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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)駅前のくらし

 ア 鉄道にまつわる記憶

 「昭和25年(1950年)、昭和天皇が行幸の途中で三島へ立ち寄られたとき、私(Aさん)はまだ2、3歳くらいでしたが、今でもそのときの光景をよく憶えています。私と妹は、それぞれ叔母と母に背負われて近くの踏切まで行ってみると、既に大勢の人が集まっていて、ちょうど汽車が伊予三島駅の構内へゆっくりと入って来るところでした。汽車の中には天皇陛下と皇后陛下の姿しか見えませんでした。私がいつも見ていた客車は黒色でしたが、そのときの客車は海老茶色で、菊の御紋が付いていたことをよく憶えています。
 また、私は中学校を卒業後、香川県内の工業高校へ列車通学をしていました。普段は朝8時ころに出発する列車に乗って通学していたのですが、時々、朝一番の列車に乗ることもあり、そのときには、お米屋さんやくずし屋(蒲鉾(かまぼこ)店)さんなどいろいろな業種の担ぎ屋さんが乗っていました。朝早い時間ということもあり自分たち以外の乗客がいなかったので、担ぎ屋さんたちは、自分の商品を通路に広げて物々交換をしていました。列車で目的地へ移動する間に、買い物に行く手間を省いていたわけです。私は、朝一番の列車に乗ったときには、いつもその光景を見ていました。小柄なおばあさんが、とても重そうな風呂敷を文句一つ言わずによく背負っていたものだと思います。」
 「私(Bさん)が子どものころの伊予三島駅はまだ古い駅舎でしたが、後に建て替えられました。幼稚園から小学校の低学年ころは、まだ蒸気機関車が客車や貨車を牽(けん)引していましたが、そのうちディーゼル機関車に代わりました。四国の列車が電化されたのはもっと後のことで、子どものころから乗っていた列車は汽車だったため、大阪の大学に進学してからもつい電車のことを汽車と呼んでしまい、同級生から笑われたことを憶えています。大学在学中には阪急電車をよく利用していましたが、乗り始めたころは、特急列車や急行列車に乗っても四国の国鉄のように特別料金を払う必要がなかったことを不思議に感じていたものでした。」

 イ 印象に残る食べ物

 「私(Aさん)が6歳のときに、近所の八百屋さんが、毎日リヤカーに野菜をたくさん積んで富士紡の三島工場へ運んでいました。駅前通りは北に向かって少し下っているため、リヤカーを後ろから押す必要はありませんでしたが、私はリヤカーに付いて歩くのが楽しみでした。工場の入り口に着くと、守衛さんが工場の中へ通してくれました。工場の中に入ると、若い女性従業員が自分たちで焼いた小さな食パンをくれました。それは私が生まれて初めて食べたパンで、そのときのおいしかった記憶は今でも忘れることができません。食パンの上には銀紙に包まれた四角いものが載っていて、私はそれをキャラメルだと思って口に入れると、全く違った味がしたのですぐに吐き出しました。後でそれがバターだったと知りました。私の家では米を食べるようになったのは小学校6年生ころで、それまではずっと麦御飯を食べていました。農家の子どもは自分の家で作った米を食べていたので、麦御飯を食べたことがなかったそうです。昭和30年(1955年)に林間学校へ行ったとき、生まれて初めてカレーライスを食べました。当時は料理を入れるタンクがなく、バケツに全員分のカレーを入れて運んできたので、最初は食べるのをためらったことを憶えています。また、私が中学生のころには学校給食はありませんでした。昼休みの時間になると帰宅し、昼食を食べ終わると急いで学校へ戻っていました。昼休みは1時間で、学校から自宅までの往復に40分かかったので、昼食を食べる時間は20分しかありませんでした。周りの生徒たちもみんなそうしていたので、特に不満を感じたことはありませんでした。
 私が中学生のとき、修学旅行には、自分が食べる分の米を白い糠(ぬか)袋に2合くらい入れて持参していました。旅館に着くとその米を渡し、炊いてもらった米を夕食や朝食のときに食べていました。ところが、旅館で炊いてくれた米は、私たちが渡した米ではなく営業用の安価な自主流通米で、あまりおいしくなかったことを憶えています。また、大阪ではバナナの叩(たた)き売りに出くわし、こちらでは1本100円くらいで売られていたのが、そこでは1房100円で売られていました。この機会を逃すと次はいつバナナを食べられるか分からないと思ったので、友達と一緒に1房ずつ買い、夜になり周りのみんなが寝た後で、旅館の物干し場で全て食べましたが、消化不良になって朝まで眠れなかったことを憶えています。」

