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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)さまざまな店

 ア 子どものころの記憶

 「私(Aさん)が子どものころ、近所の八百屋さんの隣にあったたばこ屋さんは、店から少し突き出た出窓のような所でたばこの対面販売をしていて、店の中では駄菓子などを売っていました(図表1-2-2の㋐、㋑参照)。値段が安く自分のお小遣いで買うことができたので、私はよくそこへ通っていたことを憶えています。店内では、今のようにきれいに包装されたお菓子ではなく、小分けにできる駄菓子などが瓶に入って売られていました。私はそこで買ったピーナッツを1週間食べ続けて鼻血が出てしまったため、それからは一時期、ピーナッツを食べることを控えていたこともありました。また、駅前通りには、看板を上げることもなく鋸(のこぎり)の目立てをしていた職人さんがいました(図表1-2-2の㋒参照)。非常に地味な業種でしたが、私はどのように仕事をしているのかとても興味があったので、その職人さんの家の前を通るときにはいつも作業風景を見ていたことを憶えています。」
 「私(Bさん)がまだ小さかったころ、パチンコ店の隣に駄菓子屋さんがあり、新町などにも駄菓子屋さんがありました(図表1-2-2の㋓、㋔参照)。私は親からお小遣いをもらって、そうした店で時々駄菓子を買っていたほか、近所にあった貸本屋さんへもよく行っていました。国内で初めてプラモデルが発売されたのは昭和30年代だったと思います。昭和35、36年(1960、61年)ころ、駅前の交差点の近くにはプラモデルを専門に販売していた店がありました(図表1-2-2の㋕参照)。私が生まれて初めて実物のプラモデルを目にしたのがその店で、小学生のころには、友人とよくそこでプラモデルを買っていたことを憶えています。また、私が中学生のころですから昭和40年代前半の話になりますが、鋸の目立てを本業としていた方の家でもプラモデルを販売していて、私はそちらへもよく買いに行っていました(図表1-2-2の㋒参照)。また、そのころは、フジヤさんでもプラモデルが販売されていました(図表1-2-2の㋖参照)。」

 イ 食料品を扱う店

 「今では国道11号バイパス沿いをはじめとして多くの大型店ができたため、お客さんはそうした店で買うようになりましたが、当時は、駅前通り商店街に自転車であちこちから買い物に来ていました。スーパーマーケットへ行けば何でも買い揃(そろ)えることができますが、昔の人は八百屋さんや鮮魚店などの専門店を回って買い歩くことを苦にしませんでした。当時、毎日のように買い物に行っていたのは八百屋さんや鮮魚店でした。魚市という鮮魚店は、店の隣で惣菜などの食料品を販売するようになっていて、カネマサ食品デパートという店名で営業していたほか、魚元という鮮魚店の向かいで仕出し屋さんも営業していたことを私(Aさん)は憶えています(図表1-2-2の㋗、㋘、㋙参照)。」
 「まるいち乳業では、雪印の製品の代理販売を行ったり、スーパーマーケットなどにアイスクリームや氷菓を卸したりしています(図表1-2-2の㋚参照)。まるいち乳業は元々製氷店で、その当時は、店頭でかき氷の販売も行っていたことを私(Bさん)は憶えています。息子さんの代になってから牛乳を扱うようになりましたが、今は牛乳よりもアイスクリームが主な商品になっているのではないかと思います。また、店の向かいには事務所がありました。」

 ウ 自転車預かり所

 「当時はまだ車社会ではなかったので、伊予三島駅から列車に乗る人は駅まで自転車で来ていました。そのため、駅の周辺には自転車預かり所が何軒かあり、駅前の交差点の角にあったたばこ屋さんは自転車預かり所も経営していました(図表1-2-2の㋛参照)。その店では、自転車預かり所をやめた後、川之江に本店がある菓子店のお菓子を販売する傍ら、宝くじやたばこの販売を行っていましたが、つい半年前に閉店しました。私(Aさん)も長年にわたっていろいろな店を見てきましたが、一般的に、奥さんが仕事を手伝えなくなった後も御主人だけで営業を続けている店は少ないように思います。奥さんがどれだけ店を支えてきたかということがよく分かります。」

