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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 徳丸地区の罹災状況

(1)堤防決壊付近の状況

 昭和18年(1943年)7月の洪水時、最初に堤防が決壊した辺りには家が10軒ほど集まった小さな集落があり、沖組と呼ばれている。この地で農業を営むBさんは、堤防が決壊する様子を実際に目撃された。

 ア 堤防決壊直前の状況

 「現在は改修工事によって土手を高くし、道幅も自動車が通れるくらいの広さになっていますが、昔の重信川は今よりも河床が高く、堤防は低くて自転車1台が通れるくらいの幅しかなく、川から少し離れた所にある町道を行き来していました。町道と川との間には畑が広がっていたことを私はよく憶えています。堤防が決壊した場所は私の家の前の道路を重信川の方へ進んで突き当たった所で、川の対岸には現在中央高校(愛媛県立松山中央高等学校)があります。その辺りには徳丸地区へ水を引くための水路があり、そこへ大量の水が流れ込むことによって堤防を決壊させたのです(写真2-3-2参照)。
 あの日のことは今でも忘れられません。堤防が決壊したのは朝9時ころ、私の母親が、『危ないので、御飯を食べておかないといけない。』と言って準備をし、お米がちょうど炊きあがった時でした。その直前に私の父親が、『(堤防が)切れるけん、はよ逃げるぞ。』と家の外で大きな声で叫んでいるのが聞こえたので、米びつを竹で編んだ籠に入れ、それを高い所に吊(つ)ってから弟と一緒に家を飛び出しましたが、その瞬間私の後ろにいた弟がすっといなくなりました。振り返ると、地面に空いた大きな穴の中に弟が落ち込んでしまっていました。これは地下水の量が急激に増えたときに起きる現象で、地下水の水位が上昇した分、地盤が沈下してしまうのです。さらに、周囲の至る所で水が吹き出していました。その時、近所の方が運よく通りかかり、弟を穴から引き上げてくれましたが、もし来てくれていなかったら、弟は命を失っていたかもしれません。雨が降り続いて地下水の水量が多くなったときには、今でも水が吹き出すことがあります。珍しいことではありません。」

 イ 堤防が決壊して

 「堤防が決壊した後、濁流は私の家の方へ押し寄せ、さらに中川原(なかがわら)地区の方へ向かってどんどん流れて行き、省線(現JR)の線路がある所から南へと向きを変えて行きました(写真2-3-3参照)。それはまるで、線路が堤防になったようでした。さらに、濁流の水圧によって重信川の流域に点々とあった直径1mくらいの大きなマツの木が根から抉(えぐ)られ、私の家の東側にある水田の所にできた大きな池の中を回るように流れてから、近くの家の所で止まるのを見たことをよく憶えています。この時の水の高さは私の頭に迫るくらいになっていましたし、避難する時に起こした畳の上に置いていた籠の中の鳥が戻った時には死んでいたので、おそらく1m50cmほどにはなっていたと思います。
 その後、濁流が西の方へ流れていくとともに私の家付近の水位がどんどん下がり、瀬(川の支流)になっていきました。以前、中川原地区の方から、『中川原橋を通ったら、重信川にアリが這(は)いよった。』と聞いたことがあります。これは中川原橋付近から下流側には水が流れていなかったことを意味しています。昔の人は、『足立重信が重信川の流れを変える前はこの辺り(堤防の決壊場所付近)から南西の方へ流れていた。北川原(きたがわら)や中川原という地名があることから推測できる。』とよく言っていました。このことから考えると、濁流はもとの重信川の流路を流れていったと考えることができると思います。」

 ウ 避難場所から帰宅して

 「私は、高忍日賣(たかおしひめ)神社の西にある集会所(現在は駐車場)に避難しました(写真2-3-4参照)。地域の方々が協力して食事の準備等を行ってくれたので、困ることは全くありませんでした。一週間後にようやく家に戻りましたが、トイレとお風呂場(当時は五右衛門(ごえもん)風呂)が流されてしまっていました。流された五右衛門風呂は地域の方が見つけて返してくれました。その方のお話では、周囲に流されて来たスイカがたくさんあったので、五右衛門風呂の釜の中に水とスイカを入れて一旦は自分の家に持ち帰ったのですが、やはり元の持ち主に返そうと考え直したそうです。」