 ウ 花火大会

 「私(Bさん)は子どものころ、7月25日の天神祭りの日には両親に連れられて三島神社へ花火を見に行っていました。打ち上げ花火と仕掛け花火があり、私がまだ幼かったころ、父に背負われて花火を見ていると、ゴジラが追い掛けてくるような仕掛け花火があって、とても怖かったことを憶えています。三島神社には出店がたくさん出ていました。
 また、三島神社の秋祭りといえば太鼓台ですが、昭和47、48年(1972、73年)ころから子ども太鼓ができ始めたと思います。そのころの子ども太鼓は、台の上に神輿(みこし)に見立てた酒樽(だる)を載せてかき棒を付けたような簡素なものでしたが、大学を卒業してこちらに帰って来たときには、大人の太鼓台を小型にしたような立派なものに変わっていたことを憶えています。」

 エ 自動車を購入したときの思い出

 「私(Aさん)は学校からの帰りに川之江駅で下車し宇摩自動車教習所で教習を受けて、16歳のときに運転免許を取得しました。当時、私の通っていた学校で免許を取得していたのは私だけでした。父は車が好きで、比較的早い時期に車を買ったので、私は、父のお下がりの単車に乗るようになり、会社に就職してからもしばらくの間は単車で通勤していました。当時の国道11号は、路面が舗装されておらず凸凹の状態で、私が通勤時に国道11号を通ったときには、土埃(ぼこり)のために目を開けることができないことも多かったことを憶えています。また、雨の日に合羽(かっぱ)を着て単車で通勤していると、雨粒が絶え間なく目に入ってとてもつらかったのです。私は、そのときすれ違う車のワイパーを見て羨ましく思い、車を買うことにしました。私は、販売が開始されたばかりのトヨタカローラを買おうと思いましたが、この辺りには新居浜(にいはま)にもトヨタの販売店や代理店がなかったので、列車で松山の販売店まで車を買いに行き、帰りは自分でその車を運転して帰ってきました。当時、車はまだ贅沢(ぜいたく)品で、会社でも車に乗っていたのは社長だけでした。工場長はホンダのカブに乗って通勤していて、私以外の社員はみんな自転車に乗って通勤していたのに、入社したばかりの社員が新車で通勤していたことで、少しつらい思いをしたことを憶えています。工場での仕事が午後3時に終わると、女性の従業員たちが私の車の前に列を作っていました。『潮干狩りに行くので乗せて行ってほしい。』と言うのですが、当時はまだ珍しかった車に乗ってみたかったというのが本音でした。私は、毎日仕事が終わると女性従業員を4人ずつ乗せて、土居(どい)(現四国中央市)の八日市まで潮干狩りに連れて行きました。当時の八日市は遠浅の海岸が広がっており、すぐにバケツ1杯分くらいのアサリを採ることができました。」