 エ 食堂

 「当時、伊予三島駅前の交差点の角には白菊食堂があり、その西隣にあったマルキン食堂は現在も営業しています(図表1-2-2の㋜、㋝参照)。また、駅前通りと国道11号の交差点付近には翠松館という大きな料亭があり、そこで宴会が開かれたときには芸者さんが出てくることもありました(図表1-2-2の㋞参照)。翠松館の向かいには翠波食堂がありましたが、翠松館と翠波食堂の経営者は兄弟でした(図表1-2-2の㋟参照)。駅前の辺りには、そのほかにも食堂が結構あったことを私(Aさん)は憶えています。昔は広さが2坪くらいの店が結構あり、そういった店は土地を借りて入っていて、短期間ですぐに別の店に変わっていました。そのような小さな区画の店まではなかなか憶えられませんでした。」

 オ 電器店

 「靴店を営んでいる私(Aさん)の家の向かいには、ナショナル製品の家電を販売していた電器店がありました(図表1-2-2の㋠、㋡参照)。私が10歳くらいまでは家にテレビがありませんでしたが、向かいの電器店の御主人が、居間の窓から毎日2時間くらいテレビを見せてくれたので、まるで映画館で映画を観(み)るように、窓からテレビを見ていたことを憶えています。当時のテレビは脚付きで、画面を拡大して見せるため、ブラウン管の前にレンズのようなものをぶら下げていました。私の家にテレビが入っても父がチャンネル権を持っていて、私は見たい番組をあまり見せてもらえませんでした。上皇様の御成婚(昭和34年)のときにはまだ白黒テレビでしたが、テレビが普及するきっかけになり、昭和39年(1964年)の東京五輪のころに一段と普及しました。また、家の近所にはもう1軒電器店があり、その店では日立製品の家電を販売していました(図表1-2-2の㋢参照)。どちらかの電器店で買い物をすると、もう一方の電器店からは丸見えだったので、近所付き合いを考えると本当にやりにくかったことを憶えています。」

 カ 写真店

 「私(Bさん)の父は駅前通り沿いで写真店をしていました(図表1-2-2の㋣参照)。父は、最初はほかの写真店で修業した後、私が生まれる1、2年くらい前に独立して店を開いたそうです。店を始めたころは主に写真の撮影を行っていて、婚礼などがあるときには出張して撮影していたそうですが、やがて、写真材料の販売やフィルムの現像、白黒での焼き付けなどの商売を行うようになりました。店での接客は母の仕事で、お客さんからフィルムの現像や写真のプリントの注文を受けたり、フィルムやアルバムの販売を行ったりしていました。
 富士紡(富士紡績三島工場)の社員寮は工場に隣接していたため、女性従業員の皆さんが駅前通り商店街にも結構買い物に来ていて、うちの店にも多くの従業員さんが来てくれていたそうです(図表1-2-2の㋤参照)。そのころ、オリンパス・ペンなどの比較的安価なコンパクトカメラが発売され、どこかへ出掛けたときに記念写真やスナップ写真を撮影する人たちが増えてきていました。富士紡の女性従業員の皆さんも、遊びに行ったときに撮影した写真のプリントを私の店で注文してくれました。そのため、父はいつも私を寝かしつけた後、夜中に暗室に籠もって忙しく仕事をしていましたが、母は、富士紡の女性従業員さんなどのおかげで、店をそれなりに大きくすることができたと話していたことを憶えています。世間が行楽シーズンのときには、店がとても忙しくなっていたので、家族でどこかへ出掛けることはできませんでした。店が少し落ち着いたときに他所(よそ)へ連れて行ってもらったり、夜に映画を観に行ったりしていました。あるとき、高松(たかまつ)や松山(まつやま)へ遊びに連れて行ってもらったとき、周りがあまりに閑散としていたので、私は両親に、『何でこんなに人がおらんの。』と聞いていたことを憶えています。私が初めて四国の外へ出たのは、中学卒業後の春休みに、両親に大阪や伊勢神宮に連れて行ってもらったときでした。そのとき初めて飛行機に乗り、高松空港から伊丹空港まで移動しましたが、狭い飛行機で、離陸して高度が上がったと思ったらすぐに下りるような感じがしたことを憶えています。私は大学を卒業すると大王製紙に就職し、店を継ぐことはありませんでした。最近、両親も高齢になったこともあり閉店しました。」

 キ 呉服店

 「伊予三島では製紙業以外にも紙加工業が盛んで、祝儀用品である水引金封の生産も大変多くなっています。水引金封は手作業の部分が多く、ほとんどの生産は家庭での内職に頼っています。家庭では加工業者から出来具合に応じてお金を受け取っていて、大きな副収入になっていたと思います。私(Bさん)は、伊予三島の呉服店では、値段の高い、良い商品を置いていても比較的早く売れるという話をよく聞いたことがありました。今でも新町商店街や本町商店街には大きな呉服店が残っています。」

