データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 黄金色に輝く麦畑

 恵久美(えくび)地区において長年にわたり農業に従事してきたAさんから、子どものころの農作業の思い出や、麦作を中心として農業にまつわるさまざまな記憶について話を聞いた。

(1)高校時代までの農作業の思い出

 ア 小学生のころの思い出

 「私の家は昔から続いていた農家でしたが、私が子どものころ、父は太平洋戦争で南方に出征しミンダナオ島で亡くなりました。昭和18年(1943年)に父が出征してからは母が主に田んぼの世話をするようになり、ときどき叔父や叔母が手伝ってくれていました。
 国民学校(岡田(おかだ)国民学校)4年生からは叔父に牛の使い方を教えてもらいながら田んぼを鋤(す)くようになりました(写真2-1-1参照)。農作業に慣れていない子牛は、最初は言うことを聞かずにあっち行きこっち行きしていましたが、慣れてくると言うことを聞くようになり、右に寄らせるときには『ヘセ』、左に寄らせるときには『ハセ』という掛け声をかけるとよく聞き分けていました。そのころは、朝はまだ暗いうちから母に起こされて牛を使って田んぼを鋤き、空が明るくなると自転車で学校へ行って、学校が終わると家に帰って牛で田を鋤くという毎日でした。田んぼを鋤き始めてからもなかなか上手(うま)く鋤くことができませんでしたが、小学校(岡田村立岡田小学校)6年生くらいからは大人並みに鋤けるようになりました。小学校6年生のとき、地区の民生委員の方の推薦を受けて学校から善行賞で表彰されましたが、当時はほかの子どもたちが学校から帰ると遊んでいるのを見て羨ましく思っていたものでした。
 戦時中から戦後にかけては物不足で、昭和21、22年(1946、47年)くらいまでは硫安(硫酸アンモニウム)や塩カリ(塩化カリウム)、リン酸などの肥料が反別に応じて組単位で配給されていました。牛を飼育している農家では牛糞(ふん)を肥料として使っていましたが、そうでない農家の中には人糞を肥料として使ったりしていた人もいたようです。麦(裸麦)を作るには肥料をかなり必要としますが、うちでは配給された肥料しかない上に人手も少なかったため、他の農家の6割くらいの収穫しかありませんでした。それでも収穫量の多い農家と同じように供出の割り当てがあり、供出後は手元に食糧がほとんど残らなかったので、戦中から戦後にかけて、私の家も含めてこの辺りの農家では自家用にサツマイモなどを植えて食べていました。その一方で、当時、収穫量の多い農家の中にはヤミで米を売る人もいて、供出した場合の買い取り価格の倍くらいの値で売れていたという話を聞いたことがあります。」

 イ 中学・高校生のころの思い出

 「私は中学卒業後、伊予農(愛媛県立伊予農業高等学校)の定時制に進学し、母を助けるために、昼間は東レの工場で働き始めました。高校を卒業するまでは、朝8時から午後4時45分まで勤務した後、伊予農まで自転車で通って午後5時から8時まで授業を受け、4年間1日も休まず通学しました。勤務が終わってから学校が始まるまで15分しかなかったので、急いで通学していたことを憶えています。高校卒業後は運送会社に勤務して三交替制の仕事をしながら農業に従事していました。そのころ私の家で米と麦以外に作っていた作物は自家用のソラマメくらいでした。ソラマメを少しでも早く植えたければ、稲刈りの前に稲と稲の間に植えることもできますが、稲をかき分けて植えなければならないので、稲を刈ってから植えるのが一般的でした。
 また、私の家では、父が出征する前から農作業用の黒牛1頭と乳牛1頭を飼育していたと思います。乳牛は父の出征後も5年くらいは飼育していて、母が乳牛から搾乳し牛乳を出荷していました。私が中学生から高校生のころ、今の伊予鉄横河原(よこがわら)線の石手川公園駅辺りの河川敷で、毎月5日、15日、25日に牛市が開かれていて、大勢の人が集まっていました。私は牛市にほぼ毎回自転車で通っていたため顔見知りになった博労(ばくろう)さんもいたほどで、牛を一目見ただけで目方をほとんど当てられるようになりました。私は、牛がある程度肥えてくると、博労さんがもっている小柄な牛と交換してもらい、『追い金(差額)』として当時のお金で3,000円から5,000円を受け取るということを何回も行っていました。私の家では昭和55、56年(1980、81年)ころまで牛を飼育していて、この辺りでは一番遅くまで牛を飼育していましたが、牛耕が行われていたのは昭和40、41年(1965、66年)ころまでだったと思います。」