 オ くらしの移り変わり

 「私(Bさん)が小学生のころ、同級生の中には、家族が大王製紙や四国製紙、富士紡などの工場に勤めている人たちがいました。昭和30年代には、大王製紙が会社更生法の適用を受けていた時期があり、商店街の人たちが、大王製紙が倒産したらしいと話しているのを聞いたことがありました。当時はまだ小学生だったので、会社が倒産するということがどういうことかよく理解していませんでしたが、工場の煙突から煙が出なくなり、友人が少し寂しそうな雰囲気だったことは感じていました。
 昭和40年代は、恐らく商店街が最も賑わっていた時期だと思います。昭和40年ころになると、皆さんが個人商店だけでなくデパートへも買い物に行くようになっていたと思います。そのころ、まだ家庭に車は普及していませんでしたが、休日には家族で高松や松山、新居浜のデパートへ行き、食堂やレストランでカレーライスなどを食べるのが贅沢という感じでした。昭和50年(1975年)に富士紡が閉鎖されるまでは、仕事帰りに夕食の買い物をするお客さんなどで賑わっていましたが、50年代には多くの家庭で自家用車を持つようになり、遠出をしてデパートなどで買い物をする方が増えました。そのため、地元の商店街で買い物をするお客さんが少なくなり、閉店したり撤退したりする店が増えてきたと思います。」

(2)靴店を営む

 ア 老舗の靴店

 「私(Aさん)の店は祖父の代から始まった靴店で、今年で創業から90年くらいになります(図表1-2-2の㋠、写真1-2-10参照)。父が出征したときには既に営業しており、私は、戦地に向かう父とそれを見送りに来た叔父たちがこの店の前に並んで写っている写真を見たことがあります。祖父は、県内各地から靴職人を店に受け入れ、店で靴の注文を取って、職人に靴を作るための技術を教えながら給料を払っていました。私が子どものころ、店では今治(いまばり)や横河原(現東温(とうおん)市)、大洲(おおず)の方からやって来た職人が住み込みで働いていました。店では職人はいつも一定の間隔で椅子に座って作業していて、私はその間に椅子を置いて座り、ほとんど無言で見ていました。職人が朝8時から仕事を始めると夕方5時には1足の靴ができていて、私はそれをずっと見せてもらっていました。私は、子どものころから靴の製造工程を見て育ったので、靴は粘り強く丁寧に作るものであると自然に受け入れることができました。靴作りの経験のある人で今も靴店を経営している人は、業界全体でもほとんどいないのではないかと思います。」

 イ 住み込みで働いていた職人

 「私(Aさん)の店には靴職人3人と、製甲士といって靴を作る前段階の作業を行う職人1人がいました。製甲士がミシンで靴のアッパー部分の革をきれいにつなぎ合わせたものを作り、靴職人がそれを受け取って靴を作っていました。靴職人が靴を作るためには、製甲士は前日のうちに必要な革を作っていなければなりませんでした。最も良い靴を作るための革は、机の面積くらいある革から中央部分を裁断して作っていました。物不足の時代には、切り落とした部分の革も貴重だったのでミシンで縫い合わせ、割りを入れた所を作って、靴の内側部分に使用していました。1人の靴職人が1日に1足くらいのペースで靴を作っていたので、靴職人が3人いると製甲士は3足分のアッパーを作らなければなりません。そのため、製甲士はとても忙しく仕事をしていて、2階の部屋でいつも黙々とミシンを動かしながら作業していたことを憶えています。当時はまだ電動ミシンはなく、工業用の足踏みミシンを使って作業をしていました。普通の人は、縫うのが難しい所では一旦ミシンを止めるものですが、その人はミシンを1回も止めることなく作業していたので、私は、『こんなことはあり得ない』と驚きながら見ていました。
 その当時の靴店は、お客さんから、何円の靴を作ってほしいという注文を受けて作っていました。当時、靴1足の値段は3千円くらいで、学校の先生の初任給とほぼ同じでした。私の店では、商品を高級な靴、中級の靴、急ぎの注文に分けて、それぞれの職人の適性に応じて仕事を割り振っていました。4千円くらいの高級な靴であれば最も高い技術をもっていたaさんに、3千円くらいの中級の靴であれば標準的な技術をもっていたbさんに、急ぎの注文であればcさんに作らせることにしていました。cさんは器用で手早く作業していたので、aさんやbさんが1日に1足のペースで靴を作るところを、2日で3足のペースで靴を作ることができましたが、aさんやbさんの作った靴に比べると少し雑な出来上がりになっていました。仕事は早くて丁寧なのが理想ですが、手早いと同じレベルの仕事をさせたときにどうしても雑になるものなのです。靴職人の皆さんは10年くらい修業すると独立し、それぞれの地元に帰って店を開いていました。一般的に、靴職人は内向的な方が多く、自分で仕事を取ってくることが不得手だったため、いずれの店もあまり上手(うま)くいっていなかったように思います。例外だったのはcさんで、独立してからも店舗を構えず、車に多くの靴を積み込んでは工場や学校などへ外商に回り、量販に成功していました。このような商売の方法は、当時としては珍しいことでした。」