 ク トーヤデパート

 「トーヤデパートは、当時、個別の商店ではお客さんを集めることが難しくなってきたので、いろいろな業種の店が共同出資して始めた店でした(図表1-2-2の㋥参照)。最初は、駅前の近くの5軒くらいの店が出資し、その後は周辺の地域からも出資者が集まったと思います。トーヤデパートができたとき、商店街に大きなインパクトを与えたことを私(Aさん)は憶えています。全国の協同組合の店が早い時期に見切りをつける中、トーヤデパートはかなり遅くまで営業していましたが、富士紡の跡地にスーパーマーケットのフジが出店すると、トーヤデパートの何軒かの店がフジに移って出店していました。」
 「昭和40年(1965年)にトーヤデパートができました。トーヤデパートは、この近くの18店舗の方々が出資してできた協同組合の店だったのでトーヤデパートと名付けられました。そのうちに店舗が入れ替わり、だんだん店舗も減っていきました。
 トーヤデパートの屋上には長い間観覧車や、100円玉を投入口に入れると10分から20分くらい動く乗り物があったほか、ゲームセンターもありました。私(Bさん)は小学生から中学生くらいまでは、放課後や休日に友人たちとよくそこへ遊びに行っていたことを憶えています。」

(2)商店街の賑わい

 ア 楽しみにしていた映画

 「その当時、私(Aさん)たちの娯楽といえば映画を観ることでした。駅前通りにはキリン館と東映(三島東映)の2館の映画館があり、マルシン劇場やセントラル劇場と合わせると三島全体で映画館が4館もありましたが、今ではそのようなことを知っている人はほとんどいないと思います(図表1-2-2の㋦、㋧参照)。当時の映画館では、最低でも2本立てで上映されていて、3本立てのときはとてもうれしかったことを憶えています。それぞれの映画館では異なるジャンルの映画が上映されていたので、お客さんは好きなジャンルの映画を選んで観ることができました。キリン館が開館したのは私が8歳のとき(昭和30年〔1955年〕)で、材木置き場だった場所に映画館の建設が行われていたのを、家の前で毎日のように見ていたことを憶えています。キリン館は共同経営の映画館で、大映の映画を中心に上映していましたが、昭和の終わりころに取り壊され、平成元年(1989年)、その跡地にホテルができました。東映はチャンバラ映画や任侠(きょう)映画を中心に上映していて、セントラル劇場は宮川地区にあり、ここからは遠かったのですが、赤胴鈴之助やゴジラなどの映画がよく上映されていて、子どものころに最も多く行っていた映画館でした。マルシン劇場にも洋画を観に行っていましたが、洋画は字幕を見なければならないので、映画を1本観終わると疲れていました。昔は、いついつからこの映画の上映が始まるので、映画を観に行くことができるように毎日仕事を頑張ろうと思っていましたが、今ではそのような思いをして映画館へ行っている人はあまりいないのではないかと思います。」
 「私(Bさん)が小さかったころ、東映では時代劇というかチャンバラ映画が全盛期で、両親に三島東映へ連れて行ってもらったことがありました。小学生のころは、東宝の怪獣映画や戦争映画を観るためにキリン館へよく行っていました。また、洋画のアクション映画なども好きだったので、マル劇で『007シリーズ』の1作目か2作目を観たことがありました。当時の少年雑誌に『007シリーズ』がよく取り上げられていたので、どうしても観てみたいと思ったのです。当時、小学生だけでの入館は禁止されていたのかもしれませんが、私は小学校6年生のころ、学年全体でも身長が高い方で中学生とよく間違えられるくらいだったので、映画館の入り口で見とがめられることはありませんでした。」

