があり、周囲にも新しいサークルを作るために仲間を募っていた人がいました。女性社員の中には、茶道や華道のサークルに入って活動をしていた人もいれば、書道や盆栽をしていた人もいました。私は油絵が好きで、中学・高校でも油絵を描いていたので、美術・絵画関係のサークルに入りましたが、1年くらいで会社の方針が変わり、全てのサークル活動は中止されたように思います。また、サークル活動以外に、個人的に趣味でさまざまな文化的な活動をしていた人がいて、年に1回開かれていた会社の文化祭では、多くの人たちが自分の作品を発表していたように思います。会社では、社名を宣伝するという観点からスポーツにもかなり力を入れていて、一時期は野球部やサッカー部もありました。今はJリーグに所属しているサッカーの愛媛FCのスポンサーになっているほか、女子プロゴルフツアー大会となっているエリエールゴルフ大会を主催しています。社員が運営するゴルフ大会として、私もスタッフとして駆り出されたことがありました。私は、写真撮影をする係を務めたり、ゲストの方を車やバスで高松空港へ送迎する係を務めたりしたことを憶えています。ゴルフが好きな社員の中には、参加選手のキャディーを務めた人もいました。大会の入場チケットは、当初は社員には無料で何枚か配布されていましたが、そのうちに、なかなか入手できなくなるくらい人気が出るようになりました。」

(2)紙とともにあるくらし

 ア 手漉き和紙との関わり

 「祖母の妹に、寒川地区の手漉き和紙製造所へ嫁いでいた人がいました。私(Bさん)は、幼稚園に入る前後のころ、祖母に何回か仕事場へ連れて行ってもらい、紙漉き場で遊んだことを憶えています。また、はっきりとした根拠があるわけではありませんが、宮川地区の辺りは昔は上町(かみまち)という名前で、紙に由来する地名なのではないかと推測しています。今でも宮川地区には製紙会社が何社もあるほか、紙加工など製紙関連の業者などがあります。また、宮川地区の東にある朝日地区(旧東町)では、小学生のころには手漉き和紙を干し板に張り付けて天日で乾燥させている光景があちこちで見られました。幼いころからそのような環境で育ったため、私自身は和紙作りに関わってきませんでしたが、手漉き和紙を地元に根付いた産業として身近に感じていました。
 57歳のときに大王製紙を退職してからは、紙のまち資料館で月に1回開かれていた絵手紙教室に参加するようになりました。2年半くらい前に、当時の館長さんから、『手漉き和紙体験コーナーの指導員として、お客さんに紙や製紙についての知識を活(い)かして説明してほしい。』と声を掛けていただきました。私はそれまで和紙作りの経験がほとんどなかったので少し躊躇(ちゅうちょ)しましたが、最終的にはお引き受けすることにしました。2か月くらいの間、A先生に手漉き和紙の製法を教えていただき、ようやく私だけでお客さんに教えられる自信がつきました。それから指導員を務め始めて、今年(令和元年〔2019年〕)で3年目になりますが、昨年からは、月に1回紙のまち資料館で開かれている手漉き和紙の初級講座の講師も務めるようになりました。また、最近、両親から、曽祖父が手漉き和紙を製造していた職人だったと聞きました。曽祖父は三島の興願寺の近くに住んでいて、父が幼いときに曽祖父の家へ遊びに行くと、仕事場に大きな漉き舟が二つあり、曽祖父が紙漉きをしていたそうです。かつては手漉き和紙とは縁がないものと思っていましたが、最近になって手漉き和紙との不思議な縁を感じながら手漉き和紙づくり体験コーナーで指導させていただいています。」

 イ 水や紙を大切にする

 「伊予三島には大王製紙をはじめとする製紙会社の工場があったため、私(Bさん)は幼いころから、さまざまな機会で伊予三島は紙の町であると見聞きしていました。製紙業が発達する条件としては、良質で豊富な水が得られること、原材料の入手が容易であること、原料や製品の運搬の便が良いこと、労働力が十分に確保できることなどが挙げられます。私は、小学校から高等学校まで地元の学校に通学しましたが、子どものころから学校や家庭で、水道の蛇口から水がポタポタ落ちていると、蛇口をしっかり締めて水を大切にしなさいと教えられてきました。この辺りでは、故紙のことをほうぐと呼んでいて、業者さんがよくほうぐの回収に来ていました。今でも市内の小学校や中学校、高校では、毎年何回か故紙の回収が行われていて、市内のそれぞれの地区では、秋祭りのときの太鼓台の運行費や子ども会の運営費の足しにするために、数か月に1回の割合で故紙の回収が行われています。子どものころからそのような習慣が根付いているため、今でもゴミの中にまだ使える紙があれば分別したり、新聞や雑紙、段ボールなどを分別したりしています。私が幼いころには、故紙の裏を利用してマンガや絵を描いて遊んでいたことがありました。今は100円ショップで安い価格のメモ用紙が売られていますが、それほど重要でないメモ書きには、今でも新聞の折り込み広告の裏を利用することがあります。水やほうぐは大切なものという意識が誰に教わるでもなく地域全体で根付いているのではないかと思います。」


<参考文献>
・上分町郷土史編集委員会『上分史』 1954
・伊予三島市『いよみしま 市制10年のあゆみ』 1965
・伊予三島市教育委員会『伊予三島のくらし』 1982
・伊予三島市『伊予三島市史(下巻)』 1986
・村上節太郎『伊豫の手漉和紙』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・大王製紙株式会社『大王製紙50年史』 1995
・全国手すき和紙連合会『季刊和紙 第19号』 2000
・川之江市『川之江市閉市記念 川之江市50年の軌跡』 2004