 ウ 麦飯と麦味噌の記憶

 「私が子どものころは、御飯と言えば麦飯のことでした。丸い大きな壺(つぼ)のような形をした麦をついて、つき終わると機械にかけて『しゃいで(つぶして)』いました。その後、米としゃいだ麦を混ぜるのですが、米が2、3割くらいで、残りは麦といった御飯でした。昭和22、23年(1947、48年)ころには米と麦の割合は半々くらいになり、その後、米の割合が増えていきましたが、昭和30年(1955年)ころまでは麦の入った御飯を食べていました。また、麦味噌(みそ)といえば、松前町ではギノーみそが有名ですが、昔はどこの家庭でも味噌を作っていました。麦味噌を作るときには麦をしゃいだりはせず、せいろで蒸してからつくくらいのものでした。昔の麦味噌の原料は麦でしたが、戦後になると麦味噌の味を良くするために米や大豆が使われるようになりました。昔は大豆を畔(あぜ)に植えておけば放っておいても収穫できたものですが、今は田んぼに畔を作らなくなり、かつての畔はコンクリート舗装された農道になっています。」

 エ 地主と小作について

 「この辺りでは、戦前には2町(約2ha)から3町(約3ha)もの土地を持っている地主さんもいて、小作人は地主さんから土地を借りて耕作し、年末に小作料を支払いますが、収穫した分から小作の取り分を差し引いた残りの分を買い取ることもありました。昭和30年(1955年)ころ、地主と小作の権利配分は恵久美地区では、地主が6分、小作が4分で、仮に小作地の価格が1,000円であったとすると600円を地主に支払えば自分が耕作できる土地になりました。今の恵久美地区では、自身が所有する田んぼに限ると、広い人で1町2反(約1.2ha)から1町3反(約1.3ha)くらい、平均すると5、6反(約50、60a)くらいの田んぼを耕作しているのではないかと思います。」

(2)麦作にまつわる記憶

 ア 種播きと溝通し

 「稲刈りの時分になると、母と私の2人で、朝から1反(約10a)の田んぼの稲を刈っていました。稲株12株分の稲わらが稲木に掛ける稲わら1束分でした。田んぼの稲を全て刈って稲わらを稲木に掛けると1日が終わっていましたが、2人で相当がんばらなければ1日で終えることはできませんでした。稲刈りが終わると、麦作の準備にかかりました。昔は畝立てして麦を作るのが一般的で、私は昭和44、45年(1969、70年)ころまで、そのようにして麦を作っていました。まず、牛を使って田んぼを鋤き起こして畝を作っていくのですが、鋤きやすくするために株切り鍬(ぐわ)で稲株を切って株を小さくすることもありました。それから、牛にコロガシ(マツの木に金属製の杭(くい)を何本も打ってある、幅1.8mくらいの農具)をひかせながら畝と畝の間の溝を歩かせ、溝の左右の畝の上部の土を細かく砕きます。全ての畝の土が細かくなると、株切り鍬で畝の真ん中を少し掘り、次に畝の上で溝切りを引っ張って種を播(ま)くための溝を作ってから種を播いていきました。種播きについては、昭和32、33年(1957、58年)ころまでは手播きでしたが、その後は手押し式の種播き機を使って播くようになりました。種を播いた後はタタキを使って種を土で覆い、これで種播きは終わりとなります(写真2-1-2参照)。種播きは毎年11月の末から12月の初めころに行っていました。
 2月から3月ころに畝と畝の間の溝に草が生えてくると、草に栄養分を取られないように、牛に犂(すき)をひかせて畝の両端の土を溝へ落とし、一番ジュウリを牛にひかせて土をならした後、ハコベラを使って溝通しを行いました(写真2-1-3、2-1-4参照)。麦は稲とは違って水をそれほど必要としないため、溝を通しておかないと、雨が降ったときに田んぼから水が抜けず、麦が腐ってしまうことがあります。溝通しに使うハコベラは、長さが1間(約2m)くらいもあり、私が子どものころは、母に前方を持ってもらいながら牛にひかせていたことを憶えています。その後、溝にまた草が生えてくると二番ジュウリを牛にひかせて畝の両端の土を溝へ落としてから、2回目の溝通しを行っていました。溝通しは最低でも2回は行わなければ草がよく生えてきました。」