 イ いよみしま三日市

 「私(Aさん)たちは、昭和61年(1986年)から近くの西参道商店街(本町商店街)にある市営駐車場で、毎月3日に三日市を開催していました。県内では三島よりも早く八幡浜(やわたはま)の八日市、西条(さいじょう)の五日市が行われていて、三島の三日市は西条の1年後に始まりました。私は、三日市を始めるに当たり、五日市を開催していた直方(のおがた)(福岡県)へ研修に行ったり、中小企業大学校で勉強したりして、ノウハウを身に付けました。業者さんには、場所代は必要ないこと、テントもこちらで準備することを伝えて出店を呼び掛けました。私は、毎月2日の夜には会場にテントを張って、3日の夜に撤去していました。三日市では、三日市うどんや四国駅弁、野菜、じゃこ天、生花、高知県の特産品などを販売しました。駅弁の販売では、四国4県の駅弁を取り寄せて一番歩留まりが良いものを販売していて、高松駅や松山駅から駅弁を取り寄せたほか、岡山駅からも取り寄せたことがありました。駅員さんが弁当のケースを降ろすという余計な仕事を嫌がったので、私は一輪車で駅のホームまで弁当を取りに行っていました。三日市の最後のころには、私は朝5時にこちらを出て、高速道路を利用して車で弁当を取りに高松まで行っていました。駅弁は全てこちらの買い取りだったので、売れ残ってもJRに迷惑を掛けることはありませんでしたが、雨天のときなどに弁当が売れ残ると、私が買い取って持ち帰っていました。本町商店街の人からは、『自分の商店街でもないのによくやる。』と言われましたが、私は、『町なかに集客を図る手段としてやっているのです。』と言っていました。しかし、三日市に出店していた業者さんが、『80歳を超えて後継ぎもいないのでこの辺りでやめたい。』と申し出たので、三日市に関わっている方々の了承を得た後、30年目にやめることにしました。」

 ウ ナイトバザール

 「三島では、みなと祭が毎年7月23日から25日まで3日間にわたって盛大に開催されます。初日の23日には市民踊り連が競い合う踊り大会、24日には招致踊り連や太鼓演奏などで賑(にぎ)わうナイトバザールが催され、最終日の25日には、三島港を舞台に天神祭花火大会が行われます。私(Aさん)たちが平成7年(1995年)にナイトバザールを開始してから今年で25年目になりますが、始めたことを途中でやめるくらいなら最初からやらない、という思いで始めました。ナイトバザールを始める以前に、私は県振連(愛媛県商店街振興組合連合会)の研修で埼玉県秩父(ちちぶ)市を訪れたことがあり、市の中心商店街であるみやのかわ商店街では、地域の伝統的な祭りである『秩父の夜祭』にヒントを得て『ナイトバザール』を実施していました。昭和62年(1987年)に始まったナイトバザールは、毎月(現在は隔月)第三土曜日の夜に国道の一部を歩行者天国にして開催され、地元の名産品を中心に多くのものが出品され、工夫を凝らしたイベントで賑わっていました。商店街の規模は駅前通り商店街とほぼ同じだったので私たちにもこのような催しができるのではないかと考え、新たな催しを企画するためのレジュメ資料を作成しました。その後、年度替わりの時期になって県から補助金が出ることになったため、駅前通り商店街の主催でナイトバザールを始めることになりました。
 最初は駅前通り商店街の人たちだけで始めたので、イベントの名称も駅前ナイトバザールとなっていました。商店街の人たちには、このイベントを行うことになった経緯を説明した後に予定表を配布して、『最初はこのとおりに行ってください。回を重ねるごとに自分のものにしていってください。』と伝えました。県からの補助金は単年度で終わりだったので、来年はどうやって開催しようかと思っていると、伊予三島市の当局から、地域の活性化のためにナイトバザールに協力させてほしいとの申し出があり、100万円を支援してくれることになりました。また、伊予三島商工会議所と伊予三島商店街連合会からも援助してもらって、合計170万円の事業費で何とかやり繰りしています。私は、事業費が多すぎると補助金を縮小されたときに続けられなくなると考えて、身の丈に合わせて事業を実施しています。
 ナイトバザールは開始当初から7月24日に実施されていますが、計画段階から、当日が平日であっても多くのお客さんに来場してもらうためにはどうすればよいか考えていました。7月24日だと学校は夏休みに入っているので、子どもたちは来場することができますし、夜7時の開始であれば、夕方5時まで仕事をしている方でも来場することができると考えました。そのようにして一つ一つ計画を進めていく中で、駅前通りを通行するバスの問題が残りました。ナイトバザールの時間帯にバスを通行止めにできればよいのですが、この近くにバスが迂(う)回できるような道路がありませんでした。そこで、駅前通りを通行する最終便が夕方6時だったので、それから少し余裕をもたせて夜7時をナイトバザールの開始時刻としました。終了時刻については警察から、夜9時半以降の実施は認められないと言われており、警察の方の御苦労も知っているので終了時刻を守るために参加する団体数を制限するようにしています。私たちは、事故のないように、来場者の期待を裏切らないようにということを常に考えながらナイトバザールに取り組んでいます。」

図表1-2-2 昭和40年ころの駅前通り商店街の町並み

図表1-2-2 昭和40年ころの駅前通り商店街の町並み

Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成。民家は表示していない。