 ウ 祖父の思い出

 「祖父の代は、物不足と、今のように流通体制が確立していなかったこともあって、人づてに革があると聞くと、出向いて物々交換で手に入れていました。祖父は90歳ころに、私(Aさん)に、『私の時代は、売る靴があれば右から左に売れていましたが、これだけ物余りの時代になると靴を売るのは大変です。あなたの代は大変です。』と言っていました。誰しも年齢を重ねると自分の苦労話をしたがるものですが、祖父は、私の代のことを冷静に見通していたことを今でも忘れることができません。祖父は20年以上前に亡くなりましたが、私は靴作りの姿勢について、祖父に最も感化されました。祖父は大変な働き者で、お客さんから注文を受けると夜中でも仕事をしていました。また、ほかの人に頼み事をめったにしない人で、靴職人として靴を縫っていたので縫物も苦ではなかったのかもしれませんが、自分の衣服の継ぎを自分で行っていました。母はそのような祖父の姿を見ていつも感心していましたし、私も、祖父の姿こそ職人の基本だと思ったものでした。」

 エ 靴店を継ぐ

 「私(Aさん)たちの時代は工業が全盛の時代で、私は中学校を卒業すると香川県の工業高校に進学しました。私は機械科に入りましたが、電気工事の方法などを実習などで一通り身に付けたおかげで、大抵のことは自分でできるようになりました。駅前通り商店街のイベント中に雨が降ってきて、コンセントから火花が散ったとき、商店街のほとんどの人たちは、『火花が出て恐ろしい。』と言ってそのまま放っていましたが、私は工業高校で学んだおかげで、簡単にコンセントを修理することができたということがありました。私は高校を卒業すると地元の製紙会社に就職して3年弱勤務しましたが、昭和45年(1970年)ころに退職して実家の靴店で働くようになりました。私にとって靴店は生活の一部だったので、違和感なく仕事に入ることができました。
 祖父の代には、毎朝6時に開店し、店の前をほうきで掃いて水を打ち、夜8時に閉店していました。当時はどの店でもそれが当たり前のことでしたが、父は、祖父の後を継いでからもそのやり方を律義に守っていました。私は、このままでは将来店が成り立たなくなると思い、あるとき父に、『朝から道具を売るわけでもないのに、6時に店を開ける必然性がないでしょう。』と言いましたが、父は、『お前は何も分かっていない。』と言って、聞く耳を持ってくれませんでした。父が80歳で亡くなったとき、親戚の人たちからは『頑張らないかんよ。』と言われました。しかし、私は若いころから、父に代わって実質的に店のことを切り盛りしてきたので、特段構えるようなことはありませんでした。」