 イ 麦踏みと土入れ

 「種播きから溝通しまでの作業の流れとは別に、麦踏みと土入れなどの作業がありました。麦踏みは2月の初めから半ばころに行っていました。麦踏みをすると分(ぶん)けつ(根に近い茎から枝分かれすること)が盛んになりますし、地面が固まるので麦が倒れにくくなります。その時期に大人は麦などを詰める俵を編んだりしなければならず忙しかったため、麦踏みは主に子どもが行っていました。子どもたちは学校から帰って来ると、親から、『麦を踏んどけよ。』と言われて麦踏みをさせられていたものです。全ての麦をもれなく踏むために、両足の隙間を空けないように気を付けながら、畝の上を横向きに踏んでいくのですが、子ども同士で誰が早いか競争することもありました。また、畝に植えた麦が生えてくると、溝を耕してできた細かい土を麦の上へ入れていく、土入れを行っていました。麦には土を押しのけて上へ伸びようとする性質があり、土入れを行うと麦が太く成長しました。そして、収穫までに行う最後の作業がトメダニで、牛が通れるくらいに溝の幅を広げておいてから、溝に落ちてきた土を両側の畝の麦の根元へ上げていき、麦が倒れないようにしていました(写真2-1-3参照)。」

 ウ 麦刈りと脱穀

 「子どものころは、麦が実ってくると、鎌で根刈りをしていました。母と2人で行っていましたが、稲刈りと同様に大変でした。麦を刈ると、千歯こきで穂だけを落とし、日光で乾燥させた後に麦摺(す)り機で脱穀をしていました。脱穀した後は、2、3日乾燥させた後、唐箕(とうみ)にかけて選別し、良い麦は出荷して、くず麦は牛の飼料にしていました。その後、昭和34、35年(1959、60年)ころには動力による脱穀機が一般的になっていたと思います。麦を脱穀機にかけると殻も外れて麦の粒が出てくるので、作業が随分楽になりました。脱穀した後は、乾燥させた後に唐箕にかけて選別していました。
 発動機や脱穀機、麦摺り機などの農業機械は、最初は、全て組で共同購入し、作業も共同で行っていましたが、昭和40年(1965年)くらいから個人で購入するようになりました。その後、脱穀機はコンバインに替わり、麦刈りと同時に脱穀までできるようになりました。」

 エ 機械化された麦作

 「昭和40年ころに出始めた耕うん機は小型のものでした。耕うん機などを共同で使用していた人もいましたが、1町(約1ha)か1町5反(約1.5ha)くらいの田んぼを耕作している農家では、個人で所有していました。大型の農業機械が出回るようになってからも、この辺りの多くの農家は個人で所有していました。
 私は、昭和45年(1970年)ころから、畝立てして麦を作るのをやめて、耕うん機やトラクターで田んぼを鋤いてから手で種播きする方法で麦を作るようになりました。麦踏みもテーラーを使って行うようになり、この方法で5年くらい前まで麦作を続けていました。機械化されてからの麦作は、作業も随分楽になりましたが、1町4、5反(約1.4ha、1.5ha)から2町(約2ha)くらいの田んぼがなければ、高価な農業機械を使用しても採算が取れませんし、体力的にも無理が利かなくなってきたため、麦作をやめることにしました。」

 オ 稲・麦の品種

 「戦後、私が主に植えていた稲は中生(なかて)の品種で、金南風や新金南風などを植えていたほか、やや晩生(おくて)の品種であるミホニシキや早生(わせ)の品種である日本晴も植えていました。晩生の品種の中でも、愛媛県立農事試験場(現愛媛県農林水産研究所)で開発された伊予旭という品種が一番の晩生でした。現在、多く栽培されている稲の品種はあきたこまちやコシヒカリです。コシヒカリは倒れやすい品種で、ソラマメを植えると土地が肥えるので、ソラマメを植えた後の田んぼにコシヒカリを植えるときは成長しすぎて稲が倒れないように肥料を加減しなければなりません。最近では九州で開発された『にこまる』という品種が県の奨励品種となって栽培面積が広がっているようです。
 麦の品種としては、ヒノデハダカやイチバンボシ、エヒメハダカ1号などが比較的広く栽培されていたように思いますし、そのほかにもカガワハダカ1号、2号といった香川県で開発された品種も栽培されていました。私は、畝立てして麦を作っていたころにはヒノデハダカを作っていましたが、昭和45年(1970年)ころからはイチバンボシしか作っていませんでした。」

