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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 赤石鉱山①

(1)赤石鉱山の概要

 赤石鉱山は、四国中央市土居町上野(うえの)に鉱山事務所があった。採掘現場は、東赤石山(ひがしあかいしさん)北側斜面中腹の標高約1,300mの位置にあり、操業当時は鉱山事務所より徒歩で4時間を要した。
 鉱床は明治43年(1910年)に発見され、大正13年(1924年)から明治鉱業株式会社の所有となり、以後、掘り出す鉱石の種類や採鉱を請け負う会社には変遷が見られたが、昭和61年(1986年)まで操業した。当初、赤石鉱山では、クロムを高品位で含有する鉱石の採掘をしていたが、昭和13年(1938年)に鉱石を含む母岩であるダナイト(ダン橄欖(かんらん)岩)が耐火物の原料として大変優秀であることが発見され、クロムの鉱石とともにその採掘が計画された。そして、運搬設備を強化するため、それまでの軽便索道から、採掘現場から東赤石山の麓の県道付近(土居町上野内の川(うちのかわ)集落)までの約7kmを結ぶ玉村式架空索道が設置された。その後、クロムの鉱石採掘量が減ったため、ダナイトの採掘に移行、昭和24年(1949年)から昭和26年(1951年)7月まで鉱業界の不況のため一時休山したが、再開後は赤石オリビン株式会社が明治鉱業の下請けとなってダナイトの露天掘りのみを行うようになり、以後、閉山までダナイトの採掘のみが行われた。

(2)クロムの鉱石とダナイトの両方を採掘していたころの赤石鉱山

 赤石鉱山では、昭和13年(1938年)から昭和24年(1949年)までクロムとダナイトの両鉱石を採掘していた。そのころ赤石鉱山で働いていた人々の仕事やくらしについて、Aさん(大正12年生まれ)から話を聞いた。

 ア 鉱山での仕事

 「私(Aさん)は、昭和12年(1937年)に尋常高等小学校を卒業して、すぐに赤石鉱山に就職しました。そのころは主にクロム鉄鉱を採掘して出荷していて、私が働いていた当時のクロム鉱石の坑道は浅かったことを憶えています。働き始めて間もないころは、出た鉱石をハンマーで叩(たた)いて選別し、まずクロムとそうでないものに分け、さらに品質の良いもの、中程度のもの、いらないものに分けてから、山から下ろしていました。
 鉱石の選別の仕事の次は、索道の運転を担当しました。ホンサク(玉村式架空索道)が架けられる前のケイサク(軽便索道)は結構な傾斜で、中継が3か所あり、1番のケイサクから2番へ、2番から3番へ、3番から4番目の終点まで行って鉱石を降ろしていました(写真2-3-1参照)。私は1番を運転していて、1番は操作する距離が短かったので、誰でも簡単に操作できましたが、2番や3番は距離が長いため、操作が難しかったことを憶えています。2番や3番はどれくらいの長さがあったのか記憶が定かではありませんが、運転ができるのは限られた人だけだったと思います。
 このときの山の上での責任者は、小林吉次郎さんという、秋田の鉱山専門学校出身の学者肌の方でした。学校で相当成績が良かったのか、卒業記念の銀の時計を持っていたことを憶えています。その方が、九州の明治鉱業に入り、赤石鉱山の総支配人として来ていたのです。
 クロム鉱が少なくなると、ダナイトを大量に生産するようになり、ホンサクが架けられることになりました。赤石鉱山で線路(索道)の引き換えをするときには、新宮鉱山から経験者が2人ほど手伝いに来ていました。索道に関しては新宮鉱山の歴史の方が古く、大きなワイヤーを何本も繋(つな)ぎ、地元の人を何人も雇って引き換えていました。ホンサクに付け替えられるまでの何年かは、ケイサクが使われていましたが、ホンサクが架けられてからは、1日に何百tものダナイトが内の川まで下ろされていました。
 ホンサクの採掘現場側の終点近くには元山坑(もとやまこう)という坑道があって、中はとても広かったようです(写真2-3-2参照)。そこから500mくらい東にある2番坑道にもトロッコの線路が敷かれていて、そこでもクロムの鉱石が採掘されていました。さらにその向こう側では、ガーネットが採掘されていましたが、そう長い間は採掘されませんでした。ガーネットは袋詰めにされてトロッコで運ばれていましたが、とても重たかったことを憶えています。
 ケイサクが利用されていたときには、山から下ろされた鉱石は、重量を計ってから荷物としてまとめられ、住友鉱山の五良津(いらづ)詰所(清平(せいだいら))でソリのような運搬具に積み、人力で河又(こうまた)まで出し、そこからさらに牛車で内の川まで運搬されていました。内の川まで運ばれた鉱石は、馬を飼っている人は馬車で新居浜まで運んでいましたが、私の地域では牛を飼う人が多かったこともあり、牛車が使われていました。後に自動車が普及してくると馬車や牛車は使われなくなり、トラックで運ばれるようになったのです。黒島(くろしま)(新居浜市)に工場が建設され、そこで耐火煉瓦(れんが)を製造していた時期がありましたが、長くは続かず、その後、地元にオリビンという名前の会社が設立され、そこで鉱石を粉砕して袋詰めにしてから出荷していたことを憶えています。そのころには、会社が積載量4tか8tの大きなトラックを2、3台所有していて、粉末にした鉱石を新居浜港まで運んでいました。
 私はダナイトの鉱石を売り込むために、名古屋(なごや)(愛知県)へ行ったことがありました。売り込みに成功して鉱石を納入すると、品質の悪い鉱石が混ざっている、という苦情を受けました。先方からは、品質の悪いものを選別してほしいという依頼を受けたので、私を含む社員2人で再び名古屋まで行き、選別を行いました。名古屋に1週間泊まり込んで作業を続けましたが、選別は自分の目で確認するだけなので、依頼してきた工場の10代の若い担当者2人に選別の方法を教えながらの作業でしたが、分ける作業自体はそれほど大変なことではありませんでした。」