 オ 既製品の時代に

 「私(Aさん)が靴店で働くようになるまでは、お客さんが欲しい靴を靴店に注文して作ってもらっていました。父の代になっても店の職人は3人だったので1日に3足くらいしか靴を作ることができませんでした。父は手先があまり器用な方ではなかったので、注文の増加に対して上手く対処することができず、約束していた期日の1週間後にようやくお渡しするようなこともありました。私が店で働き始めたころから、既製品が少しずつ出回るようになりました。私は、これからは既製品の時代だと感じたので、それまでの商売のやり方を新しい時代に即したものに早く切り替えるとともに、これまでの靴作りの技術も何とか活(い)かしていきたいと考えていました。店に入ると父から商品の仕入れを任されましたが、私は既製品に大変興味がありました。私の店と取引があったのは、富山から東京の浅草へ出てきて家族経営で靴を製造していたメーカーで、担当者がこちらへ商品の販売に来てくれていました。宇高連絡船がなかった時分には、児島(こじま)(岡山県)の漁師さんに頼んで丸亀(まるがめ)(香川県)まで乗せてもらっていたそうで、大変な苦労があったと思います。
 現在、問屋や各メーカーの担当者が四国の取引先の店を回るときには、列車を乗り継いだり、高松まで列車で来て、高松からはレンタカーを借りたりしています。四国中央市は、四国の中央部に位置し四国のどこへ行くにも通ることになるため、立地条件としては有利だと思います。新居浜の靴店は中心商店街にあり、列車を利用したときには駅から少し遠いため、こちらから西条や今治、松山の靴店を回る予定の方が新居浜に寄らないこともあるそうです。今は、伊予三島駅から列車は1時間に1本くらいの間隔で発車しているので、担当者との商談に30分以上かけないようにしています。担当者がトランクから靴を出している段階で、ある程度仕入れる靴を決めておき、最終的には値札を確認して、想定していた値段よりも安ければ2倍仕入れて、高ければ仕入れをやめるようにしていました。そのため、担当者は商談を終えても駅で列車を待つ時間の余裕がありました。また、担当者は、毎月わざわざ遠方から商談に来てくれているので、私は担当者との商談の時間を大切にしています。昔は、メーカーの高い地位にある人が他社から引き抜かれるということがよくありました。それはお得意さんとノウハウを持っていたからですが、今はヘッドハンティングされるような人材が見当たりません。最近、私の店に商談に来たメーカーの担当者がトランクに靴を入れたままで商談を始めたので、私が、『トランクから靴を出さないの。』と聞くと、『出すんですか。』と答えました。また、普通は、トランクから出した靴のつま先を相手側に向けるものですが、その担当者は、靴のかかとを私の方に向けていた上に、靴には値札が付いていなかったので、とても驚いたことがありました。聞いてみると、その人は前日まで紳士服の量販店に勤務していたそうで、何も教わらないまま商談に来ていたわけです。」

 カ 展示会へ出掛ける

 「浅草のメーカーの担当者が商談に来たとき、私(Aさん)がもっと良い靴がないか尋ねると、『こちらに持って来ているのはごく一部で、東京へ来てくれればもっとたくさんの靴をお見せできます。』と教えてくれました。私は、それからは浅草で開かれていた展示会へ足を運ぶようになりました。私が東京へ頻繁に行くようになったのは40歳を過ぎたころだったと思います。その時分には近隣にもメーカーの代理店があり、私は、広島(ひろしま)や松山などでの展示会に行っていましたが、ほかの靴店との差別化を図ろうと考えていたとき、東京の台東館という大きな会場に数多くのメーカーが参加して行われる展示会の案内が届きました。その展示会には革生協に加盟し実績のあるメーカーしか参加することができませんでしたが、私の店と取引のあったメーカー8社のうち5社くらいが参加していました。私が東京へ行くとき、宿泊費がもったいないので最初は寝台列車を利用していましたが、レールの継ぎ目の音が気になって眠れなかったので、その後は主に新幹線を利用していました。当時、この辺りの店の人で東京へ仕入れに出掛けるような人はいなかったので、『東京まで仕入れに行ってすごいですね。』とよく言われたものでした。
 私が行っていた展示会には、東京の台東館に80社くらいが集まっていて、量販店も仕入れに来ていました。量販店では大量の商品が必要となり、受け身では商品が集まらないため、自ら出向いて商品を探さなければならなかったのです。私は展示会に仕入れに来ていた店の中では一番小さなお店でしたが、おかげで商品を見る目が肥えました。各階にブースがあり、1日でほとんどのブースを回りました。展示会に行ってありがたかったのは製造元の方もブースに控えていたことでした。私の店に出入りしていたメーカーは、商品を右から左に流してペーパーマージン(実際に業務を行わず伝票上だけで業務を行ったことにしたり、他の業者に権利の貸与などをしたりすることで得る利益)を受け取る販売者で、製造元ではありませんでした。メーカーの方は、お客さんから試作品の靴について質問を受けると、自分のブースに控えている製造者を呼んで説明してもらっていました。多くのブースを回っていて怖いのは、注文する商品が重なってしまうことです。製造元も特定のメーカーだけに納品するわけではないので、同じ靴がいろいろなメーカーから販売されていることがあるのです。私は展示会が終わると、メーカーの方がすぐに地方を回ることができるように、ブースの棚に陳列されていた靴をトランクに詰める作業を手伝っていました。
 東京の展示会に行ったときには、私は必ず浅草の二天門付近にあった古い旅館に泊まっていました。その旅館には、東北地方や九州地方から来ていた同業者の人たちも泊まっていて、夜になると、その人たちと、メーカーの担当者や製造元の方を交えてお酒を酌み交わすことがありました。そこでは靴に関する貴重な情報をたくさん得ることができました。」