(3)農業にまつわるさまざまな記憶

 ア ソラマメの栽培

 「戦前にはソラマメは自家用に作られていた程度で、本格的に作られるようになったのは戦後からだと思います。ソラマメは収穫するまで田んぼで『うらし』ておきます。『うらす』というのは、実が固くなって収穫するまで木のままで置いておくことです。昔は、サヤのまま収穫した後、からさおで叩(たた)いて実を落とし、それを日なたで2日間干して乾燥させ、買いに来た人には掛目(はかりに掛けて量った重量)で売ったりしていました。
 昭和50年(1975年)前後からは、ソラマメを青ざやで出荷するようになりました。一さや2粒から3粒のソラマメをさやのまま収穫し、1箱4kg、風袋(ふうたい)込みで4.7kgで出荷していますが、1反(約10a)当たり400箱から500箱分のソラマメを収穫しています。一さや1粒のものは値が安く1箱1,000円くらいですが、一さや2粒から3粒のものは良い値で売れます。ソラマメの値が最も良い時期は大相撲の5月場所のころで、今年(平成29年〔2017年〕)は1箱3,000円くらいの値が付いたことがありました。収穫したソラマメは、自分で松山市農協の岡田集荷場まで出荷していますが、北伊予(きたいよ)地区の人であれば北伊予集荷場、岡田地区の人であれば岡田集荷場へ収穫した農産物を出荷します。米や麦もそうですが、岡田集荷場にソラマメを出荷すると農協で販売までしてくれています。」

 イ 平成6年の渇水

 「現在、松前町では灌漑用水として主に面河(おもご)ダムからの用水や地下水を利用していますが、それに加えて河川やため池などの水も利用しており、恵久美地区では北伊予地区の福徳(ふくとく)泉の水や大井手川の水、地下水を利用していました。
 平成6年(1994年)の大干ばつのときには、福徳泉は古い泉の木枠や杭が見えるほど干上がってしまい、泉からは水があまり流れてきませんでした。恵久美地区のほとんどの集落では地下水だけで農業用水をほぼ賄うことができたため、それほど困ることはありませんでしたが、私の住んでいる泉屋(いずみや)地区は地下水だけでは間に合わなかったため、上沖(かみおき)地区の垂本(たるもと)泉の水を汲(く)み上げて、地区内で当番を組んで田んぼ1枚1枚に水を入れていって農業用水を賄ったことを憶えています。」

 ウ 最近思う事

 「私は、家の納屋などに昔から農作業で使っていた農機具をたくさん保存しています。2、3年前に、それらの農機具を恵久美地区の文化祭に出品したところ、みんなが珍しがって、『今、こんなものを残している所はない。』と話していました。また、そのときに、筵(むしろ)を織る器械も併せて出品しましたが、そうした器械を使って筵や『ほご』(わらで編んだモノを運ぶ用具)を編める人も、今ではほとんどいなくなりました。私は祖父から筵などの編み方を教えてもらったのですが、そのような技術を後世に伝えて残していくことも必要なことではないかと思います。」

写真2-1-1 牛の鞍

写真2-1-1 牛の鞍

平成29年10月撮影

写真2-1-2 麦播きに用いた農具

写真2-1-2 麦播きに用いた農具

左からタタキ、種播き機、株切り鍬。平成29年12月撮影

写真2-1-3 一番ジュウリ、二番ジュウリ、トメダニ

写真2-1-3 一番ジュウリ、二番ジュウリ、トメダニ

左から一番ジュウリ、二番ジュウリ、トメダニ。平成29年12月撮影

写真2-1-4 ハコベラ(溝通し)

写真2-1-4 ハコベラ(溝通し)

平成29年12月撮影