 イ 鉱山でのくらし

 「当時、鉱山で働いている人は、鉱夫さんを入れて全体で50人から60人だったと思います。私(Aさん)は、夫婦で飯炊きを担当していた方が、泊まり込みで鉱夫さんの御飯を作っていたことをよく憶えています。私は山で食べる食事は自分で用意していましたが、御飯やおかずは仕事を終えてから作っていたので、それほど良いものを用意することができず、山で肉を食べたことはなかったと思います。山で働く鉱夫さんは、他の地域から大勢来ていたようで、寮が1区から3区まで分かれていましたが、1区と2区には鉱夫さんが入っていたことを憶えています。当時、私の初任給が1日65銭で、大人1日の賃金は1円20銭でした。
 休日は1か月に1日程度で、私は休日には農作業を行っていました。また、赤石鉱山では12月から仕事が休みになり、4月から再開されていたので、鉱山の仕事がなくなる冬の間にも農作業を行っていました。近所の方から、『農作業を手伝ってくれないか。』と言われたら、そこへ行って農作業の手伝いをするなど、地域の中でお互いに助け合っていたことをよく憶えています。」

(3)ダナイトを採掘していたころの赤石鉱山(昭和40年代)

 昭和40年(1965年)、赤石鉱山の親会社だった明治鉱業株式会社が倒産し、それに連鎖して赤石オリビン株式会社が昭和43年(1968年)ころに倒産した。明治鉱業の業務は、すぐに姉妹会社の明治鉱産株式会社が引き継いだものの、事業は縮小した。そのころの赤石鉱山で働いていた人々の仕事やくらしについて、明治鉱産の業務を請け負っていた井上産業社長のB氏の御子息であるCさん(昭和20年生まれ)とDさん(昭和22年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。

 ア 当時の鉱山の様子

 「私(Cさん)は、採掘現場には残念ながら行ったことがありません。赤石鉱山で橄欖岩を採掘して、索道で運搬して下ろす様子と、下りてきた荷物を受ける様子は見たことがあります。私は、山では採掘した鉱石の運搬に車がなかったら不便なので、ちょっとした車をばらして(分解して)索道で山の上に上げて、上で組み立てて使っている、ということを聞いたことがあります。また、坑道は見たことがありませんが、露天掘りで掘り進められていて、八幡製鉄の溶鉱炉の熱に耐えられる耐火煉瓦に使用される高品質の橄欖岩は、北海道と赤石山の2か所くらいしか出ないと聞いていました。北海道では坑道を掘って採掘していましたが、赤石鉱山ではダイナマイトで山を崩して運び出し、新居浜港から煉瓦を造る工場へ運んでいたと聞いています。私より2つ年下の弟(Dさん)がアルバイトで赤石山へ上がって仕事をしていました。標高が1,700mくらいの山だと思いますが、鉱山は山の中腹にあって、そこで橄欖岩を爆破して索道で下ろしていました。
 お米や他の食品は、索道を利用して山の上まで運んでいました。また、下山するときに、楽だということで索道に乗って下りる人もいたようです。しかし、地面からの高さが何十mもあったので、『乗っているときに何かが故障して索道が止まってしまって、下を見たらえらい(すごく)怖かったんじゃ。』と、先輩が言っていたのを聞いたことがあります。山の上での生活では、朝昼晩と食事を作ってくれる年配の女性従業員が付きっ切りでお世話をしてくれました。テレビがない、夜はどこにも行けない、山の上で生活して酒が強くなった、という話を聞いたことがあるほどです。
 索道は、鉄塔のようなものが所々に立っていて、何も積まずに山へ上がっていく鍋(運搬搬器(うんぱんはんき))と鉱石を積んで下りてくる鍋とがあって、その鍋は線路(索道)にちょっと引っ掛けてあるだけでした。運搬搬器が下りてくると、レールの上を走ってパサッと鉱石が落ち、Uターンをして山へ上がっていました。私の父は台風を一番心配していて、線路に引っ掛けてあるだけの鍋が台風で落ちると大変なことになるので、当時は台風情報を受けるとすぐに鍋を回収していたことを憶えています。」