 キ 革靴作りの技術を活かして

 「先日、新居浜から靴の修理の依頼に来たお客さんがいました。そのお客さんは、私(Aさん)の店で革靴の修理をしてもらえると人づてに聞いて来た、とのことでした。私は、新居浜から三島まで何度も来ていただくのは気の毒なので、店内で待っていただいてその場で修理しました。すると、そのお客さんは帰り際に、『Aさん、お店をやめないでくださいね。』と言っていました。このようなことを言われるのは、今ではどの靴店もかかとの打ち替えすら行わなくなったからです。お客さんが修理してほしいと思ってわざわざ店に持って来るような靴に悪い靴はありません。私は、そのお客さんはもう一度履きたいと思うほど良い靴に出会ったのだと考えています。
 店が私の代になってからは、靴作りの技術を応用し、ジャンパーや手袋、鞄(かばん)、ベルトなど靴以外の革製品の修理も請け負っています。私は、お客さんからハンドバッグを黒色に染め直してほしいと依頼されたことがありました。そのバッグは高価なものでしたが、修理を引き受けてくれる店がなくて困っていたそうです。私は左官屋さんの壁の塗り方からヒントを得て、手で薄く塗り広げる作業を3回繰り返しました。染料にはシンナーが含まれているため中毒にならないように、1日に使用する染料はスプレー缶2本までと決めて、作業中には防毒マスクを着用するようにしています。ハンドバッグは靴よりも表面積が大きいため、スプレー缶入りの染料を4本も使用することになりましたが、お客さんは『バッグが生き返りました。』と言って大変喜んでいました。
 あるとき、お客さんから、ブランド物の合成皮革製のバッグの染色を依頼されたことがありました。私が『私の店では革製品は染めていますが、合成皮革の製品は染めていません。』と言うと、お客さんが『駄目でも構わないので、私の目の前でやってみてほしい。』と言うので、言われたとおりやってみると染色することができました。すると、今度はそのバッグを見た近所のお客さんから、同じブランド物のバッグの染色を依頼されました。お客さんの話では、そのブランドのバッグは独特の模様が売りなのですが、何年も使っているとその模様に飽きてきて、バッグの色を変えることができないかと思ったのだそうです。私も、そのときに舶来物の製品でも染色することができると分かったので、とても勉強になったことを憶えています。
 また、あるときは、お客さんから革製のジャンパーを染め直してほしいと依頼されたことがありました。そのジャンパーは長い間着用されていて、元々黒色だったものがねずみ色に変色していました。ジャンパーの表側だけでなく裏側も染める必要があったため、染料を2本使うことになりましたがきれいに染め直すことができました。それから数日して、60歳くらいの女性のお客さんから、御主人の羊革製ジャンパーの修理を依頼されました。ジャンパーはハンガーに掛けて収納すべきところを畳んで収納していたため、表面がカビで真っ白になっており、お客さんはとても困っていました。私は、『カビを取り除くと白い縁が残ってしまうので、染めてカビを隠すしかありません。』と言って、軽い気持ちで修理を引き受けました。ところが男性用のジャンパーは鞄よりも表面積が大きいため、スプレー缶入りの染料を3本も使うことになりました。そのため、室内にはシンナーの臭(にお)いが充満してしまいましたが、お客さんには大変喜んでいただいたことを憶えています。
 日本経済が右肩上がりの時代にはどの店もそれなりに商売が成り立っていましたが、今のように競合の激しい時代には、この店のものでなければ駄目だとお客さんに思ってもらえるような商品がなければ、お客さんは買いに来てはくれません。革靴を含む革製品の修理は、ほかの靴店にはできない、私の店の強みだと思っています(写真1-2-11参照)。私は、これは難しいなと思うような依頼を受けたとき、この仕事をすることで私自身が一つ上の段階に成長できると考えて、できるだけ引き受けることにしています。そのような仕事が上手くいったときの達成感はお金では得ることができないもので、私はいつも『これで責任を果たせた、次に今回のような依頼があっても気持ち良く引き受けられるな』と思うのです。」

