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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 国鉄バスの記憶

 昭和7年(1932年)、三土忠造(香川県出身の政治家)が斎藤実内閣で鉄道大臣に就任すると、省営自動車網の整備に着手し、愛媛県の魚成(うおなし)-近永(ちかなが)間を含む全国26路線の計画が樹立された。昭和4年(1929年)から昭和8年(1933年)にかけて開催された鉄道会議(鉄道敷設法に基づいて設置された諮問会議)では、省営バスの路線決定について「鉄道予定線に該当する路線」や「鉄道・軌道に対する補助的路線」等の4原則が示され、策定されていた鉄道予定線に含まれる同路線は、これに該当するものとして、昭和11年(1936年)に魚成橋(うおなしばし)-近永間で営業が開始された。さらに、2年後の昭和13年(1938年)には魚成橋-大洲(おおず)間が、昭和16年(1941年)には卯之町(うのまち)-宇和島(うわじま)間の鉄道開業に合わせて坂石(さかいし)-卯之町間の路線が営業を開始したことにより、日吉(ひよし)の人々は大洲方面や卯之町方面への鉄道に替わる移動手段を確保することができた。
 昭和24年(1949年)、国の機構改革が実施されたことに伴い、日本国有鉄道が発足し、「省営バス」は「国鉄バス」と改称された。日吉には昭和25年(1950年)に四国地方自動車事務所大洲営業所日吉支所が置かれ、同所を中心として南予線の路線延長が行われ、大洲、宇和島、喜多(きた)郡、東宇和(ひがしうわ)郡及び北宇和(きたうわ)郡の各町村を結ぶ重要な拠点となった。
 本節では、旧日吉村の人々の主要な交通手段としての役割を担った国鉄バスについて、仕事にまつわる思い出や地域の人々との関わりを中心に、Aさん(昭和4年生まれ、元国鉄バス職員)から話を聞いた。