 エ 堤防が決壊するとは

 「昔の人は、『堤防が切れるというのは、前から切れてくるのではない。地下を流れてきた水が裏に回るから切れる。』とよく言っていました。つまり、水の勢いで堤防が内側(河川側)から押されて決壊するのではなく、地下を流れて来た大量の水が堤防の地盤を弱くするために決壊するのです。こうした水のことを、『裏水』と言います。この裏水が出ているときには、杭(くい)を打って土のうを積み上げようと思っても杭がすぐに浮き上がってしまって、どうしようもありません。建設省(現国土交通省)が土のうを積み上げて仮の堤防を造ってくれたのは、水が引いて地盤を固め直してからのことでした。
 昔は河川の堤防沿いにマツの木が植えられていましたが、これには『切り付け』というきちんとした意味があり、洪水から堤防決壊を防ぐための一つの方法です。以前はマツの木だけでなく、堤防の弱い部分の近くには杭が打たれていました。雨などで水の勢いが増してきたとき、マツの木を切って丸太にしてロープで縛り、ロープの一端を杭にくくりつけて川に流すのです。そうすると、流されたマツの木が堤防の弱い部分に到達して、結果的に堤防を決壊から守ってくれます。これは、昔から受け継がれてきた生活の知恵です。
 今では堤防も堅固なものになり、以前のようにマツの木を植えることがなくなりましたが、これは国土交通省からの指示でもあります。風雨などで樹木が揺さぶられた結果、地中の根も動いて土壌を突き崩し、逆に堤防を壊してしまうからです。昔と今とでは、堤防の決壊を防ぐ方法についての考え方が変わっています。」

(2)地形を知ることの必要性

 中川原橋を南進して松前町に入り、少し進むと道が新道(現県道16号)と旧道の二手に分かれ、その先で二本の道が再度合流する。この場所の東側に位置するのが河原組と呼ばれる地区である。この地区でくらしているAさんとCさんは、「水害のことについて考えるには、地形を知る必要があると思います。」と強調された。

 ア 被害を大きくする勾配

 Aさんは、徳丸地区の地形について次のように話してくれた。
 「徳丸地区は勾配が割合きつく、西の方へ進むにつれてかなり低くなっているので、洪水が起こったときには濁流や土砂が勢いよく西へ流れて行き、被害を大きくします。当時は土塀がかなりたくさんありましたが、濁流の勢いで全て流されてしまいました。」 
 Cさんは徳丸地区の地形の特徴を踏まえ、水害時の状況について次のように話してくれた。
 「徳丸地区に一番大きなダメージをもたらした要因は、省線(現JR)の線路にあると私は思います。土地をかさ上げして敷かれているので、線路がまるで堤防のように濁流の流れをせき止め、押し寄せる水が線路の東側にどんどん溜(た)まって池のようになってしまい、被害は甚大なものになりました。先日県道16号沿いにできた新しいコンビニ(ローソン伊予松前町中川原店)の南側にある水路付近では、私自身飛び込んで遊んだ記憶があるので、かなり深かったと思います。また、そこからさらに南へ進んだ所にある『木輪(もくりん)』という喫茶店の辺りは、土地が低く水路がある関係で濁流の勢いがものすごく早く、水が引いた後しばらくの間は一毛作しかできない状態になってしまったことをよく憶えています(写真2-3-5参照)。
 さらに、線路の被害が最も甚大だったのは、私の家からまっすぐ西へ進んで突き当たった所にある川の辺りですが、濁流が線路下の土壌を押し流してしまったので、枕木を付けたまま線路が浮き上がってしまいました(写真2-3-6参照)。ここが最初に土壌が流された所で、そこから西へ濁流がどんどん流れ出し、被害を大きくしたのです。この辺りはあまり復旧が進まず、水が溜まったままの状態が長く続いていましたが、今は改修工事が行われ、もとの状態に戻っています。」

 イ 土地の高い所へ避難して

 「高忍日賣神社のある辺りは土地が少し高くなっていて、神社の隣に『補習校』と呼ばれていた集会所があり、私(Aさん)はそこに避難しました(写真2-3-4参照)。2、3日はそこで生活をしていたと思います。」
 「私(Dさん)がくらしているのは高忍日賣神社の西側にある集落で、『西組』と呼ばれています。西組で一番北側にある家の辺りから南側は少し土地が高くなっているので、河原組などの多くの人々がここまで避難し、しばらくの間生活をされていました。当時、その家の付近まで行ってみたことがありますが、家のすぐ北側を西へ流れる濁流によって大量のスイカが流されていた光景を今でもはっきりと憶えています。」

写真2-3-2 堤防決壊箇所の現況

写真2-3-2 堤防決壊箇所の現況

土手の前の直線の道は当時のままである。平成29年10月撮影

写真2-3-3 濁流の進路(中川原地区へ)

写真2-3-3 濁流の進路(中川原地区へ)

重信川は写真の右側を流れている。平成29年10月撮影

写真2-3-4 避難した集会所の跡地

写真2-3-4 避難した集会所の跡地

集会所の後に農協の倉庫となり、現在は駐車場として利用されている。平成29年10月撮影

写真2-3-5 喫茶「木輪」付近の現況

写真2-3-5 喫茶「木輪」付近の現況

平成29年11月撮影

写真2-3-6 被害個所の現況

写真2-3-6 被害個所の現況

平成29年10月撮影