 ク 商店街活性化のために

 「私(Aさん)は、県振連の監査を務めていたころ、その間に実施された県外の先進地への視察研修には全て参加していました。最初は10人くらいの会員が参加していましたが次第に参加者が減り、会員よりも県職員の参加者の方が多くなりました。研修では、県の担当者が、視察地の県の担当者や商店街の方々との交流の場を設定してくれた上に、交通費まで負担してくれました。
 バブル景気のころから平成の初めころにかけて、駅前通り商店街の皆さんは、商店街にお客さんが来ないので商売が面白くない、商店街に駐車場があればもっとお客さんが来るのに、とよく言っていました。しかし、私は県外先進地の研修に参加して各地の商店街の様子を見ていたので、商店街にお客さんが来ないのは駐車場がないからではなく、魅力のある店がないからだと考えていました。今は駅前通りのあちこちに駐車場ができていますが、それでも商店街へ買い物に来るお客さんが増えているわけではありません。
 私が研修に参加して中国地方のある商店街を訪れたとき、人通りは少なく閑散としていました。その商店街のある市では、地元の大きな企業の経営状態が悪化して事業を縮小したため、全ての関連業者も引き上げてしまったということでした。私はその話を聞いて、企業の従業員やその家族が町から出て行くとその町は寂れてしまうということを実感しました。また、私が生きている間に大きな企業といえども破綻しないという保証はないと思ったので、行政や企業に頼らないで自分たちの力で町の活性化を図ろうと決心したことを憶えています。
 研修では全国各地を訪れましたが、そのときに感じたことは、まちづくりの先進地では行政が手厚い協力や支援を行っているということでした。ある年の研修で埼玉県の秩父市を訪れたときには、埼玉県の係長も出席していました。そのときに係長は、『みやのかわ商店街は、ナイトバザールなどを通じて秩父市みやのかわの名前を全国に発信してくれたので、県としてもそれに見合った支援を行わなければならないと思っています。』と話していて、実際に、商店街が申請した金額以上の補助が県によって行われたそうです。行政からそれだけの支援をしてもらえると、商店街の方々も頑張ろうという気持ちになると思います。私は、まちづくりというものは一朝一夕には進まないと思い、これまで辛抱強く取り組んできましたが、行政に応えてもらえるようになったのは最近のことなので、まちづくりに取り組まれている地域の皆さんには、気長にやってくださいといつも話しているのです。」


<参考文献>
・伊予三島市教育委員会『伊予三島のくらし』 1982
・伊予三島市『伊予三島市史(下巻)』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県生涯学習センター『愛媛の技と匠』 1998
・伊予三島商工会議所『伊予三島商工会議所創立50周年記念誌』 2001
・伊予三島市『市報いよみしま 平成15年8月号』 2003

写真1-2-10 店内の様子

写真1-2-10 店内の様子

令和元年12月撮影

写真1-2-11 かかとが修理された靴

写真1-2-11 かかとが修理された靴

令和元年12月撮影