 イ 当時の採掘現場での仕事とくらし

 「私(Dさん)は、昭和46年(1971年)ころに車の免許を取得し、トラック運転のアルバイトで山に入り、10日間くらい働きました(写真2-3-3参照)。
 発破で岩を砕き、砕いた岩をトラックに積んでもらって索道まで運んでいましたが、その距離は数百mしかありませんでした。運び出した鉱石は、索道の駅にあった鉱石を溜(た)めておく大きな入れ物(貯鉱庫)に降ろすと、貯鉱庫の下側で索道に積まれて山から下ろされていました。索道に鉱石を積む作業は人力で、索道の鍋(運搬搬器)を貯鉱庫の下で止めると、貯鉱庫の下の口を開いて鍋に鉱石を流し込んでいたことを憶えています。人力ではありましたが、重たい鉱石を持ち運ぶような大変な作業ではありませんでした。 
 アルバイトをした10日の間、私は山の上の事務所で寝泊まりをしていました(写真2-3-4参照)。寝泊りをするための建物が3か所くらいはあったのではないかと思います。索道の傍(そば)には作業場や風呂場、食堂など、従業員が生活するためのスペースがあり、そこから30mから50mほど上がった所に寝泊まりのための建物があり、さらに上にも同じような建物があったことを憶えています。鉱山が終わりの方(閉山近く)だったことで従業員の数は多くありませんでしたが、以前は採掘量が多く、大勢の人が働いていたのでしょう、従業員用のお風呂には大きな湯船が使われていました。銭湯の湯船ほど大きなものではありませんでしたが、以前は何人も一度に入っていたことが容易に想像できる大きな風呂だったことを憶えています。
 また、電気は山の上まで間違いなく来ていました。作業場から事務所、事務所から上に続く道沿いには街灯があって、夜間でも安全に歩くことができていました。さらに、索道を使っていつでも資材を上げることができ、新聞でも何でも必要なものがあれば、『上げてくれ。』と依頼をするとすぐに上げてくれました。その日に採れたような新鮮な食料も手に入れることができていたので、山の上で生活をすることは、それほど不便なことでもなかったと思います。
 アルバイトをしたのはわずか10日間でしたが、命がなくなるのではないかという怖い思いを2回経験しました。それは、台風が来た時とトラックが傾いてしまった時でした。台風が来た時には、上の住宅に住んでいる人が、『濁った水が出てきた。』と言って、私が寝泊まりしていた事務所まで慌てた様子で駆け込んで来て、『今日は事務所に泊まらせてくれんか。』と頼んできました。その後、夜中にゴロゴロと石が流れる音が聞こえ、翌朝起きてみると、向かい側の山の斜面が崩れ落ちていたのです。用心深い人は山を下りていましたが、私は面倒だと思って残っていました。山が崩落した姿を見た時には、本当に恐ろしかったことを憶えています。また、トラックが傾いた時のことについてですが、運んで来た鉱石を降ろす索道の貯鉱庫には、バックでトラックを寄せなければなりませんでした。このとき私は免許を取った直後だったので運転に慣れておらず、ハンドル操作を誤って、左側の後輪を脱輪させてしまったのです。もう少しで転覆して谷底へ落ちそうになるくらいトラックが傾いたので慌ててクラクションを鳴らして助けを呼びました。近くで作業をしていた人が、すぐに重機で助けに来て引っ張り上げてくれたので、大事にならずに済んだのです。
 索道は私の実家の近くの内の川まで来ていて、そこで鉱石をトラックに積んで港まで出していました。索道の鉄塔は30mくらいの高さがあり、実家からも索道が動いているのが見えていました。私が幼いころには、内の川には鉱石を運び出す仕事などに従事する人が大勢いて、働く人のために映画が来て上映されていました。当時はテレビが普及し始めたころだったと思います。ちょっとした寄り合いを開くことができる場所があり、そこで映画が上映されていたことをよく憶えています。」

写真2-3-1 鉱山跡に残された索道駅跡

写真2-3-1 鉱山跡に残された索道駅跡

平成30年10月撮影

写真2-3-2 現在の元山坑の坑口

写真2-3-2 現在の元山坑の坑口

平成30年10月撮影

写真2-3-3 赤石鉱山跡に残されたトラック

写真2-3-3 赤石鉱山跡に残されたトラック

平成30年10月撮影

写真2-3-4 赤石鉱山跡に残された事務所

写真2-3-4 赤石鉱山跡に残された事務所

平成30年10月撮影